三章

 ばさり、と布のひるがえる音がしてフェオンは我に返った。顔を上げると、治療を終えたらしいセイディが天幕から出てきたところだった。

「ディーンの容態は?」

 詰め寄るように問いかけるカイルに、セイディはため息をついてかぶりを振った。

「できる限りのことはしたよ。あとは当人の体力次第だね」

 冷ややかにも聞こえるその言葉は、彼女の眉間に深く刻まれた皺から極力冷静であろうと努めるがためだと知れた。

 何か言いかけ、けれどもかぶりを振って口を閉ざす。小さく嘆息すると、セイディは周囲を見渡してマーサとルークはいるかと問いかけた。

「私たちならここにいるよ」

 手を挙げてそう答えるマーサの方へと視線を向けたセイディは、その隣にフェオンの姿も認めて目元を和らげた。

「ああ、フェオンもいるね」

 うなずいて、小さく息を吐き出すようにして告げる。

「天幕の中へ」

 その言葉に、フェオンは大きく目を見開いた。

「わたしも、いいのか……?」

 恐る恐るといった様子で上目遣いに問いかけた少女に、セイディは笑みを浮かべてうなずく。

「ほかの連中はさておき、ここにいる奴らはあんたがディーンにとっての特別だと知っているからね」

 そう言って視線を周囲へと投げる。セイディの天幕の前にいるのはカイルにエリック、マーサとルーク、そしてフェオンの五人だった。

 渋るようにかぶりを振ったフェオンに、セイディはため息をついた。

「いいからおいで」

 言うや否や少女の細い手首を掴み、半ば無理やり引きずるようにして天幕の中へと押し込んだ。

「うわっ!」

 悲鳴を上げ、たたらを踏んだフェオンは顔からべしゃりとすっころんだ。

 うめきながら顔を上げたフェオンが、目の前に横たわるディーンに気づいて動きを止めた。薬草以上に天幕の中に充満する血の臭いにおびえたように視線をさまよわせ、血のついた大量の布を目にして悲鳴を呑み込む。思わずあとずさったその背中が誰かの足に当たった。

「まったく、何をやってるんだい? 子どもじゃあるまいし、血を見たくらいで腰を抜かすんじゃないよ」

 ため息混じりにそう言うと、セイディはフェオンの腋の下に手を差し入れて立ち上がらせた。

「あの……さすがにそれを見ると、ぼくでも一瞬動きが止まりますよ」

 セイディのあとを追って天幕の中に入ってきたルークが、苦笑しながら血に染まった布を示す。

 振り向いたフェオンが、すがるようにセイディの服の裾を強く握りしめる。不安げに瞳を揺らしながら、まっすぐにセイディを見上げて問いかけた。

「ディーンは……ディーンは大丈夫なのか!?」

 問いかけにセイディは一瞬言葉に詰まった。言葉を探すようにわずかにさまよった視線に、フェオンが泣きそうにその顔をゆがめる。それにあわてたようにセイディが口を開くが、やはり言葉は出てこない。

