二章

 それから十日ほどが経ったある日、山脈の麓に存在する神湖しんこと呼ばれる大きな湖の北側には草原に暮らす遊牧民たちの姿があった。

「わざわざ我らを集めた理由を説明してもらおうか、ソジュ族の」

 険しい顔つきでそう問いかけた壮年の男は、自らをヴィルトフ族の長だと名乗った。その背後に従うのは屈強な男たちだ。

 彼らを見やりながら、カイルは殊更ことさらゆっくりとうなずいた。若輩者と侮られているのは見ればわかる。だからこそ、あえて落ち着いた様子を演じてみせた。

「もちろんだ。だが説明はすべての部族が集まってからさせていただく」

 立ち並ぶ天幕は、部族ごとにそのかたまりが隔てられている。ソジュ族を含め、七つの部族がこの場に集まっていると報告にあった。

「ラーエ族とチェロト族は帝国に従属した」

 苦虫を噛み潰したかのように渋面を作るヴィルトフ族の長の言葉に、カイルはぐっと拳を握ることで上げそうになった声を抑えた。深呼吸を繰り返し、冷静さを取り戻す。

「では、これで全部だな」

 抑えた声音で告げたカイルに、ヴィルトフ族の長が目を瞠る。

「ハマール族がまだ来ていないはずだが?」

 いぶかしげな問いかけに、再度拳を握ることで沸き立つ感情の波をやり過ごす。

「……ハマール族は全滅した。共同戦線を張っていたが、ハマール族の独断専行により、こちらもかなりの被害をこうむった」

 わずかにトゲの潜む言葉に、なるほど、とヴィルトフ族の長はうなずいた。

「たしかにソジュ族も数を減らしたようだ」

「前族長を始め、半数近くが死んだ」

 できれば口にはしたくなかった言葉だけに、自然と視線が地面へと落ちた。

「我らとてそれは同じだ。ミュラ族も残っているのは女や子どもばかりと聞く」

 その言葉に小さくカイルはうなずく。どこだって状況は同じだ。戦場に立つのは若い男たちで、残されるのは老人や女、そして幼子。

「十あった部族が、もう半分ほどしか残っていない」

 そう嘆いたのは、ミュラ族を預かっていると言う老女だった。ひどくうつろな眼差しで、カーダはもう終わりだとつぶやく。その声に、まだだ、とカイルは反論した。

「まだ終わりではない。たしかに状況は悪いが、まだどうにかなる」

「どうしようって言うんだい? ソジュ族の。帝国に神獣がいる以上、あたしたちにはもうどうしようもないんだよ」

 そう言って、老女は顔を覆ってまた嘆いた。ヴィルトフ族の男たちも眉を寄せて顔を伏せている。その顔にはどこかあきらめがにじんでいた。

 彼らだけではない、この場にいる者のほとんどがそうだった。誰もが自分たちはもう滅びるのだと思い込み、戦うことを放棄しかけている。

 眉を寄せてそんな彼らを睨むように見据えながら、カイルは背後に控えるエリックにフェオンを連れてくるようにと命じた。はいと答え、一礼してエリックがその場を離れる。それを横目で見送ると、カイルはまた視線を前へと戻した。

 しばらくすると、エリックに伴われてフェオンとディーンが姿を現した。ディーンはカイルやエリックと同じく硬い表情で、フェオンはどこか物珍しげに周囲を見回している。そんな彼女の様子に、ふと不安が首をもたげた。本当に、彼女で大丈夫なのだろうか? 

 だがカイルはすぐにその疑問を打ち捨てる。ほかに方法はないのだ、たとえどれほど勝率が低くとも、今は彼女に賭けるしかない。

 ディーンに目線でうなずいてみせると、カイルはフェオンに呼びかけた。視線を上げた少女に向かい、こちらに来るようにと促す。

 どこか場違いな少女の存在に気づいたのだろう、ほかの部族の長たちがこちらを見やりながら互いに何事かささやいている。彼らが口にしているであろう言葉を意識の外に追いやると、カイルは大きく息を吸った。まっすぐに前を見据えて口を開く。

「こちらにおわすは、我らが求めに応じて降臨した神獣、白凰はくおう

 口にされた言葉にどよめきが起きた。驚愕に叫ぶ者、言葉もなくただ目を瞠る者、あからさまに不信感を示す者――それぞれの反応を示す彼らに向かい、カイルはさらに言葉を続ける。

「こちらにも神獣はいるのだ、このまま帝国に屈する必要などない! 我ら草原の民の力を合わせ、戦おうではないか! 神獣の加護があれば、必ずや帝国に勝てるはずだ!!」

 叫んだカイルに返されたのは冷ややかな嘲笑だった。

「この子どもが神獣だと? そんなことを本気で言っているのか!?」

「長と言ってもしょせんは若造、まともな判断能力などありはしないということよ」

 口々にあざける人々に、フェオンが露骨に不機嫌を表した。その背後でエリックやディーンまでもが険しい表情で人々を睨んでいる。今はどうにか自制が利いているようだが、怒りが爆発するのも時間の問題に見えた。

 そんな彼らに苦笑を浮かべ、カイルは落ち着けと声をかけた。

「フェオンならまだしも、お前たちまで頭に血を上らせてどうする」

 それに我に返ったエリックとディーンが小さくかぶりを振り、小声で詫びる。

「わたしならまだしも、とはどういう意味だ?」

 半眼でこちらをめつける少女も、やや落ち着きを取り戻したらしい。先ほどまでの爆発しそうな怒りはそこになかった。

 一方、他部族の長とそれに付き従う人々の反応はさらに激しさを増していた。

「そんな子どもが神獣であるものか!」

「本当に神獣だと言うのなら、その証拠を見せてみろ!」

 口々に叫ばれるそんな言葉に、カイルがわずかに口角を上げた。

「証拠を見せれば信じるのだな?」

 雑言ぞうごんに負けじと声を張り上げると、カイルはフェオンに視線を向けた。

「フェオン、この場で転化してはもらえないだろうか」

「……ここでか?」

 やや不機嫌そうに問い返した少女にうなずく。口であれこれ説明するよりも、実際に転化後の姿を見せるのが早い。そう説明すると、フェオンは不服そうではあったがうなずいた。

「わたしは見世物ではないのだがな」

 ため息と共に言葉を吐き出しながら、右手を挙げて彼らに下がるようにと合図を送る。

 充分な距離が空いたのを見ると、フェオンは意識を己の内へと向けた。わずかに目を伏せ、もう一つの己の姿を思い浮かべる。

 駆け抜ける風に人々が一斉にそちらへと視線を向けた。その先にあるのは燐光をまとう少女の姿。

 ふわり、と少女の体が重力のくびきから解放される。空高く上っていくその体は完全に光に包まれ、見上げる人々の目からはよく見えない。

 光は強く、大きくなっていき、そうしてある一点で耐えかねたようにパンと弾けた。

 光の中から現れた白い大鳥が、飾り羽を風になびかせながら優雅に空を泳ぐ。見定めるようにその青い目で人々を見つめ、大きく円を描きながら降下する。

 ゆっくりと舞い降りてくる大鳥の体躯たいくが光に包まれ、少しずつ縮んでいく。人々の視線の高さに来る頃には光は薄れ、人の形が見えるようになっていた。

 トン、と軽やかに地面に降り立った少女が、うるさそうに顔を覆う髪の毛を払いのける。これで満足かと言いたげな顔でカイルを見やると、彼女はディーンの隣に立った。

 惚けたようにまばたきを繰り返していた人々だったが、不意にわっと声を上げた。

「何だアレは! 人間じゃないのか!?」

「いったいどんな手品を使ったと言うんだ……」

 余計に騒然となったその場をどこか冷ややかな眼差しで見つめながら、カイルがぽつりとつぶやく。

「……頭の固いご老人たちには、少々刺激が強すぎたかな」

 しばらく様子を見ていたが、一向に収まりそうにない騒ぎにため息をつく。これでは今後についての相談どころではないだろう。

「皆様がたに置かれましては、会議どころではないご様子。この続きは日を改めて行うことといたしましょう」

 どこか慇懃いんぎん無礼に宣言すると、カイルは人々に背を向けた。フェオンたちに向かってそういうことだと告げ、ソジュ族の天幕のある方向へと歩き出す。軽く一礼し、エリックもそのあとを追う。



