六章 失われる翼

勝利と約束

リーチェ

1928年 9月2日 フィウメに降り立ちて

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 軍港へ向かうフェラーリンとビアンコ・エ・ネッロ隊の面々と別れて、民間船が集う港の側に機体を着水させる。埠頭に降り立つと少しだけふらついたが、部下を背後に従え、悠然と葉巻をくゆらせ待ち受けていたバカルディが肩を支えてくれた。


「勝ったな、空の騎士さん。立派だったぜ」


 バカルディはそう言うと、周囲を見ろと言うように手を振ってみせる。リーチェが視線を上げると、ドラゴロッソ号を陸に上げようと作業をしていた男たちが手を止め、拳を突き上げたり敬礼したりと思い思いの方法でアズダーヤ隊への勝利を祝ってくれていた。リーチェも少しだけ微笑み、敬礼を返す。


「ありがとう。……ブランカはどこに墜ちましたか?」

「医者先生の住んでる丘の方角へ、敵の竜と絡み合って墜ちていくのを見た。車は用意させてある。すぐにも行きたいだろう? 俺が運転しよう」

「お気遣いありがとうございます。でも、一人で大丈夫です」

「そうかい、なら助手席に乗せてもらえるかね? お嬢さんの友人のお見舞いも兼ねて、医者先生に挨拶しておきたいんだ」


 そこまで言われてようやく、身体を心配されているのだと気付いた。一人でまともに立てない状態なのだから無理もない。地上に降りたばかりで、身体を空に置き忘れたような浮遊感に包まれているのも自覚する。確かに、こんな状態で運転すれば事故を起こしかねない。


「わかりました。すみませんが、運転もお願いします」

「お安い御用だ。助手席でも、後ろでも、好きな方に乗ってくれ」


 あまり会話したい気分ではなかった。頭が重く、軽い吐き気がある。深呼吸をしてから車に乗りこみ、後部座席に身を落ち着けて流れる街並みに目を向ける。道行く人々は普段と変わらぬ日常を過ごしているようにしか見えず、先ほどまで上空で空戦が行われていたとはとても信じられない。


 信じられないと言えば、リーチェ自身もそうだった。ブランカがズメイと一緒に墜ちて生死不明という状況にもっと動揺してもよさそうなものだが、落ち着いている。別々に飛ぶようになり、生死を共にしなくなればこんなものかと思う。結局のところ、今まではブランカが墜ちれば自分も死ぬという現実があったからこそ、ブランカの負傷に心動かされていたのかも知れない。


「見な。お嬢ちゃんが守った街と暮らしだ」


 市街を抜けて丘へと続く坂道からは、多くの人々が行き交うフィウメの街が一望できた。中央を流れる河が国境であることなど、知らなければ誰にもわかりはしない。観光と貿易に賑わう、美しく活気のある街だ。こんな場所に戦いを持ちこんだのはむしろリーチェの方だという思いもあれば、素直に喜ぶ気にはなれなかった。そんな彼女の心境を知ってか知らずか、バカルディは続ける。


「フィウメはいい港だ。地中海各国との貿易とアドリアの海の幸がこの街を潤してくれる。俺たちは国民である以前にフィウメの市民なんだと、俺はそう思ってる。だから、恨みに囚われ過去の栄光にすがりつく、ただそれだけのために大事な仲間の船を沈めてくれた青蜥蜴どもを退治してくれたことには感謝してるんだ。フェラーリンの旦那と、お嬢ちゃんの白い竜にも、よろしく伝えてくれよ」

「……はい」

「つまらん話をしてすまんな。だが、お嬢さんの飛んでる姿を見て……なんて言うかな、心が震えちまったんだ。あんたの白い竜……ブランカだったな? 大丈夫、きっと無事さ。医者先生は腕利きだ。内科の診断はともかく、外科手術にかけては右に出る者がいないってフィウメじゃ有名なんだぜ」

