第四話 十年前の真実

 一


 ――明日は雨が降るんじゃないか、そう思いました。……実際、降りましたけどね。


 ※


「そこの教室へ入って下さい!」

「わかった」

 雨の指示でまず陽子がその部屋に飛び込み、瑞樹を背負った雨がその後に続いた。

「瑞樹さん、少し荒っぽいですが、下ろします」

「え、わっ!?」

 ふわりと浮き上がる感覚に瑞樹が悲鳴を上げると同時に、雨は部屋に入り込もうとした影に向けてナイフを振るう。それから瑞樹は音を立てて床に着地した。

「いたたた……」

「ここなら、電気も生きているはず。朝霧さん、壁のスイッチを入れてもらえますか?」

「あ、はい!」

 陽子がスイッチを入れると、明滅の後、部屋の明かりが点った。雨のナイフをすり抜け、瑞樹に迫ってきていた『影』がその眼前で存在を散らす。瑞樹は大きく安堵の息を吐いた。

「あれ、ここって――」

 その部屋は教室というよりは小部屋か会議室のような内装で、移動式の黒板を正面にいくつかの長机とパイプ椅子が並べられている。よく見ると傍らには埃を被ったティーセットもある。

「ここは昔の生徒会室です」

「昔から生徒会室には紅茶がつきものだったのね」

「ええ。生徒会に入って真っ先に覚えさせられるのが、紅茶の淹れ方だったほどですから」

 雨は懐かしそうに微笑みを浮かべた。

「でも、これで一安心、なのかな?」

「一応は。ただ、ここにずっとこうしている訳にも行きませんし――」

 雨は光がなければ今にも押し入ろうとする『影』を見ながら呟く。

「でも、どうして電気が生きているってわかったの?」

「たまに来ていましたので。ここは思い出の場所ですから――もう、二度と元に戻らないとはわかっていたのですけど」

 そう言って自嘲する雨を見て、瑞樹は胸に痛みを覚えた。十年の間ずっと傍にい続けさせるほどの想いとはどんなものだろうか。もっとも、それに負けるつもりはなかったが。

「私、少し外の様子を見てきますね。お二人は……特に瑞樹さんはゆっくり休んでいてください」

「お言葉に甘えさせてもらうわ、雨」

 にこりと瑞樹に笑いかけると、雨はナイフを構えて部屋の外へと出て行った。

「……ねえ、瑞樹ちゃん」

「何?」

 埃の積もっていることなど気にしている余裕もなく、瑞樹はパイプ椅子にどっかりと腰掛け、一息つく。机に打ち付けた身体のあちこちが痛んだが、動けないほどではない。頬もそれほど痛くはない。

「いつから名前で呼ぶようになったの?」

 興味津々といった様子で、瑞樹が陽子に迫る。

「……あんた、こういうことだけは鋭いわね」

「えへへ~」

 褒められたと思ったのか、陽子は嬉しそうに頭をかく。

「……ま、でも、別に特別なことがあったわけじゃないわ。ただ、昔の関係に戻っただけよ」

「昔? 二人って、そんなに昔から知り合いだったっけ?」

「ええ。気づくのは遅れたけどね」

 過去を取り戻すことも、上書きすることもできないが、未来を新しく作ることはできる。今まだ残されている時間は、既に使った年月よりも長いのだから。

(なんて、小説の読みすぎかしらね)

 とはいえ現実はそう甘くない。教室の周りは『影』に取り囲まれていたし、ここから脱出するのは容易でないことは想像に難くない。それに何より雨の気持ちは未だ『憧れの人』に向けられている。

(……でも、今はそれは後回しね。まずはどうするかを考えないと)

 武器となるものは案外少ない。懐中電灯は落としてしまったし、マグネシウムは既に使い切ってしまった。それ以外に光を放てそうなのは、携帯電話のバックライトに――

「そうだ、陽子。そのカメラ、フラッシュはついてるのよね?」

「え? ああ、うん、そうだけど――」

「ちょっと外に向けて撮ってみて」

「え、どういうこと?」

「いいから」

 首をかしげながらも陽子は外の『影』に向けてフラッシュを炊く。フラッシュの閃光を浴びた『影』は一瞬でその姿を消した。もっとも、すぐに別の『影』が隙間を埋めたので、せいぜい時間稼ぎ程度にしか使えないだろう。

「え、今の何? おもしろーい」

「結構いけそうね。でも後はなさそうね……ちょっと陽子、あまり無駄遣いはしないでね。いざというときに使うかもしれないんだから」

 と、面白がってあちこちにフラッシュを浴びせている陽子に釘を刺す。

「はいはい。流石に私もわかってますって」

「何かいい方法でも思い浮かびましたか?」

 と、ちょうどその時、雨が疲れた様子で戻ってきた。

「お疲れさま。どうだった?」

「ダメですね、上は元より下まで『影』で一杯です」

「そう……陽子、窓の外は?」

「こっちも同じ。というかここ三階だよ? 大丈夫だったとしてどうやって降りる気なの」

「カーテンとか何とか方法はあるでしょ。にしても雨、何かいいアイディアはないの?」

「逃げる、となると三人一緒では難しいと思います。瑞樹さんはあまり動けませんし、そして何より『影』を追い払いながら進むための術がありません。どちらかといえばまだ、元を断つ方が容易いかもしれません」