「大丈夫さ」

 代わりに答えたのはマーサだった。フェオンの頭に手を乗せ、やや乱暴な仕草で撫でる。大丈夫、ともう一度繰り返し、フェオンの顔をのぞき込んで笑みを浮かべた。

「そんなに心配しなくても、あのバカ息子はそう簡単にくたばりはしないさ」

「……本当に?」

 不安げに聞き返したフェオンにうなずき、

「本当さ。父なる空と母なる大地に誓ってもいい」

 その自信に満ちたマーサの声に、フェオンは安心したように少しだけ笑った。やや落ち着きを取り戻したのか、フェオンは握りしめていたセイディの服を放す。

「同じことをディーンも言っていた」

 そのつぶやきを拾い、マーサの笑みが深くなる。

「だったら、なおのこと心配はいらないね。天と地にかけた誓いは絶対だから」

「それはどういう意味だ?」

 どこか儀式めいた言葉から何か特別な意味があるのだろうということは推測できるが、それだけだ。視線を向けられたセイディが困ったように眉を寄せる。

「あたしは説明は苦手なんだよ……」

 頼むよマーサさん、とセイディがマーサに視線を向け、当のマーサは任せたルーク、とそのまま自分の息子に丸投げした。

 お鉢が回ってきたルークは、仕方がないと苦笑しながらフェオンへと向き直った。しばらく考え込むように首を傾げたあと、一つうなずく。

「簡単に言ってしまえば、身の潔白を証明するとか、絶対に守る誓いだとか、そういう時に使うお決まりの文句です。どうして引き合いに出すかというと、草原の民は自然と共に生活するから、時に嵐などの厳しい天候をもたらす空を父と、恵みを与えてくれる大地を母と呼んで敬うからです」

 そう言ったルークが、ふと何かに気づいたかのように小さく声を上げて笑った。

「もしかすると、草原の民は自然を崇める考え方が根底にあるから、神獣に対して懐疑的なのかも知れませんね」

「それはあるだろうね」

 ルークの言葉にセイディが大きくうなずいた。

「草原の民は何かあれば互いに助け合うけど、必要以上に頼るようなことはない」

「それが草原の誇りというヤツか?」

「ああ、そうさ」

 うなずいたセイディに、だがフェオンは首を傾げた。

「おまえたちの思想は、わたしにはよくわからんな」

 ゆるくかぶりを振ってため息をつくフェオンに、ふっとルークが笑った。

「たぶん、そんなに難しく考える必要はないと思いますよ」

 どういう意味だと問いかけるように視線を向けたフェオンに、ルークは簡単なことですよと告げた。

「ようするに、カーダの民は意地っ張りが多いってことですよ。辛いことがあっても平気なふりをしたがるのが、草原の民の習性なんです」

「まあ、それが行きすぎるとどこぞの老人どものように石頭になるわけだがね」

 どこかいたずらめいた声音でつぶやいてマーサは笑った。

「そういうわけだから、ディーンのことは心配ない。あんたは自分のことに気を使いな」

 ぐしゃりと髪をかき混ぜるような乱暴な手つきでフェオンの頭を一撫でし、マーサは彼女を解放した。

「ちゃんと食べて休まないと、いざという時に動けなくなるよ」

 諭すように優しく告げる。

「わ、わたしは神獣だからそんな心配は必要ない!」

 乱れた髪の毛を両手で押さえ、ムキになったようにフェオンは叫ぶ。だがそれを意にも介さず、セイディは腰に手を当てて言い放った。

「いいから、子どもは大人の言うことを聞くもんだよ。ほら、ルーク、任せたよ」

 反論は許さないとばかりにフェオンの背中を押すと、ルーク共々天幕の外へと放り出した。フェオンは何か言いたげに振り向いたが、目の前で揺れる仕切り布に小さくため息をつくだけだった。

「行きましょう、フェオンさん。必要ないって言いますけど、やっぱりちょっと休んだ方がいいと思いますよ?」

 言いながら、ルークは様子をうかがうようにフェオンの顔をのぞき込んだ。ね? と重ねて促され、フェオンは渋々といった様子でうなずく。それにほっと息を吐き出すと、ルークは手を差し出した。不思議そうに差し出された手を見つめるフェオンに笑みを浮かべ、少女の白い手を握る。

「さ、戻りましょう」

 握った手の小ささに驚きながら、優しくほほえんで告げる。フェオンは戸惑ったように握られた手とルークの顔とを見比べていたが、やがて小さくうなずいた。

 手を繋いで自分たちの天幕へと戻っていくルークとフェオンを仕切り布の隙間から見つめながら、セイディは小さくため息をついた。仕切り布から手を放してつぶやく。

「あれはかなり重傷だね」

「……そんなにひどいのかい?」

 陰鬱なつぶやきに、驚いたようにマーサが目をまたたかせる。それにうなずきながら振り返ると、セイディはもう一度ため息をついた。

「何度か子ども扱いしたんだけど、一度も気づかなかった」

 フェオンとの付き合いはさして長くはないが、常の少女であれば「自分は神獣なのだから人間と同格に扱うな」と言って怒るはずなのだ。それなのに、今日は子ども扱いされたことに気づいたそぶりすらなかった。それほどまでにフェオンの中でディーンの存在は大きいということなのだろう。

