バレナビアンカ団

ブランカ

1928年 6月12日 アドリア海に浮かぶダルマチア諸島にて

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 ガビアーノ号から飛び立って二十分あまり。空賊を追ってダルマチア諸島に先回りしたブランカとリーチェは、身を隠すのに適した小島で翼を休めていた。ドゥブロブニクから合わせても一時間強の飛行であり、この程度ならば疲労による影響は全くないが、飛びっぱなしではリーチェの体力消耗が激しいのだ。いつでも飛び立てるように装具は付けたまま木立で身を伏せ、彼女がこれから相手にする機体について解説するのに耳を傾ける。


「船長は『白いクジラのような飛行艇』って言ってた。十中八九、空賊の乗機は高翼単葉の双発飛行艇『ドルニエDo J』だ。で、ドイツ語でクジラを意味する『ヴァール』の愛称通り、まるっとした外観がかわいい飛行艇だね。アムンセンの北極点飛行でも有名だ。ぼくの記憶が確かなら、プロペラは四枚羽、エンジンはロールスロイスの水冷V型12気筒を串形配置で積んでたはず」


 どの機体がどんな音を立てて飛ぶのかが重要な情報だと教えてくれたのは彼女だ。敵味方が入り乱れる戦場の空では、後方から近づくプロペラやエンジンの音が味方のものかどうかを聴き分けられれば、ほんの少しだけ優位に立てるからだ。また、ブランカが間違えて味方を撃墜すればリーチェの立場が危うくなることもあり得る。素早く正確な機種の把握は色々な観点から重要なのだ。


「バレナビアンカ団って言ったっけ。空賊にしては洒落た名付けをするよね」


 そう言ってリーチェがわずかに口角を上げた、そのとき。晴れ渡った空に遠く響く、二つのエンジン音が耳に届いた。ブランカがその方角に首を巡らせるとリーチェも察した。背中の上で胡坐をかいていた足を鐙にかけ直していつでも飛べる態勢を取る。相手はたかが空賊の飛行艇一隻、ブランカとリーチェならば容易い相手だ。


「行って、ブランカ!」


 木立を走り出て、そのまま崖から飛び降りる。一瞬だけ心地よい浮遊感に身を委ね、急上昇へ移る。相手との距離は約5kmで、海面近くを飛んでいた。こちらに気付いている様子はないので、そのまま高所を取る。太陽光をきらきらと反射する白い胴体、機体上部で前後に繋がれて唸りを上げるプロペラとエンジンはここを攻撃して下さいと言わんばかりだ。雲に紛れる白の竜鱗とほとんど音を立てない翼による飛行の特性を活かし、相手から見て太陽の中となる後上方に占位。羽ばたきも止めて滑空、発見されにくい状態を保ってリーチェの指示を待つ。


『足を止めて着水させる』

『承知』


 竜角を削り出した親指大の笛をくわえたリーチェが、短いフレーズをふたつ重ねて命令を出した。ブランカものどを鳴らしてそれに応える。空戦に必要な指示のほとんどはこの竜笛の演奏で行える。高速飛行時は肉声だと風圧でかき消されてしまうが、竜笛ならブランカの耳に届くのだ。


 リーチェの指示は思った通りのものだった。先の戦争でも散々繰り返し、身体に叩き込んだ上空からの一撃離脱。ぐっと身体を傾け、翼を畳んで急降下に移る。風圧に耐え、ぎゅっとしがみつくリーチェのことは極力気に留めないようにする。下手に彼女を気遣って速度を落とせば、敵の迎撃を受けて彼女を危険に晒すことになる。爪の先ほどの小ささだった飛行艇がぐんぐんと大きくなり、機体に点々と付いたオイルの黒い汚れまではっきりと見て取れるようになった、その瞬間。


『回避!』


 切迫したリーチェの指示。考える暇を挟まず、左翼を打ち振るう。ぐるんとロールし、再び翼を畳んで敵機の脇をぎりぎりで通り抜ける。機体前部、操縦席の上で真っ白なカバーによって隠蔽されていた銃座が火を噴き、虚空を穿ったのはその直後だった。追撃を受けないようそのまま下に抜け、海面すれすれで水飛沫を上げつつ身体を起こして水平飛行に戻る。


「……あんなところに銃座なんて付けちゃって、視界を遮られて操縦しにくいだろうに。もしかして名前にちなんだ『鯨の潮吹き』のつもりなのかな?」


 竜笛から口を離して軽口を叩くリーチェだが、その口調は少し苦しげだ。柔軟で急激な回避機動は飛行機には不可能な芸当であるが、乗っているリーチェにかかる加速度の負担も大きい。彼女が気絶してしまえば、いくら落下防止のハーネスがあっても急激な機動は不可能になる。思わず気遣いの鳴き声を上げると、彼女は気丈にもブランカの首を撫でて、優しく応えてくれる。