「元を断つ?」

 雨はこくりと頷く。

「今、あの儀式によって『影』を呼び集める特異点が発生しています。それさえ破壊すれば『影』は拡散して、大半は元の無害な念の塊に戻るはずです」

「……ちなみに十年前はどうだったの?」

「あの時も私はそれで助かっています。……ただ、それからも『影』が現れ続けているのはあなた方も見たとおりですが」

「でもそれしか方法がないんでしょ? だったらそうするしかないじゃない」

「ただ、ひとつだけ問題が。特異点を破壊するためには、儀式で使われた祭具が必要なのです」

「祭具? そんなものあったかしら」

 あの場に合ったのは蝋燭と陽子を拘束するための紐と机、あとは床に描かれた魔法陣――流石に陣は祭具ではないだろう。

「祭具とは、平たく言えば凶器です。朝霧さんを捧げるために使おうとしたもの――銃刀法の厳しい日本ですから、ナイフか鈍器の二択だとは思うのですが」

「ねえねえ」

 陽子が瑞樹の袖を引いた。だが、それを無視して陽子は雨に質問を投げかける。

「雨のナイフじゃダメなの?」

「私のでも効果はあると思いますが、確実を期すのであれば、あのときに使われた物の方が――」

「ねえねえ!」

 今度は強く袖を引かれ、今度はさすがの瑞樹も気に触れた。少し怒った様子で、勢い良く振り返る。

「もう、一体何よ陽子!」

「さっき雨が言っていた祭具って……これのこと?」

 陽子が両手に乗せて差し出したのは、雨のものと良く似た銀色のナイフ。ただしその柄に巻かれている紐の色は雨の物は赤茶けているのに対し、こちらは紺色だった。

「少し、見せて貰えますか?」

「はい、どうぞ」

 陽子からナイフを手に取り、目を凝らして刀身をじっと見つめる雨。傍目から見る瑞樹ににも、その刀身から異質な気配のようなものがうっすらと見える。恐らくは雨の持っているものと同じ――少なくとも、ただのナイフではなさそうだった。

「何となく拾っておいたんだけど……何か、まずかったかな?」

「雨の様子をみる限りでは……珍しく大手柄なんじゃない? たぶん。……ところで雨、ちょっと聞きたいことがあるんだけど」

「なんでしょうか?」

「雨も……視えるの?」

「ええ。こうなってからは少しだけ。あなたほどはっきりと、ではありませんが」

「なるほど。……じゃあ、これは?」

 瑞樹が指を指そうとすると、彼女はゆっくりと首を振った。まるで、自分は見えないほうがいいのだというように。

「この部屋に何かいるのですか?」

「――いいえ、私の気のせいだったみたい。何か見えたような気がしたんだけど」

「あなたでも見間違いなんてあるんですか、瑞樹さん」

「むしろ見間違いの方が多いわよ。無駄によく見える分、風を舞う落ち葉が何かの霊に見えてしまったりね」

「なるほど。言われてみればそういうものかもしれませんね――」

 雨が再びナイフの刀身に意識を集中させ始めたので、瑞樹はそれ以上話しかけるのを止めた。顔を上げると、そこに在った由希がありがとうと言うように頭を下げた。瑞樹はその健気な姿に思わず目を伏せる。

 自分がしたことは良かったことなのか、と今更になって瑞樹は悩んでいた。せめて自分に声が聞ければ良かったと思う。そうすれば二人に会話をさせてあげることができたのに、と。そして同時に、できないことに安心している自分がいることに嫌気がした。幸せを願えずして、よく好きだと言えたものだと、瑞樹は自嘲する。

 それを見ていた瑞樹が、そっと動いた。ふっと瑞樹の身体を抱き寄せると、瑞樹の頭を撫でるように動かす。由希には実体がないので実際に感触が得られるわけではなかったが、棘だらけの心から針が抜けていくような気がした。

