五章 フィウメの空戦

フィウメの丘にて

リーチェ

1928年 9月1日 港湾都市フィウメにて

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 よく晴れた星空の下でさえ、夜間飛行に本能的な恐れを抱かない飛行機乗りはいない。目印に乏しい海上ならなおのこと。夜のアドリア海の横断飛行を何十回と行ってきたリーチェであっても、街の灯を水平線の彼方に捉えたときには安堵を覚えずにはいられない。


「ブランカは教えた場所へ飛んで。ぼくも機体を預けたらすぐ向かうから!」


 何度かテストした結果、キャノピー内で反響するせいか、エンジン音にかき消されるためか、飛行機を操縦しながら竜笛での指示を出すのは難しいことが判明した。代わりに手信号で指示を与えると、夜目の利くブランカは了解の意を示すように軽く翼を振って、街の上空をそのまま抜けるルートを取る。滑走路なしで降りられるブランカと違い、飛行艇であるドラゴロッソ号は水面にしか降りられない。港に降りて、フェラーリンから紹介を受けた信頼できる人物に機体を預ける必要があった。


「海面よーし」


 高度を下げて、海面の状態を確認する。陸側からの微風、穏やかな波が街からの灯に照らされている。着水条件としては良好だが、慣れた人間でも真っ黒な水面に高度を見誤る例は少なくないから、気を付けるに越したことはない。操縦桿を握る手に汗がにじむ。


「……さ、覚悟を決めて狼の口に突っ込もうか」


 操縦桿を柔らかく握り直し、機体を水面に滑らせるイメージで下ろしていく。ほどなくして艇体が波頭を捉える感触があった。機体を跳ねさせないよう、かといって失速して頭から突っ込むこともないよう慎重に速度を落としていく。身体全体で波を感じるほど速度が落ちれば、もう安心だ。ラダーで制御しつつ機体を港へ近づけていくリーチェの目に、水上機を陸へ引き上げるためのスロープの前で、葉巻をくゆらす中折れ帽の人物の影が映った。


「あれかな?」


 相手もリーチェに気付いたらしい。軽く手を振って合図すると、物陰から手下らしき体格のいい男が十名ほど現れる。マフィアを思わせる容貌と併せ、ちょっと近づくのがためらわれる光景ではあったが、見慣れた手信号は彼がイタリア空軍の出身であることを雄弁に語っていた。フェラーリンのいう『協力者』と見て間違いないだろう。リーチェが上陸すると、敵意のないことを示すように両手を広げながらヒゲにおおわれた口を開く。


「我らがフィウメへようこそ、だ。明朝、お嬢さんが飛び立つまでの一切を任されているバカルディという者だ。足りないものがあったらなんでも言ってくれ」


 手下たちの動きは、飛行機の扱いに慣れた人間のそれだった。リーチェは彼らに機体を任せ、バカルディと名乗った男が差し出す手を握る。


「短い間だけど、よろしく頼むよ」

「言われた通り、車は用意させた。手下に運転させるかね?」

「大丈夫。車は墜落しないから」

 リーチェの冗談に、バカルディが愉快そうに笑う。

「ああ、違いねえや」


 人目に付きやすい紅の飛行艇がカバーをかけられた上で格納庫に収まる姿を見届けてから、用意された車に乗りこんでハンドルを握る。夜のフィウメを抜け、向かう先はブランカの待つ郊外の丘だ。イタリア系の顔立ちをした人々が行き交う大通りを東へと抜けていく。


 港湾都市フィウメはアドリア海の東岸、イストリア半島の東に位置する海港で、元々はオーストリア・ハンガリー帝国領の主要な港のひとつだった。その来歴は複雑で、歴史的にはヴェネツィア共和国に属していたこともあってイタリア系住民の比率が高く、いわゆる『未回収のイタリア』のひとつとされていた土地だ。


 戦後はイタリアの反対を退けて一旦はユーゴスラビア王国領とされたものの、先の戦争でウィーン上空飛行を成し遂げた英雄、片目の詩人ダンヌンツィオが率いる義勇兵『黒シャツ隊』によって、1919年9月に占拠された。彼らによる統治とも呼べぬ統治は一年以上に渡って続いていたが、1920年11月12日にイタリアとユーゴスラヴィア王国の間でフィウメを自由市とする旨のラバッロ条約が結ばれるとそれに反発したダンヌンツィオはイタリアへ向けて宣戦布告。同年12月にはイタリア軍の空爆と艦砲射撃を受けて降伏した。