「ごめん、もう大丈夫。下に潜り込んで尾翼をやろう」


 飛行艇は水密の確保の問題もあって機体下部に武装をつけられない。複数機でカバーしあうか、海面ぎりぎりを飛ぶかしない限り、構造上どうしても下部が弱点となる。しかし竜に襲われたことで操縦者が動揺したのか、空賊機は先ほどより高度を上げて上へ逃げようとしている。


 徹底的に破壊してやる。


 機体側部の銃座からの掃射を回避して敵機に接近するブランカの頭を占めていたのはそれだけだった。空賊ごときがリーチェに向かって銃弾を放った、その報いを受けさせねば気が済まない。後部に回りこんで、窓から身体を突き出した空賊の散発的な射撃を左右に蛇行するシザースで幻惑。所詮は豆鉄砲、竜鱗を貫くには至らないが万が一にもリーチェに当たってはならないからだ。


 敵機は右に左にと機首を振っているが、その動きだけで相手が竜を相手取るのに慣れていないのが分かる。飛行機と違い、こちらは機関砲を持たない。だから一秒でも長く接敵を遅らせ、機銃の弾道を安定させるために真っ直ぐ飛ぶのが竜とやり合うときの定石なのだ。だが、それももう手遅れ。距離が詰まり、またこちらが思った以上に小さいことに気付いて狙いが定まり出したのを見計らってピッチアップ、一気に上昇して敵機の上に出る。後部には銃座がなく、前部の銃座からは翼上のエンジンが邪魔になるため撃てない位置だ。


『尾翼を破壊する』


 リーチェの指示が飛ぶ。相対速度を合わせ、振りかぶった前腕の爪を上から叩きこむ瞬間、ちょっとした気紛れを起こす。もちろん彼女の指示を違えることなどしない。ただひとつ余分に羽ばたき、少しだけ大きく振りかぶる。ただそれだけのこと。しかしもたらされた破壊は、敵機にとっては明確な違いとなって表れた。


「――――ッ!」


 それを見た彼女の息を呑む気配が、伝わってきた気がした。ばらばらと壊れて落下する尾部の白い塗装にちらりと見えた赤色。一瞬にして機体の後部が吹き飛ばされ、ひょっとしたら仲間の死を目撃したのかも知れない一人の空賊が、ぽっかりと口を開けた機体後部から放り出されまいと腰を抜かしながら後ずさっていた。空賊の手放したライフル銃が、機体の断面に引っかかってぶらぶらと揺られたのち、風に飛ばされて海へと落下していく。


「……取り付いて」


 竜笛ではなく肉声による命令に従って、尾部を失った反動で姿勢を崩した敵機を両足で捉える。がくりと後尾が落ち、慌てた操縦士がエンジンを全開にして機体を立て直そうとしたのかプロペラが回転を上げる。しかし竜の巨体を引っ張ることなどできようはずもない。威嚇のために恐ろしげな叫びをあげてやると、降伏の証なのか空賊たちは窓から銃を投げ捨てはじめた。


「聞け、空賊ども!」

 リーチェがエンジンの騒音にも負けない大声を張り上げる。

「お前たちに三つの選択肢を与えてやる! 竜に喰われるか、サメのエサになるか、指示に従いおとなしく着水して金貨の半分と人質をこちらに渡すかだ! 三秒以内に決めろ! いち! にぃ!」


 彼女の恫喝に、機体後部から顔を突き出した空賊の頭目らしき男が白旗のつもりなのか汚れた白シャツを振り回しながら大声で叫んで答える。


「わ、わかった! 降伏、降伏だ!」

「降伏を受け入れる、落ち着いて着水しろ! だが抵抗したら容赦なく墜とす!」

 リーチェの声のトーンが、ブランカにだけ分かる程度に和らぐ。

「ああ、抵抗しねえ! おい、お前らもいいな!」

「け、けどよ親方!」

「バカ、情けねぇ声出すな。それとな、ボスって呼べっつったろ」

「へい、親方!」

「……ま、いいか。ブランカ、お願い」


 指示されるまでもなかった。機体後部の残された部分を掴み、急激にバランスを崩さないようにそっと翼を広げて滑空する。失った尾翼の代わりを務め、海面への着水をサポートするのだ。先の戦争でも友軍機を救うためにやったことがあるから要領はわかっている。


 空賊の操縦士の腕は悪くなかった。機体後部を失ったことを加味したバランスをすぐに掴んで、やや機首を上げ気味にして緩やかに降下。一度だけ跳ねて、盛大に波を蹴立てながらも着水に成功する。敵味方関係なく安堵した気分になり、知らないうちに張り詰めていた空気が緩む。好機。そう思った瞬間、ブランカは機体を蹴って飛びあがっていた。


「――うわっ!」


 リーチェの悲鳴。気を抜きかけていたところで急に動かれ、バランスを崩したのだろう。顎でも打たなかっただろうかと心配になる。しかし、ここで止めるわけにもいかない。まだ緩く回っているプロペラとエンジンを飛び越える。空賊の飛行艇はブランカを遥かに上回る全長を持つものの、重量は二倍もないはずだ。案の定、波による動揺にブランカの体重移動も合わさったことで機体は木の葉のように揺れ動いている。中にいる人間はまともに立って歩くこともできないはずだ。当然、反撃などできようはずもない。