「……負けるわ、あなたには」

 瑞樹が降参のしぐさをすると、由希は困ったように笑みを浮かべた。

「そうですね、これで間違いなさそうです」

 しばらくして、雨は確信を持てたのか、ゆっくりと頷いて見せた。

「なら、問題は後どうやってあそこにたどり着くかね……」

「それはこれから考えましょうか。せっかくそこに黒板があることですしね」

「そうね……って、え、わたしがやるの?」

「はい、お願いします」

 そう言って、雨はどこからか取り出したチョークを瑞樹に手渡した。




 二


 ――感謝してもしたりないと思っています。ありがとう、二人とも。


 ※


「まず再確認だけど――」

 瑞樹は黒板に文字を書いていく。

「目的は元凶を断つ――もとい、元凶を破壊する、でいいのよね?」

 二人は同時に頷き、瑞樹は『目的は特異点の破壊』と記す。

「じゃあ、次に役割分担だけど、カメラは陽子に任せるとして、雨はどちらのナイフを持つの?」

「私は、こちらで」

 そう言って雨が手に取ったのは元々持っていた赤い紐の巻かれたもの。

「となると私がこっち? ねえ、雨の方が慣れてるんだから、あなたがこっちを持ったほうがいいと思うんだけど」

 雨はゆっくりと首を振る。

「私がこっちのナイフまで持つのは危険かと。大丈夫、あなたならできますよ。自信を持って」

 そう言って、雨は瑞樹に青い紐のついた方を握らせる。

「わかったわ。……できる限りやってみる」

「だいじょーぶ! 私と水無月さんがサポートするから、泥船に乗ったつもりでいてよ。ね、水無月さん」

「泥舟じゃなくて、大船でしょ。……まったくもう」

「ふふ。あ、では、役割が決まったところで、そこから先は私が」

 雨は瑞樹からチョークを受け取り、旧校舎の見取り図を書いていく。

「なんかまるで頭に入ってるみたいだね」

「元々はこちらで生活してましたからね。……これでよし」

 ものの五分ほどで、三階と四階の見取り図が完成した。雨はその上に注意すべきポイントを書き込んでいく。

「まず、注意すべきは階段です。先ほど『影』は一度払ってきましたが、元凶へのもっとも通り道である以上、付近にはまた『影』が溜まっていることでしょう」

 そこで、と前置きを置いてから、雨はカメラの絵を階段に書き込む。

「まずはここから出たら一直線に階段まで向かい、そこで朝霧さんにフラッシュを連射してもらいます」

「まーかせて!」

 陽子は自信たっぷりに胸を叩く。その自信があまり当てにならないことは瑞樹は理解していたが、それでも今は彼女に頼るしかない。

「フラッシュの光なら、階段にいる影は一掃できるはずです。後は新たな『影』が来る前に四階上り、美術室まで一直線。今美術室が一体どうなっているかはわかりませんが――とにかく懐に入って、瑞樹さんのナイフを叩きつける」

「ええ」

 瑞樹は手元にある青紐のナイフをじっと見据えた。刃渡りなどは雨のものと同じだったが、どことなくこちらの方が鋭く冷たい印象を受ける。

「それで特異点は破壊され――すべては終わりになるはずです」

「もしそれで駄目だったら?」

「その時は――どうしましょうか」

 予想外の回答に、尋ねた陽子がずっこける。

「あのね! そういう時は大丈夫とか言ってよ!」

「え、そういうものなのですか?」

「大丈夫よ、その馬鹿の言うことに付き合わなくても。……とにかく、やるべきことをやるだけよ。失敗なんか考えたら駄目。いいわね?」

 三人は互いに顔を見合わせ、頷いた。

「じゃあ、十分ほどしたら行きましょ。それまで心とその他の準備を」

「あ、水無月さん、どこかにコンセントある? 今のうちに充電を――」

「それならあそこにありますよ」

「あ、本当だ。ありがとう、水無月さん!」

「……ありがとう、ですか」

 雨に教わった場所へと駆けていく陽子を見ながら、雨はぽつりと呟いた。

「どうしたの? そんなにあの子がお礼を言うのが意外だった?」

「あ、いえ。本当は、お礼を言ってもらう資格なんて私にはないのに、と思って。本来、私はもっと憎まれていてもおかしくないのに――私が彼女の好きな人を殺してしまったのだから」

 申し訳なさそうに、顔を曇らせる雨。瑞樹はその肩を軽く叩いた。

「そんなこと気にしないでいいのよ。それに、あの子はそれに気づかないほどバカじゃないわ。すべて理解した上で、わたしとあなたに接しているはずよ。……それに確かに大本はあなたたちかもしれないけど、あんな目にあったのはあの男が全面的に悪いんだから。……あと悪いとしたら、あの子自身もかな」