 その後は束の間の平穏を維持したものの、1924年1月27日に締結されたローマ条約に基づいてイタリアへ返還されることが決定されると、ムッソリーニが率いるファシスト政権のイタリアへと帰属を移すことになった。現在は領土拡張の野心に燃えるムッソリーニ、ガルダ湖畔に隠居しつつも側近を通じて影響力を発揮し続けるダンヌンツィオ、再奪還を目論むクロアチア系過激派組織の三者がそれぞれ勢力の拡大を狙っているというのが父レオーネの語ってくれたフィウメ情勢だった。


「……そういえば、二重帝国の海軍兵学校もここにあったんだっけ」


 川を隔てて緩やかに移り変わる街並みの雰囲気を横目に捉えながら、ふと思い出す。アズダーヤ隊を率いるゴットフリート・フォン・バンフィールドも、ここフィウメで海軍士官として飛行機の操縦技術を身につけた可能性がある。戦後の予算縮小で軍を追われ、それでも空を諦められず空賊となった彼らは、どのような想いで国王アレクサンダルの私兵として飛んでいるのだろうか。


「……考えても、しかたないことだけど」


 戦勝国であるイタリアも不況にあえぐ中、国民の不満は日々高まりつつある。いつか再び全世界を巻き込んだ戦争が始まるのではないかという予感の中で、リーチェ個人にできることはあまりに少ない。アズダーヤ隊が置かれた境遇に同情はするが、仲間やブランカを標的としてつけ狙う相手を野放しにしてはおけなかった。


 アズダーヤ隊討伐作戦は、明日0600時に開始される。リーチェとブランカがザグレブ近郊に存在すると推定されるアズダーヤ隊の基地飛行場から彼らを釣り出し、フェラーリンの率いる空軍部隊の待ち受けるフィウメ近郊の空域までおびき寄せて一気に殲滅する、というのが作戦の概要だ。


 直接敵基地を叩かないのには理由がある。いくら空賊狩りとはいえ、イタリア空軍がユーゴスラヴィア王国の領空で作戦を展開すれば国際問題になるからだ。しかし、建前としては空賊であるアズダーヤ隊を公海上で撃ち落とすのなら問題はない。難しいのは、あの狡猾で冷静な隊長機に罠だと気付かせないまま誘導してくることだ。偶然迷い込んだふりをするか、あるいは初撃で新型機あるいは飛竜ズメイに致命傷を与え、相手を逆上させるか。リーチェには臨機応変な判断力と、その後の追撃をかわす操縦能力が求められている。この作戦でもっとも困難な役割だ。


「ブランカ、お待たせ!」


 海を望む丘の上である。車の窓から手を振ってやると、リーチェの姿を認めたブランカが嬉しそうに尻尾を揺らすのが見えた。フィウメの郊外にある小さな医院、その敷地の一角にかけられた巨大な天幕の下でブランカはリーチェを待っていた。


「挨拶してくるから、ちょっと待っててね」


 ヴァレリアナの知己であるというギリシャ人の老医師は、先日アズダーヤ隊の飛竜ズメイの治療をした医師でもある。自らの車にキャンプ道具一式を乗せてユーゴスラヴィア中を往診に回るという精力的な人物で、事前に連絡したところブランカともども快く迎え入れてくれることになった。


「初めまして、ベアトリーチェ・アレーニアです」


 ドアノッカーの音に応じて姿を現した浅黒い肌の小柄な医師は、リーチェを一目見るなり大きな目を見開き、体躯に見合わぬ低く迫力のある声と精悍な笑みで両手を広げて出迎えてくれた。


「おお、よう来てくれた。嬢ちゃんがヴァレリアナさんの孫娘なんだって? あいにくの男やもめで大したもんは用意できんが、見ての通りベッドだけは沢山ある! 一晩と言わず気が済むまでゆっくりしていってくれ。おっと、失礼した、わしがヒポクラテスだ」

「それはまた、お医者さんにぴったりのお名前ですね」

「嬢ちゃんこそ、いかにも飛行機乗りって勇ましい名前をしとる! うんうん、わしはお前さんが一目で気に入っちまったぞ。おっと、忘れるとこだった、嬢ちゃんに頼まれとったあの竜な、あいつにやる飯の準備もできとるぞ? 腹を空かしておる様子だったから、早いとこ持ってってやるといい」

