紅の翼
リーチェ
1928年 6月21日 トニーニ工房の格納庫にて
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ゆうに三機は収まる巨大な格納庫の一角に、それはあった。床にがっちりと固定された鉄骨の架台で爆発的な轟音と暴風を巻き起こす、人が生み出した巨大な金属の心臓。水冷V 型12気筒エンジンのピストン駆動が取り付けられたプロペラを力の限りにぶん回し、生み出された後流は格納庫を吹き荒れ赤錆びたトタン屋根を吹き飛ばさんばかりだった。
「ジニー、お客さんだ! さっさとそいつを止めろ!」
化け物じみた馬力を誇るフィアットAS.2エンジンの唸りは凄まじく、アレッサンドロが声を限りに叫んでなお、隣にいるリーチェがようやく聞き取れる声量にしかならない。エンジンの脇で熱心に操作盤をいじる人物までは声が届くはずもなく、小柄な人影は駆け寄っていったアレッサンドロに肩を叩かれてようやく彼の存在に気付き、その肩越しにリーチェの姿を認めたようだ。
「…………おね…………だ!」
なにを言っているのかわからないが、栗毛のポニーテールを揺らし、透き通った翠色の瞳を輝かせて叫ぶ表情からすると、歓迎してくれているらしい。彼女の名はヴィルジニア・トニーニ。ジニーの愛称で呼ばれるアレッサンドロの孫娘は、最後に会った一年前よりずっと女性らしくなった身体の線に、以前と全く変わらぬオイル染みたエプロンをまとわりつかせていた。
「ジニー、聞こえないのか! エンジンを切れ!」
「んもう、いいところなんだから、おじいちゃんは邪魔しないでよ!」
「ん……この音! お前、プロペラを換えたな!? 勝手にやるなと言ったろう!」
「えへへ、バレちゃった? ごめんなさい! けど、すごくいい感じなの! 流石はわたしとおじいちゃんで線を引いたプロペラだよ! それ、あと200回転!」
愛嬌そのものといった笑顔を浮かべたジニーが、ぐいっとレバーを押し上げた瞬間だった。木がねじ折れる異音と共に、プロペラが一枚弾け飛んで床で跳ねた。同時に、エンジンの回転音が突然不安定になり、頑丈な架台が不規則に揺れ始める。羽根を一枚失ったせいで、遠心力が偏り始めているのだ。プロペラの軸が嫌な音を出し、周囲に異臭を漂わせる。
「緊急停止!」
アレッサンドロが血相を変えて叫び、ジニーの右手ごとレバーを押し下げる。弾け飛んだ羽根は床で一度跳ね、彼女の頭の後ろで揺れるポニーテールをかすめて屋根を突き破り、すでに空へ消えている。数秒の間を置き、急速に回転を落とすエンジン音に混じって、じゃぶんと水音が響いてくるのをリーチェは聞いた。どうやら湖に落ちたらしい。
「………………」
エンジンを切っても慣性でひゅんひゅんと回り続けるプロペラと、格納庫の屋根に空いた穴を見比べ、目を見開いて絶句するジニー。その栗色の髪をポニーテールにまとめた頭へ、固く握ったアレッサンドロの拳骨が落ちた。見るからに痛そうだった。
「ぎゃあ! いったぁぁぁい!」
頭を押さえてうずくまるジニー。
「テストするときはわしを呼べと、あれほど言ったろうが!」
「だって、お客さんがきてたから……」
頬を膨らませるジニーを見て、ため息を一つついたアレッサンドロはうずくまる孫娘の前に自分もしゃがみ込むと、無骨な両手で彼女の両頬を挟み込んだ。
「……いいかジニー。この新型プロペラに限らず実験には不慮の事故がつきものだ。悪くすれば死人が出る。今回は湖に落ちたからいいものの、人家に落ちていたら、あるいはボートで釣りをする人がいたらどうなっていたか……わしはかわいい孫娘をこの年で人殺しにする気はないぞ」
「……はい、ごめんなさい」
悄然とするジニーの頭を、アレッサンドロがくしゃくしゃと撫でる。それから、語調を少し柔らかくして告げる。
「誰よりもお前自身が理解しておるだろうが、わしとお前で研究を進めているこの可変ピッチプロペラの技術は、飛行機のさらなる高速化には欠かせないものとなるだろう。もし、将来有望な航空技師がここで一人死んでみろ、悪くすると世界の航空機の発展は数年遅れることにもなりかねん。有能なエンジニアたるもの、命は大事にせねばならん。わかるな?」