 部屋の隅でしゃがみ込み、充電を行っていた陽子を指差す。それに気づいた陽子は首を傾げた。

「そうだと、いいのですけど」

 あまり信じられないのか、雨の表情は曇ったままだ。それをどうにかしてほぐそうと瑞樹は考え――悩んだ結果、その頬に唇を寄せた。

「!?」

 雨は頬を押さえ、驚きの目で瑞樹を見た。

「い、一体何をするんですか、こんな時に!」

「こんな時だからよ、なんて言ったら、頬を張られそうね。……でも、目が覚めたでしょ?」

「それとこれとは話が」

「もしまだ気になるなら、全部終わってから陽子に聞けばいい。わたし達が生き残るためにはあなたが頼りなんだから」

「……わかりました。今は、切り替えることにします」

 雨の表情は元通り、とは言わないが先ほどよりは良くなっていた。少なくとも、無駄なことを考えている顔ではなくなっていた。

「ああそうそう、それから」

「?」

「ちゃんとわたしへの答えも聞かせてよね」

「……そうですね、それも答えないといけませんね。ちゃんと、考えておきます」

 既に瑞樹は自分に都合のいい答えなど期待はしていなかったが、それでも蹴りはつけておきたかった。自分のためにも、彼女のためにも。

「一体何の話をしてるの?」

 自分の名前が聞こえたからか、陽子がこちらに駆け寄ってきた。二人は顔を見合わせると、笑みを浮かべた。

「やっぱり陽子に関わるとろくなことがない、って話よ」

「そんな、今回に関しては私のせいじゃないってば!」

 至極意外だというように、腹を立てる陽子。そのこめかみを瑞樹は拳でぐりぐりと抉る。

「毎度思うのだけど、どの口がそんなこと言うのかしら?」

「い、痛い痛い! やめてよ瑞樹ちゃん!」

「……まあでも、おかげで退屈はしてないわ。ありがと」

「ど、どうしたの瑞樹ちゃん、いきなりそんなこと――」

「ん? いえ、深い意味はないわよ。ただ、こういうときでもないという機会がないからと思って」

「だ、ダメだよ死にに行くんじゃないんだから。絶対みんな無事で帰って、裏店のジャンボパフェ食べに行こうよ。……水無月さんも一緒に、ね」

「そうですね」

 瑞樹は千種高校の裏にある喫茶店――通称『裏店』の名物であるジャンボパフェを思い浮かべて、しばらくそれを食べていないことを思い出した。夏休みは学校の方にはほとんど来なかったし、たまに来ても頼むのはカキ氷だった。ジャンボという名に相応しきひじの高さまであるパフェを想像して、思わず唾液があふれそうになる。

「生徒会長としてはあまり容認できる立場ではありませんが、一度ぐらいは行ってみたいですね」

 冷静さを装って、瑞樹はこくりと頷く。

「……そうね、ちゃんと戻ったら行かないとね。でも、その時は陽子のおごりだからね」

「ええー。やっぱり戻らなくてもいいかも……」

「こら!」

「……ふふ」

 二人のやり取りを見ていた雨が、珍しく声を出して笑った。

「でも本当にお二人は仲がいいですね。嫉妬してしまいそうなぐらい」

「えっ?」

 瑞樹はその言葉の意味を問い詰めようとして――止めた。それこそ無事に戻ってから聞けばいい。

(私にもようやくがんばらなきゃいけない理由ができた、かな)

 瑞樹はぎゅっとナイフを握り締める。手には少し大きく重さはあったが、その方が頼もしくて良かった。

「さ、ではそろそろ参りましょう。……私たちのこれからのために」

「そしてパフェのために!」

「……それってやっぱり私がおごる流れなの?」

 がっくりと肩を落とす陽子に、「大丈夫、ちゃんと割り勘にしますから」と話しかける雨に、「本当?」と期待に満ちた瞳で見上げる陽子。すっかり打ち解けた二人を見ていた瑞樹は、ふと袖を引かれたような気がして振り返る。そこにいたのは由希の姿だったが――

「あなた、その身体――!」

 由希の身体は、今にも消えてしまいそうなほどに薄くなっていた。その存在は今や瑞樹の目にも辛うじて見える程度。驚く瑞樹に、由希は首を振った。それは決まりごとであるとでもいうように。そして由希は懇願するような瞳で、瑞樹を見つめた。

「……あなたも連れて行って欲しいの?」

 言葉は伝わっていないはずだが、瑞樹の言葉に由希はゆっくりと頷いた。恐らく彼女にもにもなにかすべきことがあるのだろう。そう感じた瑞樹は、ゆっくりと手を差し出した。

「わかった。……一緒に行こう」

 「ありがとう」の代わりに満面の笑みを浮かべると、由希はその手を取った。それと共に由希は白い粒子となり、瑞樹の中に飛び込んできた。手を通って、身体の中へ。それはしばらく身体の中を動き回った後、やがて下腹部で落ち着いた。そしてそれはそこを基点として、その熱はじわじわと身体全体へと広がっていく。

(これは――一体)

 疑問に思った瑞樹の内側から、初めて聞く声が響く。

『少しだけ、力を貸してあげる。……これが、あの子にしてあげられる唯一のことだから』

 瑞樹の中の彼女は、雨を見つめながらそう呟く。

(わかったわ。あなたに代わって、必ず守ってみせる)

 瑞樹は決意を込めた瞳で雨を見つめた。




 三


 ――そして、戦いが始まりました。思えば私は避けていたのかもしれません。向き合うこと、戦うこと、そして関わることから。


 ※



 部屋の扉を開けると、扉を覆うように存在していた『影』が光を浴びて蒸発した。それでも光の当たらない、あるいは弱まった部分から、虎視眈々とこちらを狙っていた。

「さっきはこんな状態ではありませんでしたが……ここまで増加が早いとは思いませんでした」

「とはいえ、ここを行くしかないんでしょ? ……それに大丈夫、この階の『影』は目の前の一帯だけよ。ここさえ抜けてしまえば階段まではそんなに距離はないはずだし」

 今の瑞樹には大体どこに『影』の塊があるのかが見えた。それが由希の力なのか、それとも元々あった力が増幅されているのか。いずれにせよ、暗闇を見通す能力は、瑞樹達にとって大きな助けとなるはずだった。

(ありがとう、由希さん)

