一章

 野営地へと戻ると、ディーンによく似た面差しの少年が長い三つ編みを揺らしながら二人の方へと駆け寄ってきた。

「良かった、無事だったんですね。兄さんもエリックさんもなかなか帰ってこないから、何かあったんじゃないかと心配で……」

 そう言って大きく息を吐き出した弟に、ディーンは笑みを浮かべた。ぐしゃぐしゃと、やや乱暴な手つきでその頭を撫でる。

「心配かけて悪かったな、ルーク。けど、俺たちなら大丈夫だよ」

「そうは言いますけど……」

 心配なものは心配なんです。そう言いかけたところで、ルークはディーンに抱きかかえられた少女の存在に気がついた。眠っているらしい少女の顔をのぞき込む。

「その子、どうしたんです? うちの部族の子じゃないですよね」

「神獣だよ」

「……はい?」

 一瞬、何を言われたのかわからなかった。――神獣? おとぎ話の、あの?

 戸惑いの浮かんだ顔で、ルークは説明を求めるかのようにエリックを見やる。彼の視線に気づいたエリックが、眉間に皺を寄せてかぶりを振った。

「どうやら本気で言っているようですが、正気を疑います」

 ため息と共に吐き出された辛辣な言葉にディーンは苦笑を浮かべるしかない。

「そこまで言うか、お前」

 混乱したまま少女、ディーン、エリックと順繰りに見やり、ルークは握った拳を口元に寄せた。信じがたい。何かの冗談だと言われた方が理解できる。しかし、兄は嘘や冗談を言うような人間ではなかった。だとすれば……。

「兄さんがそう言うのなら……信じます」

 むしろ自分に言い聞かせるような口調でルークはそう言った。そんな彼を見やり、やれやれと言いたげにエリックがかぶりを振る。

「それはさておき、ルーク。何か用事があったのではないのですか?」

 水を向けられ、ルークは自分の役目を思い出した。二人が戻るのを待っていたのは心配だったからというだけではない。

「族長がお呼びです。戻ったらすぐに天幕まで来るようにとおっしゃっていました」

「わかりました、すぐに行きましょう。――ディーン」

「ああ、わかってる。ルーク、悪いんだが彼女を頼めるか? セイディの手が空いたら診てもらってくれ」

 外傷はないようだったが、いつまでも目を覚まさないのも心配だった。幼なじみでもある薬師くすしの名前を挙げ、ディーンは少女の体を弟へと預ける。わかりましたとうなずくルークに頼むと繰り返し、ディーンはエリックと共に野営地の中央にある族長の天幕へと向かった。



 断りを入れてから天幕へと入る。中にいたのは族長と呼ばれるにはまだ若い、二十を越えた程度の青年だった。二人の姿に気づいた青年が笑みを浮かべ、立ち上がる。

「よく戻った。二人とも無事で何よりだ」

 肩を叩いてねぎらう青年に、二人も笑みを浮かべて応える。

「「ただいま戻りました、カイル様」」

 二人に向けて座れと告げると、カイルは元のように毛皮の敷物の上に腰を下ろした。それに倣い、二人もカイルの向かいに腰を下ろす。

「報告は受けている。お前たちのおかげで被害は少なくて済んだようだ」

 長として感謝する、そう言ってカイルは頭を下げた。

「やめてくださいよ、カイル様。運が良かっただけです」

「ええ、我々はともかく、ハマール族に関しては全滅と言えるでしょう」

 ディーンの言葉を継ぎ、エリックが苦々しげにつぶやいた。

「ハマール族か……あれは仕方がないだろう。先走って動いたのはあちらなのだから」

 ため息混じりのカイルの言葉に、ディーンとエリックは顔を見合わせる。

 たしかに大蛇相手に勝ち目のない戦いを挑んだのはハマール族である。ディーンらソジュ族はそれを聞いて救援に向かったが大蛇相手に手も足も出ず、ハマール族を助けることも叶わなかった。自業自得と言ってしまえばそれまでだが、仕方ないで済ませるのはためらわれた。

 物言いたげに口を開いたディーンに、エリックが片手をわずかに上げてそれを止める。気持ちはわかると言いたげな眼差しを受け、ディーンは小さくため息をついた。

 そんな彼らのやり取りには気づかず、そういえば、とカイルが声を上げた。

「少女を連れ帰ったと聞いたが、お前の隠し子か?」

 唐突な言葉にディーンはぽかんと口を開けた。何を言ってるんだろう、この人。思わずそんな目でカイルを見つめてしまう。

「……帝国の神獣と戦っていたのに、何でそんな話になるんです?」

 どうにか絞り出した否定に返されたのは、これまた予想外の言葉だった。

「まさかとは思うが、嫁か」

 ひどく真面目な顔つきでとんでもないことを言ってくれる。本当に、何でそんな話になるんだ。

 ディーンのみならず、エリックまでもが呆気にとられたように言葉を失ってカイルを見つめる。

「嫁と言うにはかなり幼いと聞いているが、まあ個人の趣味に口出しする気もない」

「いや、本当に何でそんな話になってるんですか!?」

 ようやく我に返り、ディーンは反論した。笑えない冗談はやめてくださいとぼやいて、頭痛をこらえるように額に手をやる。本当に、笑えない。

「彼女は神獣ですよ」

 ため息混じりのディーンの言葉に、カイルが苦虫を噛み潰したように顔をゆがめた。それこそ笑えない冗談だとつぶやいて、カイルはエリックへと顔を向けた。意見を求められていると気づき、エリックはうなずいて口を開く。

