父と娘

リーチェ

1928年 6月21日 アレーニア邸にて

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「立ち話もなんだな。来なさい、ラニエロにコーヒーを淹れさせる」

「……は、はい」

「ん? 静養のため戻っているとフェラーリン君から聞いているだろう?」


 突然声をかけられて、動揺が収まらない。そんなリーチェに、レオーネはおどけるように片眉を上げてみせた。右手に握る黒檀のステッキは先の戦争で足を痛めてから愛用しているもので、見たところ血色はよく、声量もある。リーチェの記憶にある通りの父の姿であり、毒を盛られて倒れたという話は噂に過ぎなかったかと安堵する。


「父上……毒を盛られて倒れられた、と聞いて心配していました」

「うむ、アマーデオ議員がな。幸い、命に別状はなかった」

「え? では、毒を盛られたのは事実なのですか?」

「事実だ。アマーデオ君が冗談半分に私と酒杯を交換していなければ、倒れていたのは私だっただろうな。毒見役など大袈裟だと言ったのだが……どうやら甘かったのは私のようだ。奴らがあそこまで分別のない輩だとは考えていなかった」

 レオーネが顔をしかめる。朋友を害した者への静かな怒りがにじむ。

「犯人に心当たりが?」

「うむ、それを話すためにも、まずは部屋に入りたまえ」

「はい、父上。それと……ただいま戻りました」

「うん、おかえり、リーチェ」


 お互い、ふっと表情が緩む。ほぼ一年ぶりの帰郷に父として言いたいこともあっただろうに、あえて口にはせず、ただおかえりと言ってくれたのが嬉しかった。少しだけ軽くなった心で、リーチェはレオーネについて階段を上る。場所を二階の応接間に移し、しなやかで手触りのよい革のソファにかけて向かい合った。ラニエロが台車に乗せたコーヒーとグラッセをサーブするのを待って切り出す。


「……先日、ナポリの映画館でフェラーリンと会ったときにもファシストの監視がありました。ファシスタ党に鞍替えする屈辱に耐えて一党独裁の議会に残り、ムッソリーニを掣肘する道を選ばれた父上やアマーデオ議員を排除しようと狙うファシストの犯行、でしょうか?」

「ふむ、アマーデオ君が危惧していたのもそれだが、私の見立てでは毒を盛ったのはファシストの手先ではないな……うむ、これは美味い。この華のある香りと独特の酸味はエチオピア産の豆かな? もう一杯頼むよ、ラニエロ」


 一息にカップを干すと、ラニエロにお代わりを要求しつつグラッセを口に押しこむレオーネ。公の場では決して見せない旺盛な食欲は、リラックスしている証拠。リーチェもまた、父に習って気兼ねなくグラッセを口にする。王侯貴族のヴィラが立ち並ぶベッラージョの街には、舌の肥えた彼らのお眼鏡に適う高級な菓子や料理を作る店が点在している。極上の甘味を、懐具合の心配をせず口にできる幸せは何にも代えがたいとリーチェは思う。


「お話の続きですが、父上は誰が犯人だとお考えですか?」

「考えてみたまえ」政治家となる前は竜医学者を目指した父の、教師としての問い。

「ファシストではない? では、野に下った共和派ですか?」


 レオーネは黙してうなずく。続けろ、という瞳の色。こうなってしまうと、少なくとも自分なりに論理立てた考えを口にするまでは頑として教えてくれないのがレオーネという男だ。視線を切って、カップの黒い水面に目を落とす。空に関わること以外で頭を使うのは久しぶりだった。


「…………」


 現在、イタリア議会はファシスタ党の一党独裁下にある。統一社会党の議員として当選するもファシスタ党の独裁をいち早く予見、議会に残ってムッソリーニを掣肘するため早々にファシスタ党への鞍替えを図ったレオーネを狙う者は多い。だが暗殺を実行に移すだけの動機と実行力を併せ持つ勢力となると、ファシスタ党を除けば共和派の残党ぐらいしか見当たらない。


「共和派が犯人だとして、彼らが父上を狙うことで得られる利益は……?」


 レオーネがリーチェに自分で考えるよう促しているのは、共和派が暗殺を実行に移したという答えだけが分かっても、相手の目的まで分からなければ適切な手は打てないから、なのだろう。いかにもレオーネらしい実務的な思考に苦笑したい気分になる。しかし、共和派の中でも現実的な思考ができる者はむしろファシスタ党内のハト派と組んで過激なファシストに対抗しようとしていたはず。