「待て、カイル!」

 強い調子で背中を叩く少女の声に、カイルは足を止めて振り返った。こちらに駆けてくるフェオンの姿を認め、そのまま待つ。駆け寄ってきた少女は息を乱した様子もなく、挑戦的な眼差しで彼を見上げた。

「おまえは何を考えている? ――いや、本当にあれでおまえの思惑通りに動くのか?」

 探るような少女の声に、ふっと小さく笑みが漏れた。

「少なくとも、フェオンが神獣であることは彼らに認知されるだろう」

「……お言葉ですが、それでは意味がないのではありませんか?」

 そもそも、あの様子では信じたとは到底思えないのですが、とエリックが口を挟む。

「自分たちは変な手品で騙されてるって感じの反応でしたよ、アレは。十中八九、信じないでしょうね」

 やれやれとかぶりを振りながらディーンも言葉を重ねる。

 どうするつもりなのかと問いたげな三人の視線を受け止め、カイルは大きくうなずいた。

「信じる信じないは問題ではない。連中を引っ張り出せた段階で、こちらの目的はほぼ達成されている」

「……何? それはどういう意味だ」

 不信感も露わに、少女がこちらを睨みつける。だがその問いには答えず、カイルは別の問いを投げた。

「ユンア、セロザ、それにクオミとテフォラ。この四つの部族を見てどう思った?」

 唐突な問いかけにきょとんとしたようにまばたきし、エリックとディーンが視線を見交わした。

「何も変わりがないように見えましたが……」

 どの部族も人数を減らし、疲弊した様子を見せていたというのに、挙げられた四つの部族だけは数も変わらず、疲弊した様子もなかった。

 戸惑いながらそう答えたエリックにうなずき、カイルはさらに問いを重ねる。

「そうだな、その理由はなぜだと思う?」

「それは……普通に考えたら、戦ってないからじゃないですか?」

 大蛇相手にうまく立ち回り、まったく被害を受けずに戦っていたという可能性もあるが、まず不可能と言っていいだろう。そうなれば、残るのは彼らが戦闘を行っていないという可能性だ。

 ディーンの言葉に、その通りだとカイルは答えた。

「連中は動く時期と、つくべき勢力を見定めている。早々に降伏した連中がいたのは計算外だったが、まあどうにかなるだろう」

 楽観的なその様子に、エリックたちがまた顔を見合わせる。

「その日和見ひよりみしている連中を、おまえはどう説得する気でいるんだ?」

 当然何か考えがあるのだろうなと問いかけたフェオンに、その必要はないとカイルはかぶりを振った。

「神獣を旗印に、すべての部族が団結して帝国に対峙しようと宣言したんだ。その場に居合わせた以上、今更帝国側につくことはできないはずだ」

 自信に満ちた顔で言ったカイルに、フェオンは盛大にため息をついた。

 カイルの言葉には多分に願望が混ざっている。彼らがフェオンと大蛇とを秤にかけて大蛇の方が勝つと考えた場合、帝国に降るであろうことは想像に難くない。カイルとてそれを理解していないはずがないだろう。その上で彼らが降伏しないという確信があるというのだろうか。

「彼らをこちら側につかせるためには、神獣フェオンの力を見せつける必要があるのではありませんか?」

 同じことを考えていたのだろう、エリックがちらりとフェオンを横目で見やってそう進言した。フェオンに大蛇に対抗できる力がなければ、どちらにせよ彼らに勝ち目はないのだ。

「……やはりそうなるか?」

「今のままでは、遠からず彼らは帝国に降るでしょうね」

 重々しくうなずいたエリックに、カイルは長く息を吐き出した。

「力を示す必要があるとはいえ、さすがにこちらから仕掛けるわけにはいかないしな……」

 そもそも今の状況では攻勢に出ること自体が難しいと思えた。ソジュ族だけならばカイルの命令でどうとでもなる。だが必要なのは、ほかの部族の前でフェオンの力を示すことだ。彼らを引っ張り出せなければ攻勢に出たところで意味がないし、仮に仕掛けても返り討ちに遭うだけという結果になりかねない。

「次の会議までに何か対策を練る必要があるか……」

 前髪を掴むようにかき上げ、顔を地面へと向けて深くため息をつく。そのまましばらく動かなかったが、やがて吹っ切れたようにカイルは顔を上げた。

「老人たちに対してまたデモンストレーションを行う可能性もあるが、その時はよろしく頼む」

 ひらりと片手を上げてそう告げると、カイルは歩き出した。では、と会釈を残してエリックもそのあとに続く。

 彼らが見えなくなるまで見送ったあと、ディーンは難しい顔で立ち尽くすフェオンの顔をのぞき込んだ。そっとその背中に手を触れる。

「今日はもういいみたいですから、俺たちも行きましょうか?」

 上げられた顔はまだ不満げだったが、フェオンはわずかにうなずいた。



         ◆



 それから数日、族長同士の話し合いは毎日行われてはいたものの、これといった進展はなかった。

 話し合われることと言えば、フェオンが本当に神獣であるのかということと、仮に本物の神獣だとしても帝国との戦いで役に立つのかということの二点だった。

 ひたすらに不毛な会議に辟易へきえきしていたのはカイルだけではなく、フェオンもだった。今後の方針が定まらぬ以上、動くことができないのは彼女も同じであったためだ。

 最初の内は物珍しげに野営地の中を散策していた彼女だったが、それも飽きたのか、あるいは向けられる好奇の目に嫌気がさしたのか、出歩くことをやめた。天幕の中で腐る彼女を見かねたらしいセイディはフェオンの元を訪れると、

「暇ならちょっと手を貸しな。薬を作るのに人手がほしいと思ってたところだよ」

 そう言って、有無を言わさず彼女を自分の天幕へと引っ張っていった。

 薬研やげんと呼ばれる持ち手のついた輪と受け皿からなる薬草を砕くための木製の道具と、その横に並べられた山盛りの薬草の前に座らされたフェオンが状況を飲み込めずにぱちりとまばたきする。

「その薬草を細かく刻んでおくれ」

 言いながら、セイディ自身は乳鉢の中に何種類もの薬草を入れてすり潰している。

「……どうやるんだ?」

 もう一度まばたきし、手元の道具とセイディとを見比べてフェオンは問いかけた。その問いかけに呆気にとられたように目を瞠り、ふっとセイディは笑みを浮かべた。

「ちょっと貸してみな」

 そう言って薬研を自分の前に置くと薬草を一掴み受け皿に入れ、その上から輪を置いた。持ち手を握って受け皿の上で輪を転がすように前後させると、元々乾燥させられていた薬草は簡単に細かく砕けていった。

 その様子を見ていたフェオンが面白そうに目を輝かせる。その様にもう一度小さく笑い、セイディは砕いた薬草を大きめの皮袋へと移した。

「こうやって、全部刻んでこの中に入れておくれ」

 頼めるかい? と尋ねると、フェオンは任せておけと満面の笑みでうなずいてみせた。

 初めこそせっせと薬草を刻んでいたフェオンだったが、直にその手は止まりがちになり、やがては完全に止まった。物思いに耽るように彼方へと視線を向ける。セイディに声をかけられれば我に返って作業を再開するが、心ここに在らずといった様子でその手はしばしば止まっていた。

「……フェオン?」

 何度目かのセイディの呼びかけにフェオンは我に返った。あわてて視線を薬研へと戻して作業を再開させようとしたが、彼女は小さくため息をついて道具を置いた。その様子に首を傾げたセイディに、苦笑混じりの顔を向ける。

「すまない、どうもわたしがいてはかえって邪魔になるようだ」

 そう言うと、彼女は立ち上がって天幕の外へと飛び出した。追いかけてくるセイディの声から逃げるように駆け出す。

 しばらく駆けてソジュ族の天幕群から離れると、フェオンは小さく息をついた。顔を左右に振り、今度はゆっくりと歩き出す。だが、その顔はどこかうつむきがちだった。


「……アレがそうなのか?」

「ああ、たぶんな。白銀の髪の子どもって話だ」


 聞こえてきたそんな声に、フェオンはふと顔を上げた。声のする方へと顔を向ければ、鮮やかな青色に染められた遊牧民の衣を着た男たちが数人、顔を寄せ合って話しているのが見えた。当人たちは声を抑えているつもりだろうが、神獣の聴力は人間とは比べものにならない。ささやく声など当たり前に聞き取ることができた。

 しばらく彼らの会話に耳を澄ませてみれば、内容は神獣だと言ってソジュ族が連れてきたというがはたして本物なのか、そしてあんな子どもが本当に役に立つのかといった内容のようだった。