「私にはただの子どもにしか見えませんでした」

「俺が嘘をついていると、そうおっしゃりたいんですか? カイル様」

 低く問いかけたディーンに、そうじゃないとカイルはかぶりを振る。

「いくらお前の言葉とはいえ、すぐに信じられる話ではない」

 それに、とカイルは付け加える。

「仮にその少女が神獣だとしてだ。帝国の神獣ではないという証拠がどこにある?」

 問題はそこだった。ただの少女であれば問題ない。だが、もしも敵であったならば被害は甚大なものとなるだろう。ソジュ族を預かる長として、それだけは何としても避けなければならない。

 しかしその心配はないとディーンは断言した。

「帝国の神獣の声は男のものでした」

 カイルが問うようにエリックを見やれば、彼もまたうなずいた。

「それに関しては間違いはありません」

「だがなぁ……子どもなのだろう?」

「神獣に外見は関係ありませんよ」

 疑わしげな言葉にディーンがそう返せば、ため息混じりにカイルはつぶやく。

「そもそも本当に神獣なのか?」

 会話が堂々巡りを始めた時だった。


「ちょっと待ちな!」

「そっちはダメですってば!」


 複数の足音と制止の声が近づいてくるのに気づいて彼らは顔を上げた。いぶかしげに音のする方を見やると同時に、勢いよく天幕の入り口の仕切り布がめくられる。

 中に飛び込んできたのは、話題に上がっていた少女その人だった。

 少女を追い、さらに二つの人影が天幕に飛び込んでくる。一人はルーク、もう一人はディーンたちと同じ年頃の娘。常ならばきっちりと結われている娘の長い髪は、少女を追いかけて走ったせいだろう、ところどころ乱れてほつれていた。

「ごめん、族長。止めようとしたんだけど、間に合わなくて」

 息を切らせながら娘がカイルに向かって頭を下げた。一方、ルークは少女へと近寄る。

「話はちゃんと聞きますから、とりあえず場所を変えましょう?」

 ここはまずいんです、そう言ってルークが少女に向かって手を伸ばす。だが少女はその手を勢いよく払った。探るように周囲に視線を巡らせる。

 ディーンらの姿を認めると、少女はそちらへと駆け寄った。腰に手を当てて睨むようにしてディーンを見上げる。

 ルークに預けた時と違い、少女はずいぶんと身綺麗になっていた。白銀の髪は綺麗に編み込まれ、誰かのお古だろうか、青く染められた草原特有の衣装を身にまとっている。しかし丈が合わなかったのか、肩や腰のあたりを紐で縛って留めていた。

「主を放置とは、無礼にも程がある。だがわたしは寛大だ、不出来な祭司でも我慢してやろう」

 幼い声がひどく居丈高に言い放った。それに娘が大げさにため息をつく。

「さっきからおかしなことばかり言うんだよ、この子ども」

 頭でも打ったのかねぇ、そうつぶやいた娘に、少女が噛みつくように叫んだ。

「無礼な! 神獣を人間と同列に扱うでないわ、小娘!」

「小娘って……失礼なのはどっちさ! どう見てもあたしの方が年上だろう!?」

「セイディさん、抑えて! 相手は子どもですから! ね!?」

 娘と少女の間をさえぎるようにしながらルークが叫ぶ。少女は今度はその言葉に噛みついた。

「誰が子どもだ、小童こわっぱ!」

「すみません! とにかく二人とも落ち着いてくださいってば!」

 ぎゃあぎゃあと騒ぐ三人を呆然と眺めていたカイルが、不意にディーンの方を見た。

「あれが例の子どもか?」

 そうだとディーンがうなずくと、なるほどとつぶやいてカイルは再び少女へと視線をやった。もう一度つぶやく。――なるほど。

 しばらく少女を見つめていたカイルだったが、何を思ったか少女に近寄るとひょいと抱え上げた。自分の目線にまで持ち上げてしげしげと眺め回す。

「やはりどう見てもただの子どもだな」

 カイルのそのつぶやきと、少女が勢いよく足を振り上げたのとは同時だった。あごを蹴り上げ、その反動を利用してカイルの手を逃れる。空中で一回転して綺麗に着地すると、叩きつけるように少女は叫んだ。

「無礼者! 我が身に触れる許しを与えた覚えはない!」

 ざわりと色めき立つ周囲を手で制し、カイルは少女の前で膝をついた。

「無礼を働いたこと、お詫びしよう」

 非礼を詫びる言葉に少女の顔に笑みが浮かぶが、続くエリックの言葉にその面はまた怒りに彩られた。

「カイル様、この少女が本当に神獣だと証明されたわけではありません。族長が軽々しくそのような態度を取られては困ります」

「言ってくれるな、小僧」

 ひくりと口元をわななかせ、少女が低くささやいた。射抜くようにエリックを睨みつける。一方のエリックも、怒りがにじむ顔で少女の視線を受け止める。

 一触即発の空気をまとう両者をなだめるように手のひらを向けながら、ディーンが間に割り込んだ。――はい、ちょっと二人とも落ち着いて。

「カイル様、こんな状態じゃ話なんて無理でしょう。日を改めるべきだと思いますが?」

 話を振られたカイルが、ハッと我に返ってあわててうなずく。

「あ、ああ……。そうだな、話はまた今度にしよう」

 その言葉にうなずきで返すと、ディーンは少女へと視線を向けた。なだめるようにその背に手で触れる。拒絶されないことを確認すると、膝をかがめて少女の手を握った。

「行きましょう?」

 そっとささやくと、少女は未だ敵意の残る瞳でこちらを見上げたあと、小さくうなずいた。手を引かれ、促されるまま歩き出す。

 入り口の仕切り布をかき分けたところで少女は足を止めた。横目でカイルとエリックを見やる。

「わたしでは不服か」

 問いかけるともなしにつぶやいて、返事を待たずに天幕を出る。

「不服も何も……そもそも本当に神獣なのかが疑わしいと言うのに」

 わずかに揺れる仕切り布を見ながらエリックがつぶやいた。その隣で、どっかりと座りなおしたカイルが乾いた笑いを漏らす。

「痛いところを突かれたな」

「……カイル様?」

 問いかけるようなエリックの視線を受け止め、言葉通りだよと答える。

「あんな幼子でなければ、頭ごなしに否定しないでもう少しまともに取り合ったんじゃないのか?」

 苦笑混じりの問いかけにエリックは目をそらした。言葉を探すように視線が天幕の中をさまよい、少女が出ていった仕切り布の上で止まる。カイルの言うとおりだった。



         ◆



 少女のことはすでに多くの者に知れ渡っているのか、野営地の中を歩いているとこちらをうかがうような視線が感じられた。しかし少女がそちらへと目を向ければ、あわてて視線をそらして逃げていく。そんな男たちの様子に、セイディが呆れたようにため息をついた。

