勝ちて残りし者は

リーチェ

1928年 9月2日 フィウメ上空にて

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 かつてオーストリア・ハンガリー帝国領であったころからアドリア海でも有数の港湾都市として栄えていたフィウメの港を眼下に見下ろし、海へと抜ける。M.39A水上戦闘機を駆るフェラーリンとの連携を前に、アズダーヤのエース機もうかつに手を出せずにいる様子だった。部下と合流し、数で押し包む気だろうか。


「まあ、慎重なのは悪いことじゃないよね」


 ブランカはすでに海上でズメイとの空中戦を始めている。鋭角的で強引な機動で襲い掛かるズメイを、優雅な曲線を描いて飛ぶブランカが上手く翻弄しているようだ。あちらはブランカに任せておけば問題ないだろう。


「けど、ここまで引きずりこまれた時点で君たちの負けは決まりだ」


 フェラーリンの介入を、少なくともアズダーヤ隊の隊長であるゴットフリート・フォン・バンフィールドは不審に思っているはずだ。しかし、撤退すべきとの判断を下すには材料が足りず、ズメイがブランカの挑発に乗って深追いしているのもあって撤退の好機をつかめずにいるのだろう。彼らにズメイを見捨てる選択肢はない。


 そちらの指示に従う。


 リーチェの送った手信号に親指を立ててみせたフェラーリンの後ろにつける。フィウメの空には待ち伏せのためにあつらえたような雲がいくつも浮かび、見通しを悪くしていた。そのひとつの下を潜り抜けるように機体を操る。飛行機乗りなら、敵から逃げるときでもなければ雲に突っ込むのを嫌がるもの。案の定、エース機とそれを追うアズダーヤ隊の本隊も、雲の下を潜る軌跡を描く。


「さあ、おいで」


 フェラーリンに合わせてくるりとロールして、背面になった状態で操縦桿を引く。加速度で座席に押さえつけられ、全身の血が足に集まるその一瞬、雲塊に隠れた黒い影を視界に捉えることができた。気にせず急降下して、アズダーヤ隊もそっくり同じ機動で追随してくるのを確認してから操縦桿を引く。ブラックアウトと海面激突の危険性は、飛行機乗りから周囲への注意力を奪い去る。


「……ッ!」


 まぶたが落ちかけ、操縦桿を握る右手から力が抜けそうになる。空戦酔いでふわふわとした高揚感に包まれているのがなんとも言えず心地よい。海面すれすれで引き上げに成功し、風圧でしぶいた海水がキャノピーを濡らした瞬間には快哉を上げたい気分になった。リーチェとブランカの任務がここに果たされたのだ。


「我らが狼の口へようこそ、だ! さあ、存分に楽しんでいってくれ!」


 誰に聞かせるわけでもない口上と共に、上を見上げる。そこではすでにいくつもの銃火が閃いていた。間を置かず、逃げ惑う青灰色のいくつかが炎に包まれる。戦果を誇るようにくるりと優雅なロールを決めてみせたのは、『ビアンコ・エ・ネッロ』曲技飛行隊に所属するフィアットCR.20『イドロ』水上戦闘機を駆るフェラーリンの部下たちだった。雲の陰に身を潜めていた彼らは、アズダーヤ隊がリーチェたちを追って急降下に入り、回避機動が取れなくなったタイミングを見計らって攻撃を仕掛けたのだ。先の戦争ではまだ少年だった彼らだが、フェラーリンに鍛えられた連携は手練れの戦闘機乗りを相手にしても引けを取らない。


「墜とせたのは……三機か。上出来だね」


 エース機とズメイを除けば、残り三機。仲間が炎に包まれ墜落する間に態勢を立て直した彼らは、リーチェたちの追撃を諦めてフェラーリンの部下たちとのドッグファイトを開始する。それぞれ一対一。条件は五分と五分。最悪でも不時着できれば行き交う船舶に拾ってもらえるだろう。白昼の大空中戦は、すでにフィウメ市民や居合わせた船乗りたちの注目の的となっている。


「ふふ、罠にはめられるのはどんな気分かな、エースさん?」


 アズダーヤ隊の十八番を奪う奇襲作戦はもちろん、ズメイと隊員をエース機と分断するのも、作戦のうちだ。空戦は一度始めてしまえば終えるのは容易ではない。エース機が隊員とズメイを見捨てて逃げに徹するなら話は別だが、アズダーヤ隊の長であるゴットフリート・フォン・バンフィールドは命惜しさに仲間を見捨て、目的を放棄するような男ではないとリーチェは踏んでいた。


「援護よろしく、フェラーリン!」


 エース機を仲間の下には向かわせない。リーチェがエース機の後ろにぴったりつけて、フェラーリンはエース機の頭を押さえる位置に占位し続ける。気を抜けば一瞬で背後につかれそうなトリッキィな動きを注視しつつ、発砲のタイミングを計る。この追い詰められた状況でも機動に焦りを感じさせないのは見事だった。それだけ、自分の仲間たちの技量を信頼しているのだろう。


「おっと……フェラーリン、よろしく!」


 緩急をつけたシザース機動でリーチェの追撃をかわそうとするエース機。リーチェはそれに付き合わず、ブレイク。すかさず攻撃に移ろうとするエース機の後ろに、今度はフェラーリンがつける。リーチェは少し高度を取って、いつでも割って入れるように備える。ちょうど役割を交代する形だ。