 あまりにもじっと見すぎていたのだろうか、男たちの一人が顔を上げ、フェオンを見やった。ソジュ族の男たちとは違い、彼らは逃げる様子もなくフェオンを見返した。その目にはどこか面白がるような光が浮かんでいる。

 常ならばそんな目で見られればバカにするなと叫んだのかもしれないが、今日はそんな気分にはなれなかった。だからフェオンの方から視線をそらして足早に歩き出す。

 だが行く先行く先、結果は同じだった。同じ衣を着ているとはいえ、濃緑の髪と瞳の遊牧民ばかりの中、ただ一人白銀の髪と空色の瞳を持つフェオンの存在は異質なものとして浮き上がる。どこに行っても彼女が問題の子どもであると知れ、好奇の目と言葉とは投げられた。

 向けられるそれらに嫌気がさしたフェオンは、人気ひとけのない場所を求めて歩き出した。



 天幕から離れるように歩いていると、やがて水場へとたどり着いた。足下の地面は土ではなく、ゴツゴツとした岩や石となっている。周囲を見渡すと、ひときわ大きな岩が並んでいるのが目に入った。寄り添ったそれらはまるで壁のようになっており、回り込んでみると足下の隙間から中に入ることができるようだった。

 その岩壁の中に入り込み、隠れるようにしてしゃがんでいると、誰かが近づいてきたのか石を踏む音が聞こえてきた。

「見つけましたよ」

 笑みを含んだ声が頭上から振ってきて、フェオンは抱えた膝に埋めていた顔を上げた。見上げれば岩壁のてっぺんは筒のように空間が開けていて、そこからディーンがこちらをのぞき込んでいた。

「何か用か」

 見上げたまま問いかけると、特に用があるわけではないとディーンは答えた。

「とりあえず、そこから出てきません?」

 かくれんぼは見つかったら終わりなんですよ、との冗談めかした言葉にため息で答え、フェオンはのそのそと隙間から這い出る。岩壁に背を預けてしゃがみ込むと、何を思ったのかディーンもその隣に腰を下ろした。しばらく無言でフェオンの横顔を眺めていたが、不意に口を開く。

「誰かにいじめられでもしましたか?」

 唐突な言葉に一瞬理解が追いつかなかった。そんな彼女にディーンは言葉を続ける。

「こんなところに隠れているから、てっきりいじめられたから泣いているのかと思いましたよ」

 ぽかんとしてディーンを見上げていたが、やがてじわじわと言われた言葉の意味が頭の中に入ってきて、それはくすぶっていた彼女の怒りに火をつけた。

「ふざけるな! いじめられてもいなければ、ましてや泣きなどするものか!」

 威勢よく噛みついたフェオンに、ディーンは優しく笑んだまま少しだけ首を傾げた。

「それじゃあ、いったいどうしたんです?」

 問いかけられたフェオンは言葉に詰まり、くちびるを噛みしめた。膝を抱え、上目遣いにディーンを睨むその姿はどこか拗ねたようにも見える。しばらくそうしていたあと、フェオンはぽつりとつぶやいた。

「わたしが神獣だと信じている者は、おまえしかいない」

 彼女の言葉にディーンは驚いたように目をまたたかせ、それから安心させるように優しくほほえんだ。

「そんなことはありませんよ。カイル様やルークがいるでしょう?」

 だがフェオンはその言葉にかぶりを振った。

「カイルはほかの長たちを説得できればそれが何であってもかまわないと思っているし、ルークはおまえの言葉を信じているにすぎない。わたしが神獣であることを信じ、その力を必要としているのはおまえだけだ」

 つぶやきにディーンは考え込む様子を見せた。

 カイルは多くの遊牧民たちがそうであるように、草原から帝国軍を追い出すことを目的としている。そのためならば、利用できるものは何だって使うだろう。おそらくフェオンを持ち出した理由もそうだ。本心から彼女を神獣だと信じているわけではなく、他の部族たちを説得する材料として利用できると踏んだに違いない。ルークに関しても、おそらく彼女が言うとおりなのだろう。

 だが、とディーンは考える。

「それだと何か問題があるんですか?」

 彼女を信じ、必要とする者の数が何に影響を及ぼすというのだろうか?

 問いかけにフェオンはまばたいた。ためらいがちに口を開き、けれども言葉が発される前にその口は閉じられる。

「……何でもない」

 つぶやいて、ふいと横を向く。そのまま彼女はディーンと視線を合わせようとはしなかった。

 何か隠しているのは明白だったが、おそらくフェオンはそれを口にしないだろう。少女の横顔からそれを読み取ったディーンは、これ以上の追及は無意味だと悟る。

「出かけましょうか」

 唐突な言葉に、は? とフェオンが間の抜けた声を出した。ぽかんと口を開けてディーンを見つめる。

「いきなり何を言い出すんだ、おまえは」

「じっとしているのは体にも心にもよくないですよ。出かけましょう」

 彼女の問いには答えず、ほぼ一方的に宣言して立ち上がる。戸惑った顔のフェオンを抱き上げると、その小さな体を己の肩に乗せた。そのまま返事も待たずに歩き出す。

 一方、肩に乗せられたフェオンは急に歩き出されたためにバランスを崩しかけ、あわててディーンに掴まることで落ちるのを防いだ。他の遊牧民たちとは異なる茶色の髪を引っ張らないよう注意しながら、己の手を彼の頭に回す。

「ええい、少しは人の話を聞け!」

 どこか苛立ったような、戸惑ったようなフェオンの訴えには耳を貸さぬままディーンは歩いていく。

 立ち並ぶ天幕の間を歩いていると、あちらこちらで二人を指さしてささやき合う人々の姿が見て取れた。ディーンには聞こえないようだったが、フェオンの耳にはその声がよく届いた。彼らはフェオンが神獣ではなく、ディーンの娘なのではないかと話しているのだ。

「……妙な噂を自分でばらまいてどうする」

 ため息混じりのフェオンのつぶやきが届かなかったはずはなかろうに、ディーンはそれに一切かまわずに歩いていく。

 ソジュ族の天幕が張られたあたりにたどり着いた時、ディーンの背中に向けて呼び止める声がかけられた。それにようやく足を止め、ディーンは背後へと振り返る。そこにはこちらに駆け寄ってくるエリックの姿があった。

「よかった、ここにいたのですね」

 ようやく見つけたと、安堵のため息と共にエリックが言葉を吐き出す。さんざん走り回ったのだろう、額に浮かぶ汗を拭うと、エリックはカイルが呼んでいると告げた。

「悪い、少し出かけてくる」

 しかしディーンは完全にエリックの言葉を無視してそう言うと、じゃあ、と片手を挙げた。背を向けて歩き出そうとしたが、肩を掴まれて引き留められる。

「ちょっと待ちなさい、どこへ行く気ですか?」

 掴んだ肩を自分の方へと引き寄せながら、カイル様がお呼びだと言ったでしょう、とエリックが訴える。

「日暮れまでには戻るよ」

 さらりと答えになっていない答えを返し、さして力を入れたようにも見えないのにディーンは肩を掴むエリックの手をあっさりと振り払った。再び捕まる前に走り出す。

 その後ろ姿をエリックは呆然と見送るしかなかった。

「ああ、エリック。ディーンは見つかったかい?」

 立ち尽くす彼の背中に、同じくカイルの指示でディーンを捜していたセイディの声が投げられた。それにうなずき、うつろな声で彼は答える。

「見つかりはしましたが、逃げられました」

 端的すぎる言葉に、セイディは素っ頓狂な声を上げた。

「はぁ!? どういうことさ」



         ◆



 エリックを撒くことに成功したディーンは、運良く無人だった自分の天幕から鞍と手綱を回収して己の馬にそれらをつけると、見つからない内にと野営地を飛び出した。

「いい加減、どこに行く気か教えたらどうだ?」

 とうに野営地の陰も見えなくなってきた頃、フェオンは何度目かの同じ問いを発した。顔をそらし、自分の体を囲うように手綱を握るディーンを見上げる。だがディーンはその問いには答えず、しゃべると舌を噛むと注意しただけだった。