「……いいのかな」

 しばらくの沈黙の後、不意にセイディがぽつりとこぼした。そのつぶやきを拾い、マーサは視線で意味を問いかける。

「相手がディーンだからかもしれないけど、死にかけた人間を前に泣き叫ぶ様子はただの子どもにしか見えなかった。たとえあの子が本当に神獣だったとしても、あんな風に人の死に動揺する子どもを戦場に追いやっていいのかな……?」

 胸の前で手を握り合わせて床を見つめるセイディの頭に、マーサはそっと己の手を乗せた。

「よくないと思うのなら、止めてやりな」

 くしゃりとセイディの髪の毛をかき混ぜて告げる。

「もしまわりの連中があの子に何もかもを背負わせて見ないふりをするのなら、その時に異を唱えればいい。少なくとも、私はそうするつもりさ」

 ぽんぽんとあやすように頭を軽く叩き、マーサは手を下ろした。その言葉に弾かれたように顔を上げたセイディはマーサを見つめ、やがてゆっくりとうなずいた。



 己の天幕の中、中心に据えられた炉のそばに座りながらカイルは目を閉じていた。膝の上に乗せられた手は強く握りしめられ、眉間には深い皺が刻まれている。時折何かを振り払うように左右に頭を振っては、強くくちびるをかみしめる。

 耳の奥、こだまするのは少女の悲痛な叫びだ。

『どうしよう、カイル。ディーンが……ディーンが死んでしまう』

 そう叫んで涙をこぼす様は、どう見ても外見そのものの幼い少女でしかなかった。そう考えた瞬間、少女の泣き声がさらに大きくなった気がした。

 耳をふさぎ、幻聴を打ち消すように強くかぶりを振る。だがそれでも幻聴は消えることなく、カイルはよりかかっていた天幕の支柱に頭を打ちつけた。

「……迷うな」

 食いしばった歯の隙間から、己に言い聞かせるかのようなつぶやきが漏れる。護ると、そう決めたのならば迷うな、と。

 フェオンを利用して遊牧民たちを一つにまとめ上げ、帝国に抗うのだと決めた。それで誰かから非難されたとしても、かまわないと思っていた。ならば、迷ってはならないのだ。

フェオンあれは神獣……人間オレたちとは違う生き物……」

 たとえどれほどその外見が幼くとも、子どもではないのだ。人間よりも遥かに強い力を持っているのだから、それを利用することをためらってはならない――。



         ◆



 赫蛇かくだの襲撃があって以降、野営地には常に張りつめた空気が漂っていた。帝国に居場所を知られた以上野営地を移すべきだという意見もあったが、それよりも今後の動向を決めるのが先だという意見が多く、移動は見送られた。

 人々を下手に刺激しないため、フェオンは天幕から出ることを禁じられた。そのことを告げに来たカイルが疲れたように笑いながら、総意が白紙に戻っただけマシだと語っていた。

 連日行われる族長会議は激しさは増したものの、相変わらず進展はなかった。ただ、今までは降伏すべきと主張していた者たちの一部がフェオンが神獣であることを信じ、抗戦派に回っているという。真っ二つに割れた意見がまとまるには、まだ時間がかかりそうだった。

 ディーンの容態は多少は落ち着いたものの、目覚める気配は一向になかった。

 フェオンは一日の大半をディーンの傍らで過ごした。何をするでもなくただ隣に座っているだけだったが、時折血の気の失せたディーンの顔をのぞき込んでは、どうしてわたしをかばった、と答えの返らぬ問いを繰り返した。

