二章 アドリア海の亡霊

スフォリアテッラの仇

リーチェ

1928年 6月14日 アドリア海上 ドゥブロブニクへの帰路にて

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 フェラーリンと会った翌日。リーチェとブランカはナポリを発ち、ドゥブロブニクへの帰途に就いていた。ブランカによくしてくれるホテルの人々がファシストの嫌がらせを受けるのはリーチェとしても本意ではないし、なにより犯罪者でもないのに監視を受けているのは気分が悪い。ミラノの実家に顔を出さないのも、この微妙な時期に妙な憶測を呼びたくないからだ。それ以外に理由はない。


 そう、自分に言い聞かせる。


「……ああ、もう」


 家族に迷惑をかけないため。ただそれだけのことなのに、フェラーリンに妙なことを言われたせいでどうにもすっきりしない。太ももで締め付け、速度を上げるようブランカを促してはみるものの、低く雲の垂れ込めた空の下では気分も晴れない。雲を突き抜けて上空に出れば違うのかも知れないが、一時の気晴らしのためにブランカにくくりつけた数々の物資や嗜好品を湿気らせるのも馬鹿らしい。ホテル・ヴェスヴィオのレストランで買い求めた焼き菓子の数々、特にシェフが手ずから焼き上げた、ぱりっぱりのスフォリアテッラは絶品なのだ。


「いい豆も手に入ったし、帰ったら一緒に食べようね」


 ブランカの首をそっと撫で、声をかける。嬉しげに応える鳴き声がまた可愛らしい。空に在ることを心から楽しむブランカの様子を眺めていると、リーチェもまた飛翔の持つ根源的な悦びを心のうちに取り戻せる。あの戦争の後、飛行機などもうこりごりだと言って地上に降りた飛行士も多い中、共にいて心安らぐ家族であり命を預けるに足る相棒でもあるブランカの存在は、空にしがみついているための大きな支えとなってくれた。


「……空は気持ちいいね、ブランカ」


 空に在ること。それが人間にとって不自然な営みであることは、今なお否定し得ない。腹を空かせたヒナのように燃料を喰い、飛べば飛ぶほど傷む飛行機という代物は、一個人がそうそう趣味や道楽で飛ばせる代物ではないのだ。必然、飛行機乗りであり続けるためには何らかの形で飛ぶことを稼ぎに結び付ける必要が出てくる。遊覧飛行、郵便飛行、曲芸飛行、冒険飛行、あるいは空賊稼業に賞金稼ぎ。給油と整備にかかる費用で足が出ないように計算して飛行計画を立てる日々は、飛行機乗りが空を愛する気持ちをゆっくりと蝕む。


 神さまは空を飛ぶものに対して等しく無慈悲だ。

 降りるか、墜ちるか。提示される選択肢から逃れられるものはいない。


 気取った箴言が大好きだった戦友の言葉がふと思い出される。彼は終戦の一か月前、エースパイロットの資格を得るための最後の一機を求めてアドリア海上で消息を絶った。眼下に広がる紺碧の海、幼いころは輝かしい未知と未来とを意味したアドリア海は、今となっては戦友の眠る墓標ともなってしまった。


 身体が軽く左右に振られて、はっとなる。いつの間にか、物思いに沈んでいたらしい。視線を上げて、舌打ちする。ブランカが翼を振って注意を促してくれるまで、前方で旋回を繰り返している編隊の存在に気付けなかったのだ。距離は約10キロ、曇っているとはいえ空の上では目と鼻の先だ。どうかしている。一度だけ頭を振って気を引き締め直し、目を凝らす。


「もう少し寄ってみて、ブランカ」

『了解』


 ブランカは翼を大きく広げたまま身体を傾け、優雅に緩旋回する。正面に捉えた機数は四。いずれも単座の飛行艇で、海上に大きな円を描くように旋回している。戦闘しているわけではないようだ。同じところで旋回を繰り返す様子はなにかを捜索しているのだろうか。距離が詰まるにつれ、カラーリングも鮮明になってくる。緑白赤の目立つ塗装はイタリア機を思わせる。


「こんなところに、海軍の偵察機……?」


 アドリアの亡霊。


 フェラーリンの言葉を思い出す。立て続けに消息不明となったパトロール隊の噂。空賊の仕業か、あるいは何らかの自然現象に見舞われたのかは分からないが、もし目の前の彼らがトラブルの渦中にあるのなら見過ごすわけにはいかなかった。


 海軍機なら、知った顔がいないとも限らない。飛びながらでは手信号と発光信号でしかやりとりができないので、可能なら着水してもらって事情を聴きたいところだ。相手もこちらに気付いたようで、編隊を整え直してこちらへ向かってくる。いったんすれ違って、知り合いの機体が混じっていないか確かめようとした、その瞬間。


 強い違和感がリーチェを襲う。


「――――ッ!」


 とっさに手綱を斜め手前に引き、飛行機のマニューバで言えばバレルロールにあたる挙動を取らせていた。射軸をずらしてそのまま抜ける。相手もそのまま直進、一気に距離が離れる。発砲はされなかった。撃つ気がなかったのか、無駄撃ちを避けたのかはわからない。だが、交錯した一瞬にリーチェの眼が捉えた相手の機体は間違っても味方のものではなかった。いや、そもそもイタリア機ですらなかった。


 『ハンザ・ブランデンブルクCC』そして『フェニックスA』だ。独特の星形支柱を廃し、空力性能の向上を図った改修型がそれぞれ二機。イタリア海軍機を模したカラーリングに惑わされたが、そうと認識すれば違いは明確だ。間違えるはずもない、オーストリア・ハンガリー帝国海軍の正式採用機として先の戦争ではさんざんやり合った相手なのだ。