「着けばわかりますよ」

 どこかいたずらめいた笑みも、はぐらかすような言葉もまったく同じだ。問いかけるだけ無駄だと悟り、フェオンはため息をついて黙り込んだ。

 ふてくされたような顔のフェオンを見下ろし、声を出さずに笑うとディーンは北へと進路を取った。

 しばらく馬を走らせると木々がまばらになり、やがて草すら茂らぬ荒れた大地が目立つようになってきた。

 高台の開けた場所で馬を止めると、ディーンはフェオンを抱き上げてまた己の肩へと乗せた。

「本当に、さっきからおまえは何がしたいんだ?」

 いぶかしげに問いかけ、ちゃんと答えろと言いたげにディーンの髪を軽く引っ張る。

「周りを見てください」

 またしても答えが得られず、不満げに眉を寄せたままフェオンは顔を上げた。渋々視線を周囲に投げた彼女は、目の前に広がる光景に思わず息を呑んだ。

 空にはゆったりと白い雲が流れ、一面に生い茂る草は風に揺れてまるで海のようだ。遮る物は何もなく、どこまでも広がる青と緑はやがて地平線の彼方で交わる。陽光にきらめくその景色はとても美しかった。

「ここからだと草原がよく見えるから、連れてきたかったんです」

 言葉を失い、食い入るように景色を眺めるフェオンにほほえみながらディーンはそう告げた。一度、ちゃんと自分たちの暮らす場所を見てほしかったのだ、と。

 フェオンから周囲へと視線を転じ、ディーンは口を開く。

「血を流してまで帝国に抗う必要はないという意見も理解できるんです。話し合いで解決できるものならそうするべきだと、俺もそう思います。だけど、先に無用な血を流したのは帝国の方だから、このまま連中に従うのは草原で生きる者として誇りが許さない」

 常からは考えられない暗い響きを宿す声に、フェオンはディーンの横顔を見下ろした。

「わたしに従うのはかまわないのか?」

 茶化すようなその言葉にぱちりと目をまばたかせ、それからディーンは破顔した。

「貴方は恩人だからいいんですよ」

 その言葉に、フェオンはムッと眉を寄せる。

「わからんな。他者に従うことに変わりはないだろう? なぜわたしはよくて、連中はダメなのだ?」

「恩には恩で、流血には流血で報いるのが草原の流儀なんですよ。こんなだから、カーダの民は野蛮だ何だと言われるんですけどね」

 そう言って浮かべた笑みは、どこか自嘲めいて見えた。

 考え込むように口元に拳を寄せていたフェオンは、やがてため息をついてかぶりを振った。

「やはり、草原の誇りとやらはわたしにはよくわからんな。わたしが知っているのは、人間という生き物が何かと理由をつけて争いたがるということだけだ」

 一度言葉を切り、フェオンはまたかぶりを振った。

「誇り、名誉、正義、欲、愛、復讐――掲げられる名目が何であれ、やっていることは結局変わらない。たくさんの感情おもいがぶつかり合う中で、まれに神獣を生み出すほどの強い感情おもいが現れる。我々神獣はそれに惹かれ、応える」

 もっとも、とつぶやく声は、どこかあざけるような響きがあった。

「その方法や結果が、彼らの望むものとは限らないのだが」

 くすりと笑い、ディーンの名を呼ぶ。こちらを向いた若草色の瞳をまっすぐに見据えてフェオンは問いかける。

「ひとつ間違えれば災いとなる、それが神獣という生き物だ。そうと知っても、おまえは神獣を使って帝国に抗うか?」

 しばらく考え込む様子を見せたあと、神妙な面持ちでディーンはうなずく。それを見て、そうか、とフェオンもうなずいた。

「その想いがある限り、このわたしが草原を護ろう」

 その言葉は力みもてらいもなく、ひどく当たり前のように紡がれた。



 二人ともしばらく黙って草原を眺めていたが、そういえば、と何事もなかったかのようにフェオンが口を開いた。

「この場所にはよく来るのか?」

 問いかけに、はにかむようにディーンが笑う。

「お気に入りの場所なんですよ。ここから見る夕焼けが一番綺麗なんですけど、日暮れまでには戻るってエリックに言いましたからね。そろそろ戻らないとまずいでしょう」

「そういえばカイルが呼んでいると言っていたな」

 つぶやいて、フェオンはニヤリと人の悪い笑みを浮かべる。

「族長に待ちぼうけを食わせるとはいいご身分だな」

「……それは言わないでください」

 俺だってまずいとは思ってるんですよ、とため息混じりにつぶやくディーンに、フェオンは笑い声を弾けさせた。笑みの余韻を残しながら口を開く。

「夕焼けはまた今度見に来ればいい。――全部に片がついた時に、また」

 視線をフェオンへと向け、約束ですよ、とディーンがささやく。それにフェオンも大きくうなずく。

「ああ、約束だ。帝国軍を草原から追い出したら、その時にまた来よう」

 そう言って目を見交わし、互いに笑みを浮かべた。



         ◆



 野営地へと戻った二人を出迎えたのは仏頂面のエリックだった。ずっと二人を待っていたのだろう、その眉間にはくっきりと深い皺が刻まれている。相当に機嫌が悪いであろうことは見て取れた。

「カイル様がお呼びです」

 地を這うように低い声がそう言って、付け加える。

「貴方にこれを言うのは二度目になりますが」

 じろりと無言で睨みつける濃緑の瞳は、言葉よりもひどく雄弁に彼の怒りを語った。

「俺が悪かった」

 今にも説教が始まりそうな空気に、ディーンはあっさりと降参した。どこか冗談めかすように諸手を挙げたディーンを見やり、エリックは何か言いたげに眼差しを険しくする。

 蛇に睨まれた蛙のごとく冷や汗を流すディーンに助け船を出したのはフェオンだった。

「エリック、状況が動いたからカイルが呼んでいるのではないのか?」

「……そうです」

 ちらりとフェオンに一瞥をくれ、エリックはうなずいた。ディーンへと視線を戻して告げる。

「この続きはまた後日に」

 言い置くと、彼は早く行けとばかりに二人を睨む。

「結局説教はあるのか……」

 顔を背けてぼやいたディーンに笑いながら、フェオンは促すように彼の手を叩いたのだった。



 天幕の外から声をかけると、ひどく待ちわびたような声で入るようにと促された。

「お待たせしたようで申し訳ありません」

 頭を下げたディーンに気にするなと返し、座るようにとカイルは告げた。言われるがままに腰を下ろした二人を見やり、カイルはどこかいたずらめいた笑みを浮かべる。

「エリックから逃げられたと聞かされた時は何事かと思ったがな」

 そう言って笑い声を上げるカイルの背後には、どこか恨めしげな視線を投げるエリックが控えている。これはもしかしなくても相当な大事になっていたのではなかろうかと、今更ながらにディーンは思い当たって乾いた笑いを浮かべた。

 笑みを引っ込めたカイルは、真面目な顔つきでフェオンへと視線を向けた。

「今の状況では不愉快極まりないだろう、その気持ちはお察しする」

 気遣うようなその言葉に、フェオンはかぶりを振った。

「気にしなくていい。たとえ疑われようが、当てにされていなかろうが、おまえたちが戦う意志を持ち続ける限り、わたしはこの地を護る。それだけだ」

 フェオンの言葉に、感謝すると告げてカイルは頭を下げた。

「父なる空と母なる大地にかけて誓おう。我々ソジュ族は最後まで戦うことをあきらめないと」

 それにうなずきで応えると、フェオンは状況を問うた。それにカイルは顔を曇らせる。

「実を言うと、ほとんど動きはない」

「だが、おまえがどう動くかは決まったのだろう?」

 見透かすような空色の瞳に、カイルはふっと笑みを漏らした。この少女の目には、いつだってその外見には似つかわしくない落ち着いた光が宿っている。まるで相手の心の奥底まで見抜くかのように。

 ゆっくりとうなずいて、カイルは口を開く。

「フェオンが本当に神獣だと連中に認めさせるためには、その力を見せつける必要があるだろう」

「……それはつまり、遊牧民たちの前で戦えという意味か?」

 考え込む様子を見せたあと、フェオンはそう問いかけた。

「そうだ。帝国の神獣と対等に渡り合えると証明する必要がある」

「ですがカイル様。それは分の悪い賭けではありませんか?」

 口を挟んだエリックを見やると、カイルは発言を促すように小さくうなずく。

「たしかにうまく行けば他部族を説得できるでしょう。ですが下手をすれば、帝国の神獣には敵わないと証明するだけの結果となります。そうなれば帝国側につかれる可能性が高くなります」

