トニーニ工房

リーチェ

1928年 6月21日 コモ湖畔 トニーニ工房の船着場にて

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 凪いだ水面に映る、紅の翼。


 谷間にエンジン音を響かせ、イタリアンレッドに塗装された飛行艇が着水しようとしていた。翼下フロートが水面を叩かないよう慎重に高度を下ろしていき、よく磨かれた艇体が湖に一本の線を描くのを見守る。きゅっと引き絞られた流線型の艇体は木製ならではの美しさを誇り、開放型コクピットの頭上には記憶にあるよりも一回り大きなエンジンナセルが架かっている。アエロナウティカ・マッキの競技飛行艇M.33の麗容であった。


 アレーニア邸を飛び出したリーチェの足は、慣れ親しんだトニーニ工房への道筋をたどっていた。湖岸沿いの散歩道には穏やかな風が吹き抜け、かすかなオイルの匂いを鼻孔へ届けてくる。懐かしい匂いに足を止めて空を見上げたところへ、ちょうど帰ってきたM.33を見つけたのだ。操縦者の方でも、じっと空を見上げるリーチェの姿に気付いていたらしい。一連の着水操作をひと段落させると渋い笑みと共に手を振ってくる。


「おう、そこにいるのはアレーニアの嬢ちゃんじゃねえか! いつ帰ってきた!」

「ついさっきだよ、サンドロおじさん!」

「おじさんはよせっつったろうが、リーチェ!」

「おやっさんこそ、嬢ちゃんはやめろってぼく言ったよね!」


 徐々に回転を落とすエンジンの騒音を縫って、叫ぶように会話する間にも飛行艇はするすると船着場に寄せられてくる。航空技師とは思えない、見事な操縦の腕前だ。船よりむしろ飛行艇のために設けられた船着場には、飛行艇を陸に上げるためのスロープと起重機が設置されている。リーチェは起重機の電源を入れると、自然と頬が緩んでくるのを感じながら挨拶を口にする。


「ただいま、おやっさん!」

「よく帰った、リーチェ!」


 最後に会ってから一年余り。それだけの歳月が、一瞬で解けたような気がした。子供のころ教えられた通りに起重機を操作し、アレッサンドロと息を合わせ、M.33の滑らかな艇体を傷つけぬようトラックに連結された台車の上へ移していく。改めて間近で観察すると、至るところに手が加えられて全体としてのシルエットも変わっているのが分かる。


「わかるか?」


 心の底から愉しそうな、技術者の笑みを浮かべてアレッサンドロが問う。お気に入りのおもちゃを自慢する子供のようだと思い、リーチェもくすりと笑う。


「エンジンとラジエタ、翼形状も変わってる? それに、上手く塞いで隠してあるけど機銃も積んでるよね。こんなに改造して、賞金稼ぎにでもなるつもり?」

「流石はリーチェ、よく見てるな。うむ、エンジンはカーチスのお下がりを降ろして水冷V型12気筒フィアットAS.2を積んだ。チューンして830馬力まで絞り出せる。合わせてラジエタも大型化したが、ナセルの工夫と主翼断面の見直しで抵抗はむしろ減ってるくらいだ。浮かした分でヴィッカース0.303inch機関銃を二丁積んで、旋回性をよくするために尾翼は大型化した。まだまだあるぞ」

「それって、ほとんど別物じゃない……?」

「その通り。1925年のシュナイダートロフィーではエンジンのせいで本領を発揮できなかった悲運の競技飛行艇M.33は生まれ変わり、いわば最強の戦闘飛行艇M.33Aとなった。いや、むしろ、これこそが本来のM.33なのだと言えよう」


 M.33AのAとは、つまりアレッサンドロを指すのだろう。

 作りたいから、作った。そんな心の声が聞こえてきそうな機体だった。


「……で、これ、誰が乗るの?」

「決まっているだろう? もちろんお前だ、リーチェ。わしじゃ飛ばすのが精一杯で、テストパイロットはやれんからな。地上でデータを計測する役目もある」

「……まあ、いいけどさ」


 アレッサンドロとしては乗りこなせさえすれば誰でもいいのだろうが、リーチェなら乗れると思われているのは、技量を認められている証として素直に嬉しかった。そんな思いをよそに、アレッサンドロは我が子を扱うかのような丁寧さで機体を台車へ固定していく。


「ようし、固定した。格納庫はわしが開けるから運転してくれ」

「ん、了解」


 歳に似合わぬ機敏に駆けていく背中を目で追いながら、運転席に乗り込む。天才設計士マリオ・カストルディに道を譲って表舞台から身を引いた老技師は、今なお現役の航空技師として飛行艇の改良と新技術の開発に挑んでいる。その自由さに、羨ましさにも似た感情を覚えながら、キーを回した。


