大好きなきみへ
ブランカ
1928年 6月14日 アドリア海上にて『アドリアの亡霊』と交戦中
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上方から伏撃を受けた。
背中をえぐられたような痛みに喘ぎつつ、なんとか態勢を立て直す。わからないのは、攻撃を受けるその瞬間までエンジンやプロペラが立てる騒音を捉えられなかったこと。リーチェとブランカ、双方がそれを聞きのがしたとは思えなかった。竜の特性である翼による飛行とその恩恵である静音性は、急襲の助けになると同時に敵の奇襲を素早く察知する術でもあるのだ。
『リーチェ?』
「…………」
リーチェの返事がない。そのことが何よりも自分を不安にさせる。ともかく、状況の把握よりも安全の確保の方が先決だった。ひとまず思考は脇に置いて、回避に移る。半ロールから、やや背面に入れてダイブ。加速しながらの急降下に対して、伏撃を仕掛けてきた謎の敵はともかく、先ほどまで相手をしていたハンザ機はブランカの機動に追随できないはずだ。
「……ごめん、意識が飛んでた」
リーチェの声。骨と鱗を介して響く彼女の声に、心の底から安堵した。十分に速度を付けたところで水平に戻す。首を回して、意識をはっきりさせるためか頭を振る彼女に目立った外傷がないこと、敵機がまだ遠くで旋回していることを横目で確認する。見えている敵機はかなり上の方でこちらの頭を押さえるように位置取るハンザが二機だけ。まだ油断はできない。
「襲われたとき、ちらっと見えた」淡々と落ち着いたリーチェの声。「相手は竜だ」
ぎゅっと首を抱き締められる感触。フライトジャケット越しでも、彼女のしなやかな柔らかさがブランカに活力を与えてくれる。竜。それを聞いて、奇襲を受けるまで気付けなかった理由にも納得がいった。先の戦争ではリーチェとブランカがそうしたように、うるさく音を立てる味方の飛行機を囮として、ほぼ無音で飛べる竜が死角から忍び寄って攻撃してきたのだ。
それでも、恐怖はない。
彼女と共に在りさえすれば、どこまでだって飛べるし、どんな相手だって墜としてみせる。
「濁った空みたいな青灰色。角だけが真っ白だった」
竜笛では伝達し切れない内容を伝えるため、ブランカに顔を押し付けたまま喋るリーチェの声を手掛かりに、周囲へ目を凝らす。いた。左右に広がったハンザ機に挟まれたブルーグレイの肢体、羽ばたく度にちらちらと見えるミルク色の翼膜。捻じれた角は歪で、痩せ細った身体も相まって刃の欠けたナイフのような危うい鋭さを感じさせる。記憶にない色とフォルムは、先の戦争でやり合ったオーストリア・ハンガリー軍の竜ではないことを物語る。そもそも、同盟国側に与した竜はそのほとんどが戦死するか、戦後は行方知れずとなっている。
「無人の竜、か。パトロール隊が逃げられないわけだ」
余計な空気抵抗となるものを持たない、無人の竜は速い。この十年間、戦争そしてスピードレースを通じて最高速度記録を大きく引き上げてきた飛行機だが、未だ成竜の速度を超える機体は存在しない。それはつまり、交戦か逃走かの選択肢を持つのはあくまで竜の側で、飛行機の側ではないということを意味する。竜に狙われた飛行機は、相手を撃退する以外に生き延びる方法を持たない。
「条約違反の偽装部隊、操竜規定違反の無人竜。やつら、戦争でも始めるつもり?」
感情を込めないリーチェの声。それは彼女が怒っている何よりの印。ならばそれに応えない選択肢をブランカは持たない。背中の傷は翼を打ち振るう度に激しい痛みを訴えるが、少なくとも今すぐ空戦機動の支障をきたすようなことはない、という意思を込めて軽く翼を振る。