 ちらりとフェオンを一瞥して語ったエリックに、ディーンが気色ばんだ。

「フェオンがあの大蛇に劣ると、そう言いたいのか!?」

 食ってかかるディーンを遮るように腕を伸ばし、フェオンはエリックを見据えた。

「たしかに、おまえの言うことももっともだ」

 だが、と言って彼女は視線をカイルへと移す。

「それらをすべて承知の上で、わたしに戦えと言うのだな?」

 全員の視線を一身に受けながら、たじろぐことなくカイルはうなずいた。

「このまま座して滅びを待つわけにはいかないのだ」

 部族間での話し合いで結論が出る気配はなかった。ならば望む結果が出るように己が働きかけるしかないのだ。

 しばらくカイルと睨み合うようにしていたフェオンだったが、やがてわかったと言ってうなずいた。

「こちらから仕掛けるにしろ、待ち伏せるにしろ、あちら側の動きはどうなっている?」

「帝国の動向は、信頼の置ける者に探らせているところだ。どうにか他部族を説得してこちらから打って出るか、あるいはあちらから仕掛けてくるよう工作する」

「わかった、その件についてはおまえに一任しよう。時がくれば、わたしはわたしの役目を果たすだけだ」

 そう告げたフェオンに、こちらも最善を尽くすとカイルは答えた。

「とりあえず現状でお伝えできることはこのくらいだ」

 カイルのその言葉が話し合いの終了を告げた。また何か動きがあれば呼ぶという言葉にうなずくと、フェオンとディーンは天幕をあとにした。



「……本当に大丈夫なのでしょうか?」

 揺れる仕切り布を見つめながら、ぽつりとエリックがつぶやいた。顔を上げたカイルは小さく笑みを浮かべる。

「どう転んでも、これ以上悪くなりようがないさ」

 どこか投げやりにも聞こえるその言葉に、エリックは眉を吊り上げた。

「それは本気でおっしゃっているのですか? このままではカーダは帝国に制圧されるかもしれないのですよ?」

「そうだな。だが、それは今の状況とさしたる変わりはないのではないか?」

 横目でエリックを見やり、カイルはそう言葉を返す。

「十あった部族のうち二つは帝国に従属し、一つはすでに滅びた。そしてソジュ族を含めた三つの部族も、このままではいずれ滅びることは目に見えている。そうなれば残る四つの部族は確実に従属することを選ぶだろう。草原の誇りは失われるしかなかった。――今までは」

 そこで一度言葉を切ると、カイルは体ごとエリックへと向き直った。だが、と言葉を続ける。

「そんな我々の元へフェオンが現れた。彼女は己を神獣だと名乗り、草原を護るために帝国と戦うと言う。彼女が本物の神獣なのかどうか、そんなことは関係ない。草原を、ソジュ族を護る手段があるのなら、オレはそれを利用するだけだ」

 たとえその結果力及ばずに倒れたとしても、何もしないよりははるかにマシだとカイルは語った。

「そこまでお考えならば、私はただ従うだけです」

 そう言って頭を下げたエリックにうなずきながら、カイルは考える。

 ただ部族を護るだけならば、本当はもっと簡単で確実な方法がある。帝国に従ってしまえばいいのだ。事実、彼は長だった生前の父親にそのことを進言した。だが父親はその方法では草原の誇りが失われると言って部族を率いて戦うことを選び、そうして戦死した。

 だからこそ、とカイルは心に誓う。そんな父の遺志を引き継ぐためにも、どんな手段を用いてでも部族と草原の誇り、その両方を護ってみせる、と――。



「どうかしたのか、ディーン」

 カイルの天幕を辞し、自分の天幕へと戻る道すがらずっと黙ったきりのディーンを見上げ、フェオンはそう問いかけた。答えるどころかうなずくなどの反応すらないディーンに嘆息し、

「それほどエリックの説教が嫌か?」

 どこかからかうような調子で言ったフェオンに、ようやくディーンは反応を示した。

「そういうわけじゃないですよ」

 つぶやいてディーンは足を止めた。

「本当にいいんですか?」

 ひどく思い詰めたような声音に、先を行くフェオンも足を止めて振り返った。揺れる若草色の瞳を見つめ、ふっと笑う。

「おまえもわたしの力を疑うのか?」

「違う、そういう意味じゃなくて……!」

 反射的に否定の言葉を返し、けれどその続きを口にできなかった。言葉を探すように口を開き、結局見つけられずに閉ざす。そんなことを何度も繰り返すディーンに、フェオンは微笑を浮かべる。

「ではどういう意味だ?」

 促すように問いかけられ、ディーンはためらいながらふたたび口を開いた。

「こんなこと、言いたくはないですけど……。カイル様は貴方を道具として利用しているだけです」

 口にするのも嫌なのか、背けられた顔はひどく険しかった。

 ディーンから空へと視線を転じ、フェオンはそうだろうなとつぶやいた。

「付け加えるなら、わたしが神獣かどうかさえ気にしてはいないだろうな」

「そこまでわかっていて、なぜ……!」

 叩きつけるような問いかけにフェオンは困ったような顔で笑い、小さくかぶりを振った。

「わたしが神獣だと認められた上で力を求められるのが、一番理想的な形なのだろうがな」

 だが、とつぶやいて、彼女は苦笑を漏らす。

「あいにくわたしの外見はこんな子どもであるため、それは難しいだろうな」

 両手を広げ、くるりとその場で回ってみせる。その顔にはどこか自嘲めいた笑みが浮かんでいた。それを見てディーンは何か言いたげに口を開き、けれど何も言えずにただ拳を握った。

「そしてもう一つ。誤解されやすいことだが、神獣というのは万能ではない。むしろ戦うしか能のない生き物だ。戦の道具として利用しようとする者が現れるのは、むしろ当然のことと言えるだろう」

 そこで一度言葉を切ると、フェオンは体を反転させてディーンを見つめた。ひどく真摯しんしな眼差しで見上げ、

「だが心せよ。神獣を道具として用いるのならば、けして使い方を間違えるな。一つあやまてば、神獣は世界すら滅ぼすほどの災いとなろう」

 語られる言葉にディーンは言葉を失った。どうしてそんな風に言えるのだろう。まるで道具として使われるのが当たり前みたいな。

「……そんなこと、本気で言っているんですか?」

 彼を置き去りに歩き出したフェオンの背中に向かい、低く問いかける。

 けれど聞こえていないのかそれとも答える気がないのか、彼女は足を止めることはなかった。

 大股に歩いてフェオンに追いつくと、ディーンはその肩を掴んで乱暴に振り向かせた。驚いたように目を見開く少女を見下ろす。

「俺はそんなこと認めない! 貴方が道具として使われるのも、貴方自身が自分を道具のように語るのも!!」

 叩きつけるような叫びに、今度言葉を失ったのはフェオンだった。零れ落ちそうなほどに大きく目を見開き、肩で息をするディーンを見つめる。

 言葉もないまま、二人はただ見つめ合った。

 しばらくしてフェオンが口を開きかけた時、不意に横合いから飛び出してきた女がディーンを蹴り飛ばした。もんどり打って倒れるディーンを女が冷ややかな眼差しで見下ろす。

 何が起こったのか理解できず、フェオンはただ呆然と女を見つめることしかできない。

「何やってるんですか、母さん!?」

 どこか悲鳴じみたルークの声が響いて、ようやくフェオンは我に返った。だがやはり状況が理解できない。一体何がどうなっているのだろうかと、きょろきょろとあたりを見渡すだけだ。

「久しぶりに会った息子をいきなり蹴り倒すとか、ひどくないですか?」

 転がった体勢から身を起こしたディーンが女を見上げ、どこか非難するような声音で訴える。だが女はそれを鼻で笑った。

「子どもをいじめるような最低な男にはこれで充分さ」

 そして吐き捨てるように付け加える。

「そんな風に育てた覚えはないって言うのに、どこで間違えたんだか」

「誤解ですってば!」

 弁解しようとするディーンにむけて問答無用と叫ぶと、女はディーンの腹を狙って足を蹴り出した。転がって蹴りをかわすと、その勢いを利用して女の足を刈るように足払いをかける。

 女が飛びすさってそれをかわしている間に起きあがると、ディーンは女を追って地面を蹴った。こめかみを狙った体重を乗せた回し蹴りを、左腕を掲げて女が受け止める。

 止められたと見ると、ディーンは掴まれる前に足を引き戻して距離を取った。一つに束ねた長い濃緑の髪をなびかせ、女が反撃に出る。

 目を狙って突き出された右手を払うも、左の掌底があごを狙って打ち出される。腕を返して左手も払うが、女の攻勢はそれで止まりはしなかった。払われた右腕がしなり、ディーンのこめかみを叩く。それを頭を傾けてかわせば、腹部へと膝蹴りが飛んできた。

