ロンバルディアを抜けて
リーチェ
1928年 6月21日 ロンバルディア州を進む列車内にて
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「よい旅になることを祈りますよ、綺麗なお嬢さん!」
壮年の売り子が帽子を振って見送ってくれる。
「ありがとう」
軽く手を振ってそれに応えてから、素っ気ないバスケットと二つ折りにした新聞を抱えて車内に戻る。ヴェネツィアを発った列車はパドヴァ、ヴェローナを経由してロンバルディア州に入り、今はブレストの駅に停車していた。空を行けば小一時間の距離だが、がたごとと揺れの酷い貨車で過ごすうちに時刻はもう昼近くなっている。空腹を覚えたため、マリオ先生から教えてもらった新聞を買うついでにサンドイッチを調達してきたのだ。
「ただいま」
貨車に戻り、相変わらず苦しげな息遣いをしているブランカに声をかける。今朝からずっと列車の振動に揺られているのに目も覚まさないままだ。ブランカが最後に食事を摂ったのは丸一日前、それも少量の肉と果物だけだったことを思うと、それが傷を癒すための竜の生態だとは理解していても、昏々と眠り続ける相棒の目の前にしながら一日に三食を摂る自らの浅ましさが嫌になってくる。
「……ブランカ」
傷ついたその姿を見る度に、『アドリアの亡霊』との戦いが思い出される。情報を持ち帰ることを優先して交戦を避けていれば。奇襲をかけてくる青灰色の竜に気付いて回避できていれば。ブランカが手傷を負った時点で逃げていれば。チャンスは何度もあったし、個々の機動や戦術だって必ずしも最適なものを選択できていたとは言えない。結果として、翼に怪我を受けたブランカに無理な敗走を強いてしまった。このまま飛べなくなったらと考えると胸が締めつけられる。
浅い呼吸に上下動する二本の角に、そっと手を添える。人の上腕ほどの太さを持つ角は先端へと向かうにしたがって細くなり、途中で一度ぐるんと捻じれている。正面から見れば綺麗な対称を描くその造形は優雅で凛々しく、丁寧に磨かれて滑らかな手触りと象牙のような光沢を放っている。人であるリーチェには持ちえない、天翔ける竜の王冠。
「ごめんね……!」
ぎゅう、と抱き締める。角と竜鱗のひんやりとした質感。それを冷たいと感じることこそ、ブランカと自分の間に横たわる距離なのだとリーチェは思う。孤高の生物種である竜が人であるリーチェを守ってくれる理由、それはブランカがリーチェに愛情を抱いているからに他ならなかった。そして、自らが人である限り、ブランカの想いにリーチェが完全に応えてやることはできない。
「……ぼくも竜に生まれたかった」
応えはない。
「……きみが人間の飛行機乗りならよかった」
単なるわがまま、身勝手な願望の類だとはわかっている。
ブランカが竜でなければ、リーチェはとうに命を落としているのだ。
そうなれば、リーチェ以外の人間には決して手綱を取らせないブランカは。
そこまで考えて、やめよう、と自分に言い聞かせる。少々ナーバスになっている自覚があった。おそらくはお腹が空いているのだ。身体が冷えているのも関係しているかも知れない。マリオ先生に、温かいコーヒーの入った水筒を持たせてもらったことを思い出した。匂いがブランカを刺激しないように離れたところで食べるかどうか少し迷ったが、結局はブランカの身体にもたれてしまう。
胡坐をかいて、床に置いたバスケットを開ける。レタスをベースに、分厚いハム、薄く切ったトマトとチーズ、マヨネーズで和えた卵を挟んだ三種のサンドイッチだ。コップはないので、水筒にそのまま口を付ける。濃い目に淹れた茶褐色のコーヒーは芳醇な香りを放ち、溶かしこまれた砂糖の甘みが舌の上で優しく広がる。とてもいい豆を使っているのだろう。目の覚める苦味の余韻を楽しみつつ、今度はサンドイッチにかぶりつく。
「うん、おいしい」
昼食の時間を見越して、冷めてしまっても美味しいように酸味の少ない豆を選んでくれたのだろう。そんな心遣いに感謝しながら、食事を進める。戦友が墜ちたときこそ飯を食って休息を取れ、とは誰に教えてもらったのだったか。それはなぜかと問うたリーチェに対して、こんな答えが返ってきたことだけを印象的に覚えている。
『考えてもみろ。腹を空かして睡眠不足のまま敵と戦って墜ちたら、貴様は貴様をそうさせた仲間のせいで墜ちたことになる。誇り高く空に散った戦友の顔に泥を上塗りするのが貴様の望みか?』
仲間が墜ちたときこそ飯を食ってよく眠れ。戦友が墜ちる度に、仲間と言い交わした言葉。ましてや今回は敵が誰なのかまではっきりしているのだ。再戦に備えて体調を整えておかねば、ブランカに申し訳ないというものだった。
「さて、と」
温かくておいしいものを食べれば気分も上向いてくるものだ。空になったバスケットを横にやり、買ってきた新聞を広げる。目当ての記事はすぐに見つかった。『アドリアの亡霊 白き竜騎士に宣戦布告』と題して、アズダーヤ隊を名乗る空賊が新聞各紙に送りつけた犯行声明の内容が記されている。心を平静に保つためのため息を一つだけついて、それから読み進めていく。