 狙いは銃座。リーチェに銃弾を浴びせ掛けようとした無礼千万な代物だ。軽く体重をかけて踏み潰してやると、銃身はあっさりと折れ曲がって鉄屑同然の有り様になる。それを見て、少しだけ気が晴れた。飛行艇ごと沈めなかっただけ感謝するといい、とすら思う。


「おい! 話が違うだろうが!」

 空賊の頭目が抗議の声を上げる。リーチェも手綱を強く引いた。

「ブランカ、もういい! 人質まで殺す気か!」

「そ、そうだ人質だ! 俺らのバレナビアンカをぶっ壊す気なら女の命はねぇぞ!」


 見れば、操縦席から上半身を突き出した空賊が腕に抱えた女性にピストルを突きつけている。年のころは二十そこそこだろうか。気の強そうなイタリア娘だ。銃を突きつける空賊の顎に肘鉄を食らわせると、スカートをたくしあげて機体の上に躍り出るや、止める間もなく海へと身を投げる。惚れ惚れするようなエントリー。そのままクロールで機体から離れていく。見事な泳ぎっぷりだった。


「バッカ野郎! 人質を逃がしやがって!」

「撃ちやすか、親方!」

「アホか、美女に傷でも付けたらどうする!」

「じゃあ浮き輪でも投げますか?」

「おう、そうしてやれ!」

 浮き輪が投げられ、女性がそれに掴まるのを見届けたリーチェがふっとため息をつく。

「ブランカ、大人しくしているんだ。いいね?」

 ぼそりと呟くリーチェ。私は首を上下に軽く振ることで返事に代える。

「空賊の諸君! 少々荒っぽくなったが、武装解除させてもらった。人質も逃げて、君たちに勝ち目はないと理解してもらえたはずだ。機体の修理代として半分を残して、奪った金は渡してもらおうか。おっと、誤魔化そうとしても無駄だ。金貨一枚でも足りなければ君たちは海に沈むことになる」


「ったく、竜騎士さまに目を付けられるなんてついてねぇ……おい!」

「金貨の用意はできてますぜ、親方」

「おお、こんなに取られちまうのか? いくら残った? たったこれだけ?」 

「ちょっとばかりちょろまかしときやすか?」

「バカ、てめぇは話を聞いてなかったのか!」

「いてぇ! 殴らねぇでくだせぇよ、親方」

「へへ、すいやせんね、竜騎士さま」


 緊張感のないやりとりを経て、頭目は愛想笑いを浮かべながら金貨の袋を差し出す。リーチェの指示でブランカが袋の端を口にくわえて受け取る際、頭目の表情がひきつっていたのをブランカは見逃さなかった。ともあれ、戦意はもうないようだ。戦争中は海へ墜落した敵機のパイロットを助けようとしてピストルで撃たれたこともあったが、空賊はとにかく命を惜しむ。こうしたところに軍人と空賊の気質の違いが表れるのだろう。どちらも醜いという点では共通している。


「さ、彼女を拾って帰ろうか」


 プロペラを回して水上を滑走しながら去っていく空賊を見送って、人質を拾い上げる。リーチェの手を掴んで私の背に乗った人質は、彼女の首に両腕を回して抱きつき、感謝の言葉を述べている。


「助けてくれてありがとう。貴方もしかして、あのベアトリーチェ・アレーニア中尉ね? ああ、こんなところでお会いできるなんて、思ってもみなかった! あたし、ずっと貴女のファンだったの!絵葉書とポートレートも集めてるの。ああ、持っていればサインをもらえたのに、惜しいことをしたわ。けど、濡れちゃって結局ダメにしていたかしら? ところで、握手してもらえる?」

「ええ、構いませんよ」

「構いませんよ、ですって! かっこいい! ああ、名前を言うのが遅れてしまったわ。あたしはアデリーナ。リーナって呼んでくれていいのよ? よろしくね、ベアトリーチェさん」

「よろしく、リーナ」


 ぶんぶんと握手した手を振り回す彼女に苦笑するリーチェ。英雄扱いされるのを好まないリーチェを知るブランカとしては気が気ではないが、如才なく対応している。ひとまず飛び立ち、イタリア方面に向けてゆったりと飛びつつ、会話を見守る。


「リーネ、これから君を家まで送り届けようと思う。どこへ送っていけばいいかな」

「まあ、うれしい! それならヴェネツィアへ! パパはお医者さんで、ママは歌手をしてるの! 二人とも貴方たちのファンだから、きっと喜ぶわ!」

「ヴェネツィアか、いいね。ブランカ、よろしく」


 行き先は決まった。放っておけば一時間でも二時間でも喋り続けるだろうアデリーナの声を極力意識から締め出しつつ、ブランカは羽ばたく。一刻も早く彼女を家へ送り届けたいという強い気持ちからだろう。二人乗せているというのに、いつもより速く飛べている気すらした。

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