再戦

リーチェ

1928年 9月2日 ユーゴスラヴィア王国領 サヴァ川上空

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 夜が明ける。


 稜線から顔を出した太陽が、ユーゴスラヴィアの大地を照らす。終戦から十年、連合軍と同盟軍の砲爆撃でさんざん耕された山地も、今は美しい緑で覆われている。上空から見る限りでは戦争の傷跡は見当たらなかった。しかし、この美しい山岳のどこかに、リーチェを憎んで牙を研ぎ澄ませる悪竜が隠れ潜んでいるのだ。


「敵基地は偽装工作を施している。高度を落として捜索しよう」


 ブランカに手信号で伝えてから、操縦桿を左へ倒して旋回。ブランカは反対側へ向かう。サヴァ川はアルプスから流れ出でドナウへと注ぐ、バルカン半島きっての川幅を誇る川だ。季節にもよるが、小型の水上機なら易々と飛び立てる。アドリア海の沿岸小島をいくら探しても見つからなかったのは、イタリア軍機が侵入できないクロアチアの内陸部にアズダーヤ隊が基地を構えていたからだった。


「……見つけた」


 付近に存在するという前提で地上を眺めれば、木々に隠された格納庫と川岸までの誘導路を見つけるのも不可能ではない。そこからさらに高度を落として旋回を繰り返し、個人で所有する規模の設備ではないという確信を得るまで五分とかからなかった。偽装が甘いのは、イタリア軍がここまで来るはずがないという油断からか。先の戦争で夜間の無音偵察をブランカとともに幾度も飛んだ経験も発見に役立った。


「さて、どう出るかな」


 こちらのエンジン音は聞こえているはず。このままやり過ごす腹積もりか、あるいは離水時に狙い撃ちされるのを恐れているのか。リーチェとしては敵の新型機を相手にするためにも無駄撃ちは避けたい。残燃料の関係でいつまでもここに留まるのも難しいので、できるだけ早く敵を引きずり出したいところだ。


「よし、格納庫から潰そう。あれは見える、ブランカ?」


 リーチェの挙動から何かを発見したのだと察して近寄ってきたブランカに、眼下の格納庫らしき建物を指差してみせる。人間よりもずっと視力のいいブランカはすぐに見つけ出し、確認したと言うように啼いてみせる。


「あれから潰そう。援護するから、地上の攻撃に気をつけてね」


 ブランカは短い叫びを残すと、見惚れてしまうほど美しいロールで背面になり、一気に急降下していく。リーチェを気遣う必要がなくなり、全ての挙動が早く滑らかになっているのが外からも見て取れる。最高速度こそM.33Aの方が速いものの、旋回性や機動性では圧倒的にブランカが勝る。一対一の格闘戦で今のブランカに勝てる戦闘機は世界中を探しても存在しないだろう。


「ほら、出てこないと全滅だよ?」


 格納庫の薄い屋根が、ブランカの鋭い竜爪に蹴破られていく。崩落した屋根は、その下にある飛行艇を押し潰して大破あるいは飛行不能に追い込んだことだろう。格納庫の規模から、二機を大破に追い込んだと仮定する。予想される敵機の数は、ズメイと新型機を除けば残り六機。これ以上数が減れば、部隊として機能しなくなる。


「さて、そろそろ来るかな」


 いったん高度を取って、一帯を俯瞰する。奇襲を受けたアズダーヤ隊が取れる選択肢は多くない。敵が去ってくれるのを祈りながら息を潜め続けるか、狙い撃ちされるのを覚悟で飛行機を空に上げるかだ。しかし、リーチェには確信があった。空軍に拿捕される危険を冒してコモ湖までリーチェとブランカを追いかけてきたあのエース機が、この状況を黙って見ていられるわけがないと。


「……やらせない!」


 次の獲物を求めて低空で旋回するブランカを目掛けて、厩舎に偽装した建物から青灰色の影が飛び出していた。飛竜ズメイ。滑走なしで飛び立ってすぐ戦闘に移れる、アズダーヤ隊の最大戦力。だが最初に出てくるのがズメイであることは予想がついていた。地上部隊の援護射撃が存在しない以上、他の機体が飛び立つまでの時間稼ぎはあの竜が受け持つしかないのだ。


「エース機が上がるまで三分ってところか。その前に墜ちてもらう!」


 ブランカもズメイが飛び立ったことには気付いている。リーチェたちの任務はあくまで囮だが、邪魔の入らないこの三分間はズメイを墜とす絶好の機会でもある。新型機がいくら高性能でも、水上飛行機である以上は運用上の制約から逃れられない。竜さえ墜とせば、アズダーヤ隊の戦力はほぼ半減すると言っていい。