『我ら偉大なるハプスブルク帝国が末裔にして惰弱なる汝らへ下される鉄槌なり。汝らが頼みとする空飛ぶ白トカゲに跨りし恥知らずのメス豚は、すでに我が一撃により海へと墜落せしめたり。女の尻を追うしか能のないイタリアの臆病な豚どもよ。誉れ高き空の騎士たる我らアズダーヤ飛行隊、そして我らが擁する飛竜ズメイの名を脳裏に刻み、我が鋭爪による裁きの日を待つがよい』
彼らからしてみれば宣戦布告のつもりなのだろう、稚拙で空虚、誇大な表現に満ちた文章。記事には、犯行声明には『撃墜の証拠』としてリーチェの名入りの物品が添えられていたことに加えて、新聞社宛てに六月十四日夕刻のヴェネツィア上空で血塗れの竜の目撃情報が寄せられたこと、軍関係者を名乗る人物の談話として『アドリアの亡霊』の襲撃を受けたパトロール隊が行方不明になる事件がここ最近相次いでいたことが掲載されている。
「空飛ぶ白トカゲに、恥知らずのメス豚ね……」
大層な褒め言葉だ。彼らは命が惜しくないらしい。
「……けど、実際どうしたものかな」
ヴェネツィアに着いた翌日、マリオ先生の制止を振り切ってベッドから起き出し、フェラーリンに連絡を入れた。彼らと遭遇した地点に加え、用いていた航空機や偽装のこと、青灰色の竜についても余すことなく伝えてある。あれだけの部隊を運用するならそれなりの施設が必要になるから、海軍が本気を出せば根城を突き止めるのも不可能ではない。討伐作戦が具体化すれば、フェラーリンが何らかの形で協力の要請を出してくるはずだった。もちろん、そのときまでにブランカが飛べるようになっていればの話だ。
「…………」
イタリアを牛耳るファシストは気に入らない。だが戦友が危地に赴くのを黙って見過ごせもしない。相手が竜を戦争の道具として用いるのならば、自分たちにはそれを止める義務があるとも思う。世界で初めて竜を飼い慣らし、竜を兵器として運用した人間であるベアトリーチェ・アレーニアにとって、それは贖罪の戦いでもある。
操竜規定。
この素っ気ない名称の文書が、リーチェとブランカを縛り、そして守ってくれる根拠となるものだ。戦後、各国の航空協会で策定したこの規定を順守する限り、竜は法的に人と同じ権利を保有、つまり法人格を与えられるとされている。裏を返せば、この規定に違反もしくは従う気のない『反社会的な』竜は危険な害獣として駆除の対象となる、ということでもある。
その第一条として掲げられているのが『竜単独での飛行を禁じ、各国飛行教会による認定を受けた人間の管理下での飛行のみ許可する』という一文である。この規定に従い、竜が飛ぶ際はその背に人を乗せるか、竜の速度に追随できる戦闘機と一緒に飛ぶことが求められる。戦闘機、と限定されているのは万一の場合に竜を撃墜するためだ。身勝手な、人間の理屈の産物。竜を危険視し、根絶を叫ぶ輩に操竜規定を認めさせるため、追加せざるを得なかった一文だ。
それでもなお、操竜規定は守るに値するものだとリーチェは思う。先の戦争で、齢数百年を数える強大な竜があっけなく墜ちてゆく様子を目の当たりにして浮かんだ想い、このままでは竜は絶滅するのではという恐怖は、今なお忘れがたい。竜が人と共に在るためには、人が竜を管理せねばならない。少なくとも、今はまだ。その考えに疑問を差し挟む余地はない。
しかし、とリーチェは思う。現状、時速300kmを超えるブランカの最高速度についていける飛行機は皆無であり、実質的にブランカはリーチェを乗せなければ飛べない状況に置かれている。リーチェもできるだけブランカの側にいて、飛びたいときは飛ばせてやるようにはしているが、そのことに窮屈さを覚えるときもあるだろう。ただ共に過ごすだけで、自分はブランカに負担を強いているのだという自覚がリーチェにはある。その自覚が、言葉となって口からこぼれる。
「ねえ、ブランカ」背中に体重を預け、頭をこつんとぶつける。「ぼくは間違ってるのかな……?」
答えは返ってこない。それがわかっているから、聞いた。ブランカは優しいから、きっとリーチェの言葉を否定してくれるだろう。しかし、ブランカの愛情を家族という言葉で誤魔化す自分には、ブランカの優しさに甘える資格がない。
立ち上がって、外の風景に目をやる。遠く霞むアルプスの山脈、その裾野に広がるロンバルディア平原を貫く線路の先には、ローマに次いでイタリア第二の都市であるミラノが遠望できる。いつか父と一緒に列車で旅行したときを思い出させる、懐かしい風景に目を細める。
ミラノからはトラックに乗り換え、リーチェ自身の運転で北上する。その先に待つのは、かのユリウス・カエサルを筆頭に歴代のローマ皇帝が別荘を構えたコモ湖、そしてイタリアでは知らぬ者のない名門竜医の家系、その不肖の娘であるベアトリーチェ・アレーニアの生家、アレーニア邸だ。
「帰りたく、ないなぁ……」
自宅で療養中だという父親の小言を思うと、気が重くなるばかりだった。
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