「まったく、言いたいことがあるならハッキリ言えばいいだろうに」

 情けないと嘆く声を聞きながら、少女は遠巻きにこちらの様子をうかがう男たちを眺める。

「わたしは招かれざる客なのだな」

 どこか悲しげにつぶやいて、少女はディーンたちへと目を向けた。

「おまえたちも、わたしが神獣だとは信じられないか?」

「えっ!? そ、それは……」

「ああ、信じられないね」

 問いかけにルークは言葉に詰まって視線を泳がせ、セイディはまっすぐに視線を受け止めてうなずいた。ディーンだけがかぶりを振る。

「俺は信じますよ」

 その言葉に、セイディがむっとした様子で眉を寄せた。

「何でさ、理由を聞きたいね」

「理由と言われてもなぁ……」

 考え込むように視線を巡らせてディーンはつぶやく。

「実際に見たから、かなぁ?」

「見たって、獣に転化した姿をですか?」

「そうとも言えるけど、むしろ降臨するその瞬間を、かな」

 言いながら、厳密には違うのかもしれないとディーンは考える。

 信じるとか、信じないとか、そういう次元の話ではない。彼女は間違いなく神獣だ。自分の求めに応じて降臨したのだと。だから、この感覚を他人に説明するのはきっと不可能だ。

「見たから信じるって言うなら、エリックはどうなのさ? あいつもその場に居合わせたんだろう?」

 セイディの追及にディーンは苦笑した。それを言われると困る。

「転化、か……」

 それまで黙り込んでいた少女が、不意に口を開いた。

「獣の姿を見せれば、おまえたちは納得するのか?」

「……まぁ、大概の人間は納得するんじゃないですかね?」

 少し考えたあと、ディーンはそう言ってうなずいた。言葉だけでは信じないという人間も、己の目の前で別の形へと転じられたのならばさすがに納得せざるを得ないだろう。

「そうか」

 ディーンの言葉にうなずいて、少女はまた黙り込んだ。どこか悩んでいるようにも見えるその横顔に、三人は顔を見合わせる。

 しばらく誰もが黙っていたが、やがて沈黙に耐えかねたようにルークが口を開いた。

「あの……祭司って何のことですか?」

 カイルの天幕で、少女はディーンに向かって祭司と呼びかけていた。自分のことを主とも。いったいどういう意味なのだろうか?

 問われた少女が顔を上げた。

「祭司というのは、神獣から加護を与えられた人間のことだ。手の甲に神獣の銘の一部が刻印される。この刻印は加護を与えられた印であるのと同時に、神獣の所有物であることの印でもある。祭司は神獣の加護を得る代わりに、その生涯を神獣に捧げ、仕える義務がある」

 そう語ると、少女はディーンに近寄ってその右手に触れた。持ち上げるようにして甲を示す。そこには模様のようにも文字のようにも見える不思議な痣があった。

「これが我が銘の一部、交わされた契約の証」

 全員の視線がディーンの右手の甲に集中する。ただの模様であるはずのそれが、ひどく異質なものに見えた。

 誰もが言葉を失ったかのように沈黙する中、鋭く息を吐き出すようにしてセイディが笑った。

「勝手に選んで従わせるとは、ずいぶん一方的な関係じゃないか」

「先に神獣を求めたのは人間の方だ。我々はその声に応えたにすぎない」

 気分を害したかのように顔をしかめ、少女が反論する。そのまま二人は睨み合った。

 不穏な空気を漂わせる二人に、助けを求めるようにルークは兄へと視線を向けた。しかし彼は己の右手を見つめたまま黙している。

「兄さん?」

 呼びかけるもディーンは気づかない。もう一度声を強めて呼びかけるとようやく顔を上げた。だがその視線はルークへは向かず、どこか思い詰めたような眼差しが少女へと向けられる。