「政治的に追い詰められた共和派の暴発、あるいはファシスタ党内で父上を憎む者が共和派を唆して、一石二鳥を狙った? ごめんなさい、これ以上はわかりません」


 傾げていた首を戻し、お手上げのジェスチャ。

 レオーネはリーチェの言葉を吟味するように黙考し、やがて口を開いた。


「アドリアの亡霊。名前は知っているな? 先日、お前たちが戦った相手だ」

 レオーネの口から出た名前は意外なものだった。なぜ彼らの名前がここで出てくるのか。

「アズダーヤ隊。ハプスブルクの残党を名乗る飛竜と飛行機乗りたちですね?」

「左様。お前とブランカに手傷を負わせた者たちだ」


 苦り切った表情のレオーネが、リーチェの頭に視線を向ける。自分が包帯を巻いていることを、そのときになってようやく思い出した。ラニエロやフランカが包帯について言及しなかったことも。おそらく、リーチェとブランカがアドリアの亡霊と戦って負けたこと、その際に負傷したこともフェラーリンを通じて知らされたのだろう。


「彼らのバックに共和派が?」

「国民の支持を失って追い詰められた政治家と、泥沼の戦争の果てに守るべき祖国そのものを失った軍人。共通の敵を討つために手を結んだか、あるいは互いに利用する気でいるのか。同盟相手はおろか、組織内ですら一枚岩になれない彼らが欲した戦果こそ、リーチェ、お前とブランカなのだよ」

 察しの悪い生徒に言い聞かせるような口調。反論を試みる。

「共和派もアズダーヤ隊もファシストを敵視しているのでしょう? ぼくはただの賞金稼ぎでファシストに与する気はない。ぼくが狙われる理由にはならないはずです」

「本当にそう思うのか?」

「……まさか、父上の動きを封じるためにぼくを狙ったと?」

「その逆だ。私の動きを封じるためにお前を狙ったのではなく、お前を墜とせなかったから家族を人質にして脅しをかけるつもりで私の杯に毒を盛ったのだ。もっとも、その様子では当の本人は怯むどころか気付いてもいなかったようだが」

「そんなバカな話が……」

 レオーネがため息をつく。聞き分けのない子にそうするように。

「リーチェ、わからない振りはやめなさい。自らが置かれた立場を察することができないお前ではないはずだ。国の英雄たる『白の竜騎士』がいずれの陣営に与するかに無関心な政治家はいないのだよ。ファシスタ党首ムッソリーニとて例外ではない」

「父上も、ですか?」

 質問に、沈黙が返る。そして大きなため息。

「……そうだ。お前自身は中庸を貫こうとしても、周りがそれを許さんのだ」

「…………」


 我ながら意地悪な質問だった。それでも、レオーネは娘を心配する父として、情に流されず冷徹な判断を下す政治家として、真摯に応えてくれた。そんな質問を発した自分に、そんな答えを言わせてしまった自分に嫌悪感が募る。一方で、レオーネの言葉に納得する自分もいた。レオーネはリーチェが応えないのを見て、再び口を開く。


「……ユーゴ情勢も緊迫の度合いを高める一方だ。去る六月二十日……つい昨日のことだが、ユーゴスラヴィア議会で起きた事件については知っているか?」

 リーチェが首を振ると、レオーネが言葉を継ぐ。

「党首パシッチを喪って弱体化した与党急進党はスロヴェニア人民党を取り込んで政権の維持を図っていたが、野党は民主党プリビチェヴィッチ派とクロアチア農民党が連合。議会は機能停止し、それに業を煮やした急進党議員が議場で発砲した。クロアチア農民党の議員二人が死亡、党首ラディッチを含む三人が負傷。特にラディッチの怪我は酷いらしい」

「昨日、ですか。相変わらず、情報が早いですね」


 おそらく情報の出どころは、代々医学に携わってきたアレーニア家が綿々と築き上げ、今は父が引き継いだ医師のネットワークだ。他国の王族や首脳の健康状態や急な怪我、病気の情報は交渉の材料となり、ときには武器にもなり得る。レオーネの政治力の源泉とも呼べる情報網だ。


「ラディッチが死んだ場合、クロアチア農民党は暴発する。議会は機能を停止し、セルビア人とクロアチア人の対立は決定的なものとなるだろう。その先は内戦か、あるいはクーデターか。国王のアレクサンダルを担ぎ出そうと暗躍する者もいるらしい。ナショナリズムが高まれば、ファシストどもが切り取ったフィウメの帰属を巡り、イタリアにも火の粉が降りかかりかねんと私は危惧している」

「また戦争になる、と?」

「……アレクサンダルを、第二のフランツ・フェルディナントにするわけにはいかん。よしんば戦争に勝ったとしても、その先に待つ光景は焼け落ちた街並み、溢れる失業者にいつ終わるとも知れん大不況だ。なにより、私は怖いのだよ、今やたった一人の娘となったお前を喪うのがな」


 レオーネの言葉は痛いほど理解できる。気ままに飛べる時代は過ぎ去りつつあること、リーチェとブランカを『白の竜騎士』として利用することを考える者はいくらでもいること、それをレオーネが心配してくれていること。しかし、諌められるほどに持ち前の反抗心が頭をもたげてくる。


「……父上。繰り返すようですが、ぼくは賞金稼ぎを止める気はありませんし、政治に関わる気もありません。空を飛び続けること、それだけがぼくの願いです。もしそれがレオーネ・アレーニアの娘、イタリアの英雄として相応しくない態度だとお考えなら、どうぞ勘当して下さい」