「えっと、失礼を承知でお願いするんですが、ぼくの食事も一緒にいただけませんか? 相棒とは食事を一緒に摂ることにしてるんです」

「うん? なら一緒に外で食うか? よしよし、すぐに準備をするから待っとれ」


 言うが早いかヒポクラテス医師は踵を返し、折り畳みのテーブルと椅子を抱えて戻ってくる。使いこまれつつもよく手入れされた道具は、根っからのアウトドア好きであることをうかがわせる。


「あ、ぼくが持ちますよ」

「おお、そうか、ならわしは食いものを持ってくるから、嬢ちゃんは椅子とテーブルをセットしたらもう一回戻ってきてくれるか?」

「了解です」


 うきうきと段取りを進めるヒポクラテス医師に苦笑しながら、十分とかからずに準備を終える。時刻は午後九時。遅い夕食は、吊るされたカンテラの灯りの下で始まった。スキレットで焼かれた大振りのハンバーグと肉汁のたっぷりしみこんだ付け合わせの野菜、カリカリに焼き上げられたバゲットがなんとも食欲をそそる。ブランカには、ダッチオーブンでじっくり焼き上げたローストチキンが供され、こちらも旨そうだったので少しだけ分けてもらうことにする。


「いただきます」

「おう、召し上がれ」

「……旨いですね、このハンバーグ」

「だろう? このスキレットがまたいいんだ。肉汁を閉じ込めてくれるし、焼き上げたらそのまま皿にしてしまえば、食べ終えるまでずっと熱々のままって寸法だ」

「これはいいですね、ぼくも欲しくなる」

「うん? 気に入ったのならやろうか?」

「ああ、いえ、そんなわけにもいきませんよ」

「そうか? 代わりはあるから遠慮することはないぞ。ああ、ちょっと待て、そのローストチキンはな、こうしてバゲットに挟むといい。ほら、ナイフは使えるか?」

「使えます、大丈夫」


 賑やかで、楽しい食卓だった。ブランカも、リーチェがローストチキンサンドを口にするのを見届けてから、こんがりと焼けた肉塊にかぶりつく。やはり、旨い。肉はもちろん、肉汁をたっぷり吸ったバゲットも美味い。ブランカと視線で会話し、しばし肉を味わうのに集中する。


「ふむ、飯が気に入らんかったわけではないようだな。よほど飼い主の嬢ちゃんに懐いとると見える。竜ってのは、みんなこんな義理堅いもんなのかね?」

「……先の戦争で、食事に毒を混ぜてぼくたちを殺そうとした人間がいました。こうなったのは、それからです。この子とは子供のころから一緒なので、他の竜がどうかはわかりません」

「食いものに毒だと? ……くそう、医者としても、料理人としても、許せんな」

「幸い、後遺症の残るようなものではありませんでした」


 リーチェが口にしたものしか食べないという、ブランカの習慣。ふと、仮に自分が先に死んだらブランカはどうなるのかという疑問が頭に浮かぶ。これからは同じ空を飛ぶときも別々に飛ぶこととなる。片方が死んでもう片方が生き残る事態は十分に想定できた。そうなったとき、ブランカがリーチェの死を受け入れず殉死を選ぶ可能性は極めて高い。近いうちに、できれば明日飛び立つ前にブランカと話をしておかねばならないだろうと胸に刻む。


「ところで、アズダーヤ隊の飛竜を診察されたとお聞きしましたが」

「ああ、そのことか……あれはザグレブでの診察を終えて、ホテルで眠りに就こうとしたときだったな。突然殺気立った男が扉をノックし、急患がいるから是非にも来てくれと言う。眠いから明日にしてくれんかと言ったんだが、銃を突きつけられてしまってなあ。殺されてはかなわんから渋々車に乗って、目隠しされて連れていかれたわけだ。全く、酷い目に遭ったよ」