「それで、お前さん飛べるのか?」


 格納庫へトラックを入れ、運転席から降りたリーチェにかけられたのは、まるで部品の性能を問うように淡々としたアレッサンドロの言葉だった。その視線はまっすぐリーチェの頭の包帯へ向けられている。リーチェをアレーニア家の娘としてではなく、あくまで一人前の飛行機乗りとして扱う声音に重ねて嬉しさがこみ上げてしまい、照れ隠しの苦笑に混ぜて答える。


「一週間もすれば包帯も取れる。ぼくは問題ないよ」

「そうか。まあ、お前さんがいいと言うのならそれでよかろう」


 一瞬、ブランカのことを言われているのかと思ってどきりとした。だが、アレッサンドロはそのような回りくどい話し方をする男ではない。自分に引け目があるからそのように感じるのだ、と思い至ったリーチェはアレッサンドロに気付かれないよう壁へと視線を外し、そっと唇を噛んだ。


「……ん、この写真って」

「ん? ……ああ、それか」


 壁に視線をやった拍子にリーチェが見つけたのは、額に入れられた一葉の写真だった。磨き抜かれた造形の一機の飛行艇の前に集う、精悍なパイロットと整備士たち。その中には、当時マッキ社の筆頭設計士だったアレッサンドロの姿も見える。よく見れば写真の隅には日付と短い言葉が書きこまれていた。そこにはこう記されている。


 1921/8/11 ベニス 幻の栄冠と我が仲間たち


「……いいやつほど早く逝くなんて月並みな言葉を、リーチェ、お前は信じるか?」

「ん……どうだろうね」


 戦争で死んだ戦友たちの顔を思い浮かべる。気の合うやつもそうでないやつもいたし、顔も名前も思い出せず、断片的な会話や仕草だけが記憶に残っているようなやつもいる。ただ、周りを気遣って自分のことを疎かにする飛行機乗りは、早死にしないまでもあっけなく死ぬことが多いように思う。


「中央に映っている飛行機乗りがいるだろう? ジョバンニ・ディ・ブリガンティというのがそいつの名前だ。やつは勇敢で誇り高い飛行機乗りだった。その高潔さが祟ってトロフィーを逃したことを後悔していたのだとしても、生前はそれを口にしないだけの分別を持ち合わせた男だった」

「トロフィーを逃した? それってシュナイダートロフィーのこと?」


 シュナイダートロフィーとは、フランスの富豪にして冒険家であったジャック=シュナイダーが創始した、世界最速を競う水上機限定のエアレースだ。戦争で中断を挟んだものの、再開された今では各国が己の威信をかけて航空機技術の高さを示す場の一つとなっている。


「シュナイダートロフィーのルールは知ってるか? その一つに、三年連続で優勝した国の飛行協会がトロフィーを永久に保持するって項目がある。そして1919年、1920年と優勝していたイタリアにとって、1921年の大会はトロフィーの永久保持がかかった重要な戦いだった。当然、マッキの設計士だったわしにも声がかかった。祖国の威信にかけて世界一速い飛行艇を作れ、ってな」

「でも、勝てなかった?」

「いや、勝った。ジョバンニの乗ったM.7は優勝した。だが、あいつはトロフィーを永久に保持する権利を辞退したんだ。なぜなら、前年の1920年は他国の参加機が大会に間に合わず、イタリアしか参加しない単独開催のレースだったからだ。不完全な勝利ではない、完全な勝利を。やつはそう望み、わしらもそれを支持した。来年も勝てると思っていたからだ。だが運命の1922年8月12日、病に倒れたジョバンニは大会に参加することすらできず、イタリアはイギリスに負けを喫した」

「…………」

「あのときわしの設計したM.17にジョバンニが乗っていれば、わしらは勝っていた」

「けど、現実はそうならなかった?」

「うむ。各国政府がシュナイダートロフィーの意義に気付いたのもちょうどその時期だった。飛行機好きが集まってののどかな草レースが、あっという間に国家の威信や技術力を示すための、一発の銃弾も撃たない戦争に化けちまった。そうなると強いのはイギリスやアメリカだ。不況にあえぐイタリアを尻目に、国家のバックアップを得て潤沢な資金で技術開発を進められる。正直羨ましかったぜ」

「…………」

「結局、たった数年でわしの飛行機じゃもう勝てない時代になっちまった。マリオ・カストルディ。アエロナウティカ・マッキの現主任設計士さまは、まだ若いがいい線を描く。パイロットも、若いやつが育ってきていた。ジョバンニの出番は、もうそこにはなかった」