 これにはたまらず、ディーンは飛びすさって距離を取る。だが女の足はまるで伸びるかのようにしなって追いかけてくる。舌打ちし、ディーンは拳を叩きつけて軌道をそらした。もう一度うしろに飛んで距離を取り、身構える。

 それを見てにやりと笑うと、女はまるで誘うように構えを解いた。だらりとその両腕が垂らされる。

 ハッと息を吐き出し、ディーンは地を駆けた。



 突如眼前で始まった拳の応酬に、フェオンは目を白黒させてそれを見つめることしかできなかった。

 何が起きているのかはわかるが、どうしてこうなったのか理解できない。止めるべきなのだろうかとそちらに足を踏み出しかけると、背後から伸ばされた手が彼女の肩を押さえた。

 顔を向けると、厳しい顔をしたルークが首を横に振った。

「ダメです。それ以上近づけばあの二人の巻き添えを食います」

 そう言って、ルークはフェオンを自分の方へと引き寄せた。

「だがディーンが」

 対等に渡り合っているように見えるが、ややディーンがされている。彼を助けなければと訴えるフェオンに、大丈夫だと言ってルークは安心させるようにほほえんだ。

「あれは親子の挨拶のようなものですから」

 そう言って、もう一度大丈夫だと繰り返す。

「母さんも加減してますし、兄さんもそれをわかった上で応じてますから」

「挨拶って……ずいぶんとはた迷惑な挨拶だな」

 呆れたようにつぶやいて、そこではたと気がついた。

「……親子?」

 眉をひそめて聞き返せば、ルークは困ったような顔で、けれどもしっかりとうなずいた。

 もう一度女へと視線を向けてよく見てみれば、たしかにその顔立ちは兄弟とよく似ていた。いや、この場合兄弟が女に似ていると言うべきだろうか。

「こう言うのも何だが、このあたりの母親はみんなあんな感じなのか?」

「……たしかにカーダの女性はしたたかな人が多いですけど、さすがに全員があんな風じゃないと思いますよ?」

 げんなりと問いかけたフェオンに答えるルークの声は、やや願望がにじんでいる。

「母さんは族長候補として名前が挙がるほどの戦士でしたから、少し男勝りなところがあるんですよ」

「挨拶代わりに殴りかかるのは、男勝りとかそういう問題じゃない気もするがな」

 至極もっともなフェオンの指摘に、もはや苦笑するしかないルークである。

 そんなことを話している間に、区切りがついたらしい親子がこちらへと近づいてきた。

「見苦しいところを見せたね」

 フェオンに視線を向け、女が快活そうな笑みを浮かべる。

「私はマーサ、こいつらの母親さ」

 そう言って、マーサと名乗った女はディーンとルークに目を向けた。

「わたしは神獣白凰はくおう、今はフェオンと名乗っている」

 応えて名乗ったフェオンに、マーサはへえ、とつぶやいて目を瞠った。興味深そうにそのくちびるが吊り上げられる。

「あんたがそうなのかい? 聞いてはいたけど、本当にただの子どもにしか見えないねぇ」

 遠慮のない言葉に、母さん、とたしなめるようにディーンが声を上げる。

「その言いぐさは失礼でしょう?」

「私は思ったことを言っただけだよ」

 あっけらかんと言い放つマーサに、ディーンが不服そうに眉を寄せる。なおもたしなめるための言葉をかけようとしたディーンを、フェオンの言葉が遮った。

「おまえも、わたしのことを頭のおかしい子どもだと思うか?」

 まっすぐに自分を見上げて問いかけてくるフェオンに、マーサはすぐには答えを返さなかった。考え込むように一度まばたきする。

 しばらくして答えが決まったのか、うなずきを一つ。

「その質問に答える前に、もう一つ無礼を働くよ」

 そう言うや否や、マーサは右足を振り上げた。しなるような回し蹴りがフェオンの頭部を狙い放たれる。

 一瞬驚いたように目を見開き、けれどもフェオンはわずかに身を屈めることでそれをかわした。体をひねった勢いそのままにマーサは一転すると、今度は胴を狙った蹴りを放つ。うしろに飛びすさってそれをかわすも、さらなる蹴りが追いかけてくる。

 小さく舌打ちすると、フェオンは今度は退かずに身構えた。蹴りとタイミングを合わせて両手を突き出す。

 突き飛ばすようなその動きに併せ、両の手のひらから勢いよく風が吹き出した。正面からもろにその風を食らったマーサは、踏みとどまろうと足に力を込める。しかしじりじりと風に押され、やがて後方へと吹き飛ばされた。

 放物線を描いて飛んでいくマーサの姿に、ハッとフェオンは我に返った。しつこい攻撃が鬱陶しくてつい全力でやってしまったが、相手は人間である。

「しまった、やりすぎた!」

 悲鳴じみた声を上げたフェオンに、ぽかんとしていた兄弟も我に返った。

「母さん!?」

 ルークが母親の元へと飛んでいき、ディーンはあわてているフェオンの元へと駆け寄る。

「大丈夫ですか、フェオン。どこか怪我は?」

「おまえ、どう考えても心配する相手が違うだろう!?」

 わたしのことより母親のことを案じろと叫ぶフェオンに、問題ないとディーンは答えた。

「母さんの方はルークが行きましたから」

「そういう問題じゃないだろう!?」

 どこかズレたディーンの発言にフェオンが叫んだ時、笑い声がその場に弾けた。

 呆気にとられてそちらへと目を向けると、ルークの手を借りながら立ち上がるマーサの姿があった。

「そのバカ息子はあんたのことがよっぽど大事らしいから、あきらめて心配されてやってくれ」

 くつくつと笑いながら言うマーサに、フェオンはそちらへと駆け寄った。

「すまない、怪我はなかったか?」

「なぁに、先に手を出したのはこっちの方だ。気にする必要はないよ」

 この通りぴんぴんしてるしね、と笑ったマーサに、フェオンはほっとした様子で息を吐き出した。

 そんなフェオンの様子に目元を和ませ、マーサは小さく笑った。けれどすぐに真剣な表情を浮かべる。

「さっきの質問の答えだけどね、私はあんたの言葉を信じるよ」

 まっすぐにフェオンの目を見つめ、マーサはそう言った。

「力をふるうのをこの目で見たからというのもあるけど、あんたの目は偽りを言っている奴の目じゃないからね。だから、ほかの奴らが何と言おうと気にしないことだ」

 そう言うと、じゃあと片手を上げてマーサは歩き出した。小さくなっていくそのうしろ姿を三人で見送る。

「母さんに気に入られたみたいですね」

 くすりと笑ってつぶやいたルークに、フェオンは怪訝けげんそうに眉を寄せた。今のやりとりのどこに気に入られるような要素があったというのだろうか。

 フェオンの表情からそんな思いを読みとったのだろう、ディーンがうなずいて口を開く。

「拳を交えれば、相手の人となりがわかるというのが母さんの持論ですから」

「どんな持論だ」

 呆れたように半眼でつぶやき、ふっとフェオンは笑った。

「おまえたちの母親は相当の変わり者だな」



         ◆



 それから数日はまた動きのない日々が続いた。族長会議は飽きもせずに不毛なやり取りが繰り返されてカイルをうんざりさせ、フェオンを見る人々の眼差しは冷ややかだった。

 わざと聞こえるように叩かれる陰口にもいい加減慣れてきた頃、ようやくカイルからの呼び出しがあった。

 連絡を待ちわびていたフェオンはすぐさまカイルの天幕へと向かったが、彼女を迎えたカイルの表情は暗かった。控えるエリックもいつも以上の渋面であることから、状況が悪いであろうことはすぐに察せられた。

 一瞬考え込むように視線をさまよわせ、フェオンは目を閉じてため息をついた。ふたたび目を開くと、まっすぐにカイルを見据える。

「言葉を選んでいても意味がないから、単刀直入に尋ねるぞ。――状況は悪いんだな?」

 確認するように問いかけると、その通りだとうなずいてカイルは右手で顔を覆った。ため息を一つこぼし、状況は非常に悪いと繰り返す。

 そのまま動きを止めて黙り込んでしまったカイルに向かって言葉をかけようとしたフェオンを、ディーンがその肩に手を置いて止めた。そっとかぶりを振るディーンを見上げ、ため息をこぼしてフェオンが口を閉ざす。