「代償とは、こういう意味ですか?」

 問われた少女は睨み合いをやめて振り返った。ディーンを見据えてうなずく。

「神獣の力を利用するのならば、それなりの対価が必要となる」

 その言葉にディーンのみならず、ほかの二人も黙り込んで視線を地面に落とす。それほどまでに少女の言葉には重さがあった。

「今度はこちらが質問してもかまわないか?」

 少女の言葉に、ハッと我に返ってディーンは顔を上げた。

「……あ、ええ。俺にわかることなら」

 それでかまわないとうなずき、少女は問いかけた。今、何が起こっているのかと。

「神獣の力が必要とされる場合、そのほとんどは争いに関してだ。おまえたちは、わたしに何を望む?」

 問いかけに彼らは視線を見合わせた。しばらくそうしていたあと、代表するようにディーンが口を開く。

「簡単に言えば、帝国の神獣をどうにかしてほしいということでしょうか」

 その言葉に、考え込むように少女は腕を組んだ。

「それはわたしが降臨した時にいた蛇のことか?」

 うなずくと、少女は息を吐き出すようにして笑った。

「神獣と事を構えるか、人間よ。それは蛮勇というものだ」

「ちょっと待ちな! その言いぐさじゃ、まるでこっちが突っかかったみたいじゃないか。訂正してもらおうか」

 気色ばんで叫んだセイディに、少女が眉を寄せる。

「違うのか?」

「違うに決まってるだろう!」

 そうしてまた睨み合う二人に、苦笑しながらディーンは間に入るのだった。



 事の起こりは一年ほど前、大陸北部に位置する小国の一つが隣国に攻め入ったことに端を発する。

 それだけならばさして珍しくもない話だったのだが、どんな手段を用いたのかこの国はわずか一年足らずで周辺の国々を己が支配下に置き、帝国とその名を改めた。

 元より武力衝突が多く、国の併呑へいどんや離散などが絶えない地域ではあったが、それらが一つの国家として成立したのは前例のないことだった。

 山脈を隔てた大陸の南部に位置する国々は、これを危険視した。北部はその大部分を雪に閉ざされた、人が暮らすには厳しい風土。それまでは数少ない恵みを奪い、互いにいがみ合っていた連中が一つにまとまったのだ。肥沃な土地の広がる南部に目をつけないはずはない。

 そうして、それは現実の脅威となった。

 帝国は山脈を隔てて隣接する草原地帯、カーダへと攻め入った。まずはそこを足がかりに南部を攻略しようということだ。

 カーダに点在する都市の一つを武力で制圧した帝国は、草原全土へ向けて宣言した。自分たちに従うのであれば同胞として迎えよう、だが逆らうならばこの街のように滅びるのがおまえたちの運命だ、と。

 都市の多くは従属を選んだ。しかし要求をはねのける者もまた多くいた。草原で暮らす遊牧民たちである。

「――まあ、そういうことで帝国はカーダに対して本格的な侵攻を開始したってわけです」

 そう結んだディーンに、少女はなるほどとうなずいた。

「その帝国の切り札が神獣であると」

「北部の平定にも利用したんでしょうね」

 帝国の前身となったロアヴィル王国は、北部の小国家群の中でも特に貧しい国だ。その国土の大半は一年中雪と氷に閉ざされていると聞く。北部の平定など、夢のまた夢であったはず。それを成し遂げられたのは、ひとえに神獣の力によるだろう。そんなものが向けられれば、草原などひとたまりもあるまい。

「人間が神獣とやり合うなど、正気の沙汰ではないな」

 どこか呆れたようにため息をついた少女にディーンは苦笑する。

 普通に考えれば、帝国の支配を受け入れた方が賢明だ。誰の目から見ても、人間が神獣に敵うはずがないからである。

「草原に暮らす者は、血の気の多い連中がほとんどですからねぇ」

 自嘲気味につぶやく。古来よりカーダの遊牧民は勇敢だと言われるが、実際のところは蛮勇と紙一重だ。

 ディーンの声が聞こえていたのかいないのか、少女はまあいいとつぶやいた。

「その帝国とかいう連中をどうにかすればいいのだろう? その願い、この白凰はくおうが叶えてやる」

 不敵に笑った少女に、セイディがやれやれとため息をついた。

「子どもに何ができるって言うんだい?」

「先ほどからの無礼の数々、いい加減目に余るぞ、小娘」

「だから誰が小娘だって!?」

 声を荒らげる二人に、ルークは問うようにディーンへと目を向けた。

「どうするんですか? あれ」

「どうするもこうするも……気が済むまでほっとくしかないんじゃないか?」

 あっさりと言い放った兄に、ルークは思わず叫んだ。

「どうにかしてくださいよ!」



 息も絶え絶えになったところで、セイディと少女はようやく口をつぐんだ。悪口あっこうのストックが尽きたというのもあるのだろう。

 なおも睨み合う両者をどこか感心したように見つめ、そういえばとディーンは口を開いた。

「なあ、セイディ。いつまでついてくる気だ?」

 セイディはソジュ族唯一の薬師である。どの部族であれ、薬師の天幕は族長の近く――つまり野営地のほぼ中央に設置されるものだ。とうに通り越したどころか、むしろ逆方向である。そう問えば、セイディは半眼でため息をついた。

「じゃあ逆に聞くけど、その子どもをあんたの天幕に連れていく気かい?」

「そのつもりだが、何か問題でも?」

 ディーンからすれば当たり前の答えだったが、彼女には不服だったらしい。やれやれと言いたげに大げさにかぶりを振る。

「あんた、バカなのかい? 隠し子説を吹聴するようなものだよ?」

「そんなばかげた噂は誰も信じないさ」

 そう言って笑うディーンを冷ややかに見据え、セイディはもう一度嘆息した。

「好きにすればいいさ、あたしは忠告したからね!」

 ふん、と鼻息も荒く吐き捨てて彼女は背を向けた。一つに編まれた長い髪を大きく揺らすと、肩を怒らせて来た道を戻っていく。

「何も怒らせるような言い方しなくたっていいでしょうに」

 小さくなっていくその背中を見送り、ルークが息を吐き出した。責めるようなその声音が理解できず、ディーンは首を傾げる。

「あいつが変なことを言うからだろう?」

 その言葉に、ルークはもう一度嘆息した。

「……あの娘、おまえに気があるのではないか?」

 セイディが去っていた方を見やりながら、少女がぽつりとつぶやいた。それを耳にし、思わずディーンは吹き出す。それはない、絶対に。

 疑いの色を浮かべたままディーンを見つめていたが、少女はルークへと視線を転じた。

「おまえの目から見てどうだ?」

 話を振られ、あわててルークはかぶりを振った。

「僕からは何とも」

 追及の眼差しから逃げながら、言い訳を口にする。

「こういうの、他人が好き勝手言っていいものではないでしょう?」

 少女はなおもしばらく見つめていたが、やがて興味を失ったように、ふいと顔を背けた。それにほっと胸を撫で下ろしながら、ルークが息を吐き出す。

 落ち着いたのを見計らい、ディーンがまた先導して歩き出した。そのあとについていきながら少女は周囲へと目を向ける。

 立ち並ぶ天幕はどれも同じように見えるが、よく見てみると染められていたり刺繍がしてあったりと、入り口の仕切り布がどれも違った。おそらくそうして区別をつけているのだろう。

