逃飛行

リーチェ

1928年 9月2日 アズダーヤ隊の追撃をかわしつつ飛行中

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


 目まぐるしく回転する視界が、空戦の高揚が、リーチェを酔わせる。リーチェたちの逃走方向を読んだエース機が、ズメイと部下の機体を指揮して巧妙に進路を妨害しつつ攻撃を仕掛けてくる。ゴットフリート・フォン・バンフィールド元少佐。アズダーヤ隊の指揮官と目される片足のエース。個としての操縦技術ならともかく、編隊指揮に関してはリーチェも彼に敵わないだろう。


「先行して、ブランカ!」


 腕を大きく前へ振るジェスチャで、ブランカへ指示を出す。ここにきて、ブランカの飛び方に疲労が見え始めたからだ。ズメイとの激しい空戦を経て、そのままアズダーヤ隊からの逃走に入ったのだから無理もない。敵エース機がリーチェをも上回る猛加速でブランカの進路妨害にかかっているのが、それに拍車をかけている。彼らは、迂闊にも縄張りへ踏みこんだリーチェたちをここで墜とすつもりだ。


「いいね、おかげで演技する必要がない」


 こうなると、エース機が空に上がる前にズメイに手傷を負わせられたのは幸いだった。いつもならエースと連携を取って仕掛けてくるはずのズメイだが、今は後方から追いすがる敵部隊の中で守られるようにして飛んでいる。リーチェとブランカを相手取っての時間稼ぎで負った傷は、ズメイの戦闘力を大きく削ぎ落としたことだろう。


「くそ、速いな! もう追いつくか!」


 急迫するエース機からバレルロールで射軸をずらす。執拗に左後方から攻めてくる敵機の意図は明白で、こちらを内陸に押し込んで海に出させまいとする動きだ。しかし、どんなに攻撃が厳しくても海へ向かって飛ぶしかない。敵国上空を追い回されて燃料切れで墜落なんて間抜けを晒すつもりはないし、真っ直ぐ追撃してくる敵本隊に捕まれば、待っているのは壮絶な空戦の末の確実な死だ。


「これで片足が義足だなんて、誰が信じるんだよ、っと!」


 操縦桿を手前に引いて上昇しつつフラップを使って急減速、機首が真上を向いたところでラダーを使って倒れ込むように方向転換。その一瞬、互いを頭上に捉えて視線が交錯する。壮年の元少佐は、リーチェを見て微笑みを浮かべたようにも見えた。しかし、確認する間もなく機体は馳せ違う。エースにも色々いるが、敵に回して厄介なのは闘争心をむき出しにして飛ぶ輩よりも、こういう淡々と当たり前のような機動で飛ぶやつだとリーチェは知っている。


「……しまった、片足かどうか確認できなかった」


 注意していても見えたかどうかは怪しいが、それ以上に空戦の最中に微笑むその表情に引きつけられてしまった。フェラーリンほど男前ではなく、多少険のある顔立ちではあるが、まず美男と言ってよいだろう。そして、至近距離をすれ違ったおかげで機体もよく観察できた。出発直前に入ってきた情報通り、エース機は1925年のシュナイダートロフィーにイギリス代表として出場する予定だったスーパーマリンS.4をベースに改装したフロート型水上戦闘機らしい。


「欠陥機って聞いたけど、よく飛ぶ!」


 水上機限定のエアレースであるシュナイダートロフィー専用機としてイギリスで開発されたS.4だが、レース前のテスト飛行で墜落したために公式速度記録は残していない。しかし、後継機であるスーパーマリンS.5が1927年の大会を制したことを考えても、基本設計は悪くないというのがジニーとアレッサンドロの評価だった。


「墜落する気配は……ないよね、流石に」


 おそらくS.5開発の参考とするために海から引き揚げられたこの機体がどのような経緯でアズダーヤ隊の手に渡ったのか、そして戦闘機へと改修されるに当たりどのような改造を施されたのかは不明だ。しかし大会時の記念写真で見たよりも隆起した機首からすると、機銃を積んで重くなった分を大馬力のエンジンへの換装で補っているらしい。墜落の原因は詳しく伝わっていないが、それも後継機からのフィードバックで改善したのだろう。性能は折り紙付き、相手にとって不足はない。