 誰もが沈黙を保ち、その言葉を待つようにカイルへと視線を注ぐ。刺さるようなそれに、カイルはもう一度嘆息した。

「……こうやっていても、事態は良くはならないんだよな」

 どこかあざけるようにつぶやいて、カイルがゆっくりと顔を上げた。

「現在報告できることは二つだ。一つは族長会議が帝国に従属する方向でまとまりそうなこと。もう一つは送り込んだ斥候せっこうから何も連絡がないことだ」

 カイルの言葉に、何だそんなことかとフェオンはつぶやく。

「両方とも予想通りの結果ではないか」

 あっけらかんと言い放ったフェオンに呆気にとられたように顔を上げ、くしゃりとカイルはその顔をゆがめた。

 たしかに、ある意味では予想されていたことだった。ほかの族長たちがフェオンに対して懐疑的である以上遠からず従属することが総意となったであろうし、斥候といえどもしょせんは素人なのだ、大勢の人間相手にいつまでも隠れ潜んでいられるものではないだろう。

「……ああ、そうだな」

 だから、カイルには苦笑を浮かべてそう言うのが精一杯だった。

 複雑な表情を浮かべるカイルには気づかず、どうするつもりなのかとフェオンが問いかける。

「総意とやらに従って帝国に降伏するか?」

 挑発するようなフェオンの言葉に、冗談じゃないとカイルは叫んだ。

「従属すれば命は助かるかもしれないが、そのかわりに草原の民としての誇りは失われる。それでは意味がない!」

 血を吐くような叫びにフェオンが口角を吊り上げる。

「ならば帝国に抗うことを総意としろ」

 そう告げたフェオンに、カイルはくちびるをゆがめた。ずいぶんと簡単に言ってくれるものだ。それがどれほどの困難であるのか、この少女はわかっているのだろうか?

「それができれば困りはしないのだがな」

 皮肉半分、嘆き半分でつぶやいてカイルは苦笑した。フェオンの力を他部族の長たちに見せつけて説得するにしても、今のままでは攻勢に出ること自体が難しいのだ。

 どうしたものかとカイルが頭を抱えた時、フェオンとディーンが息を呑んで顔を上げた。身構えるように片膝立ちになった二人に、カイルはいぶかしげに首を傾げる。

 どうしたと問いかけると、落ち着かぬ様子で周囲に視線を投げながらディーンが口を開いた。

「うまく言えないんですけど……今、ものすごく嫌な感じがしたんです」

 どういう意味かとカイルが更なる問いを投げると、フェオンが舌打ちしながら立ち上がり、

「釣れたようだ」

 どこか不機嫌そうな、緊張したようにも取れる声音でつぶやいた。

 何が、と問いかける暇もなく、少女は天幕を飛び出していく。それを血相を変えたディーンが追いかけた。

 ぽかんとした表情で彼らを見送ったカイルだったが、じわじわと染み込むように少女の言葉の意味を理解する。

 この状況で釣れる、フェオンが真っ先に飛び出していくようなモノ――それは帝国の神獣に違いあるまい。エリックも同じ結論に達したのか、その顔色が変わっていた。

「行くぞエリック!」

「はい!」

 叫ぶと、彼らもまた天幕を飛び出した。



 それに最初に気づいたのは、家畜の囲いの近くで遊んでいた子どもたちだった。いつからそこにいたのだろうか、まるで影のようにひっそりと一人の男がたたずんでいた。

 男が身にまとうのは、草原のものとは作りも材質もまったく違う黒衣。黒みを帯びた赤い髪はまるで固まりかけた血の色で、背中の半ばまで届こうかというのに結われることなく無造作に垂らされている。長い前髪の間からのぞく瞳だけがひどく鮮やかに赤く、あたかも宝石のようだった。

「おにいさんだぁれ? このあたりの人じゃないよね?」

 幼い子ども特有の好奇心からか、恐れる様子もなく子どもたちのうちの一人が男に近づき、そう問いかけた。

 自分を見上げてくる子どもたちに視線を向けると、男はわずかに口角を吊り上げた。

「鳥を見に来た」

 低いがよく通る声で短く答える。その答えに子どもたちは顔を見合わせ、きゃあきゃあとどこか楽しげに笑い出した。

「ここには鳥なんていないよ?」

「そうだよ、いないよ」

「いるのは馬と羊だよ」

 笑いながらまるで歌うように答えた子どもたちを見下ろし、そうか、と男が答える。その時だった。

「何をしに来た!」

 鋭い少女の声が男に向けて叩きつけられる。声にわずかに遅れ、その問いかけを発した主が子どもたちをかばうように男の前に立ち塞がる。

 険しい眼差しで男を見上げるのはフェオンだった。射抜くようなその眼差しに、男が息を吐き出すようにして小さく笑う。

「ご挨拶だな。貴様が俺を呼んだのだろう?」

 挑発するようなその言葉に思わず叫びかけ、けれどもフェオンはぐっとこらえた。ここで冷静さを欠いては相手の思うつぼだ。だから、ただくちびるを引き結んで相手を睨みつけるに留めた。男の方はと言えば、余裕の表情でその視線を受け止めている。

 睨み合いと言うには温度差のある視線のぶつけ合いをしていると、ようやく追いついたらしいディーンたちがこの場に現れた。彼らは男の存在に気がつくと険しい顔つきで男を睨んだが、すぐに我に返って子どもたちにその場から去るようにと促した。子どもたちは一瞬不服そうな様子を示したものの、それでも大人に逆らうつもりはなかったのだろう、名残惜しそうな視線を男に送りながら駆けだした。

 子どもたちが遠ざかったのを確認すると、三人は少し距離を置いて男とフェオンに視線を向けた。

 フェオンはちらりと横目で三人を見やると、すぐに男へと視線を戻した。

「血の臭いがする」

 ぽつりとつぶやいたフェオンに、男はわずかに目を細めた。

「ああ、目障りなネズミを始末したからな」

 にぃ、とくちびるを吊り上げた男に思わずカイルが飛び出しかけ、あわててディーンとエリックがその肩を押さえて止める。

「カイル」

 男から目をそらさぬまま、フェオンが短くその名を呼んだ。それでようやく冷静さを取り戻したのか、カイルは二、三度まばたきし、大きく息をついた。少女の背中に向け、何だ、と問いかける。

「今すぐ人々をこの場から逃がせ」

「……何?」

 一瞬何を言われたのか理解できず、カイルは問い返した。

「人々を逃がせ、と言った。あれは神獣だ。神獣同士の戦いに巻き込まれたら、人間などひとたまりもないぞ」

 だから早く逃がせ、と再度フェオンは促した。カイルはしばらくためらうように男とフェオンを見比べていたものの、やがてわかったとうなずくとエリックを伴ってその場に背を向けた。

「……お優しいことだ」

 走り去る二人の背中に視線を送り、男があざけるように声を上げた。面白そうにフェオンを見つめ、

「我は赫蛇かくだ

 そう名乗りを上げた。

「我は白凰」

 それに応え、フェオンも己の銘を告げる。

 動向を探るように赫蛇を睨みながら、まずいことになったとフェオンは考えていた。野営地に、それもこんな奥の方に入り込まれるまで気づけなかったということは、相手が自分よりもかなり格上だということだろう。

 いずれ戦わねばならないことはわかっていたが、今この場でやり合うのは得策ではない。野営地の中で戦えば、フェオンにそのつもりがなくても遊牧民たちを巻き込むだろう。そうなれば少なくない被害が出て、帝国との戦いに支障が出るおそれがあった。

 だが、とフェオンは考える。もしかしたら、これはある意味では好機なのかもしれない。

 フェオンを神獣として認めさせるためには衆目の下で戦う必要があるが、帝国に降伏するかもしれないと言っているようでは、とてもではないが攻勢に出るのは難しい。ならば野営地で迎撃するというこの状況は都合がいいと言えるのではないだろうか?