 そうやって周囲に目を向けていたせいか、ディーンが立ち止まったのに気づかずに少女はその背中に思い切りぶつかった。打った鼻を押さえながら顔を上げる。どうやら兄弟の天幕についたらしい。



 天幕の内部は外から見ていた以上の広さがあった。中央には煮炊きに使うであろう炉が置かれており、それを挟むようにして二本の柱が立てられている。屋根からは放射状にはりが延ばされ、菱状に組まれた格子の骨組みが周囲を取り囲んで支える形だ。床には一面に敷物が敷かれ、部屋の隅に毛布や布団が積まれている。その横には生活に使う道具が納められているであろう木箱が置かれていた。

「今さらこんなことを言うのも何ですが、女の子なんだからやっぱりセイディさんに預けた方がよかったんじゃないですか?」

 少女の様子をうかがうようにしながらつぶやいたルークに、ディーンは顔を上げて少女を見やった。その方がよかったかと問いかけると、少女は露骨に顔をしかめた。

「あの無礼な小娘のところなど、冗談ではない」

 吐き捨てるようなその物言いに、ディーンは驚いたように目をまたたかせた。少女をセイディに預けていたのはわずかな時間のはずだが、その間にいったい何があったというのだろうか。問いかけるような兄の視線を受け、ルークは苦笑しながら口を開いた。

「誰だって自分の言い分を頭ごなしに否定されれば、やっぱりいい気分はしないでしょう?」

 その言葉に、ああ、とディーンはうなずいた。セイディはかなり気が強い上、言いたいことは遠慮せずに何でも言う性格だ。少女に対してかなり懐疑的なようだったし、少女も少女でなかなかに勝ち気な性格のようだから、これは相当やり合ったのだろう。

「それはさておき、実際のところ生活用品とかはどうする気ですか?」

 ルークの言葉に、その問題があったかとディーンは眉を寄せた。

 帝国と事を構えると決めた時、女や子どもなどの戦えない者たちは避難するようにと族長から指示があった。そのため兄弟の母親が使っていた物はすべて持ち出されている。父親が使っていた物はといえば、亡くなった時にこれまた一切を埋葬している。草原では死者の持ち物はすべて共に埋葬するという風習があるためだ。