「……うん、おじいちゃん! わたし、絶対に完成させるから!」
「よし、その意気だ! それじゃあ手始めに、ペラの回収に行ってこい!」
「ええーっ!?」
「当たり前だ、バカもんが! 失敗は成功の母! なくしたら承知せんぞ!」
落ちた場所が波の穏やかなコモ湖だったこと、プロペラが木製だったことが幸いしたようだ。折れたプロペラが湖底に沈んで失われるようなこともなく、残骸を肩に乗せたジニーが戻ってくるまで十分もかからなかった。その間にアレッサンドロが淹れてくれた苦いコーヒーで、折れた羽根を天板に乗せた作業机を三人で囲み一服する。
「わたしも吸いたいなー」
リーチェが指に挟んだ煙草に、ジニーが視線を注いでくる。
「大人になったらね」「わしが許さん」
リーチェとアレッサンドロの声がかぶり、ジニーは頬を膨らませる。それから、はっと気づいたような顔になり、にこりと微笑みを形作ってみせる。
「そうだ、きちんと言えてなかったね。お帰りなさい、リーチェおねえさま」
「うん、ただいま、ジニー」
アレッサンドロの服のすそを掴んで陰に隠れていた幼女時代からずっと、ジニーはかわいい妹分としてリーチェを慕ってくれている。ブランカに悪戯を仕掛けては軽くあしらわれ、脅かされては泣かされていた時分を思うと、ずいぶんと大人っぽくもなっている。
「ねえおねえさま、ブランカは元気なの? 久しぶりに会いたいな」
「ブランカは……ちょっとケガしちゃって、ね」
「そっかー……ケガ、大丈夫なの?」
「おばあさまが診てくれてる。大丈夫だよ」
「お見舞いに行っても、いいかな?」
「もちろん。ところで、プロペラのテストって?」
「あ、おねえさま、聞きたい!?」
アズダーヤ隊の話題は、できれば一般人であるジニーに話したくない。話をそらすため、リーチェが机の上に置かれたプロペラの残骸を指して尋ねると、ジニーはアレッサンドロそっくりな翠色の眼を輝かせて食いついてきた。
「今わたしたちが研究してるのは、わかりやすく言うと木製地上調節式可変ピッチプロペラなの! ほら見ておねえさま、スピナを外すとブレードとハブの結合部がわかるでしょ? 今は離水性・機動性重視の低ピッチと巡航性能重視の高ピッチの二段階、しかも飛行中の変更はできない試作品でしかないけど、いずれは金属製の無段階自動可変式にしようと思ってるの! ね、すごいでしょ!」
エンジンに取り付けられたままの壊れたプロペラを指し、部品を付けたり外したりしながら早口で興奮気味に話すジニーの話は、半分も理解できなかった。助けを求めてアレッサンドロを見ると、苦笑しながら解説を加えてくれる。
「いいかリーチェ。ブレードの角度、すなわちプロペラピッチは、いかに効率よく空気を掻けるかでその性能が決まる。これは感覚として、わかるだろう?」
アレッサンドロはリーチェがうなずきを返すのを見て、折れたプロペラを手に取りブレード面を撫でる。ほぼ水平に近い先端から始まって、根元に近づくにしたがって角度が増していく、ごくごく一般的なプロペラに見える。掻き分けるのが空気か水かの違いはあっても、前方にあるものを後方へ送るという機能だけを見れば飛行機のプロペラと船のスクリューは同種のものだ。
「最適なピッチ角は速度によって変わる。だが、プロペラの速度は一定ではない。エンジンの回転数によって、速くも遅くもなる。つまり従来のプロペラ、すなわち固定ピッチプロペラでは、ある一点の速度でしか最適なピッチ角を取れなかったんだ。ここまで、話についてきているか?」
黙ってうなずく。つまり低速で離着陸するときと、高速で巡航するときでは求められるプロペラブレードの角度が異なる、ということだろう。陸上競技における短距離走と長距離走における走法の差に近い。リーチェが理解したのを見て取って、アレッサンドロが続ける。
「この問題が今まで表面化しなかったのは、既存の飛行機では離着陸速度と最高速度にそれほど大きな差がなかったからに他ならない。だが近年、エンジン出力の増加に伴って時速100km超の差が生まれるようになり、問題が顕著化した。つまり、離陸性能を上げようとすれば巡航性能が悪くなり、燃費をよくしようと思えば離着陸が困難になるという二律背反を抱え込んだんだ」