 そんなフェオンの様子を天幕の外から見ていたエリックが、耐えかねたように目をそらした。

「気になるかい?」

 誰がとは指定せず、マーサはそう問いかけた。その問いに一瞬目を瞠り、エリックは視線を地面へと落とす。

「……大丈夫なのですか?」

 問いに問いで返したエリックに、マーサは小さく吐息を漏らす。

「それは誰に対しての言葉だい?」

 さらに問いを投げ、けれどもマーサは返答を待たずに口を開く。

「ディーンに関してなら、とりあえずは落ち着いている。フェオンに関しても、おおむね問題ないと言えるだろうよ」

「問題ない……? あれのどこが問題ないと言うんですか!?」

 反射的に叫んだエリックに冷ややかな視線を向け、

「静かにしないと気づかれるよ」

 そう注意してマーサはこちらに背を向けるフェオンを見やった。

「お前の目にどう見えているのかは知らないけれど、見た目ほどひどい状態ではないよ。たしかに弱ってはいるが、まだ心は折れていない。その時が来れば、あの娘はどういう状態であろうが戦うだろうさ」

 そう言って、マーサは目だけを動かしてエリックを見た。

「それで? わざわざここに来たということは、あの娘の力が必要になるということかい?」

 一瞬ためらう様子を見せたあと、エリックは小さくうなずいた。

「今すぐというわけではありませんが、いずれそうなるでしょう」

 今はまだ帝国に降伏すべきという意見が多いが、それもくつがえりつつあった。いずれ抗戦の方向で総意は定まるだろう。そう語ったエリックに、マーサはどこかあざけるように笑った。

「望んだ結果が得られそうというわりには浮かない顔をしているね?」

「……全部お見通しというわけですか」

 苦笑したエリックは顔を上げ、けれどもまた足下に視線を向ける。

「本当にこれでいいのか迷っているんです。私も、そしておそらくはカイル様も」

 つぶやいて、苦悩するように眉を寄せる。

「迷っているのなら、考えな」

 その言葉にエリックは顔を上げた。まっすぐにこちらを見据えるマーサと視線がぶつかる。

「良心に背いてでも最善の方法を採るのか、それとも己の心に従うのか。あるいは他人の決定に従うのも一つの方法かもしれないね? ――どうするにせよ、後悔しない道を選びな」

 そう言うと、マーサは苦悩するエリックを残して歩き出した。



 少し離れた場所で足を止めると、マーサは天幕の方へと振り返った。そこにはまだ、うつむいて立ち尽くしたままのエリックの姿がある。

「面倒くさいことになってきたねぇ」

 つぶやいて、彼女は深々とため息をつく。

 ディーンが倒れる前までは、庇護する者とされる者との立場は明確だったはずだ。――それを認めるかどうかはまた別として。

 それが今では非常に曖昧となってしまった。この状態ではまともに戦うことはできないだろう。――いや、そもそも戦うという選択ができるかどうかもあやしいものである。

「厄介なことをしでかしたもんだね、バカ息子」

 ニヤリと笑い、彼女は告げる。

「お前はこの責任を取らなくちゃいけない。いつまでも寝ているわけにはいかないよ」



 誰もが己の立ち位置、進むべき方向を見失ったまま、唐突に事態は動き出した。

「帝国の皇女、だと……!?」

 エリックの持ってきた報せにカイルは顔色を変えた。うなずき、エリックは言葉を続ける。

「服従か、それとも死か。返答を迫っているとの話です」

「……いずれ来るだろうとは思っていたが、まさか今とはな」

 大きく嘆息し、カイルは右手で顔を覆った。赫蛇の襲撃でこちらの居場所は知られている。攻め込んでくる可能性は考えていたが、よもや指揮官たる皇女自身が来るとは予想外であった。

「考える時間は充分与えたということでしょうね」

 今までのこちらの対応を考えれば、降伏の意思なしと見なして問答無用で攻めてきてもおかしくはなかった。そんな状況の中、少数の供回りで皇女自らがやってくるなど罠の可能性が高い。そう訴えるエリックの考えも理解できたが、この状況だからこそ罠ということはないだろうとカイルは考えていた。帝国が絶対的に優位なのは誰の目にも明らかである。こちらを罠にかけるくらいなら、正面から叩き潰しに来るだろう。