「参ったな……どこかから借りてくるか?」

「それが妥当でしょうね」

 苦笑しながら天幕の外へ向かおうとしたルークを、その必要はないと言って少女が引き留めた。

「神獣は人間と違って食事や睡眠を必要とはしない。だからわたしにかまう必要はない」

 少女の言葉に、驚いたようにルークが目を瞠る。

「必要ないって……まったくですか?」

「そうだ。人間のように食事を取ることも可能だが、基本的には不要だ。……まぁ、中には道楽で食事をするものもいるかもしれんがな」

「やっぱり人間とは違うんですねぇ……」

 感心したような弟のつぶやきを拾い、そういえば、とディーンが口を開いた。

「違うと言えば、神獣には名前がないんだよ」

「名前がないって……え? だって【白凰】って名前じゃないんですか?」

「個体を識別するという意味では名前と言えるのかもしれないけど、厳密には違う」

 神獣の銘は二文字の象形文字から構成される、と言いながらディーンは宙に文字を書いてみせた。

「前の字は色を、うしろの字は転化した時の姿を示している。だから白凰というのは、【白い大きな鳥】を意味するんだ」

 その説明に、ほう、と少女が感心したように声を上げた。

「ずいぶんと詳しいな」

 賞賛の声に、ディーンは少し照れたような表情を浮かべて笑った。

「知人に学者がいるんです」

 全部その人からの受け売りなのだと言って頭をかく。

「……名前がないのは、何だか少し寂しい気もしますね」

 不意にこぼされた声に、ディーンと少女はルークの方へと視線を向けた。どこか悲しげに瞳を揺らす弟に近寄ると、ディーンはそっとその頭を撫でた。そうだな、とつぶやく。

 そんな兄弟の様子を、少女は何も言わずただじっと見つめていた。

「あの、もしかして失礼なことを言いましたか……?」

 その視線に気づいたのだろう、ルークのあわてたような言葉には答えず、少女は己が感じた疑問を口にした。

「人間にとって、名前とはそんなに特別なものか?」

 まっすぐに自分を見据えてぶつけられる問いに、ルークは戸惑いながらもうなずいた。

「名前というのは、生まれて一番最初に贈られるものですから」

「名前を呼ぶことは親愛の情を示すことにもなりますしね」

 うなずきながら、ディーンもそう付け加える。

「神獣にとってはそうじゃないんですか?」

 恐る恐る問いかけたルークに、少女は首肯する。

「我々からすれば、名前などただの記号にすぎない」

 だが、と言って少女は口角を吊り上げた。

「そういう考え方は悪くない」

 好ましそうに笑う少女に釣られるように笑みを浮かべ、ディーンは口を開いた。

「貴方さえよければ、名前を贈ることを許してはいただけませんか?」

 その言葉に、ぎょっとしたようにルークが目を見開く。いつものことではあるものの、我が兄ながら何を考えているのかまったく読めない。

 少女も驚いたように目をまたたかせていたが、やがて口元を笑みの形にゆがめた。

「いいだろう。それが我が祭司の望みとあれば、許そう」

 どこか居丈高に、だがいたずらをする子どものような声音で告げられた言葉にディーンが笑った。冗談めかした声で応える。

「光栄の至りです」

 しばらく考え込むように視線を巡らせていたが、やがてディーンはにっこりと笑った。

「フェオンという名前はどうですか?」

「【フェオン】……風を意味する象形文字の別読みか」

 悪くはないなとつぶやき、どこか満足げに笑みを浮かべる。だが不意に何かに気づいたように目を瞠り、少女は苦笑を浮かべた。

「わたしはまだおまえたちの名前を聞いていなかったな」

 その言葉にきょとんとしたように兄弟が顔を見合わせ、同時に吹き出した。

「そういえば、まだ名乗ってなかったですね。俺はディーンです」

「ぼくはルークです」

 それぞれの名乗りにうなずき、少女がどこかはにかむように笑みを浮かべる。

「フェオンだ、よろしく頼む」



 和やかな空気の中、ところで、とフェオンが口を開いた。

「セイディと言ったか? あの娘の言っていたのはいったい何の話だ?」

 隠し子がどうとか言っていたが、との言葉にルークは苦笑を浮かべ、ディーンは頭を抱えて深々とため息をついた。まだこの話題が出てくるのか。

 答えたくないと言いたげに顔を背けるディーンに早々に見切りをつけ、フェオンはルークへと目を向ける。詳細を聞くまで引かないだろうと容易に想像できる様子だった。

「えっとですね……フェオンさんは、兄さんがどこかの娘に産ませた子どもじゃないのかと言われてるんですよ」

 先に兄さんの話を聞いていなければうっかり信じてしまったかもしれないと笑うルークに、ディーンは非難がましい視線を向けた。

「その噂、当然否定したんだろうな?」

「しましたけど、効果があるかは知りませんよ」

 サラリとそう言って付け加える。

「そんな噂が出てくるのは、日頃の行いのせいなんじゃないですか?」

「何だ、こいつはそんなに女にだらしないのか?」

 呆れたような非難するような声音でつぶやいたフェオンに、違います、とディーンが反論する。

「俺はそんな不実な男じゃないですから!」

 そう訴えるも、向けられる眼差しは疑惑に満ちていた。

「……フォローしろ」

 小声での兄の訴えにルークは苦笑を浮かべた。無茶を言わないでほしいものだ。

 援護射撃を得られなかったディーンは、薄情な弟だとこれ見よがしに嘆いてみせる。

「で、実際のところはどうなのだ?」

 問題の【日頃の行い】を問いつめるフェオンを見やり、ディーンはあきらめたように嘆息した。視線はそらしつつ、けれど耳だけはそちらへと意識を向ける。実際問題、自分がどう言われているのかは気になるところだ。

「ぼくが知る限りでは見境なく女性に声をかけているわけではないですけど、よそではどうなのかわかりませんよ」

「よそでは、とはどういう意味だ?」

 神獣には、ある程度地理やそこで暮らす人々に関する知識が備わっている。カーダの遊牧民は部族単位で生活するはずだった。よほどのことがない限り単独で行動することはなく、【よそでは】などという言葉が出てくるとは思えないのだが。

 首を傾げたフェオンに、ルークはどこかあきらめたような、呆れたような笑みを浮かべて、

「兄さんには放浪癖があるんですよ」

 そう言って肩をすくめた。たまにふらっといなくなったかと思えば、いつの間にやら戻ってきている。そんなことばかりなのだ、と。

「姿を消している時は、どこで何をしているんだ?」

「それはぼくも知りたいところです。何をしてるんです?」

 二対の視線に射抜かれ、仕方なくディーンはそちらに顔を向けた。好奇心に満ちた顔にため息をつく。

「別に何もしてない。街に行ってるだけだ」

「遊牧生活が嫌なら定住すればいいのに」

 どこか非難じみた弟の声に、そういうわけじゃない、とディーンはかぶりを振る。

「街に行けば、旅人とか行商に来てる商人とかがいるだろ? 他の国の話が聞けるから、それが面白いだけだよ」

 遊牧生活の中でも、街に立ち寄ることはまれにだがある。だが部族の全員が街に向かうわけではなく、限られた何人かだけだ。またその中に選ばれたとしても、街に滞在する時間はそう長くはない。

 第一、街へと赴く理由は家畜の毛皮などを取り引きするためだ。あるいは鍛冶職人の元を訪れ、武器の手入れを頼む時か。どちらにせよ、役目を放って無駄話をしているわけにもいかないだろう。そうなると、己の好奇心を満たすためには単独で街を訪れるしかなくなるわけである。

 その言葉に二人は納得したようだった。

「しかし、いなくなっている間に野営地が移動したということはないのか?」

 一応いつまでその地に留まる、という予定は立てているのだろうが、天候や家畜の餌となる草などの関係で予定よりも移動が速まるということも時にはあるだろう。もしそうなれば、合流することは難しくなるのではなかろうか。そう問いかけたフェオンに答えたのはディーンだった。

「別にそんなに長く離れているわけじゃないですから、問題はないですよ」

 ディーンは勘が働くのか、移動の時期がずれたとしても、実際に野営地を移す前に帰ってくることがほとんどだった。

「長期間いなくなるわけじゃないんですけど、しょっちゅう姿を消すから女の人に会いに行ってるんだという噂がまことしやかに語られているんですよ」

 苦笑混じりのルークの言葉に、ディーンが派手に咳込んだ。

「お前な……その噂こそ否定してくれよ」

「何言ってるんですか。知らないことは否定のしようがないでしょう?」

 あっさりと言い放ち、付け加える。

「隠し子説も含めて自業自得でしょう?」

 どこか冷ややかなその言葉に、ディーンはがっくりと肩を落としたのだった。



         ◆



 翌朝、日も昇り誰もが朝食を済ませて活動を始めた時間、セイディはディーンの天幕を訪れていた。

 気を落ち着かせるように深呼吸を繰り返し、よし、とうなずく。妙なことを言っていようが、態度が大きかろうが、あくまでも相手は子どもなのだ。昨日は大人げなく反発してしまったが、すべて笑って許すくらいの度量を持たなければならない。