喋りたくてうずうずしていた様子のジニーが割り込む。
「固定ピッチプロペラを採用する限り、この二律背反からは逃げられない。だったら、逆転の発想で回転数の方にプロペラのピッチを合わせちゃえばいいよねってところからスタートしたのが、この可変ピッチプロペラ構想なの! 今回のテストで接合部の強度不足が問題だってことも浮き彫りになったし、うん、いよいよ完成が近いよ、おじいちゃん!」
「うむ。高低の二段階可変ピッチが実現するだけでも、離着陸時と巡航時の使い分けや、空気の薄い高地や高度でのプロペラ交換を必要としない柔軟な運用が可能になる。それだけではなく、将来的には常に一定の回転数となるよう自動でピッチ角を調整する、無段階恒速プロペラとでも呼ぶべきものを開発したいもんだな。トニーニ工房の名で特許が取れれば、特許使用料で半世紀は安泰だ」
「そんなにすごい発明なんだ」
「ああ、身びいきを抜きにしても、ジニーの才能は本物だ。ぜひともイギリスかアメリカへ留学させてやりたいんだが、M.33Aが売れんことには金がなあ……」
アレッサンドロはそう言うと、思わせぶりな視線を送ってくる。
「……ぼくを見ないでよ。そんなお金ないって知ってるだろ?」
「ブランカと二人してしこたま稼いでるんだろ? 知り合いのよしみで安くしとくぜ。アフターサービスで今後の改修費も負けてやるし、今なら専属の整備士が二人ついてくる。なあ、正直なところ買い手がつかなくて困ってるんだ。ここは知り合いを助けると思って……」
「前も言ったと思うけど、腕はいいんだから注文きてから作りなよ」
リーチェの言葉に、なぜか鼻の下をこすって胸を張るアレッサンドロ。
「わしは作りたい物を作りたいように作る。客は気に入ったらそれを買う。古き良き職人の仕事ってのはそういうもんだ」
トニーニ工房が今日まで潰れていないのが、奇跡に思えてくる台詞だった。
「立派な信念だと思うよ。ぜひ潰れるまで突き通すといい」
「もう、おねえさまの前でみっともないからやめてよ、おじいちゃん」
呆れたような二人の言葉を受けて、アレッサンドロが顔をしかめる。
ジニーはなおも続けた。
「わたしのことなら気にしなくていいの、おじいちゃん。留学なら自分で稼いだお金で行くし、お手紙にわたしの写真を同封しておねだりしたら、アメリカの研究者さんたちが航空機に関わる研究書や最新の論文を送ってくれるって約束してくれたのよ。だからここで飛行機をいじりながらでも勉強はできるし……なにより、今はおじいちゃんと飛行機いじってるのが楽しいんだもの」
「おお、泣かせることを言いやがる。だがな、お前はわしがまともな学校を出てないせいでどれだけ苦労したかを知らんから……」
「あのね、おじいちゃん。前も言ったけど、わたしは航空技師になりたいのであって、研究者になりたいわけじゃないのよ! いくら空気力学に詳しくたって、それだけでいい線が引けるわけじゃないんだから! それはおじいちゃんが一番よく知ってるでしょ!」
「むむう、だがなジニー……」
騒がしく、それでいて仲よく言い争う二人をよそに、リーチェはプロペラを見つめる。考えていたのは、アズダーヤ隊のことだ。彼らと再戦するならば、この可変ピッチプロペラは武器になるかも知れない。予め低ピッチに設定しておけば、ドッグファイトで失った速度を回復しやすくなるはずだ。多数を相手にする以上、低速時の機動性と加速性能はできる限り引き上げておきたい。
「ねえ、これっていつ完成するのかな」
「ふむ、今回折れたのは、計八枚試作したうちの一枚だ。接合部の強化をするだけなら三日もかからんが……どうだ、興味が湧いたか?」
「うん、少しね……って、八枚も作ったの?」
「二機分とその予備だが……ああ、お前にはM.33Aしか見せてなかったな」
アレッサンドロが顎で指し示したのは、格納庫の反対側で防水布をかけられた機体だった。用意のいいことに、いつの間にかジニーはすぐ側で待機している。