「…………はい」


 バカルディは慰めを口にするが、楽観はしない方がいいだろう。竜の治療には、専用の道具と竜の身体構造への深い理解が必要となる。今度こそ、ブランカは飛べなくなるかも知れない。それどころか、命すらも。覚悟だけはしておくべきだった。


「着いたぜ。ほら、行ってやりな」


 車が止まるなり、リーチェは外へ飛び出していた。走り出して、まだ自分が重たい飛行服を着たままであることに気付く。走るのもままならず、気だけが急いて足がもつれそうになる。巨大な天幕の下には、うつぶせる白い巨体が見えた。白い竜鱗は、ぬぐいきれずに残った血の赤でコントラストを際立たせている。その脇には数人の人影があり、ヒポクラテス医師を含め、みな指示を受けて忙しそうに走り回っている。外された装具は地面に転がしてあるが、よく見れば革がちぎれている部分もある。


「…………?」


 違和感のある風景だった。その原因は、治療の中心であるべきヒポクラテス医師自身が指示を受けて動いていることに起因するものだと、すぐに気付く。どうやら指示を出している人物はブランカの陰に隠れているらしく、ここからでは姿が見えなかったが、その穏やかでいながら従わずにはおれない口調は間違いなく、リーチェもよく知る人物のそれだった。


「ジニーさんは大鍋でお湯を沸かしてきてちょうだい。アレッサンドロさんは清潔なシーツを、ヒポクラテスさんはこちらへいらして傷の縫合を手伝って下さいな」


 ブランカが尻尾を動かした拍子に、隠れていた人影がはっきりとする。世界最高峰の竜医、ヴァレリアナ・アレーニア。そして彼女を手伝うアレッサンドロ・トニーニとヴィルジニア・トニーニの姿がそこにあった。


「おばあさま! ……ジニーに、サンドロおじさんまで」

「あらリーチェ、おかえりなさい。貴方はブランカに声をかけてあげなさいな」

「どうしてここに?」

「アレッサンドロさんに飛行艇を出していただいたの。操縦桿も少しだけ握らせていただいたのよ。初めて馬に乗ったときを思い出して、楽しかったわ」

「そういうことではなく……」

「ねえリーチェ。この子はきっと、貴方のために傷ついたのでしょう? それに比べたら、わたくしがなぜここにいるのかなんて、些細なことではなくて?」


 返す言葉もなかった。ブランカの傷を直視したくない自分の弱さを指摘されたに等しい。意を決して向き直ると、そこには弱々しくも穏やかな光を宿した瞳でリーチェを見つめるブランカがいた。白い竜鱗は地と泥に汚れ、呼吸は速く浅い。怪我の程度は酷く、竜爪でえぐられたのだろう腹部からはとめどなく血が溢れていた。ヴァレリアナの調合した麻酔薬が効いているのもあるだろうが、リーチェを見つけて安心したように表情を緩める健気な在りように、涙が浮かぶ。


「ブランカ…………ありがとう。ごめんね」

 首に抱きつくと、わずかに首を横に振る動きが伝わってきた。

「うん、うん……じっとしてていいから。おばあさまが治してくれるからね」

 甘えるように、頭を押し付けてくるのがどうしようもなく愛おしかった。

「アズダーヤ隊に勝ったよ。ブランカ、きみのおかげだ。本当にありがとう」


 身体を放すと、眠たげで名残惜しそうな瞳と視線が合う。ブランカの求めている言葉、リーチェにかけて欲しい言葉とはなんだろうと考える。


「ブランカ……」

 ひとつしか、思いつかなかった。

「治ったら、きみに乗って飛んであげる。約束だよ」


 そんなことしかできない情けなさ。

 忙しさにかまけてそれさえしてこなかった後悔。

 なによりブランカのただそれだけしか望んでいない健気さ。


「ブランカ……本当に愛してる」


 口にした言葉、頬を濡らす涙は自己憐憫でしかなく。

 ブランカに愛される資格のない自分を、ただただ呪うしかできなかった。

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