「さすがに、数的不利のままやり合える相手じゃないね」


 S.4とやり合っている間に、本隊も接近してきている。彼らの編成は以前と同じハンザ・ブランデンブルクCCとフェニックスAの混成で、フィウメまでの誘引に成功すればフェラーリンの部下が引き受けてくれることになっている。イタリア空軍が昨年度に正式採用したフィアットCR.20『イドロ』水上戦闘機に乗る腕利きの飛行機乗りである彼らなら、アズダーヤ隊が相手でも対等以上に渡り合える。


「……ん?」


 よく見ると、いつの間にか編隊の中からズメイの姿が消えている。先ほどまで本隊に守られるような位置で飛んでいたのに、どこへ。嫌な予感にかられ、周囲を見渡したそのとき。前方で、竜の叫びが空へと響き渡った。


「ブランカ!?」


 純白の飛竜に絡みつくように飛ぶ、青灰色の悪竜。大人しくしていたのは演技だったかと歯噛みする。おそらく、エース機がリーチェの注意を引き付けている間に低空をすり抜け、先行していたブランカを襲ったのだ。手酷くやられたにもかかわらず、まだそれだけの力を残していたことに驚嘆する。


「……くそ、こっちも行かせてはくれない、か」


 ブランカの救援に向かいたいが、真っ直ぐ向かおうものなら一瞬でエース機の餌食となるだろう。ここまで一射もせず、確実に仕留められる機会を虎視眈々と狙い続けるエース機がどうにも不気味だった。決して見失わないよう何度も振り返り、操縦桿とラダーを操作しつつ、なんとかブランカの置かれた状況を見極める。


「あ、ちょっ、やばっ!」


 ブランカの方へと視線を外した瞬間、勝負どころと見たのかS.4の機銃が発射炎を吹くのが視界の端に映った。即座にロール、ラダーで機体を滑らせて回避。あからさまな牽制だが、敵地上空ではまぐれ当たりが怖い。もとより機体のスペックを最大限に引き出す競技飛行機ベースの設計は、基本的に被弾を想定していない。構造強化は重量増加と引き替えなので、最低限しか施していなかった。


「怖いなぁ、もう」


 しかし、回避の間際にブランカとズメイを真正面に捉えることができた。青灰色の身体に幾筋もの血を流したズメイの動きは、遠目にも精彩を欠いている。あれなら、一対一でブランカが押し負けることはない。ブランカ自身もそれが分かっているようで、適当にあしらいつつフィウメへ向かう針路を取っている。


「よしよし、愛してるよブランカ。それじゃ、こっちも気張らないとね」


 再びの牽制射撃をロールで回避。反撃したいところだが、ここは耐えるしかない。エースを相手に半端なフェイントは機速を失うだけと判断して選択肢から外し、ただ綺麗な軌跡を描くことを意識して機体を操る。綺麗に飛ぶ飛行機乗りが空戦に強いとは限らないが、空戦に強い飛行機乗りは例外なく綺麗に飛ぶものだと、長く飛んでいるエースなら誰でも知っている。


「ああ、愉しいな、もう……!」


 飛行眼鏡を持ち上げて、少し風を入れる。どうしようもなく笑みがこぼれ、度重なる加速度の負荷で鉛のように重い身体に熱が宿る。最高の戦闘機に乗った、とんでもない腕利きの飛行機乗りと空を踊る。この馬鹿みたいに楽しい、命懸けの遊びが、リーチェは好きでたまらない。


「……ん? 来ないの?」


 エース機が機首を上げ、リーチェから距離を取っていた。今度は上から攻める気かと注視していると、水平に戻したS.4の半開放式コクピットからパイロットが腕を突き出した。その手には、大きな拳銃のようなものが握られている。次の瞬間、銃口から火球が吐き出され、空に長く煙の尾を引いた。