「失礼ですが、専門は?」

「わしは内科だよ。弾を摘出し、傷を縫うくらいはやるがね」

「飛竜の傷の程度はいかがでしたか?」

「うん、翼の付け根から背中にかけて、大型の肉食動物の爪で裂かれたような傷だったな。あれは、きみの竜がやったのかね?」

「はい。ぼくが墜とされそうになったところを、助けてくれたんです」

「そうか……人と竜の結びつきっていうのは、強いもんなんだな」


 なにかを思い出すように目を細めるヒポクラテス医師。


「ひとり、気になる男がいたな。年のころは三十そこそこ。オーストリアの軍服に少佐の階級章をつけた男。怪我をして気が立っている様子の竜をなだめていたが、あの集団の指揮官だったのだろうな。銃を突き付けてわしを連行してきた部下を叱りつけ、率直な態度で詫びを入れよった。ありゃ一角の人物だな。空賊の頭目というよりはインテリの士官という雰囲気だった」

「元オーストリア・ハンガリー帝国海軍少佐ゴットフリート・フォン・バンフィールド。その男こそアズダーヤ隊の指揮官と目される人物です。他に特徴は?」

「右足をひきずっておったよ。ブーツで隠してはおったが、ありゃ義足とみた」

「それは……間違いありませんか?」

「医師として自信のない見立ては口にせんよ」


 重々しくうなずくヒポクラテス医師。敵エースの右足が義足、というのは重要な情報だ。これを聞けただけでも、ここへ寄った価値はあったとリーチェは思う。


「ちなみに、飛行機や滑走路は見ましたか?」

「ふむ、暗くてよくわからんかったが、わしが案内されたのは森の中だったな。顔を見たのも、わしに銃を突き付けてきた男、運転手、指揮官、それに飛竜だけだ。治療が終わった後は口封じに殺されることも覚悟しとったが、指揮官が丁重に送り返すよう運転手に言い含めておったからか、また目隠しで車に乗せられて、ホテルまで送り返されたよ」

「それはなによりでした」

「うむ、おかげでこうして嬢ちゃんにも会えたしな。嬢ちゃんは若き日のヴァレリアナ殿にそっくりだ。一緒にいると、懐かしさで若返ったような気分になる」

「おばあさまと……?」

「外見も、性格も、喋り方もよく似ている。わしの愛した彼女そのものだ」

「おばあさまと、ですか!?」

「いや、そんないい話じゃない。わしの片思いだよ。やつと離婚したら結婚しようと申し込んだことはあるがね、結局のところあの世へ逃げ切られてしまったよ」


 ヒポクラテス医師の言う『やつ』とはヴァレリアナの夫、リーチェの祖父を指すのだろう。若き日のヴァレリアナがずいぶんとお転婆だったとは聞いたことがあるが、彼女はどうやらリーチェが思う以上に出会った男の数々を泣かせていたらしい。


「そうだ、これを持っていくといい」


 ヒポクラテス医師が差し出したのは、青みがかった白の石を連ねたブレスレットだった。よく見れば、数個おきに目玉を象ったチャームがついている。


「これは?」

「マティと言ってね。ギリシャのお守りだよ」

「へえ……」


 左手首につけて、上下左右に動かしたり捻ったりしてみる。石はおそらくムーンストーンだろう。シンプルかつ上品で、操縦の邪魔にもならなさそうだ。


「気に入ったか? きっと邪悪な視線から嬢ちゃんを守ってくれるだろうさ」

「お気遣い、痛み入ります」


 空戦に気配なんてものはない。気付かぬうちに射程に捉えられたら、もう逃れる術はない。自機のエンジンとプロペラの爆音は、敵機にとっては最高の隠れ蓑なのだ。このお守りが、そんな敵機の視線から自分を守ってくれるだろうか。


「もう一つあるんだが、嬢ちゃんの相棒にもつけてやるかね?」

「はい、ぜひ!」

「同じ意匠のものだ。紐に通してあるから、しっかり縛りつけてやるといい」

「ありがとうございます。ブランカ、角につけてあげるね」


 ヒポクラテス医師から受け取った紐のブレスレットを、ブランカの角の根元に縛りつけてやる。くすぐったそうな仕草を見せるものの、嫌がる様子はない。月光に映える真っ白な鱗と角に、淡い青白色がアクセントとなってかわいらしい。


「……よかったね」


 満足げな声を上げるブランカの頭を撫でる。明日の朝には命を懸けた空戦を控えているというのに、こんなにも穏やかで安らいだ気持ちでいられるのが、本当に、嘘のように幸せだった。

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