水の都を発ちて
リーチェ
1928年 6月21日 ヴェネツィアはサンタルチア駅のホームにて
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あの『アドリアの亡霊』との交戦から一週間。頭にぐるぐると巻きつけた包帯は他人の目から見ても相当痛々しく映るようで、駅までの道すがら、道行く人から同情の視線を浴びるのには閉口させられたが、リーチェ自身は立って歩けるまでに回復していた。問題は、ブランカの怪我だ。かなりの重傷であり、自力での飛行は困難であるため、移動には無蓋の大型貨車を用いることになった。怪我を癒す本能からか、この一週間というもの一日のほとんどを眠って過ごしているのが心配だった。
「ふらついたり、気分が悪くなったりはしないかね、リーチェくん?」
すぐ目の前を歩く男性が振り返り、声をかけてくる。水の都ヴェネツィアの中心部に乗り入れる唯一の鉄道駅であるサンタルチアは、今朝も多くの観光客で賑わっていた。混みあったホームで、しかしリーチェが誰にもぶつかったり足を踏まれたりせずにいられるのは同行者である彼のおかげだろう。リーチェは意識して元気に見えるよう笑顔を浮かべ、軽く頭を下げて返す。
「ええ、先生。おかげさまで、少し身体を動かしたいくらいです」
「結構。だが激しい運動はもう一週間ほど様子を見てからにしたまえ」
恰幅のいい身体を黒いスーツとハットに包み、渋く笑って煙草をふかすその姿は、重低音のダンディな声音と相まってマフィアそのもの。歩く先々で人波がさっと別れるその様子はモーゼの如しだが、彼こそはヴェネツィアの民衆に親しまれる町医者マリオ先生その人だった。とかくお茶目な人で『医者は目立つ服装をせねばならない。病人や怪我人が遠くからでも見分けられるようにだ』と熱弁してリーチェを感心させたかと思えば、にやりと笑って『それに、この服装だと街を歩きやすくていいのだよ』などととぼけてみせる、不思議な魅力を放つ人物だった。
「きみの外傷はともかく、流石の私も竜を診るのは初めてでな。ブランカくんの翼はまともに診てもやれず、本当にすまなかった」
煙草を踏み消し、その場ですっと頭を下げるその姿は心の底から申し訳なさそうで、そんな風に謝られたらこちらの方が慌ててしまう。頭を上げて下さいと声をかけ、それでも浮かない様子の彼の手を取って、力強く握手を交わす。
「夜中に血塗れで運び込まれたぼくたちによくしていただいたこと、一生忘れません。マリオ先生、本当に、ありがとうございました」
「気にしないでくれたまえ。きみたちに助けられた恩をようやく返せたんだからね」
「恩、ですか?」
「ヴィットリオ・ヴェネトの戦いを覚えているかね? あの戦いでは軍医として前線に狩り出されていてね。私も、地べたからきみたちの雄姿を見上げていた一人なんだよ。軍医もそうだが、君たちの存在ほど兵士を力付けるものもなかったな。今となっては懐かしい、忘れようにも忘れられない思い出だよ」
「先生も、あそこにいらしたんですね」
「銃創を診ると、あのときを思い出す。あまりよい記憶ではないがね」
「ぼくの力不足で、多くの兵士を死なせました」
「だが、きみの存在に救われた人間も少なくない。私もその一人だ。うむ、そうだな、また来てくれたまえ。そのときは我が愛する故郷、絢爛たる水の都を心ゆくまで案内させてもらうよ。もちろん、二人きりでね」
不器用な渋いウィンク。うっかり惚れてしまいそう。
「ふふ、ブランカが嫉妬します。でも、ありがとうございます」
「そうだ、ブランカくんと言えば」先生が後ろの貨車に目を向ける。「六月とはいえ、まだ冷える。本当にいいのかね?」
マリオ先生が心配しているのは、リーチェもブランカと一緒に貨車に乗ると言い出したことについてだ。彼女自身、まだ怪我人であることを気遣ってくれているのだろう。頭ごなしに忠告しない優しさが、かえって心に染み入ってくるようだった。
「……ありがとうございます。でも、一緒にいてやりたいので」
「うん、そうだな。ブランカくんにとっては、それが一番の薬になるだろう」
発車のベルが鳴り響く。そろそろお別れの時間だ。
「では、また会う日までお元気で」
「ああ、ブランカくんにもよろしく」
貨車のふちに手をかけて、ひらりと飛び乗る。やるなと言われたばかりの急激な運動に渋い顔をする先生だが、リーチェがにこりと笑って手を振ると、仕方ないとばかりに苦笑して手を振り返してくれた。鋭い警笛を響かせ、客車の扉を閉めた列車がゆっくり動き出す。
「それから、これは伝えるかどうか迷っていたんだが……」
列車に合わせて歩きながら、貨車から顔を出すリーチェに声をかけてくる先生。
「きみを墜とした相手について知りたかったら、新聞を買いたまえ! 『ガゼッタ』だ、いいね?」
きみを墜とした相手。ブランカを傷つけた『アドリアの亡霊』の話題が唐突に出てきて、一瞬だけ息が詰まる。うなずいて返すのがやっとの自分を見て後悔したような表情を浮かべる先生に、こっちも心が痛んだ。速度を増す列車からはあっという間に先生の姿が見えなくなり、リーチェは貨車の床に腰を下ろす。苦しそうな寝息を立てるブランカとの鉄道旅行は、始まったばかりだった。
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