「でも、おやっさんが図面を引いたM.7terは海軍に正式採用されたでしょう? 信頼性が高くて扱いやすい、いい機体だって認められたからだよ」

「おかげさまでな。だが設計士としてのわしはもう終わりだよ。好むと好まざるとにかかわらず、わしの愛する木製飛行機は時代遅れになりつつあるしな。全金属製、単葉片持ち、引き込み脚の飛行機が飛び回る時代が、すぐに来る。飛行機設計の発想そのものが変わるんだ」

「ぼくは鉄の塊より、おやっさんの造る飛行機の方が好きだよ」

「ありがとよ。だが航空会社はわしの飛行機を愛しちゃくれないそうだ。実際、金属製にするメリットはでかい。エンジンが火を吹いたってそうそう燃え広がらないし、きちんとサビ止めしてやりゃ高温多湿の過酷な環境でも腐って折れて空中分解することはない。旅客や貨物を運ぶ民間機に向いてるのは圧倒的に金属機だ」

「……ああ、うん。空で焼け死ぬのは、確かに嫌だね」


 海上で火に巻かれ、愛機から身を投げた戦友を思い出す。


「だろう? 対する木材のメリットは入手と加工が容易な点だが、最近はそれも怪しくなってきてるしな。空から地上を眺めてるリーチェならわかるんじゃないか?」

「うん……確かに、ハゲ山をよく見るようになったかも」

「飛行機ってのはそこらに立ってる木を切り倒して作れる代物じゃない。癖のない、真っ直ぐでよくしなる丈夫な木材でなきゃダメなんだ。そういう木が、いまイタリアから姿を消しつつある。小型機の少量生産ならともかく、大量生産や大型機の建造を視野に入れるなら新しい材料を採用しないと、いずれ行き詰まる。植民地から輸入するにも限度があるしな」

「それで、鉄……ね」

「鉄だけじゃない。アルミ合金のジュラルミンってやつが航空機の建材として有望だって話だ。そうそう、聞いたか? イギリスやフランスじゃ竜を飛行機の材料にする研究もしてるそうだぜ」

「竜を?」


 ブランカが殺され、飛行機にされるところを想像して顔をしかめる。アレッサンドロはリーチェの表情を見て一拍置き、それから淡々と続けた。


「材料調達が恐ろしく困難だから、主流にはならないだろうけどな」

「そんなの、なってたまるか」


 憤然となるリーチェをなだめるように両手を掲げ、アレッサンドロがうなずく。


「わかってる、お前さんのブランカに手を出す気はないさ。しかし、竜の表皮や骨格が建材として優れているのは確かだし、実現すれば国家の象徴的な意味合いを持った飛行機になるのは間違いない。先の戦争で死なせた竜を、そういう形で再利用しようとするやつもいるってことだ」

「…………再利用」


 大きく息を吸って、ゆっくり吐き出す。古来、竜の死骸を加工して装飾品や武具とするのは珍しくない。柔軟かつ軽量で頑丈な、世界最大の生物種に由来する材料は、性能以上に象徴的な意味で珍重される。象牙や鼈甲が高値で取引されるのと同じ理屈であり、竜だけを特別視する理由はないとアレッサンドロは言外に述べているのだ。


 竜医なんてね、大したものじゃない。竜も診れる獣医ってだけなのよ。


 いつか聞いた、祖母ヴァレリアナの言葉だ。その言葉通り、彼女はペットの犬や猫、そしてときには急病人も診る。人も獣のうちだよ、とは彼女の持論だ。エンジニアとして、竜医として、それぞれ独特で確固たる視座を築くアレッサンドロとヴァレリアナは案外気が合うのではないだろうか、とリーチェは常々思っている。


「そうだ、おやっさん、今日来たのは一つ頼みがあって……」


 気を取り直して本題に入ろうとしたところで、耳をつんざく連続的な爆発音に話を遮られてしまった。エンジン音、それもとんでもなく大馬力のそれが立てる轟音だった。音の方向からすると、少し離れたところに立つガレージの中から聞こえているらしい。一年前は物置になっていた古いガレージだ。中で誰かがエンジンの試運転でもしているのだろうかと考える。


「――――――!」


アレッサンドロが叫ぶが、上手く聞き取れない。

リーチェも叫ぶように問い返す。


「え、なに?」


 舌打ち、そして親指で外を指すような仕草。このままでは話にならないから止めに行く、ということらしかった。同時に、アレッサンドロ本人以外でこんなことをしそうな人物を一人だけ思い出す。ヴィルジニア・トニーニ。今年で十四になる、アレッサンドロの孫娘だった。

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