 瑞樹は下腹部をさすりながらそっと呟く。未だ熱は残っているが今は心地良い温かさになっている。どういうわけか水澤に殴られた身体の痛みもすっかり消えており、これからの運動に差し支えはなさそうだった。

「階段まで行ったら合図をするから……陽子、お願いね」

「合点承知!」

「では――行きます」

 掛け声と共に、雨が疾走る。銀色の光が闇を切り裂き、それを広げるように陽子のカメラがフラッシュを放つ。光を浴びた『影』が消え、周囲のものも動きを止めたその隙に、三人は『影』の膜を抜けた。瑞樹が感じた通り、膜の向こうにいる『影』はそれほど多くなかった。それでも全てを避けていくのは難しい。

「少しでも絡まれたら終わりです。二人とも気をつけて」

「わかった! ……でもこれは流石に数が多いよー」

「泣きごと言ってる暇があったら手を動かす!」

 陽子に伸びてきた一本の触手を瑞樹のナイフ――これは部長が持っていたもの――が消滅させる。刺したという感触は何もなかったが、その代わりに『影』の元となった想いが見えた。

 憎しみ、あるいは悲しみ。あるいはそのどちらでもない、深い絶望。人々のそうした感情が、無意識にこの異質な存在を作り上げているかと思うと、ぞっとする。

『取り込まれないよう、気を確かに持って』

(……わかってるわ)

 頷きながら自らに迫る『影』を切断、返す刃でもう一つを消滅させる。

「……なかなかやりますね、瑞樹さん」

「そう? 確かに身体が軽い気はするわね」

 確かに普段よりも軽快に動ける気はしたが、これも由希の力なのか。

『どちらかといえばあなたの潜在能力です。ただ――』

(ただ?)

『明日の筋肉痛は免れないでしょうね』

(それはちょっと――って、今から明日のことを考えてるなんて、ずいぶん余裕ね、わたし)

 瑞樹は自嘲しながら、陽子を襲おうとした『影』を切り散らす。

「雨、後どれぐらい?」

「見えました、階段です!」

「陽子!」

「ほいきた」

 雨が切り開いた階段までの道を陽子と瑞樹が駆け抜け、陽子は階段に向けてカメラを構え、瑞樹は廊下の反対側から来る影を払い、陽子を援護する。

「これでも――喰らえっ!」

 叫びと共に、陽子はフラッシュを連射する。カメラに取り付けられたストロボから放たれた強烈な光を浴びて、階段付近の『影』をあっという間に消え去っていく。

「二人とも、これで大丈夫だよ。早く上へ」

「わかりました。……瑞樹さん」

「ええ」

 三人は階段を駆け上がる。踊り場を急いで曲がり、一気に四階を目指す。だがその時、手すりの陰から一本の触手が瑞樹を狙うように『影』が伸びた。瑞樹は『影』が消えたと油断しており、また雨も前方に集中していたことから、反応が遅れた。