「そっか、こいつらが『アドリアの亡霊』ってわけだね」


 イタリア機を装い、味方と勘違いした海軍機を襲うかつての敵機。アドリア海を飛ぶ飛行機乗りならば知らぬ者のない白き竜の姿を見て、なお襲い掛かってくる謎の戦闘機編隊。先の戦争の亡霊とでも呼ぶにふさわしい相手に、リーチェは自らの心が冷えていくのを感じる。間違いない、こいつらが友軍を墜としてまわっているのだ。


「四対一、しかも真っ向勝負か。けどブランカ、ぼくと一緒ならやれるだろう?」

『当然だ』


 ブランカの応え。聞くまでもない、と言わんばかりの力強さに勇気づけられる。こんなところでなにをしていたのかは知らないが、放っておけばまた友軍を襲うであろう相手をみすみす逃すわけにはいかない。とはいえ、四機揃って綺麗なインメルマンターンを決める敵編隊に付き合ってやる義理もない。ブランカの手綱を引いて、こちらは上昇に移る。しかし、後ろに引っ張られる感覚がある。


「…………ああ、もう」


 片手を後ろに伸ばし、スフォリアテッラを始めとする物資は投棄。

 舌打ちをひとつ。高かったのだ、それくらいは許して欲しい。


 後方を確認。二手に分かれて左右から挟みこむ腹だろう。上昇力に欠けるハンザがやや遅れ、その分フェニックスが先行する形だ。明確な敵意を感じさせる機動。アドリア海の飛行機乗りなら白い竜の姿を見てブランカだと気付かないはずがない。彼らはリーチェとブランカだと知って、あるいは知っているからこそ、襲ってきている。


 付け入る隙があるとすれば、そこだ。


「雲に突っ込む。上に出てからが勝負だ」

『了解した』


 遠くから眺めればふわふわと気持ちよさそうな雲が、中に入ってみればあんなにも不快だと知ったのはいくつのときだったか。全身が濡れる不快さに耐え、雲の上へ抜けるまでじっと待つ。幸い、そう時間はかからなかった。雲を突き抜け、晴れ渡った空、強い日差しに目を細める。敵の目的がブランカの撃墜だとしたら、必ずこちらを追って雲を抜けてくるはず。視界を塞がれ、逆撃を受けるリスクを取ってでも食らいついてくるなら、もう容赦はしない。


 そのまま退くのであれば、それはそれでいい。じっとりと濡れ、少しだけ冷えた頭で考える。正体不明の『アドリアの亡霊』がイタリア海軍を偽装したオーストリア・ハンガリー帝国の残党らしいとの情報を持ち帰れば、フェラーリンが対策を打ってくれるはずだ。軍時代のリーチェなら、きっとそうしていた。しかし、だからこそ、リーチェの願いは叶わない。


「だろうね」

『交戦するか?』

 問いかけを発するブランカに、胸元から引き出した竜笛をくわえて応える。

『交戦を開始』


 雲を抜けて編隊を組み直すハンザ・ブランデンブルクCCとフェニックスAを視界に捉え、リーチェは口元に笑みを浮かべる。偽装なんて子供騙しが通用するのは一回限り。彼ら『アドリアの亡霊』が亡霊でいるためには、目撃者は全員消さなければならないのだ。


 ブランカに指示を与え、敵に気付かせないように減速、こちらが高所を取っていることも加味して、機銃の射程ぎりぎりまで引き付ける。速度と機動性に優れるが機銃を持たないブランカが戦闘機の編隊と戦うには、一対一の状況を作り出す分断と攪乱、射軸を外しながら懐に潜り込む技術と度胸が肝要となる。そして、それこそがブランカにとって無意味な空気抵抗でしかないリーチェがここにいる理由でもある。


『合図を待て。左からやる』

『了解だ』


 三秒後、左翼についたフェニックスが機首をこっちに向けると予測。いち、に。


『いま!』


 拍車を入れ、同時に首にしがみつく。急降下。狙いをつけるために機首を向けた瞬間に急旋回をかけられて反応できる飛行機乗りは少ない。加えて、反応できたとしてもそれに追随できる機体は限られる。イタリア機に似せるためなのだろう、旧式の戦闘機で仕掛けてきた、それが報いだ。リーチェとブランカを墜としたいなら、彼らは小細工を弄さずに最新鋭の戦闘機でかかってくるべきだった。


 耳をつんざくようなウォークライ。ブランカが発したものだ。やかましく騒ぎ立てるプロペラとエンジンを圧して身体を打つ、竜の戦叫も敵の動揺を誘う武器のひとつだ。ブランカは巧みに射軸から逃れつつ、一機を間合いに捉える。右前肢が伸び、フェニックスの薄い翼を引き裂いた。もう一機は姿勢を崩す僚機と間近で見る竜の姿に怯えたようにループに入る。悪手だ。きっと、パイロットもやった瞬間に後悔しただろう。上昇からのループで速度が殺されたフェニックスに、身体を丸めてのクイックターンを決めたブランカが追い付く。爪の一閃で尾翼を吹き飛ばされた敵機はスピンに陥り、回復できないまま雲の中に突っ込んでいった。


『速度が落ちてる。距離とって』

『了解した』


 仲間をやられても、退く気はないらしい。残った二機のハンザはエンジンを高々と響かせながらこちらへ向かってくる。高馬力のエンジンに積み替えてはあるが、十年前の設計に追いつかれるほどブランカは遅くない。二対一なら、勝てる。仕切り直すように距離を取って速度を回復し、できるだけ殺さないように大きくターン。


 落雷を受けたかのような凄まじい衝撃に襲われたのは、その直後だった。

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