「だが、それもこちらの返答次第だろう」

 相手の意に添わぬ答えを返せば、帝国側は即座にこちらを叩くはずとのカイルの言葉にエリックはうなずく。

「どうされるおつもりですか?」

 エリックの問いかけに、カイルはわずかに考え込む様子を見せた。だが、すぐに迷いを振り切るようにかぶりを振る。

「オレが皇女のところへ行こう。その間に戦えない者たちだけでも逃がしておけ」

「ご自分が犠牲になられるおつもりですか!?」

 顔色を変えて叫んだエリックに、そんなつもりはないと答えてカイルは笑った。

「この報せを受ければ、ほかの族長たちも集まるだろう。そうなればまた、いつものようにまとまりそうもない話し合いとなるはずだ。皇女の機嫌さえ損ねなければ、それなりに時間は稼げると思う」

 だから、と言ってカイルは命じた。その間に可能な限りを逃がせ、と。

 その言葉を残して天幕を出て行く背中に向け、エリックは深々と頭を下げる。

「仰せのままに、我らが長よ」



 帝国の皇女が来訪したという知らせはまたたく間に野営地を巡り、日和見ひよりみ揶揄やゆされる四部族の長の元へも届いた。

「……決断を迫りに来たか」

 一人がつぶやき、大きく息を吐き出した。

「降伏することが最善だろうが」

 また一人が言葉を発し、

「だが、それに納得できぬ者もいるだろう」

 別の一人がそう答えた。

 それでも、とまた別の一人が口を開く。

「こんな年寄りでも、できることはあるだろうて」

 その言葉に全員が視線を見交わし、大きくうなずいた。



 仕切り布を引きちぎるかのような勢いでかきわけて天幕に飛び込んできたエリックに、ルークが驚いたように声を上げた。その声にフェオンが億劫おっくうそうに顔を上げて振り向く。

「エリック、いったい何だって言うんだい? そんなにあわてて」

 常ならぬ様子のエリックに、炉の前で火を調節していたマーサが火箸を置いて問いかけた。

「よかった、全員いましたね」

 問いかけには答えず、エリックが安堵したように息をついた。

「帝国軍が来ました」

 その言葉に三人は息を呑む。どういうことだと問うマーサを手で制しながら、エリックはセイディがこちらに来たら逃げるようにと告げた。

「待て、エリック。逃げろとはどういう意味だ」

 そんなに相手の数は多いのかと問いつめるフェオンのうしろで、ルークが不安げに胸の前で手を組む。そんな息子を安心させるかのように、マーサはそっとルークを抱き寄せた。

 自分を見上げて問いかけてくる少女に、エリックは一瞬迷うように視線を揺らした。彼女に状況を説明しろとは言われていないが、してはならないとも言われていない。どうするべきか迷い、エリックはやがてゆっくりとかぶりを振った。

「いいえ、帝国の皇女とその供で、十名ほどだと聞いています」

 だが離れた場所に大軍が控えている可能性もあるとエリックは付け加えた。

「エリック、逃げろってのは族長の指示かい?」

「そうです」

「その族長はどうしているんだい?」

 マーサに重ねて問われ、エリックは口ごもった。ためらいがちに口を開く。

「……カイル様は時間を稼ぐと言って、皇女の元へと向かわれました」

 その言葉を聞いた瞬間、フェオンが弾かれたように立ち上がった。風のように天幕を飛び出そうとしたその寸前、エリックに腕を掴まれる。

「どこへ行くつもりです?」

「どこへ、だと……!?」

 問われたフェオンはもどかしげに顔を上げた。そんなもの、決まっている。

「皇女のところへだ!」

 叩きつけるように声を上げる。

「帝国は返答を迫りに来たのだろう? ならば意に添わぬ答えを返された場合、その場で叩き潰そうとしてもおかしくはない。寡兵であるならば、神獣を連れてきているはずだ! 奴が来ているならば、わたしは行かねばならない!!」