「ふふーん。じゃーん、1926年のシュナイダートロフィー、アメリカはハンプトンローズ大会で見事カーチスに前年の雪辱を果たし、天才操縦士マリオ・デ・ベルナルディがイタリアに優勝をもたらしたマッキM.39、その姉妹機をカスタムした水上戦闘機M.39Aだよ!」
取り払われた防水布の下から現れたのは、真紅のフロート機だった。マッキ社がそれまでの飛行艇スタイルの限界を悟り、フロート機へと開発方針を転換した、記念すべき機体だ。カーチスの猿真似との悪評と、今年もカーチスが勝つとの下馬評を打ち破ってシュナイダートロフィーで優勝を勝ち取った、マッキ社の誇る天才設計士マリオ・カストルディの水上飛行機として名高い。
「姉妹機ってことは、フェラーリンの?」
「そうだよ! えへへ、びっくりした?」
1926年のシュナイダートロフィーは、前年と前々年カーチスに負けを喫したのを憂慮したファシスト党首ムッソリーニが発した『いかなる困難にも打ち勝ちトロフィーを獲得せよ』との命令一下、国家的プロジェクトとして新型水上機の開発が推進された年だった。前年までに飛行艇の不利を悟っていたマッキ社は フロート機の開発に人員と機材を振り向け、軍も優秀な飛行機乗りを専属のパイロットとしてマッキ社へ派遣した。その一人が、フェラーリンだったのだ。
あの堅物も、世界最速のレースに胸躍らせたのだろうか。
そんなリーチェの感慨をよそに、ジニーはスペックの説明を続ける。
「戦闘機としてカスタムするに当たって、冷却性能の限界で稼働時間に制限がかかる翼表面冷却は取りやめて顎型ラジエータを取り付けたのはM.33Aと一緒。それから側面に機銃二丁とプロペラ同調装置、風防もレース用の狭苦しいのは外して視界が広く取れる涙滴型のにしちゃった。正直、空気抵抗で最高速度はだいぶ落ちてるかも」
「具体的にはどれくらい?」
「チューンしたAS.2と可変ピッチプロペラを積み直して飛ばしてみないと分からないけど、んー、わたしの計算では時速100kmくらい落ちるかな」
「100kmも? それじゃ使い物にならない」
現在、軍が正式採用する戦闘機の最高速度は時速200~250km前後だ。仮にM.39がそれを大きく上回る速度を出すのだとしても、戦闘機に改造したことで時速100kmも落としてしまうのなら、並の戦闘機と大差ない。そんな感情が表に出ていたのだろう。ジニーが不安そうな口調で尋ねてくる。
「そっか、やっぱり時速295kmじゃ足りないよね?」
「うん、時速195kmじゃブランカとの連携ができないし、使い物にならない」
「え? ううん、おねえさま、時速は295kmよ?」
「うん? そこから空気抵抗で時速100km落ちるって話だろ?」
お互いなにを言っているのかという表情で、ぱちぱちとまばたきして見つめ合ってしまう。呆れの中に笑いを滲ませ、こらえきれないとばかりに沈黙を破ったのは、後ろで腕組みして二人のやりとりを見守っていたアレッサンドロだった。
「リーチェ、お前さんも飛行機乗りならシュナイダートロフィーの詳報くらい目を通しておくんだな。M.39は平均時速395kmを公式に記録したモンスターマシンだぞ。いいか、最高時速ではなく平均時速だ。時速100km落ちたところで並の戦闘機じゃ追い付けやしないさ。このわしとジニーの造り上げたM.33AとM.39Aは、掛け値なく世界最速最強の戦闘機だ!」
「もちろん、ブランカにもついていける、ね!」
ジニーが付け加えた言葉に、思いがけず心が震えた。先の戦争では叶わなかった夢、ブランカに跨って飛んでもらうのではなく、一緒に肩を並べて飛ぶ空。それが実現できる可能性そのものが、この紅の翼という形を伴って不意に目の前に現れたような、そんな気分だった。
「ねえ、ジニー、サンドロおじさん」
「なんだ、リーチェ?」
「なあに、おねえさま?」
にこにこと微笑む二人に向き直り、リーチェは勢いよく頭を垂れた。
「ぼくを、テストパイロットにして下さい!」
「ああ、こっちからお願いするぜ!」
「やったあ! これからもよろしくね、おねえさま!」