「危ないっ!」

 ただ一人陽子だけが反応し、瑞樹を突き飛ばした。間一髪、瑞樹の眼前を触手が通過しただけで、回避には成功した。壁にはぶつかったものの、転倒も避けることができた。

「瑞樹さん、大丈夫ですか?」

 『影』に気づいた雨が、伸びきった触手を切断する。

「ええ、なんとか。ありがとう、陽子。……陽子?」

 陽子は足首を抑えて座り込んでいた。どうやら、瑞樹を突き飛ばした時にどこかで躓いてしまったらしい。

「ごめん瑞樹ちゃん。触っちゃ駄目だっていう約束破って。……これがその罰なのかな、ててて」

「馬鹿! そんなのどうでもいいのよ」

「……これは今すぐ歩くのは無理、かも」

「一人ぐらいなら私が抱えることもできますが――」

 二人に迫ろうとしている触手を牽制しながら、雨が応じる。

「ダ、ダメだよそんなことしたら。二人のほうが危なくなっちゃう。そもそも私の役目は階段で終わりで……後は二人なら何とかできるでしょ?」

「でも、陽子――」

「私ならカメラもあるし、しばらくは大丈夫――だから二人は早く先に行って。その代わり、戻ってパフェを食べに行く時は奢りだからね」

 ちらりと下を見ると、『影』の塊が上ってくるのが見えた。あまりもう時間はなさそうだった。

「わかった。先に行くわ。パフェは――そうね、これをちゃんと持ってたらおごってあげる」

 そう言って瑞樹はポケットから一つのお守りを取り出し、陽子に握らせた。

「これは?」

「わたしが祖母からもらったお守り。大切なものだから、絶対に持っていなさいよ。無くしたらおごって上げるどころか、向こう一年私が食べ放題だからね」

 ええーと、膨れっ面をする陽子を見て瑞樹は微笑みを浮かべた。

「瑞樹さん、早く」

「わかったわ。……陽子、無理はしないでね」

「うん。だから、できるだけ早く済ませてきてね」

 きっと怖いのだろう、その手が震えている。瑞樹はそっと陽子の身体を抱き締めた。

「また、後でね」

「……うん」

 瑞樹はそのまま陽子を壁に寄りかからせると、後ろ髪引かれながらも、陽子の言葉に応えるよう必死で階段を登る。

 階段を登り終えたときに一度だけ振り返ると、まだ階段の下から発光がまだ見えていたが、まだこれからも電池が持つとは思えない。恐らくは、後十数回が限度だろう。

「急ぎましょう。私たちが早ければ助けられます」

「わかってる」

 二人は脇目も振らず、一直線に美術室へと飛び込んだ。



「これは――」

 美術室の中は外よりも濃い『影』によって塗り潰されていた。まるでそれは生き物のようにうねりながら、さらに大きくなろうと影を吸い寄せていた。

「これは……十年前とは比べ物になりません。それだけこの街に残る悪意が増したのか、それとも――」

「わたしは初対面だからね。……いずれにせよ、やるしかないのなら、やるだけよ」

『……そうね』

 それを見る由希からは、愛情と憎悪が入り混じった複雑な想いが伝わってくる。

(ねえ、どうしてあなたは私に力を貸してくれるの?)

『それは――これがすべて終わればわかるわ』

(そう。……なら、絶対に生きて帰らないとね)

 由希は口にはしなかったが、その存在が薄くなっていたのと関係あるのだろう、という気がした。

「……あなたは、時々勇敢なのか無謀なのかよくわからなくなります」

 気づくと、雨は瑞樹を見つめて笑みを浮かべていた。

「そうかしら? できないことは言わないし、やらない性質なのだけど」

「そうですよ。……でも、少なくとも今はあなたの言うとおりです。私が敵をひきつけますから、瑞樹さんはその隙に」

「了解」

 二人は互いに見つめ合い、頷くと左右に分かれて飛び出した。それに合わせて『影』も動く。

 先ほどまでの個々の『影』とは違い、その動きは少し緩慢だったが、なにぶん量が多い。それからは無数の触手が生えており、一本や二本切り払っただけでは一向に数が減らない。それは雨の方も同じようで、何度も接近しようとしてはいたが無数の触手に阻まれて一進一退を繰り返すばかり。とてもおとりにはなれそうにない。

(このままじゃキリがない――)

 由希の力で身体は驚くほど軽いが、人間の枠を超えられる訳ではない以上、息は上がる。『影』の中心から距離をとり、瑞樹は頭を回転させる。部屋の明かりが点けられればいいのだが、それは向こうもわかっているのか、スイッチはしっかり守られている。それに電気が通じているかどうかはわからない。例えスイッチを入れられたとしても、電気が通じてなければそれでおしまいだ。

 ……かといってそれ以外に替わりになりそうなものはない。一か八かにかけるか、それともこのままチャンスを待つか――

(いえ、選択肢は一つね)

 そもそも自分たちには時間がない。こうしている間にも陽子は『影』に追い詰められている。彼女を救い出し、自分たちも生還するためには一か八かだろうと、やらなければならない。

「雨!」

 声をかけると、雨は触手を牽制しながら瑞樹の下に駆け寄ってくる。瑞樹は自分の考えを耳打ちする。雨は一瞬だけ瑞樹を見たが、やがてすべてを理解したように頷いた。

「私がスイッチを。……瑞樹さんは一直線に本体へ」

「わかった。これで終わらせましょう」

「ええ!」

 雨の言葉を合図に、瑞樹がナイフを構え、本体に向けて走り出す。一斉に触手が瑞樹に集中する。それを何とかかわし、切り払い、一歩ずつ歩みを進めていく。そのたびに触手の密度は上昇していく。無論、瑞樹もただではすまない。身体のあちこちを『影』が掠めるたび強烈な喪失感が身体を襲い、気を抜けば倒れてしまいそうな眠気が瑞樹を襲う。目蓋は重く、開いていることが精一杯。

『まだです、まだ!』

 だがそれでもまだ、瑞樹は立っていた。そして瑞樹が攻撃を引き受けた結果として、確実に雨の方の守りは緩くなっていた。

 期を察した雨は、勢いよくスイッチ目掛けて駆け出す。『影』がそれに気づいたときには、既に守りのために残していた触手を突破されていた。すぐに別の触手を伸ばすが、それが雨に届く頃には雨の手がスイッチに届いていた。照明が点滅を繰り返し、やがてクリーム色の光を放つと、『影』はみるみるうちに縮んでいく。だが、それと同時に『影』の触手が雨を貫いていた。

『雨!』

「雨!」

 二人は同時に叫んでいた。同時に霞がかっていた意識が鮮明になる。

「今、です。瑞樹……さん!」

「……っ!」

 雨の苦しそうな声。彼女に駆け寄りたくなる衝動を抑えて、瑞樹は光を受けて小さくなった『影』の塊に切りつける。すると、中から漆黒に輝く『核』のようなものが姿を現した。

『そうです、その核へナイフを――』

 最後の力を振り絞り、ナイフを振り上げる瑞樹。それを『影』の触手が襲う。

「そうは……させません!」

 雨が投げたナイフがその触手を貫き、消滅させる。ナイフはそのまま教室の壁に突き刺さる。

「これで、終わりよ!」

 瑞樹は振りかぶったナイフを、思い切り『核』へと突き立てた。『影』は苦しむようにのた打ち回る。瑞樹も雨も暴れ狂う触手をよける力は残っていない。だが、それにはもう『影』としての力は残っていないようで、二人の身体をすり抜けるだけで何の影響もない。