 エリックの手を振り払い、フェオンは天幕の出入り口へと向かう。仕切り布を持ち上げ、そこで振り返った。

「大丈夫だ」

 そう言ってフェオンは微笑んだ。

「あとから行くから、先に行ってくれ」

 ディーンを頼む。ひどく真剣な眼差しでそう告げると、引き留める声を振り切って少女は駆け出した。



         ◆



 野営地の北端には、天幕の群を背にするようにして幾人もの遊牧民の戦士たちが立っていた。彼らが視線を向ける先にいるのは、十名にも満たぬ数の異国の兵士たちだ。

 その兵士たちの先頭に立つのは、まだ十代後半と思われる娘であった。夜闇を思わせる暗色の長髪を背に流し、身にまとうのは黒を基調とした軍服だ。ドレスで着飾り、あでやかに笑んだならば男女を問わずにとりこにできると思われる美貌だったが、今はどこか不機嫌そうにそのくちびるを引き結んでいた。

 娘は顔に落ちかかる髪をわずらわしげに背に払うと、毅然きぜんと顔を上げた。

「わたくしはオーレリア・ターラ・ロアヴィル、ロアヴィル帝国の皇女です」

 そこで一度言葉を聞り、挑むようにその闇色の瞳で人々を睥睨へいげいする。

「あなたがたの長と話をするために参りました」

 どこか意図的に感情を抑えたような硬い声音でそう告げると、娘は返答を求めるようにもう一度周囲へと視線を投げた。だが遊牧民の男たちはその視線から逃れるかのごとく互いに顔を見合わせ、戸惑ったように言葉を交わすばかりだ。

 そんな男たちの様子にため息をつくオーレリアを見やり、隣に立つ赫蛇が息を吐き出すようにして笑った。

「何を無駄なことをしている。さっさと殺してしまえばいい」

 そそのかすようにそうささやいた赫蛇に、オーレリアは眉を吊り上げた。己よりも頭一つ以上は高い赫蛇を見上げ、睨みつける。

「わたくしは話し合いのためにこの場に来たの。彼らの返答次第では戦闘もやむを得ないかもしれないけれど、それはあくまでも最後の手段よ」

 声を荒らげることはなく、だが明確な怒りを示したオーレリアに赫蛇は小さく笑った。

「皇女殿下の仰せのままに」

 笑みを含んだ声でそう言うと、ひどく優雅な仕草で一礼して見せた。

 慇懃無礼なその様にオーレリアは強くくちびるをかみしめる。だが遠巻きにこちらを見やる遊牧民たちの一角がどよめき、不自然に揺れ動くのに気づいてその表情を取り繕った。

「どうやらお待たせしてしまったようだ。申し訳ない、皇女殿下」

 そう言いながら現れたのは、ユンア、セロザ、クオミ、テフォラの四部族の長たちだった。

 己の前に立つ老人たちを順番に眺めると、オーレリアはゆっくりと口を開いた。

「今日わたくしがこの場を訪れた理由は、言わずともおわかりでしょう」

 服従か死か、返答をいただきたい。そう続けようとした矢先、四人の長たちが現れたのとは別の一角がざわめきだした。

 人垣をかきわけるようにして現れた青年を見やり、長たちの一人が驚いたように声を上げる。

「ソジュ族の、なぜここに!?」

 その声で四人に気づいたカイルが顔を上げ、ふっと笑みを浮かべてつぶやいた。やはり来ていたか。

「理由は答えずともおわかりだろう?」

 カイルのその言葉に四人の長の顔色が変わった。しかし口を開きかけたところでオーレリアに遮られる。

「あなたも族長ですか?」

 問いかけに、カイルはオーレリアの方へと向き直るとうやうやしく一礼した。

「いかにも、オレがソジュ族を預かる者です。皇女殿下」

 なるほどとうなずき、オーレリアは問いを重ねる。

「過半数の族長がお集まりということは、この場で返答がいただけると思ってよいのですね?」

「そう思っていただいて問題はない」

 四部族の長の一人がうなずき、

「我々は帝国に逆らわぬ」

「では……」

 喜色をにじませて声を上げたオーレリアを遮り、だが、と別の一人が言葉を続ける。

「帝国に従うこともせぬ」

「……どういう意味です?」

 隠しきれない戸惑いを浮かべたオーレリアの言葉に、また別の一人がゆっくりとうなずいた。

「我らは家畜を追って草原を渡る遊牧の民。古来より他国と争うことなくひっそりと暮らしてきた。そしてこれからもそれは変わらぬだろう」

 だから我々が今まで通りの生活を送ることを許してほしい、そう訴えた長たちにオーレリアはためらう様子を見せた。

 答えられずにいる彼女の隣で、不意に赫蛇が笑い声を上げる。

「く、はは……っ! ――逆らいも従いもしない? そんな都合のいい言い分が通ると本気で思っているのか?」

 愚かな、とさげすむように冷たい声で告げると、赫蛇は長に向けて左手をかざした。その手のひらに炎が生み出されるのを見て、オーレリアが静止の声を上げる。だがそれを無視し、赫蛇は手のひらを振るようにして炎を放った。