「……その前提がひっくり返ろうとしているのだよ、リーチェ」

 レオーネは説得を続ける。容易には諦めない政治家の交渉力、その真骨頂とも呼べる粘り強さ。

「どういうことです?」

「もはや空賊を狩っても、賞金は出ない。アレクサンダルは非公式に私掠免許を発行して空賊行為を黙認する腹積もりだ。アズダーヤ隊は国内の共和派の支援を受けていると言ったが、むしろ本命はこちらだろうな。ユーゴにとっては建国からまもない王国に竜騎士を抱える好機、アズダーヤ隊にとってはイタリア海軍と真正面からやり合うに当たってこれ以上ない後ろ盾、というわけだ」

「なるほど、空賊風情があれだけの数を揃えてきたのも……」

「オーストリア=ハンガリーのエース部隊、軍籍を剥奪された人員と紛失したはずの機材が丸々空賊に引き継がれたのであれば、なんの不思議もないな」


 先日の戦闘で確認できただけでも、敵は一頭の竜と八機の戦闘機を備えている。アドリア海の空をかけてイタリア海軍の猛者とやり合った者たちならば、竜と組めばイタリア海軍のパトロール部隊を一機も逃がさず墜とし続けたことにも納得がいく。


「フェラーリン……無理してないといいけど」


 アズダーヤ隊の捜索と討伐を任された友のことを想い、コーヒーをすする。


「ところでリーチェ。お前、彼のことは憎からず思っているのだろう?」

 危うく、コーヒーを吹きそうになった。

「とっ……突然なんですか、父上!」

「ふむ……気持ちはよく分かった。リーチェ、彼と一緒になる気はないのか?」

「なにが、わかったんですか! ぼくはまだ結婚なんてしません!」

「リーチェ、お前とてアレーニア家の人間、血と技術を次の世代へと託す意味は心得ているはず。忘れたとは言わせん」

「ですが父上、ぼくは……!」

「好いた男がいるのか? なら連れてくるがいい。家柄がどうなどとは言わない」

 断言口調が、少しだけ懇願の調子を帯びる。

「……リーチェ、もうお前も二十六なのだぞ、いつ不慮の死が訪れるかも知れない仕事をこれ以上は続けさせられんのだよ、私としては。母上の意見も同じだ」

「…………」


 返す言葉もなかった。結婚、という言葉から逃げていたのも事実。賞金稼ぎという職業は、時代の狭間に生まれる夢か泡のようなものだとリーチェ自身も理解している。いざ戦争となればリーチェとブランカは祖国のために戦わざるを得ず、嫌でもファシストの広告塔にされる。戦場で命を散らした兄や、不幸にも爆撃で命を落とした母や妹のような人間がまた大勢出る。


「ぼくに、後継ぎを産めと」

「そうだ。お前の希望する相手がいないのなら、こちらで用意することになる」


 そこまで言われて、ようやく理解する。レオーネは、遠回しに恋愛結婚を認めると言っていたのだ。それはアレーニア家の当主たるレオーネにとって大きな譲歩であり、本来ならばリーチェにとって願ってもない条件なのだろう。義務から目を背け、自らをごまかしてきたツケを払え。そう言われているような気がした。


「でも、ブランカは……」

「そうだ。彼女にも相手を用意する。私はな、リーチェ。アズダーヤ隊の擁するズメイなる飛竜が雄ならば、ブランカと娶せるのも手だと考えている」

「な、なにをおっしゃるのですか父上! ブランカは!」

「ブランカは、アレーニアの竜だ」リーチェの言葉を遮り、レオーネは断言する。

「ブランカはブランカです!」

「理屈ではなく現実の話をしているのだよ、リーチェ。確認しておくが、ブランカはお前を愛しているのだろう?」

「…………」

「自覚はあるはずだ」

「……はい」


 そう、確かにブランカはリーチェを愛している。そしてリーチェは、ブランカとの関係を家族と呼ぶことで、そのひたむきな感情をごまかしてきた。その自覚がある。だからこそ、レオーネの言葉は胸に刺さった。彼は続ける。


「竜は、先の戦争で大きく個体数を減らした。お前も知るように、種族を維持するためには最低限必要な個体数というものがある。そして、竜という種族のそれがすでに下限を割り込んでいないという保証はどこにもない。繁殖適齢期にある竜同士が殺し合うなど愚の骨頂なのだ。理解はできるな?」

「理解はできますが、納得いきません!」考えるより前に、叫んでいた。「アズダーヤ隊は何人もの戦友を殺め、そしてこれからも殺めるであろう敵です! 決着をつけるまで、ぼくもブランカも飛ぶのを止める気はありません! 失礼します!」


 憤然と席を立ち、扉へ向かう。

 レオーネも、あえて引き留めることはしなかった。

 そんな態度そのものが、子供のやることだと言っているような気がして。

 無性に、悔しかった。

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