 邪魔するよ、と言いながら勢いよく天幕の仕切り布をかき分けて中に入る。

「ディーン、族長が昨日の話の続きがしたいって言ってるから――」

 族長の天幕まで行っとくれ。そう言おうとした言葉は途中で絶えた。眼前の光景に、セイディはぽかんと口を開く。

 木箱にフェオンを座らせ、その背後に陣取ったディーンが彼女の髪を結おうとしていたのだ。

「……あんたら、実は本当に親子なんじゃないのかい?」

 思わずといった様子でつぶやいたセイディの声を拾い、ルークが思い切り吹き出した。あわててごまかすように咳をする。

 セイディの声は聞こえていなかったのだろう、何か言ったか、と問いかけるディーンに、二人は何でもないと声を揃えて答える。だがその声は多分に笑みを含んでいた。

「何か言いかけていたようだったが、用があったのではないのか?」

 セイディの方へと顔を向け、フェオンがそう問いかける。その拍子にやわらかな白銀の髪がディーンの手から逃げ、ふわりと少女の肩に広がった。

「動かないでくださいって言ったじゃないですか」

 元のように前を向かせ、ディーンが再びフェオンの髪を捕まえる。編み込みを作ろうと奮闘するも、指を動かすたびに髪の毛はするりと逃げていく。

「……そう言って何十回やり直しているんだ」

 訴え通りに頭は動かさないまま、フェオンが大きく嘆息した。ディーンがフェオンの髪を結うべく奮闘を始めてから、かれこれ一時間は経とうとしている。やり直した回数は推して知るべし。

「自分の髪すら結えない男が女の髪を結おうだなんて、百年早いよ」

 そうセイディが鼻で笑い、ルークも苦笑を浮かべて告げる。

「うまく結えないからって、兄さんは申し訳程度にしか髪を伸ばしませんでしたもんね」

 その言葉に、フェオンが興味深そうに瞳を輝かせてそちらへと顔を向けた。ディーンがまた文句を言うが、意には介さない。

「おまえたちには男でも髪を伸ばす習慣があるのか?」

「そうだね、成人前の子どもに限るけれど」

 フェオンの問いにうなずき、セイディが口を開いた。

 ソジュ族の少年は十五歳の誕生日を迎えると髪を短く切り、鳥の羽と切り落とした自身の毛髪とでお守りを作る。そうすることで成人と認められるのだ、と。

「では、ルークは成人前なのか?」

 背中に垂らされたおさげ髪を見やって問いかけたフェオンに、ルークは首を横に振った。

「本当はもう十五歳の誕生日は過ぎているんですけど、帝国が攻めてきたから成人の儀どころじゃなくなってしまったんです」

「まったく、迷惑な話だよ」

 そう同意して、セイディは未だにフェオンの髪と格闘しているディーンを睨みつけた。

「いつまでも無駄なことをしていないで、さっさとあたしかルークと交代しな」

「無駄って……」

 異を唱えようとしたディーンの言葉を遮るように、フェオンが深くため息をついた。苦渋の多分ににじんだ声音でつぶやく。

「そうしてもらえると、わたしも助かる」



「わざわざ呼びつけてすまなかったな」

 カイルの天幕へと向かうと、非礼を詫びる言葉で迎えられた。カイルの背後に控えるエリックは、今日も変わらず不服そうに眉を寄せてフェオンを睨みつけている。その視線を受け止め、負けずに睨み返しながらフェオンは鷹揚にうなずいた。