 一方、ナイフを突き立てられた『核』は徐々に裂け目が広がり――やがて、その中からは光が溢れ出た。教室の、廊下の、そして旧校舎の『影』はその光を浴びて消えていく。それだけではない、瑞樹も、そして雨も光に包まれていく――




 四


 ――それでは、またどこかでお会いしましょう。


 ※


「ここは……どこ?」

 瑞樹は暗闇の中にいた。自分の目を持ってしても何も見えない、見通せない。足元はおろか、自分の手すら見ることができない闇。それに包まれていると、何故か徐々に身体が冷えていくような錯覚を覚えた。

(でも一体どうして――『影』は倒したはずじゃ)

「お姉――」

 ふと誰かの声が聞こえた気がした。振り向くと、遠くにうっすらとした光が見えた。それが一体何なのかはわからなかったが、ほかに目印もないので、それを目指して瑞樹は歩くことにした。

(『目の前が真っ暗になる』っていうけど、こういうことかしら)

 だがこれが絶望なのだとしたら、他人を巻き込むほどの絶望とは、一体どのようなものなのだろうか。

「どうして――」

 再び声が聞こえた。それは先ほどより微かに大きくなっていた。近づいているのか、それとも声が大きくなっているのかはわからなかったが、一先ず瑞樹は足を速める。

「ごめんなさい」

 謝罪の言葉。一体、誰が、誰への。

「私はあなたがいるだけで、良かったのに――」

 それは叶えられなかった望み、希望。そして、捨てられたことへの絶望。……これらは全て、自分の気持ち。かつてことあるごとになかったことにして、自分の気持ち。

(ああ、ここは『影』の中か)

 瑞樹は全てを悟り、そして認めた。過去の自分から、今の自分までが捨ててきた想い――それは全て自分のものだと。

「どうせ叶うことなどないのだから――」

(いいえ、違う)

 その上で否定する。諦めてはいけない。例え不可能だとわかっていても、ぶつかっていかなければならない。諦めることは捨てること、すなわち逃げること。

(わたしはもう――逃げることは止めた)

 そうして歩いているうちに、やがて瑞樹は光の元にたどり着いた。自分の背丈ほどの光の球は淡い輝きを放ち、その場に佇んでいる。瑞樹はそっと光に手を伸ばす。と、手、そして身体が光の球に吸い込まれた。眩しさに目を細めた瑞樹が次に見たのは、向かい合って立つ二人の少女。

「瑞樹さん!」

 一人は雨だった。そしてもう一人、雨の向かいにいるのは、

「初めまして、私が水沢由希です。……こうしてお会いするのは初めてですね、瑞樹さん」

 由希は霊体だったころの白い姿とは違い、集合写真で見たときの姿に戻っていた。

「ええ、そうね。……で、ちゃんと説明してくれるのかしら? ここがどこなのか」

「はい。そのためにここへ導いたのですから。――でも、あなたは自分で回答を見つけてしまったみたいね」

「どれもこれも、聞き覚えのある声だったからね。もっとも、私の想いまでもがあるとは思わなかったけど」

「あなたの言うとおり、ここは『影』の中です。正確には『影』を呼び寄せる特異点の中」

「ということは……そうか、あなたが――」

「ええ。私こそが本来の特異点です。私がいる限り悪意は呼び寄せられ、『影』が生まれ続ける。それを止めるには、私を消すしあかりません」

 由希は手を振ると、雨の前に一振りのナイフが姿を現した。雨がずっと持っていた、赤い紐がついた、『祭具』。

「……さあ、雨。それで私の存在を消しなさい。そうすれば全てが終わるわ」

「そんな……嫌です、私にはできません」

 雨は手でナイフを払いのける。ナイフは音を立てて、漆黒の床の上を滑り、瑞樹の前で止まる。

「私はあなたがそばにいてくれるだけでよかったのに、どうしてそんな簡単な希望も叶えてはもらえないのですか!」

「……簡単よ、雨」

 瑞樹は雨の取り落としたナイフを拾い上げ、雨にそっと手渡した。

「その時の選択を間違えたからよ。でも、いくらやり直したくても、もう過去は戻らない。だから後悔はしても立ち止まってはいけないの、わたし達は」

 雨は瞳に涙を湛え、瑞樹をじっと見つめた。

「でもね、正直に言えばわたしはどちらでもかまわないわ」

「……瑞樹さん?」

「だって由希さんはあなたの大切な人なのでしょう。たぶん、わたしだって同じ立場ならきっと選べない」

「…………」

 瑞樹は額に皺を寄せる雨に、そっと微笑みかける。

「大丈夫よ。あなたの決めたことなら、私はあなたを恨まない」

「……それはあなたが私に借りがあるから? それとも――」

「わたしの気持ちはもう、あなたに伝えてあるでしょう? そして、好きな人の幸せを願えない人なんなんてどこにもいないわ」

 我ながらずるい言い方だと、瑞樹は思った。雨が背中を押して欲しいのだということはわかっている。だが、それでも決断は雨が一人でしなければならない。そうでなければ、意味がないのだ。