「わかった、やろう。竜を墜とせるに越したことはない」
『反転する』
リーチェの了解を得て、クイックターン。背中の傷に激痛が走った。相手が竜だろうと、自分とリーチェなら正面からやり合えば勝てる自信があった。だから、リーチェには気付かれたくなかった。気付けばきっと、彼女は撤退を選択するからだ。
「ドッグファイトは避けて、ハンザを引き離す」
『了解』
リーチェの指示。翼を立てて、斜めに切り込む。相手の竜もハンザ機と歩調を合わせつつ逆旋回に入れる。お互いを頭上に捉える格好。生物であるがゆえの滑らかな挙動と、操縦桿と舵の動きによって制御される機械の挙動。その差が編隊の乱れを招く。さらに内側へ。旋回円は狭まり、そして崩れる。ハンザ機が円から弾き出されるように離脱し、残された二頭の竜が交錯する。
青灰色の竜と馳せ違う。衝撃波が身体と鼓膜を揺らした。お互いに手は出さなかった。届かないと見切ったからだ。追随できなかったハンザ機はより大きな旋回円を描いて二頭の竜の周囲を回っている。墜とそうと思えば墜とせるが、無理に追えば相手の竜に追いつかれる、そんな位置取りだ。
「連携されると嫌だな……」
『どうする?』
『分断する。雲の下へ』
竜笛をくわえ直したリーチェの命令を受け、周囲を確認。ハンザは左右に分かれて誘うように尾翼をちらつかせ、いったん下方に抜けた竜は速度を利用して上を向いたところだ。対するこちらは小さくインメルマンターン、背面に入れたまま青灰色を目掛けて落下。逃げるか、あるいは向かってくるか。加速度がついた分、こちらが押し勝てると踏んだ。
相手の動きに迷いはなかった。分が悪いと見るやくるりと身体を丸めてターン、離脱にかかる。こちらとしては、それでよかった。無理に引き起こさず、そのまま雲に突っ込む。相手からしてみれば、目を離した一瞬に姿を見失ったように思えるだろう。ハンザ機が教えるにしても、それだけで数秒から数十秒は稼げる。その間にこちらは雲の下で有利な位置を取れるだろう。
勝てる。
おそらく、相手の竜はまだ若い。素早く判断し、的確に指示を下せる人間を背中に乗せていないこともあって、味方の戦闘機との連携が甘いのだ。通常の戦闘機部隊を相手にするならともかく、先の戦争のトップエースであるブランカとリーチェを墜とすにはまだまだ経験不足。
雲を抜ける。抜けた先では、雨が降り始めていた。荒れた海では、先に墜ちたフェニックス機のパイロットは助からないだろう。リーチェは心を痛めるだろうが、しかし容赦するわけにはいかない。墜ちれば死ぬのは、自分とリーチェも同じなのだ。
墜ちるときは一緒。だから飛ぼう、力尽きるまで。
かつて聞いたリーチェの言葉。決して忘れない。決して違えない。
それは戒めであり、誓いであり、なによりも尊い祈りの言葉。
だからこそ。今度は聞き逃さなかった。アウストロ・ダイムラーのエンジンの唸り、咆哮を上げるシュパンダウ機関銃。何発か脇腹をかすめた感触はあったが、それくらいは物の数ではない。ぎりぎりまで待って、海面すれすれで引き起こす。竜でもハンザ機でもない、新手の戦闘飛行艇。
「三機……いや、四機か」
積極的に襲ってくる意志はないらしく、こちらの頭を押さえ、進路を妨害するような位置取りで飛び回っている。目を凝らすと、初めに襲ってきた飛行艇部隊と同じハンザ機とフェニックス機の混合編制であることが見て取れた。しかし、塗装が異なる。新手の四機は、竜と同じ海と空に溶け込む青灰色の迷彩塗装を施してある。偽装部隊で敵をおびき寄せ、付近で待ち伏せた竜と別働隊が奇襲をかける二段構えの伏撃。切り抜けられるパイロットは、イタリア海軍でも五指に満たないだろう。いやらしい戦術を用いる、厄介な敵だった。