 ――どちらにせよ、やるしかないか。

 声には出さずにつぶやく。

 こうやって二体の神獣が出会ってしまった以上、戦うよりほかにはないのだ。

 そう腹をくくると、フェオンは一度強く拳を握った。

 大地を蹴って一足飛びに踏み込むと、至近距離から風の刃を放つ。しかし赫蛇は余裕の表情を浮かべると、半歩横に移動することでそれを避けた。

「気の強い小鳥だ」

 くつりと笑い、赫蛇がフェオンの腕を掴んだ。そのまま自分の方へと引き寄せると、その耳元でささやく。

「籠に入れて飼うのも悪くない」

「ふざけるなッ!」

 叫んで、空いた腕を振って風を生んだ。放たれた刃は赫蛇の首を捉え、ごとりとその頭が落ちる。

 刹那、その切断面から血の色をした小さな蛇が無数に吹き出した。

「翼をもげば少しはおとなしくなるか?」

 地面に転がった赫蛇の頭がどこか楽しげに笑う。その頭と体も崩れていき、見る間に蛇へと姿を変える。

「フェオン!」

 蛇の群れがフェオンへとまとわりつくのを見てディーンが声を上げた。それに問題ないと返し、フェオンは風を使って蛇を吹き飛ばす。

 散らされた蛇たちはのたうちながら一ヶ所に集まると、互いに絡み合い大蛇を形作った。

 それを見て、フェオンは息を吐き出すようにして笑った。

「トカゲでもあるまいに尻尾切りか?」

『何、種も仕掛けもあるさ』

 鎌首をもたげた赫蛇がニタリと笑った瞬間、空気が粘り気を帯びて絡みついてくるような感覚を覚えた。囲いの中の羊たちが一斉に鳴き声を上げ、狂ったように暴れ出す。

「何だ? 今、急に空気が変わったような……」

 戸惑ったように声を上げてディーンが周囲を見渡した。太陽が雲間に入ったのか、それとも気のせいか、急にあたりが暗く陰ったように思えた。無意識のうちに、己の体を抱くように腕を交差させる。

「……瘴気しょうきだ」

 硬い声音にそちらへと顔を向けると、振り向いたフェオンと目が合った。瘴気? と問い返すと、彼女は険しい面持ちのままうなずいた。

「そうだ。神獣が戦う意志をもって力を解放すれば、それだけで周囲に影響を及ぼすのだ」

「何ですか、それ……。だって、今までだってアイツと戦ったことはありますけど、こんな風に感じたことなんて一度もなかったですよ?」

 ディーンの言葉にフェオンは何か言いたげに口を開き、けれども何も言うことなくその口を閉ざした。ためらうように泳いだ視線が地面へと落ちる。

「それは……遊ばれていたということだろう」

 しばらくあって苦々しくつぶやいたフェオンの言葉に、赫蛇が低く笑う。

『人間たちでは狩りにすらならなかったが、貴様はどうだ、小鳥!』

 高笑いを上げながらそう叫んだ赫蛇があぎとを開き、一息に呑み込むようにフェオンへと襲いかかった。衝撃で舞い上がった砂塵が神獣たちを覆い隠す。

 晴れた視界の中、そこに赫蛇の姿しかないことに気づいてディーンは顔色を変えた。

「フェオン!?」

 まさかとつぶやきを漏らした時、バサリと大きな羽音が響いた。弾かれたように顔を上げると、蒼穹を舞う白い大鳥の姿が見えた。

 くるりと宙をひるがえると、大鳥はまるで放たれた矢の如く急降下した。

 だがそのくちばしが赫蛇を捉えることはなかった。身をくねらせた赫蛇が尾を振り上げてフェオンを打ち払う。くるりと錐揉みすると、フェオンはそれをかわした。

 地面に激突する寸前で人の姿へと戻り、着地する。そのまま伸び上がるように踏み込むと、フェオンは交差させた両腕を振り抜いた。

 放たれた風の刃が当たる寸前、無数の蛇に分裂してそれを避けると赫蛇も人の姿へと戻る。

 ディーンを背中にかばうようにして立つと、フェオンはふたたび赫蛇と睨み合った。

「……なるほど。退屈しのぎにはなったが、しょせんは小鳥。籠で飼われるのが似合いだ」

 嘲笑と共に赫蛇が告げ、髪の毛が重力に逆らってぶわりと膨らんだ。その一本一本が蛇へと転じてフェオンに襲いかかる。

「気色悪い、近寄るな!」

 悲鳴じみた声で叫びながら、フェオンが風を起こして蛇をまとめて切り払う。ぶつりと音を立てて地に落ちた蛇の首は、その切断面から尾を生やして地を這った。首を落とされた切断面も新たな首を生やし、またその身を伸ばしてくる。

 切ればその分数を増やす蛇に、ディーンも剣を抜くと峰でその頭を叩き落とした。

「このままじゃキリがないですよ」

「言われなくてもわかっている!」

 背中合わせになって蛇を捌きながらフェオンは叫び返した。舌打ちしてまた近寄ってきた蛇の固まりを切り払う。

「さあ、どうする小鳥」

 蛇で二人を取り囲んだ赫蛇が笑った。

「どうせ貴様では俺に敵わないのだ。おとなしく飼われるがいい」

 あざけるようなその言葉に、ふざけるなとフェオンは叫んだ。

「おまえの言いなりにはならない!」

 言葉と共に風のかたまりを蛇へと叩きつける。一瞬押しやられたように見えた蛇だったが、またひとかたまりになって大蛇へと姿を変えるとフェオンを呑み込もうとあぎとを開く。

「あ……」

 か細い声を上げ、魅入られたようにフェオンが立ち尽くす。呼びかけても返事のないフェオンを、ディーンはとっさに胸に抱き込んだ。

 鈍い音がして、生ぬるい液体がフェオンの頬を濡らす。

「フェオン……? 怪我はありませんか?」

 顔をのぞき込むようにして問いかけたディーンに、フェオンはどうにかうなずいた。

「それなら、よかった……」

 笑みを浮かべたディーンの体から力が抜けた。押し倒されるようにして尻餅をついたフェオンがその体を受け止める。

「……ディーン?」

 呼びかけるも、返事はない。

『余計なまねをしてくれる』

 呆然とディーンの名を呼ぶフェオンを見やり、舌打ちしたのは赫蛇だった。

『……まあいい。今回はこれで退いてやる』

 そう告げると、人の姿へと戻った赫蛇は二人に背を向けた。

 赫蛇が去ったことにも気づかぬまま、フェオンはディーンの名を呼びながらその背中へと手を伸ばした。ぬるりと滑ったのにいぶかしげに眉を寄せ、右手を己の顔へと引き寄せる。

 その手は、ディーンの血で赤く染まっていた。

 びくりと肩を震わせ、悲鳴のような声でディーンを呼ぶ。

「ダメだ、おまえはわたしのものなのだ。許しなく勝手に死ぬなど、認めんぞ!」

 だから死ぬなと、まるで子どものように泣き叫ぶフェオンの声が聞こえたのか、ディーンはうっすらと目を開けた。大粒の涙をこぼすフェオンに気づくと、安心させるかのようにほほえんだ。

「大丈夫、ですよ……貴方が死ぬなと言うのなら、俺は死にません……。父なる空と母なる大地に誓って、絶対に……」

 そうささやいて手を伸ばす。その手がフェオンの頬をかすめ、力を失ってコトリと落ちた。

「ディーン……?」

 そっと手を握って呼びかけるも、返事はなかった。まるで眠っているだけのように見えるほど穏やかなその顔は、けれども血の気が引いて真っ白だった。

「フェオン!」

 ディーンにすがって泣くばかりだったフェオンは、背後から呼びかける声に弾かれたように顔を上げた。そちらへと目を向ければ、離れるようにと言ったはずのカイルとエリックの姿があった。

 駆け寄ってきた二人は血まみれで倒れるディーンの姿に気づくと息を呑み、雷に打たれたかのように動きを止めた。だがすぐに我に返るとフェオンの元へと向かう。

「何があった、フェオン!」

 肩を掴む勢いで問いかけたカイルに、フェオンは答えることができなかった。ただディーンが、と繰り返すばかりだ。

「カイル様、セイディを呼んで参ります」

 上衣を留めていた帯で止血を試みていたエリックだったが、自分の手には余ると早々に悟ったのかカイルに向かってそう呼びかけ、元来た方へと駆けていった。

「どうしよう、カイル。ディーンが……ディーンが死んでしまう」

 ぼろぼろと涙をこぼしながら訴えたフェオンに、カイルはぐっとくちびるをかみしめた。

 すがるようにディーンの服を握りしめ、涙を浮かべてこちらを見上げる姿はどう見てもただの子どもだった。これが神獣だと、誰が信じるだろうか。

 内心の動揺を押さえ込み、大丈夫だとどうにかそれだけを口にする。大丈夫、ともう一度繰り返す。

「ディーンは死なせない。……今こいつに死なれたら困るんだ」

 それからしばらくしてセイディを連れてエリックが戻ってくると、ディーンは天幕へと運び込まれた。


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