「信号弾?」


 撤退命令かと思ったが、アズダーヤ隊の本隊は相変わらずリーチェを追ってくる。ならばと前方を確認すると、思った通り、ブランカの追撃を諦めて旋回したズメイが、こちらへ向かってくる。つまり、標的をリーチェに絞ったということだ。エース機はそのままリーチェの直上につけて、頭を押さえる腹積もりらしい。


「燃料、油温、問題なし。ここを抜ければ……!」


 手早く計器を確認する間にも、ズメイは真正面から突っ込んでくる。エース機に上を押さえられて上下の動きを封じられている以上、こちらの取れる回避行動は限られる。衝突まで三秒あるかないか。時間が引き伸ばされたような感覚の中で、リーチェは操縦桿を倒したくなる気持ちを抑え込んで直進。きっかり一秒だけ引き金を弾き、すぐさま操縦桿を左へ倒してロール。わずかに操縦桿を押し込んで機首を下げた。


「…………っ!」


 頭上に相手を見据えて、交錯する。ほぼ鏡写しの機動をしたズメイと一瞬だけ視線が絡み合い、そのまま逆方向にすり抜けていく。撃った弾は、こちらのタイミングを読んでわずかに軌道を変えたズメイの背で全て弾かれたようだ。すぐに水平に戻して、後ろと上空を確認する。ズメイは息切れしたのか、そのまま本隊に合流してこっちへ戻ってくる気配がない。なんとなく、嫌な感じがした。


 空戦に気配など存在しない、というのがリーチェの持論ではあるが、このときばかりは冷や汗が背中を伝った。スロットル全開で操縦桿を斜め手前に引く。周囲の確認をしてからでは墜とされると、確信があった。エース機がどこを飛んでいるか、ズメイと交錯した一瞬に見失ってしまっていたのだ。


 集中力を欠いてきている。


 苦い自覚が心中に湧き上がる。反省するのは後でいい。複数の敵を意識しながら加速度に振り回され続けて、一瞬も集中力を切らさない飛行機乗りなどいない。エース機は死角に潜み続けており、こちらは無駄な機動をして機速を失い続けているのかも知れないが、致命的な一撃を喰らうよりはいくらかマシだ。敵から目を離した自分を笑い飛ばすのはエース機を再び視界に捉え、飛び続けていられたときでいい。


「こそこそ隠れちゃって、もう……!」


 アズダーヤ隊の青灰色の機体色は視認性が低く、一度見失うと容易に空へ溶けてしまう。奇襲と待ち伏せを得意とする彼らにうってつけの機体色である上、操縦の腕のよさが厄介さに拍車をかけている。一方、ブランカの白はともかく、リーチェのイタリアンレッドは悪目立ちし過ぎる。それは復帰したてのブランカにできるだけ無理させないよう、自分に攻撃を集めたいというリーチェの意図通りではあるのだが、ここまで戦いを苦しくするとは、正直思ってもみなかった。


「くっ……!」


 ようやく太陽の中にエース機を見つける。古典的ではあるが、それゆえに有効なポジションから、機銃弾の雨が降り注ぐ。翼を立てて回避。無傷で済んだのは、幸運と呼ぶ他ない。エース機が下へ抜けて機首を上げる間に水平へ戻して加速。なんとか機速を取り戻すものの、しかし距離を引き離すまでいかない。ぴったりと後ろにつけて追いすがる敵エース機の存在が、焦りと苛立ちを誘う。


 だから、そう、白と黒の矢羽のエンブレムを尾翼に輝かせる、まばゆいイタリアンレッドの水上戦闘機が急降下で割って入り、エース機を追い散らしてくれたその瞬間。リーチェは、ほんの少しだけ泣きたい気分になってしまった。それから、一度だけ鼻をすすって、声を限りに叫ぶ。聞こえなくても構わなかった。


「きみってやつは、フェラーリン! 命令違反の罪で、キスしてやるからな!」


 イタリア王立空軍少佐アルトゥーロ・フェラーリン。

 M.39Aを駆るイタリアきってのエースが、最高のタイミングで援軍に来てくれた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る