湖水の晩餐

リーチェ

1928年 8月28日 夕刻のレストラン『ラッゴ・アズーロ』にて

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 その晩、リーチェはフェラーリンと一緒に馴染みのレストランへ足を運んでいた。涼やかな風の吹き渡るテラス席が人気のレストラン『ラッゴ・アズーロ』は観光客のみならず地元の人間にも愛される気さくな雰囲気の店で、地方色を上手く取り入れたミラノ料理と豊富に揃えられた良質で手頃な価格のワインを出す店として有名だ。


「お待ちしておりましたよ、お嬢さま」

 壮年のウェイターが渋い笑みを浮かべて二人を出迎える。

「久しぶりだね、カルロ。変わりない?」

「もちろんです。しかしお嬢さまは変わられたようだ」

「そうかな?」

「ええ、一段と美しくなられた。さ、いつもの席へどうぞ」


 七割ほどが埋まったテーブルを囲む客の身なりは様々だ。いかにも観光客といったラフな格好から正装した気品のある老夫婦まで、ラッゴ・アズーロは訪れる者を拒まない。そんな気楽で賑やかな雰囲気の中で、長めのスカートにブラウスとテーラードジャケットを合わせたリーチェとすらりとしたタキシード姿のフェラーリンは、特に注目されることもなく席につけた。


「さて、食前酒はどうなさいますか?」

「フェラーリンはどうする?」

「そうだな……シャンパンをもらおうか」

「なら、フランチャコルタで頼むよ、カルロ。今日のメインはなにかな?」

「キアニナの仔牛でいいのが入っております。オッソブーコはいかがでしょう」

「ワインのお勧めは?」

「フランチャコルタと併せて地元産で縛るなら、白のルガーナもよいかと」

「いいね、それにしよう」

「かしこまりました。後のメニューはお任せで?」

「うん、よろしく」


 優雅に一礼して去っていくカルロを見送り、フェラーリンがぽつりとつぶやく。


「いい店だな」

「うん、気に入ってくれると思ってた」


 ほどなくして、カルロが前菜と食前酒を運んでくる。フランチャコルタ、ロンバルディア州東部のフランチャコルタ地方で造られているスパークリングワインで、その味わいは本場シャンパーニュにも引けを取らない。ぷつぷつと泡が弾ける度に香りが広がり、食欲をかき立ててくれる。糸切りにされた赤唐辛子と細切れの夏野菜を散らしたマダコのカルパッチョも旨そうだ。


「こうして二人きりでゆっくり言葉を交わすのは、ナポリの映画館以来か」

「電話で連絡はしてただろう?」

「飛行艇に乗っている、とは今日が初耳だったがな」

「聞かれなかったからね。いい機体を作ったからテストパイロットにならないかって、おやっさんに誘われたんだ」

「M.33か。シュナイダーレースでは本領を発揮できずに終わったが……」

「カーチスエンジンは下ろして、翼形状も見直した。M.33Aはいい機体になったよ」

「フラッタの問題も解決したのか?」

「そっちはジニーがなんとかしてくれた」

「昼間も話していて思ったが……流石はおやっさんの孫だな」

「ジニーはセンスがいいよ。本人に言うと調子に乗るから、言わないけど」

「たまには褒めてやるといい。ずいぶんお前に懐いている様子だったしな」

「ま、そのうちね」


 グラスを干し、二人で競うようにカルパッチョを腹に収めた頃合いで、新たなグラスとルガーナのボトルが運ばれてくる。麦わらを連想させる透明感のある黄色がグラスに注がれると、桃や柑橘類を思わせる果実の香りが広がる。


「果実酒か……悪くない味だ」

「肉でも魚でも合うんだ」

「ルガーナと言ったか? 憶えておこう」


 空っぽになった前菜の皿が下げられ、代わりにミラノ風リゾットがサーブされる。サフランを利かせた黄金色のリゾットは、この後に控えているメインディッシュのオッソブーコと合わせてミラノ料理の定番と呼べる料理でもある。バターとチーズの香りが鼻をくすぐる。