「……これで打ち止め、かな?」
四機編成が二組の八機と、操竜規定違反の竜が一頭。おそらく彼ら『アドリアの亡霊』の全戦力であり、その全てを出したからにはここで自分とリーチェを墜とすつもりなのだろう。であれば、なおさらここで墜ちるわけにはいかない。さあ、リーチェ、命令を。敵を前に燃え上がる戦意を胸に、雄叫びを上げる。
「……ブランカ」
リーチェが、なだめるようにブランカの首を撫でる。
「ここは退こう」
リーチェの信じがたい言葉に、喉まで出かかった拒否の叫びを抑え込む。感じて、そして見てしまったのだ。自らの身体を伝う、雨とは違う温かさ。ぐったりと体重を預ける彼女の頬を流れ、服に滲む真っ赤な色。いつ、どこで。疑問が渦巻き、そしてすぐに解ける。雲から抜けた先で受けた銃撃、あのとき、流れ弾が彼女に当たっていたのだ。
「……ありがとう。ごめんね」
彼女は痛みを口にしない。すればブランカを動揺させると知っているのだ。
『回避!』
竜笛の叱咤に、意識より先に身体が反応していた。水平に螺旋を描くバレルロール。直後、獲物を襲う猛禽類のごとき急降下で、先ほどまでリーチェの身体があった空間が掻き裂かれていた。青灰色の竜による、再びの奇襲。二度目であるにもかかわらず、リーチェの警告を受けるまで敵の接近に気付けなかった自分を深く恥じる。
「……ぼくは、大丈夫。きみも、まだ飛べるだろう?」
飛べるに決まっている。リーチェのためなら、傷んだ翼が千切れるまで飛んでみせる。だが、彼女の声にはいつもの力がない。竜鱗の表面を流れ伝う血の温かさが、彼女を失うのではという恐れとなって心を凍らせる。彼女に怪我を負わせてしまった自身の無力がただただ悔しく、彼女を傷つけた存在に対する憎しみが湧き上がる。
「聞こえる、ブランカ……?」
少しの間だけ羽ばたきを止め、滑空する。彼女のどんな言葉も聞き逃すまいと耳を澄ませ、待つ。伝わってきたのは、革のベルトで両手両足をブランカの身体に固定する気配。それは、意識を失っても背中からずり落ちないためのもの。状況を把握して指示を出すべきリーチェの視界が大きく制限されるため、通常なら行わない措置だった。そう、通常ならば。
「ここから一番近い……ヴェネツィアまで。ルートは……ごめんね、きみに任せる」
ブランカの首に頬を擦り付ける、血か雨かも分からないぬるりとした感触に、ほとんど恐慌に陥りそうになる。辛うじてそれを押し留めたのは、彼女が頭に怪我をしているという一事だった。声に力が無いのも意識が朦朧としているためだと考えると、一刻の猶予もない。一秒でも早く、医者の下へ送り届けねばならなかった。
自分は、どこまで愚かなのだ。
いっそ千切れよと翼を打ち振るう。痛みはどんどん広がり、もはや羽ばたくごとに全身に痛みが走るようになっていた。もう飛べなくなるかも知れないという本能的な恐怖に身体が震える。しかし、羽ばたきを止める選択肢は存在しない。速く、もっと速く。自らの愚かさを償うには、それしか思いつかなかった。後ろから追いすがるエンジン音。銃撃。バレルロールで軸をずらす。回避し切れなかった銃弾が身体のどこかに突き刺さる。敵機は竜鱗さえ貫く大口径の徹甲弾を装備していた。飛び散った血が翼膜に真っ赤な点を散らし、雨で滲んでいく。
「……ねえ、ブランカ」熱に浮かされ、夢見るような声音。「きみが大好きだよ」
身体に震えが走る。遺言めいた愛の告白は、大切なものを失う予感を伴って響く。
『リーチェ!』
自分だけが残された空。
その空虚を想い、咆哮を上げた。
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