「やろうブランカ。機織り戦術のお披露目だ」


 右側面から突っ込むズメイに対して、ブランカは左に旋回。左右へ細かく切り返しながら、フィウメのある南西方向へとズメイを誘導していく。リーチェはその後ろにつけて、攻撃の機を窺う。パターン化された回避機動を知っているリーチェとズメイではブランカの切り返しに対する反応速度に差があるため、距離は徐々に縮まっていく。ズメイはブランカとの距離が一向に縮まらず、後ろからプレッシャーをかけ続けられる状況に大いに苛立っているはずだ。


「いつまでも、狩人の気分でいるから……!」


 何度目かの切り返し、リーチェならこれ以上は危険と判断してブレークするタイミングで喰らいついたズメイの鼻先に、機銃を叩きこむ。胴体を横切るように命中した弾は、そのほとんどが弾かれたもののズメイの態勢を崩すことに成功した。たまらず急旋回するズメイと距離が開き、仕切り直しとなる。幸い、逃げる様子はない。


「よしよし、いい子だ」


 離水するまで時間を稼げと言われているのだろうズメイは、リーチェとブランカを追い立て、川に近付けまいとしている。滑走中、あるいは離水直後の飛行機は無防備なので順当な判断とも言えるが、ズメイを敵から引き離したいこちらにとっても好都合だ。仮に誘導されていると気付いても追ってくるだろうと読んでいたが、その必要すらない。空に溶ける青灰色の影を見失わないようにときどき後ろを振り返りつつ、機首を南西へ向けてスロットルを絞る。追い付いてきたブランカが一機分の距離を置いて横に並び、その後ろからズメイが追いすがる形だ。理想的な展開と言っていい。


「いくよブランカ」


 目線を交わし、互いに内側へ切り込むように旋回。ズメイから見れば、交差したリーチェとブランカがそのまま二手に分かれると見えたはず。ちらりと後ろを見て、相手が後ろについていることを確認する。スロットルを押し上げ、あえて緩やかなカーブを描いてもう一度切り返す。その直後、竜の叫びが空気を震わせた。


 ブランカの爪が、ズメイを捉えていた。偶然ではない。ちょうどブランカの鼻先に頭を突っ込むよう、リーチェがズメイを誘導したのだ。二機一組であえて敵に背後を取らせた後に散開、敵が狙いをつけた一機が囮となってもう一機の攻撃位置へ誘導する。一度で墜とせなくとも、二機が互いに内側へと切り返し続ければ、交差する度に攻撃の機会が訪れるという寸法だ。


「わけがわからないだろう? そのまま墜ちるといい」


 ブランカは一撃を加えた後は深追いせず、背を見せて逃げる。ズメイがそれを追い、ブランカが切り返したところでリーチェが狙い撃つ。機銃の雨を浴びたズメイは、短時間に幾度も攻撃を受けたダメージでふらつきながら高度を落としていく。


 もうひと押しで墜とせる。


 飛竜は飛行機よりはるかに頑丈だが、それでも銃撃を何度も浴びて無事でいられるわけではない。一発や二発なら機銃弾を弾く竜鱗とて繰り返し直撃すれば砕けるし、眼球や口腔、角や翼膜といった部位に当たれば銃弾は易々と貫通する。あと一撃。視力か翼を奪えば、ズメイを墜とせる。


「ブランカ!」


 ブランカの前に出て、翼を振って注意を促す。後方を見れば、敵エースの新型機を先頭にアズダーヤ隊の戦闘機が上がってきていた。ズメイが次の攻撃を凌げば、今度はこちらが追いついてきた敵機に包囲殲滅されるだろう。


「撤退する!」


 ここからが本番だ。フィウメまで約三十分。敵に疑いを抱かせず、墜とせそうで墜とせない距離を保ちつつ、フェラーリンが率いる第13曲技飛行隊『ビアンコ・エ・ネッロ』の精鋭たちが張った網に誘いこまねばならない。フェラーリンも、リーチェとブランカの腕前を見こんでとはいえ困難な役割を振ってくれたものだ。


「帰ったら、ヴィラ・デステでとっておきのディナーをおごってもらわないと、ね」


 気合を入れ直すための言葉を口にして、スロットルを押し上げる。

 目指すはフィウメ。アドリアの亡霊、アズダーヤ隊の墓標を立てる地だ。

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