「ふふ。ぼくとフェラーリンが組めばこんなものさ」


 空戦の組み合わせについてはいくつかのパターンを考えていたが、もっとも厄介なエース機にフェラーリンと二機で当たる組み合わせになったのは運がよかった。彼と組んで飛ぶに当たって、ブランカと一緒にズメイへ仕掛けた機織り戦術を練習する時間はなかったため、先の戦争から使い続けているシンプルなリレー戦術を選択した。エースを相手にするなら、戦術はむしろシンプルであればあるほどよい。


「それにしてもよく粘る……!」


 敵も歴戦のエースとはいえ、そろそろ体力の限界のはずだ。幾度もやり合ったことで、操縦のクセも掴みかけている。右利きゆえの左旋回の多用、右足が義足であるがために左ラダーを優先して使う回避機動の取り方。そうしたクセは疲労が溜まるほどに顔を出し、機体は左へ左へと流れていく。


「ここか!」


 トリガーを弾くと、左に旋回しかけたエース機の機首付近に水柱が立ち並ぶ。一瞬だけ硬直した敵機の後ろから、フェラーリンが銃火を閃かせる。放たれた銃弾が、エース機の胴体下部に増設されたラジエタを貫いたのをリーチェは見た。これで勝負はついたと確信する。冷却機能を失ったエンジンは、すぐにオーバーヒートを起こして焼き付いてしまうはずだ。


「フェラーリン! 後はぼくに任せて!」


 叫びが聞こえたわけでもないのだろうが、リーチェの意図を汲んだフェラーリンは上昇して周辺警戒を始める。彼としては部下が気になるところだろうが、最後の詰めを誤りたくない。アズダーヤ隊の長、ゴットフリート・フォン・バンフィールド。彼に降伏勧告をするからには、万全を期したかった。


 空戦の勝負はついた。これ以上やれば、殺人になる。


 もし敵機の戦闘能力を奪えたのなら、降伏勧告を行う。これは予め決めていたことだ。フェラーリンは難色を示したが、協力の条件だとリーチェが宣言したことでようやく折れてくれた。実際、甘い考えと言われても仕方がない。しかし、相手がどう思っているにせよ、少なくともリーチェは戦争がしたいわけではないのだ。そして、フェラーリンの立場から考えればアズダーヤ隊の構成員は即射殺の対象である以上、彼に降伏勧告をさせるわけにはいかない。民間人であるリーチェが、賞金首としてのバンフィールドに呼びかけなければならないのだ。


「手信号……は、通じるか怪しいな。えっと、発光信号を……」


 ラジエタ以外にも被弾したのかも知れない。速度を落とし、海面すれすれで姿勢維持に専念するエース機の横につける。久しぶりに手持ち式投光器を構えてみたが、自然とモールス信号表が頭に浮かんでくる。意外に憶えているものだと、我ながら感心しつつも文面を考え、遮光板を素早く開閉させる。


『コウフク セヨ ブカ ノ イノチ ヲ ホショウ スル』


 一度だけでは読めたかどうか心もとない。もう一度同じ文面で送ろうと左手に持ち替えていた操縦桿を握り直したそのとき、エース機のコクピットから黒いものが突き出された。初めは、返答を送ってよこすための投光器だと思った。


 違う。

 エース機との空戦が頭をよぎる。

 リーチェはすでに一度、あれを見ている。


「信号弾……!」


 とっさに操縦桿を左に倒して身体に引き付け、離脱を図る。軽い発射音と共に放たれた信号弾は、盛大に炎と煙を引きながら尾翼をかすめていった。一度発射するところを見ていなければ、まともにぶちこまれていたかも知れない。コクピットに直撃しようものなら大火傷だ。敵はまだ、戦うことを諦めていなかった。


「バカ野郎!」


 回避機動を取りながら、叫ぶ。機首をリーチェへ向け、銃弾を撃ちこもうとしたエース機は、その直後、フェラーリンの放った機銃弾によってエンジンに大穴を空けられ、機首から盛大に火を吹いていた。炎はそのまま操縦席を舐めつくし、機体は姿勢を崩してひっくり返るように海へ叩きつけられ、大破した。翼は折れ、ぶすぶすと黒煙を上げながら海へ沈んでいく機体から、人が脱出した様子はなかった。


「……ありがとう、フェラーリン」


 横に並び、心配そうな表情でこちらを見つめるフェラーリンに、手信号で怪我はないと伝える。生きているにせよそうでないにせよ、エース機のパイロットのことは墜落したパイロットの救助とアズダーヤ隊の逮捕のために待機しているイタリア海軍の船舶に任せるしかないだろう。


 落ち着いたところで空を見上げれば、そこには三機編隊で近づいてくる白黒の水上戦闘機の姿があった。フェラーリンの部下たちも全員無事らしい。東の方角を見渡せば、はるか遠くに消えようとする飛行機の姿を一機だけ見つけることもできた。どうにか逃げおおせたらしいが、エースとズメイを失った彼らにできることはあまりにも少ない。これでアズダーヤ隊も終わりだと確信する。


 そうして、ようやく気付く。

 どうかしていたと、遅れて思う。


「ブランカ……?」


 気高き白竜が、空から姿を消していた。

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