 顔を上げて由希を見ると、彼女は瑞樹に向かって微笑を浮かべていた。

「……わかりました」

 雨は小さく頷くと、持たされたナイフを軽く握り締めた。

「姉さま、これで終わりにします」

「さすがは雨。私の妹ね」

 そう言って由希は嬉しそうに、微笑んだ。

「……ねえ、瑞樹さん。少し、お願いがあるのだけど」

「なに? わたしにできることなら何でも」

「……その、手を握っていてくれないかしら」

 恥ずかしそうに差し出された手に、瑞樹は自分の手を重ねる。どちらのものか、脈打つ鼓動が感じられる。生きている証、そして自分以外の誰かの温もり。

「これでいい?」

「ええ、ありがとう。――お姉さま」

 最後に雨のその悲しみとも喜びともつかない瞳を見て由希そっと瞳を閉じた。

「……ありがとう、雨」

「お姉さま――さようなら」

 そして、雨はゆっくりとその手を突き出した。




「……ずきちゃん! 瑞樹ちゃん!」

「う、ううん……」

 喧しい叫び声と、揺さぶられる感覚で瑞樹は目を覚ました。眩しさを感じながら目を開けると、泣き腫らした陽子の顔が飛び込んできた。

「瑞樹ちゃん! よ、よかったぁ……」

 瑞樹が身体を起こすと、反対に陽子はその場にへたり座り込んだ。

「大げさなのよ、あなたは。……ところで、雨は?」

「ううん、ここにいたのは瑞樹ちゃんだけだよ。そういえば、水無月さんはどこへ――」

「私は、ここですよ」

「雨!」

 声がした方に瑞樹が振り向くと、そこには雨の姿があった。だが、その姿を見て、瑞樹は目を疑った。

「……その、姿は」

 雨の姿はうっすらと透けていた。目の錯覚かとも思ったが、陽子にも見えているどうやらそうではないようだった。

「一体どうして?」

「お姉さまが消えたことによって、『儀式』の効果がなくなったようですね。私があの時に願ったのは、姉さまとずっと一緒にいることだったから――」

 そう言って、雨は哀しそうに微笑む。

 何となくわかっていた。由希が消えることで、雨にも影響が出るであろうことは。だがそれでも、例え自分の手の届かぬところに行こうとも、雨をあの鎖から解き放ってやりたかった。だから後悔など、ない。

 そう思っていても、瑞樹は涙が溢れてくるのを止められなかった。雨はその雫を白磁のような指でそっと拭うと、かつて何度もそうしてくれたように瑞樹の頭に手を置き、そっと撫でた。

「大丈夫ですよ、わたしが消えるわけではありませんから。……何もかも、元に戻るだけです」

「……戻ってくるのよね」

「ええ、約束します。もし約束を破るようなことがあれば、ジャンボパフェ一年分ご馳走して差し上げます。その代わり、ちゃんと守ったら私にご馳走してくださいね」

「……馬鹿ね、それじゃわたしが一方的に損じゃないの」

 再び歪もうとする視界を瑞樹は慌てて擦る。

「ふふ。では約束の証に、その時までこれを預かっていてください」

 そう言って、雨は手に持っていたナイフを瑞樹に差し出した。取っ手に布の巻かれた古めかしいナイフは、青い光を淡く放っている。

「わかったわ。絶対に守るから」

「よろしくお願いします」

 瑞樹が約束すると、満足そうに雨はゆっくりと頷いた。

「あとそうだ、朝霧さん、少しお願いがあるのですけど……」

「な、何?」

 二人の様子を見ていた陽子は慌てて涙を拭う。

「もしよろしければ、そのカメラで私たちを撮って頂けませんか?」

「え? も、もちろん構わないけど……」

 陽子がちらりと瑞樹を見ると、瑞樹は小さく頷いた。

「わかった。じゃ、ちょっと待ってね」

 陽子はそれ以上何も言わず、撮影するためのベストポジションへと駆けて行き、カメラを構える。

「いい友達をお持ちですね」

「そう? あれで結構厄介者よ。人の言うことは聞かないし、平気で人は巻き込むし――」

「聞こえてるぞー!」

「おまけに地獄耳、ね」

 二人は顔を見合わせて笑い、陽子は両手を挙げて怒ってみせる。

「こらー! そんな事言ってると撮ってあげないよ!」

「ごめんごめん」

「申し訳ありません」

「全くもう。……じゃ、とっとと撮るよー。二人ともこっち向いて」

 そう言ってカメラを構える陽子。こうやって陽子に撮ってもらうのは初めてかもしれない、と思いながら瑞樹はそのレンズを見つめる。

「ねえ、瑞樹さん」

「なに?」

「……ありがとう」

 言葉と共に、瑞樹の頬に暖かいものが触れた。

「はい、チーズ!」

 一瞬の閃光。

 瑞樹が隣を見た時には、もうそこには何もいなかった。

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