この空と大地に誓う

宵月

序章

 草の波が風に揺れる。いつもは穏やかな草原に飛び交うは怒号。地を揺らすほどの戦闘の声。

 常と違うのはそれだけではなかった。草原にわだかまる、赤い、まるで固まりかけた血のような暗赤色の物体。

 それは一見すると蛇に見えた。だが大きさが尋常ではない。山ほどもある、人間など簡単に丸呑みにしてしまうような大蛇だ。

 それを相手に戦っているのは草原に暮らす遊牧民たちだった。弓で、あるいは剣で、器用に馬を操りながら攻撃を加えるも、さしたる効果を上げているようには見えない。

 四方八方から一斉に放たれた矢にうるさげに頭を振ると、大蛇は尾を振り下ろした。さして力を入れたようには見えないその一撃で、十人ほどの遊牧民が馬ごと宙を舞った。

『その程度か、人間どもよ!』

 ちぎられた草のごとくはね飛ばされ、地面に叩きつけられる彼らをせせら笑う声はまだ若い男のもの。それは大蛇の声だった。

 もう一度わらい、大蛇が尾を振り払う。またいくつもの騎影が吹き飛んだ。

「無理に戦う必要はない、撤退しろ!」

 あまりにも圧倒的な彼我の戦力差に戸惑い、動きを止めた仲間たちに向けてディーンは叫んだ。

「ここで戦っても死ぬだけだ、逃げろ!」

 その声に我に返った遊牧民たちが馬首を巡らし、散り散りに逃げ出す。

 周囲に向けてもう一度逃げろと叫ぶと、ディーンは大蛇へと目を向けた。

「これが、神獣しんじゅう……」

 つぶやく声が震えた。

 【神獣】――神の名を冠された獣。伝説の中でだけ聞く生き物。それが今、自分の目の前でその驚異的な力をふるっている。

 あまりにも圧倒的だった。人間など及びもしない、すべてを蹂躙じゅうりんする力。

「……そりゃあ戦争も始めるわ」

 人の手には余るほどの力だった。それを手に入れれば、よほどの賢君でもない限り正常な判断能力を失うだろう。武力でもって他国を征服しようと考えるのも無理はない。

 呆然と大蛇を見上げて考える。こんなもの、どうしろって言うんだ。

「何をしているんです、ディーン!」

 自失していたディーンは、背後からの声に我に返った。

 土煙を上げて大蛇がこちらへと迫ってくる。鎌首をもたげ、そのあぎとを大きく開きながら。鋭い牙が陽光を弾いてギラリと輝く。

「逃げなさい!」

 悲鳴じみた声が遠く聞こえる。魅入られたように大蛇を見上げたまま、ディーンは動くことができない。

 ひどく間延びした時間の中、これで死ぬのだと悟った。何もなせないまま、呆気なく。

 母親、弟、同じ部族の仲間たち――大切な人たちの顔が次々に浮かんでは消えていく。死んでしまう、彼らを残して。

 どこか諦観ていかんにも似た認識が頭を埋めるのと同時に考えた。

 ――神獣の加護があったならば。自分たちにも神獣がいたならば、きっとこんな風に一方的に殺されることもなかったのに。

 そう思った時だった。

『神獣を望むか?』

 その声はディーンに向けて問いかけた。どこか幼さを感じさせる少女の声。

 静かに、声は問いかける。

『おまえが考えているようなものではなく、代償が必要なのだとしても。それでも、おまえは神獣を求めるか?』

「求める」

 即答した。言葉の内容に不穏なものもあったが、迷わなかった。大切なものが護れるのなら。

「俺は、神獣を望む――!」

 声が笑った。まるで好ましいものを見つけたかのように、楽しげに。

『いいだろう。その願い、この白凰はくおうが叶えよう! その代わり、おまえは今この時からわたしのものだ』

 居丈高な宣言と同時に眼前の空間に光が生まれた。まるで大蛇からディーンを遠ざけるかのごとく。

 最初は爪の先ほどだったそれが徐々に大きく、光量を増していき――そして炸裂した。

 視界を染める光よりもなお白く、なお強く。輝く鳥が大蛇を押し返す。

 爆発した光は一瞬で消えた。かぶりを振ってまばたきし、光に眩んだ目を慣らす。

 戻ってきた視界の中、大蛇の姿はそこになく、代わりに映るのは少女の姿だった。

 十にも満たぬであろうか、ぼろきれのようなものを身にまとった幼い少女が立っている。ディーンの視線に気づいたのだろう、少女がこちらを見やって笑った。

 次の瞬間、少女は崩れるように地面へと倒れた。それにあわてて馬から降りると、ディーンは少女へと駆け寄り抱き起こす。見た限り怪我はしていないようだった。ただ眠っているだけのように見える少女の体を抱き上げる。

「……その少女は?」

 いぶかしげな声に振り向くと、下馬したエリックがこちらへと近づいてくるところだった。眉を寄せた険しい顔つきで、視線はディーンの腕の中の少女へと注がれている。

「俺たちの神獣だよ」

 ディーンの言葉に、エリックの眉間の皺がさらに深まる。

「寝言は寝てから言ってください」

 苦々しげなつぶやきに、ディーンは笑った。

「そう言うと思ったよ」

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