リーチェが顔を上げると、駆け寄ってきたジニーが胸に飛び込んでくる。つい昔の感覚で受け止めようとして支えきれず、後ろによろけてしまったところをアレッサンドロの太い腕で止めてもらう。
「それでおねえさま、どっちに乗るの?」
勢い込んで尋ねてくるジニー。しかし、その言葉をアレッサンドロが遮る。
「待ちなジニー。話は終わっちゃいない」
いつになく真剣な声音で、アレッサンドロが言う。その表情で重要な話だと察したのか、不思議そうな顔をしつつもジニーが引き下がるのを待って、やや言葉に迷う様子のアレッサンドロに代わってリーチェから切り出すことにする。
「契約条件について、だよね」
「……ああ、そうだ。トニーニ工房としてお前さんと正式にテストパイロットの契約を結ぶに当たって、いくつか条件がある。で、先に言っとくが、うちは知っての通りの貧乏所帯だ。正直、危険に見合うだけの金は出せんぞ?」
「知ってるし、それでいいよ」
「うむ、実は契約書も用意してある」
なぜか目をそらして突き出された契約書を受け取って、リーチェは列記された項目へ順番に目を通していく。トニーニ工房は同工房所有のM.33AおよびM.39Aの試験操縦士としてベアトリーチェ・アレーニアを雇用するに当たって、以下の条件を提示する、との文章で始まる契約書は、初めからリーチェをテストパイロットにする気でなければ用意されているはずのない代物であり、リーチェとしては苦笑するしかなかった。
「操縦士は両機の完成のため工房が要請する各種試験飛行を実施する義務を負う。燃料は適正な使用と認められる限り工房が現物支給するものとする。弾薬および不慮の事故による修繕費は操縦士が負担するものとする。操縦士の住居と食事は工房が提供する範囲に限って無償とする。給与及び賞与は支給しない。業務中に得られた懸賞金および報奨金は、その全額が操縦士に帰属するものとする……早い話が、こいつに乗って賞金稼ぎをしろってことだね」
「どうだ? 今なら優秀なメカニックが二人もついてくるぞ」
「もちろん、性能向上のための改修費はこっち持ちだよ!」
にやりと渋く笑うアレッサンドロに、ジニーが追随する。
「わかった。契約しよう」
「……いいのか?」
あっさりと承諾したリーチェに、アレッサンドロが拍子抜けしたような問いを投げかける。そのとき、リーチェの頭にあったのは契約内容よりむしろ、操竜規定の第一条『単独での飛行を禁じ、各国飛行教会による認定を受けた人間の管理下での飛行のみ許可する』の文言だった。
竜の飛行速度に追随できる飛行機など、先の戦争では夢のまた夢だった。しかし、レシプロエンジンの大馬力化と機体形状の空気力学的洗練により、人間は時速300kmでの飛行を現実のものとした。ようやく、ブランカの飛行を妨げることなく、本当の意味で自由にブランカと空を飛べるようになったのだ。その夢の飛行機に乗れる機会が、目の前にあるのだ。
「ブランカと共に飛べるなら、ぼくは命を捧げても構わないよ」
「……おねえさま」
何か言いかけるジニーを、アレッサンドロが遮る。
「よし、いいだろう。契約書のこことここにサインしてくれ。……うむ、これでお前さんは正式にうちの工房の専属テストパイロットだ。では早速だが、雇い主として最初の命令だ」
ぴりっとした緊張感が場に走る。思い出すのは、先の戦争で上官から命令を受けるときの空気だ。自分と相棒、そして戦友たちへ向ける信頼と、小さなミス一つがそれら全てを奪い去りかねないという恐怖。ときとして自らの能力を超えるかに思われる任務であろうと、あらん限りの忠実さと一種の諦観でもって立ち向かわねばならないという覚悟を込めて、言葉を発する。
「うん、ぼくにできることなら、なんだってやるよ」
リーチェの言葉を受け、アレッサンドロは重々しく宣言する。
「いいか、絶対に墜ちるな」
「当然だよ。飛行中、どんなトラブルに見舞われても機体を持ち帰る。最後まで機体を見捨てず、機体と自分の両方を生かす道を探る。それがテストパイロットの使命でしょう?」
リーチェの言葉に、なぜか額を押さえて首を振るアレッサンドロだったが、言葉を選ぶようなしばしの沈黙の後、再び口を開く。
