暁の飛翔

リーチェ

1928年 9月2日 港湾都市フィウメにて

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 いまだバルカンの山麓に姿を隠したままの太陽が、東の空を紅く染める。医院の扉を開けてまだ足元の薄暗い草原に歩み出ると、海から吹き上げる浜風が心地よく頬を撫でていった。その冷たい肌触りが、もう季節は秋なのだと告げてくれる。もう目覚めていたブランカが首をもたげて甘えるような鳴き声をあげる。


「おはよう、ブランカ。よく眠れた?」


 軽く頭を撫でてやると、ブランカは伸びをするように翼を広げてみせる。その動きに違和感や無理をしている様子は見受けられない。イタリアからクロアチアまで飛んだ翌日なので心配だったが、ひとまず怪我は完治したようだ。リーチェという重荷を下ろしたブランカはこれまで以上に速く飛べるだろう。


「いい? ぼくたちの役目は囮だ。アズダーヤ隊のエース機とズメイを、フェラーリンたちが待ち伏せするここフィウメの上空まで誘き寄せて、一気に殲滅する。囲まれて各個撃破されないよう、指示するまで絶対にぼくから離れないように。それから、もし怪我をしたら、ここに戻ってくるんだよ。くれぐれも無茶しないようにね」


 リーチェの念押しに、くどいと言いたげな鳴き声を上げるブランカ。最近、こうしてリーチェの言葉を煙たがることが増えた。同時に、近頃はリーチェのいないところでアレッサンドロやジニーとも交流を深めているのだとヴァレリアナから聞いている。竜の寿命が150年ほどであること、ブランカが今年で26歳になることを考えると、人間でいう反抗期のようなものなのかも知れない。


「……帰ったら、おばあさまに聞いてみよう」


 思いついた疑問を頭に刻み付け、ブランカに新しい装具をつけてやる。リーチェが騎乗するための機能は非常時に備えた最低限のものとし、心肺など重要な臓器を守るための装甲を重視した改良型の装具だ。太陽光で熱を帯びないよう、白く塗ったジュラルミンは軽く丈夫で、竜鱗と併せれば7.7mm機銃を充分に防いでくれるだろう。


「もう行くのかね? 気をつけて帰ってきたまえよ」


 旨そうな匂いを漂わせ、ヒポクラテス医師がゆったりと歩み寄ってくる。その手には大きなバスケットに入った燻製肉と果物、サンドイッチ。出撃前であることを考慮してか、量は少なめなのがありがたい。肉をナイフで削いで口に放り込み、果物をひとかじりしてからそれぞれブランカに与える。サンドイッチはリーチェのために用意してくれたものだろう。具はレタスと生ハム。瑞々しい食感と強めの塩気、腹持ちのいい堅めのパンは、量は少ないながらも満足感がある。


「ごちそうさまでした。それから、お世話になりました」

「なんの、無事に戻ってきたら祝杯を挙げよう」

「ええ、ぜひ」


 軽く微笑み、ヒポクラテス医師に別れを告げてから車へ向かおうとするリーチェの前に、ブランカが首を突っこんで進路を塞いでくる。


「っとと、どうしたの?」

「乗っていけ、と言いたいんじゃないか?」

「そうなの? ブランカ」


 肯定するように、甘えた鳴き声を上げるブランカ。


「えっと、荷物と車はどうしようか」

「荷物はわしが預かろう。車は電話を入れれば若い者が取りに来るだろう。気にせず、ブランカ君に乗っていくといい。君が空を飛ぶさまを、わしも見てみたい」

「……では、お言葉に甘えて」


 ブランカに乗るとなれば、騎乗用のハーネスがあった方がいい。車のトランクから革鞄を引っ張りだし、ハーネスだけ取り出してからヒポクラテス医師に預ける。リーチェが上りやすいよう身を伏せるブランカの背を撫でてから、その背に跨って首の両脇に垂らしてある鐙に足をかける。ずいぶん久しぶりにも思える感触だった。


「よし、港まで一緒に飛ぼうか」


 呼吸に合わせて緩やかに上下するブランカの首を抱き締め、ぴったりと頬をつける。竜の息吹を感じ取り、息を合わせていく。人竜一体、天翔ける竜騎士たる今のリーチェとブランカを墜とせる者など、世界中を探してもいないだろう。ブランカの翼や尻尾の動きまで自分のものとして感覚するイメージが得られたら、身体を起こしてハーネスを握り直す。紐を通して首にかけてあった竜笛が胸元で揺れる。