 赫蛇の手を放れた炎はふわりと放物線を描きながらその質量を増していき、ちょうど頂点に当たる場所で勢いよく弾けると長めがけて降り注いだ。長は動くことも叶わず、目を見開いて自分に向かってくる炎を凝視する。

「逃げろ……!」

 かばうように己の顔の前に腕を掲げながらカイルが叫ぶが、その声は間に合わない。

 ドン、と重い音を立てて降り注いだ炎が爆発し、舞い上がった土埃が人々の目を覆い隠した。



 ゆっくりと収まっていく砂塵の中に一つの影が浮かび上がった。ひどく小さなその影は、まるで背後に何かをかばうかのように大きく手を広げている。一陣の風が残っていた土埃を吹き払い、その人影を露わにした。

「……来たか、小鳥」

 どこか楽しげにつぶやいた赫蛇に、その小さな影はうなずきで答えた。

「ああ、来たとも」

 お前には借りがある、そう告げたのはフェオンだった。

 背後の老人たちの無事を確認すると、フェオンはカイルへと視線を投げた。

「ここはわたしが引き受ける。お前は退け」

 少女の言葉にカイルが息を呑む。

「フェオン……! なぜ来た!?」

 血を吐くようなカイルの叫びに、フェオンはぱちりとまばたきした。どうして来ないと思うのだろうか、そう問いつめたいような思いに駆られ、苦笑を浮かべる。

「わたしはおまえたちを護ると言った。だからおまえたちを置いて逃げることなどありえない」

 振り向いてそう告げると、それに、と付け加えてフェオンは笑った。

「赫蛇には借りがあるからな。利子がつかないうちに返しておきたい」

 冗談めかした声でそう言うと、その声音と表情を真剣なものへと戻す。

「だからここはわたしに任せて、おまえたちは逃げろ」

 ためらうように視線を揺らし、カイルは拳を握りしめた。そのくちびるから言葉が発される直前、

「――わたしが負けたならば降伏しろ」

 感情のうかがえない声音で告げられた言葉に、カイルはとうとう叫んだ。

「我々に誇りを捨てろと言うのか!?」

 その言葉に、フェオンはそっとかぶりを振る。

「最終的にどうするのかはおまえたちの自由だ」

 ただ、と付け加える。

「わたしが、おまえたちに死んでほしくないだけだ」

 これは自分の身勝手な願いだと、少女は淡く笑ってそう言った。

 言葉を失って立ち尽くすカイルを見やり、フェオンは笑みを浮かべてもう一度促す。

「わたしなら大丈夫だ。早く行け」

 ためらうようにフェオンと老人たち、そして赫蛇を順番に見やり、やがてカイルは小さくうなずいた。老人たちをうながして走り出し、けれどすぐに足を止める。振り返らぬまま、彼は告げた。

「……

 それだけを告げると、今度は止まらずに駆けていく。



 走り去るカイルらのうしろ姿からフェオンに視線を移すと、オーレリアは厳しい顔つきで口を開いた。

「これは降伏の意思なしと見なしてよろしいのですか?」

 その問いに、否とフェオンはかぶりを振った。

「答えが欲しくば、わたしを倒したあとでもう一度彼らに問うがいい」

 もっとも、と挑発するように笑みを浮かべて宣言する。

「おとなしく倒されてやる気などないがな」

 その挑発に乗ったのは赫蛇だった。

「俺に勝てると思っているのか?」

「負けるわけにはいかない」

 そう答えると笑みを消し、フェオンは身構えた。

 どこか追いつめられた様子のフェオンと違い、余裕の表情の赫蛇は邪魔だと言って押しのけるようにしてオーレリアを下がらせる。

 視線を交わしたのは一瞬。吹き抜けた風を合図とするように、フェオンと赫蛇は同時に動き出した。

 先に仕掛けたのはフェオンだった。低い姿勢から踏み込むと、下から上へと右腕を一閃させる。その軌道に沿って打ち出された鋭い風の刃は、赫蛇の炎によってすべて相殺される。