「……曲がりなりにも平和が保たれているこのご時世だ。戦闘機としてのM.33AとM.39Aを完成させるために、うちとしてはぜひとも実戦データが欲しいのも事実。しかしだな、こいつらが完成したとしても、はっきり言って量産の当てはない。わしが満足し、ジニーが経験を積む。言ってみれば、トニーニ工房の道楽にお前さんは付き合わされるんだ。そこに命を懸ける意味はないし、お前さんが死んだら皆が悲しむ。それだけは忘れるな。いいな?」
「……大丈夫だよ。ぼくを誰だと思ってるの?」
「リーチェ。近所のかわいい嬢ちゃんさ、わしにとってはな」
「…………」
「おねえさま?」
心配そうに成り行きを見守っていたジニーが声を上げる。
「おねえさまのおばあさま……ヴァレリアナさまから聞いたのだけど、おねえさまは今、すごく危険な空賊団と戦ってるって……ブランカもそいつらのせいで怪我をしたって、やっぱり本当なの?」
「うん、本当だよ」
どうしてジニーとおばあさまが繋がっているのか、を尋ねるのは後回しだ。今は、ジニーに答えてやらなければならない。
「オーストリア・ハンガリー帝国海軍航空隊の生き残りが、アズダーヤ隊を名乗ってアドリア海を荒らし回ってる。イタリア空軍のパトロール機が、戦友の乗る飛行機がやられてるんだ。ぼくを名指ししてきた以上、放っておくわけにもいかない」
「……強いの?」
「相手にも、竜がいる」
飛竜ズメイ。純白の捻じれた角を冠した、青灰色の竜。操竜規定第一条に違反した罪で、発見次第即撃墜することが認められる。若く、荒々しい飛び方だが、ブランカと比肩し得る速さを備えたアズダーヤ隊のエース。奇襲だったとはいえ、リーチェとブランカに一撃を加えたのは事実だ。周囲を固める戦闘機のパイロットも、決して技量は低くなかった。
「ぼくが戦闘機に乗って、ブランカと組んで戦ったとしても、数では敵が優位だ。正面からやり合えばどちらが勝つかはわからない。勝ったとしても、ぼくとブランカのどちらかが墜とされていないとも限らない。それくらいの相手だと、ぼくは見ている」
「それでも、おねえさまは戦うんでしょう?」
「うん、ブランカの傷が治り次第、フェラーリンとも相談して奴らを討伐する」
「……わかった。おねえさまが本気なら、わたしは全力でサポートする」
「頼りにしてるよ、ジニー」
微笑み交わし、互いに握手を交わす。強敵とやり合うに当たって、有能なメカニックのサポートは何よりもありがたい。気持ちが通じ合ったところでそのままブランカの回復を待つ間に行う試験飛行のメニューなどを決めようとしているところへ、見慣れた顔がガレージの扉の脇からひょいと顔を出す。アレーニア家のメイド、フランカだった。
「フランカ?」
「ベアトリーチェさま、やはりこちらにおいででしたね。アレッサンドロさま、ジニーさま、ごきげんよう。お嬢さまがいつもお世話になっております」
「フランカさんだ! こんにちは!」
「ああいや、こっちこそ孫が世話になってるようで」
「どうか、お気になさらず。お若い茶飲み友達ができるのは嬉しいと、ヴァレリアナさまもおっしゃっていますので」
察するところ、リーチェが知らない間にジニーはヴァレリアナのところに出入りするようになっていたらしい。新しいもの好きなおばあさまのこと、さもありなんと納得する。きっとジニーから飛行機や航空力学の話でも聞いているのだろう。
「ベアトリーチェさま」フランカがリーチェに向き直って言う。「ヴァレリアナさまが探しておいでです。ブランカの怪我について話がある、との伝言を預かっております。用事がお済みでしたら、竜巣へお越しくださいませ」
「……わかった、すぐに行くよ」
「おねえさま、わたしも行っていい?」
「ん……そうだね、構わないよ。おやっさんはどうする?」
「お前さん用に機体をセッティングし直さにゃならん。ブランカによろしくな」
「伝えておく」
外に出れば、いつの間にか日没が近い。長く残る初夏の残照が、コモの湖畔を赤く滲ませていた。
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