「しかし、よかったな」

「え?」

「ブランカと一緒に飛ぶ、というお前の夢……叶ったんだろう?」

「ああ、うん。半分は叶ったかな」

「半分?」

「そう。ぼくの夢は、ブランカと一緒にアドリアの平和な空を自由に飛ぶことだから。アズダーヤ隊がアドリアの空を飛ぶ限りは、そんな気分にはなれそうもないよ」

「そのことなんだがな、リーチェ」

「飛ぶな、なんて言わないでよ」

「いや、俺は部下の命を守るためにもぜひお前に飛んで欲しいと思っている」


 その表現に微妙な含意を感じ取り、リーチェは問い返す。


「……お父さまになにか言われた?」

「言われたというか……ううむ」

「いいよ、聞きたくない。……ぼくとブランカはきみたちを守るために飛ぶし、きみはぼくたちを守るために飛んでくれるだろ? それだけで充分だ」

「もちろんだ。もうお前を傷つけさせはしない」

「ん。頼むよ戦友」


 せっかくの美味しい食事を台無しにしたくはない。リーチェは意識して笑みを浮かべ、グラスの中身をのどに流しこむ。心地よい酩酊感。フェラーリンもグラスを傾け、二人の間に会話が途切れたのを見計らってウェイターのカルロがテーブルに歩み寄ってくる。その手にはほかほかと湯気を上げる大皿がある。


「お待ちかね、ミラノ風オッソブーコでございます」


 オッソブーコ、すなわち仔牛の骨付きすね肉の煮込みはトマトの赤のイメージが強いが、ラッゴ・アズーロのオッソブーコはミラノ風の名に恥じない黄金色にまとめられている。オーブンでじっくりと煮詰められた肉汁と、振りかけられたグレモラータの爽やかなレモンの香りがたまらない逸品だ。


「きみも食べなよ。美味しいよ」

「ああ……そうだな」


 スプーンで突くとほろほろと崩れる肉の旨みに、甘やかにするすると呑めるワインが進む。美味い料理を落ち着いて味わえる幸せは、何にも代えがたい。フェラーリンも同感のようで、しばし無言でスプーンを持った手を動かし続ける。ほどなくして心地よい満腹感と満足感が訪れたところで、ゆっくりとカルロが近づいてくる。


「そろそろドルチェとカッフェをお持ちしても? こんな暑い夜にはレモンとオレンジのジェラートに、たっぷり砂糖を溶かしたエスプレッソがぴったりかと」

「頼むよ、カルロ。グラッパもよろしくね」

「心得ておりますよ」


 涼やかなガラスの器に盛られた黄色と橙色の氷菓子が運ばれてくると、リーチェはさっそくスプーンを突き入れた。酒精と煮込み料理で温まった身体に、冷たい果実の甘味が染み渡るようだった。砂糖を入れた濃いエスプレッソの苦さと甘さの入り混じった温かさと交互に味わっていく。


「リーチェ。きみのお父上からは、ユーゴスラヴィアの政治情勢を伺った。今回の作戦を行うに当たって、重要な情報だ。きみも頭に入れておいて欲しい」

「……いいよ。話して」

「先の議会内での発砲事件で、クロアチア農民党党首スティエパン・ラディッチが重傷を負ったニュースは知っているな? 彼はザグレブに戻って療養を続けていたが、そのまま回復せずに亡くなったとの情報が入った」


 ジェラートを食べる手を休め、リーチェがうなずく。ラディッチがいなくなれば議会でセルビア人勢力を掣肘する者がいなくなり、統制の取れなくなったクロアチア人勢力が暴発する危険性も高まる。内戦の一歩手前と呼べる状況だった。


「これを受けて、ユーゴスラヴィアの国王アレクサンドル一世は自分の意のままに動かすことのできる空軍戦力としてアズダーヤ隊と契約を結んだそうだ。彼らはユーゴ国内のクロアチア人独立派勢力の弾圧に手を貸す代わりに、燃料弾薬の安定した供給源と多額の資金を手にしたらしい。その金がどう化けたかは……リーチェ、お前はよく知っているはずだ」


 フェラーリンの言葉が何を指してのものかは、すぐにわかった。試験飛行中のリーチェを襲った青灰色のフロート機。空賊に身を落とした彼らは、リーチェとブランカに対抗し得る最新鋭機を手に入れるためにその手を汚したのだろう。


「ふうん……あの新型機はそういうわけか。墜としてやればよかった」

「お前とブランカのタフさを見誤ったのが、奴らの運の尽きだな」

「次は墜とす。悪いけど、周りの敵は任せるよ」

「ああ。我らのエースが翔ける空は、俺たちが切り開こう」


 フェラーリンが、エスプレッソの小さなカップに透明な蒸留酒を注ぎ入れてくれる。食後酒としてポピュラーなグラッパの飲み方の一つで、カップの底に残った砂糖を溶かして飲むのだ。リーチェはカルロが気を利かせて用意してくれたマドラーで、フェラーリンはそのまま小指でかき混ぜる。


「戦友に」

「……戦友に」


 ほんの軽くカップのふちを触れ合わせ、一息に空ける。

 甘く強烈な刺激がのどを刺激し、熾火のように静かな戦意をかき立ててくれた。

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