「では、いってきます!」

「おう、無事を祈っとるぞ!」


 リーチェが竜笛を吹き鳴らし、軽く鐙を蹴ったときには、すでにブランカは助走を始めていた。医院の脇を通り過ぎ、丘の頂上付近から眼下の街を目掛けて飛び出す。広げた翼が朝の澄んだ空気を捉え、ふっと沈み込んだ後に滑らかな滑空へ移行する。ただ命ずるだけでこちらの意を汲んで飛んでくれるブランカとの飛行は気持ちがいいの一言で、これは飛行機乗りを堕落させるとリーチェは思う。


「ゆっくり飛ぼう、ブランカ」


 車で二十分ほどかかる道のりも、空からなら五分とかからない。まだ飛び足らなさそうなブランカに街の上空を大きく旋回させてから港に降り立つと、昨夜出迎えてくれたバカルディとその手下たちが飛行艇を海面に降ろしているところだった。


「おはようございます、バカルディさん」

「おはよう、お嬢さん。よく眠れたかね?」

「はい。準備ができたら、すぐに飛びます」

「了解だ。竜に乗ってきたってことは、車は先生のとこかね?」

「ええ、ご迷惑おかけします」

「なに、それだけのものは頂いてるさ」


 普段は漁をして生計を立てているのだろう、陽に灼けた肌の手下たち。その迷いのない作業風景からすると、先の戦争では整備士として従軍していたのかも知れない。漁業を蔑むわけではないが、彼らのような技術者がその腕を活かす場を持てずにいるのを見るとやはり暗澹たる気分になる。


「そうそう、昨晩遅く、フェラーリンの旦那から連絡がありましてね」

「なにか動きが?」

「アズダーヤ隊に動きなし。作戦は予定通り決行する。以上でさ」

「ええ、了解です」


 いかにも心配性のフェラーリンらしい連絡に、なんとなく気分が和む。事前の調べ通り、アズダーヤ隊はザグレブ近郊を流れるサヴァ川の河畔を根拠地として飛行機を隠しているらしい。あとはリーチェとブランカの働き次第で彼らに引導を渡してやれるだろう。もしかしたら、これがリーチェにとって最後の空戦になるかも知れない。


「そら、準備ができたみたいだぜ」

「ありがとう」


 彼らはリーチェが飛行服を濡らさずに済むよう、小さな浮き桟橋まで用意してくれていた。その配慮に感謝しつつ、機体に乗り込んでベルトを締めていく。


「頑張れよ、お嬢さん!」

「ご武運を、中尉殿!」

「俺らのダチも墜とされてるんだ、しっかり仇を取ってくれよ!」


 口々に叫ぶ彼らに手を振って、エンジンに点火。シリンダのけたたましくも規則正しい爆発音が響き渡り、スムーズに回り出したプロペラが推進力を生み出し始める。操縦桿とラダーペダルで動翼の調子を確認して、スロットルを徐々に押し上げつつ、両翼端を押さえてくれていた二人に合図を送る。


「行こう、ブランカ!」


 少し離れた桟橋で待機していたブランカは、リーチェの乗る飛行艇が滑走を始めたのを確認するや、待ちかねたと言わんばかりに助走なしでほぼ垂直に勢いよく飛び立つ。あれだけは飛行機では真似ができない。


 波を切ってアドリアの海を駆けるM.33Aドラゴ・ロッソ号の勇姿を、漁に出る漁船から物珍しそうに眺める船員の姿が見えた。ふと悪戯心を出して、飛行眼鏡を額に押し上げて小さく手を振りながらにっこり微笑みかけてやると、目を丸くして驚いているのがコクピットの中からもよく見えた。


 整備は完璧で、機体の調子はすこぶる快調だった。速度が上がり、機体が安定してきたところで尾翼が水面を打たないようにそっと持ち上げてやる。スムーズな離水に成功したら、そのまま高度を上げてブランカと編隊を組む。最後に緩旋回で進路を東北東に向けてから、くるりとロールしてフィウメの街へ別れを告げた。


「大丈夫。ぼくとブランカならやれるさ」


 呟いた声を聞く者はいない。

 だが斜め後方を振り返れば一緒に飛ぶ相棒がいる。

 リーチェを護る位置で飛ぶブランカの存在が頼もしく、愛おしかった。

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