「こちらも話があったからな、気にする必要はない」

 自分を間に挟んで行われる睨み合いに、カイルはわずかに苦笑を浮かべる。だがすぐに真面目な顔つきに戻ると、フェオンをまっすぐに見据えて口を開いた。

「気を悪くしないでほしいのだが、神獣だと言われてもやはりすぐには信じられない」

「あれの娘だと言われた方が、まだ信じられるか?」

 背後のディーンを示して問いかけたフェオンに、カイルは大きくうなずいた。そちらの方がよほど真実味があるとの言葉に、引き合いに出されたディーンが渋面を作る。

「まあ、この姿では無理からぬことだろう」

 自嘲するようにわずかにくちびるをゆがめてフェオンがつぶやく。

「おまえたちに、わたしが神獣であることを証明してやろう」

「言うのは簡単ですが、どうやって証明するつもりです?」

 即座に問い返してきたのはエリックだった。ここにいる面々の中で一番フェオンの存在に懐疑的なのは彼だ。当然の反応と言えるだろう。

 疑わしげなその眼差しを受け、フェオンは自信に満ちた顔でうなずいた。

「見ればわかる、ついてくるがいい」

 そう言い置くと、フェオンは返事も待たずに天幕の外へと出た。わずかに揺れる仕切り布からディーンへと視線を転じ、エリックが渋面で問いかける。

「彼女は何をする気なのです?」

 問われても、ディーンも首を傾げることしかできない。

「まあいいさ。行ってみればわかるだろう」

 気楽な調子でそう言って、カイルがフェオンのあとを追って天幕の外へと向かった。彼に従い、エリックとディーンもそれに続く。

 天幕を出ると、三人を待っていたのだろうフェオンの姿があった。彼女はこちらに一瞥をくれると先導するように歩いていく。

「どこへ行く気です?」

 やや険のあるエリックの問いかけに、フェオンは足を止めぬままちらりと振り返って野営地の外だと答えた。また視線を前へと戻し、歩き出す。

「外と言ってもどのあたりです? 遠くまで行く気なら馬を用意しますけど」

 ディーンの問いに、いいや、とフェオンはかぶりを振る。

「遠くまで向かう必要はない。ただ、広い場所の方が都合がいいだけだ」

 少女の意図するところが読めず、三人は顔を見合わせた。エリックなどは露骨に不信感を表している。カイルがいなければ、そもそもこの場にはいなかったかもしれない。

 どうするのかと言いたげなエリックの眼差しに、カイルは小さくうなずいてみせる。彼女は見ればわかると言っていた。ならば、ついて行くよりほかにあるまい。



 野営地を出てからもしばらくフェオンは歩き続け、そろそろいいかと言って足を止めたのは野営地からかなり離れてからだった。

「よく見ているがいい」

 くるりと振り返ってそう言うと、両手を広げるようにしてフェオンは胸を張った。顔はまっすぐに前を向けたまま、視線だけをわずかに伏せる。

 すぅ、とフェオンが小さく息を吸った。吐き出す息に合わせるように、草の波がかすかに揺れる。その揺れは少女を中心に少しずつ強くなっていく。

 つま先立ちになったように見えたフェオンの体が、ふわりと宙に浮かんだ。少しずつ上昇していく少女の周りを白い光が包む。その光は徐々に大きくなっていき、不意に弾けた。

 光の中から、巨大な鳥が姿を表す。

 小さな頭部から続く長い首をまっすぐに伸ばして空を駆けるその姿は、誰の目から見ても優美だった。わずかに赤みを帯びたくちばしと足、そして空を映したかのような青い瞳以外はすべて輝くばかりに白い。

 冠羽と長い飾り尾をなびかせながらゆったりと宙を舞っていた大鳥は、彼らを見やるとまるで笑うように嘴を開き、くるりと一回転してみせた。その動きに併せるように強く吹きつけた風に彼らは一様に目を閉じ、腕で顔をかばう。

 風は一瞬でやみ、手をどけた彼らの目に映ったのは、その身に燐光をまとわせながら緑の大地に舞い降りる少女の姿だった。

 白銀の髪だけが、重力のくびきから解放されたようにふわりと舞う。

 とん、と地面に足を着いた途端、髪は少女の顔を覆うように落ちた。わずかにかぶりを振って髪を追いやった少女が、どこか得意げな様子で顔を上げる。

「これで信じる気になったか?」

 青い瞳が勝ち気そうな色を浮かべて笑う。それに一瞬気圧けおされ、カイルはあわてて何度もうなずいた。あの白い大鳥こそがこの少女の真の姿なのだ。それを目の当たりにして信じないわけにはいかなかった。何よりも、あの神秘的で美しい姿に心を奪われた。――あれが神獣、我々を守護するもの。

「ああ、信じよう。そして、どうか今までの非礼を許してほしい」

 熱を帯びた声で少女の名前を呼ぼうとして、それができないことに気づいてカイルは口を閉ざした。

 空を泳ぐカイルの視線に、フェオンはそれを察する。

「我は白凰。だが今はフェオンと名乗っている」

「フェオン、どうか我々に力を貸してほしい。この地から、帝国の脅威を取り除くために」

 カイルの言葉に、フェオンはもちろんだとうなずいた。

「元よりわたしはそのためにここにいる」



 地面に片膝をついて感謝の言葉を述べると、やることがあるのでこれで失礼すると告げて背を向け、カイルは足早に野営地へと向かった。我に返ったエリックがあわててその背中を追いかける。

「急にどうなさったのです、カイル様」

 追いついたエリックの問いには答えず、カイルは前を見据えたままほかの部族を召集するように命じた。

 その言葉に、エリックはいぶかしげに眉を寄せる。草原にはソジュ族のほかに九つの部族が存在するが、それぞれ部族同士の仲は良好とは言い難い。一所ひとつところに集めればもめるだけだと思えた。ただでさえ帝国という厄介な問題があるというのに、これ以上の火種を抱えるつもりでいるのだろうか。そう問いかけると、カイルはかぶりを振った。

「帝国が脅威だからこそ集めるんだ」

 ソジュ族の半数近くが帝国との戦いで死んだ。このままソジュ族だけで戦い続ければ、そう遠くない未来に滅びるだろう。そして、それは何もソジュ族だけではないはずだ。ほかの部族だって状況は変わらないだろう。

「勝つためには、草原に住む者が一丸となって帝国に立ち向かう必要がある」

「それはおっしゃるとおりですが……今までいがみ合っていた者たちが、そう簡単に一つにまとまれるものでしょうか?」

 憂慮ゆうりょするエリックに、だがカイルは自信に満ちた様子でうなずいた。

「フェオンがいる。帝国と同じように、俺たちにとっても神獣は切り札となるはずだ」

 たしかに神獣は切り札となるだろう。あの圧倒的な力はエリックも身を以て知った。だがしかし、問題はそこにあるのではない。

「私たちですら、あの少女が神獣だとすぐには信じられなかったのですよ?」

 問題は神獣フェオンの外見にあった。十にも満たぬであろう、幼い少女の姿。いくらあれが仮のものであると言っても、あのなりでは疑われるだけだと思えた。

 果たしてうまく行くだろうかと心配するエリックに、必ずやってみせるとカイルは宣言した。

 護るのだと決めていた。父が死んで、その跡を引き継いで長となったあの日に。まだ若い自分を族長と呼んでついてきてくれる部族の皆を、亡き父が護ろうとしていたものを。

 たとえ、どんな手段を用いたのだとしても――。

「俺は、必ず護ってみせる。仲間を、そしてこの地を――」

 草原の誇りにかけて、必ず。

 胸の前で拳を握り、カイルは低くささやいた。

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