 風と炎のぶつかり合いによって巻き上げられた砂塵を利用して赫蛇の背後へと回り込むと、フェオンは手にまとわせた風を思い切り叩きつけた。衝撃で吹き飛ばされた赫蛇に向け、追い打ちの刃をさらに射出。

 だが必殺のはずの一撃は、うるさそうに振られた赫蛇の腕によってことごとく打ち消された。

 目を見開いて立ち尽くすフェオンに赫蛇が音もなく肉薄する。鞭のようにしなった腕がしたたかに少女の体を打ち据え、弾き飛ばす。

 受け身を取ることもできずに地面を転がったフェオンめがけて無数の炎が降り注いだ。確実に己に当たると思われる軌道の炎だけを風の刃を打ち出して相殺すると、フェオンは頭部をかばうように腕を上げ、身を丸くして衝撃に耐えた。爆風で転がされながら、それでもどうにか立ち上がる。

(やはり、今の状態で敵う相手ではなかったか)

 荒い呼吸を繰り返しながらそう考える。以前の戦いから予想はついていたが、彼我の戦力差が大きすぎる。加えてフェオンは万全の状態だとは言い難かった。

(わたしを信じる者がもう少し多ければ、ここまで劣勢に立たされることもなかったのだろうがな)

 思わず脳裏に浮かんだ考えに顔をしかめる。

 言っても詮無いことだとわかっているのに、どうしても考えてしまう。白凰フェオンを求める者がもっといたならば、と。

 神獣の力とは、器とそれに満たされた水のようなものである。神獣それぞれが持つ力の最大値が器であり、水――その時点でふるえる力とは神獣を求める人間の数である。つまりどれほど器が大きかろうと、人間に求められない神獣は全力で戦えないということを意味する。

 あるいはディーンが回復していればまた違っていたのかもしれないが、彼女の祭司は未だ死の淵にある。神獣の存在を支えるには、求める人間の数があまりにも少なかった。

 転化もできないほどに弱った自分を思い知りながら、せめて遊牧民たちが逃げる時間だけでも稼がなければならないとフェオンは考える。

 次第に防戦一方になってきたフェオンに、つまらなさそうに赫蛇が鼻を鳴らした。

「大口を叩いたわりにはその程度か? これ以上つきあう義理はないな」

 そのつぶやきと同時に赫蛇の体が膨らんだように見えた。ざわりとのたうちながらその髪が伸び、赫蛇を覆う。まるで赤い毛玉のようなそれは質量を増し、大蛇へと姿を転じた。

 あまりにも巨大なその姿に、思わずフェオンは立ちすくんだ。大きく開かれたあぎとを見上げながら、ここで死ぬのだと直感した。

 いつかも同じような光景を見たと考え、その時はディーンがかばってくれたのだと思い出す。

 セイディと口喧嘩してはルークが仲裁しようと奮闘し、傍観者を決め込むディーンに抗議したこと。ディーンとマーサの物騒極まりない親子間の挨拶に驚いたこと。フェオンに懐疑的なエリックと口論したこと。そんなたわいもない、彼らと過ごした日々が走馬燈のように浮かんでは消えていく。


『ああ、約束だ。帝国軍を草原から追い出したら、その時にまた来よう』


 いつかの自分の声が耳によみがえる。

 ディーンに連れられて野営地を抜け出し、共に高台から草原を見下ろしながら語った言葉。一緒に夕焼けを見ようと約束した。けれど、その約束はもう守れないだろう。

「……すまない、ディーン」

 つぶやきと共に、涙が一粒頬を伝って地面へと落ちる。それと同時に、赫蛇がもたげた鎌首を振り下ろした。


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