オンボロ客船ガビアーノ号

リーチェ

1928年 6月12日 アドリア海上の客船ガビアーノ号にて

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 ぼくも、ブランカと肩を並べて飛べれば。


 手触りの良い鱗に包まれた首に抱きつくようにして、リーチェはそう思う。300km/hを超す高速では風が痛いほどに吹き付け、声など風圧にかき消されてしまう。人間であることに誇りと愛情を抱いてはいるものの、こんなときばかりは空気抵抗の大きい自分の身体が恨めしく、飛ぶための形を体現したような竜の身体がただうらやましい。


 とは言え、ただしがみついているだけでは開きっぱなしのエアブレーキと大差ない。リーチェはブランカの首の脇から顔を突き出すと、ゴーグル越しにアドリアの海と空へと目を凝らす。太陽の位置から方角を、風の強さから速度を割り出し、ぽっかりと浮かぶ島影から自身の位置を把握。初歩の地文航法だが、計器を積めないブランカと共に空を飛ぶにはこれしかない。飛行機と違って、迷ったらどこにでも降りられるのだから気楽なものだとリーチェは思う。


「見つけた、あの船だ。ブランカ、デッキに降りよう」


 ドゥブロブニクで受け取った手紙は、かつての戦友フェラーリン少佐が、リーチェの投宿しているホテル宛てに寄越した無線のメモだった。色褪せたトリコロールに塗られた船体は、手紙に記されていた客船ガビアーノ号の特徴と合致する。空賊に襲われたのはあの船で間違いないだろう。鐙と手綱による指示で、小さく旋回を繰り返しつつ高度を下げていく。


「うおっ……!」


 陽がかげったのを不審に思ったのだろう。空を見上げた船員がブランカの姿を認めて腰を抜かす。連鎖するように乗客たちもブランカに気付き、船上は軽いパニックに陥る。空賊に襲われた直後であり、少々ナイーブになっているのかも知れない。過剰な刺激を与えないよう減速してからそっとデッキに着地したつもりだったが、さほど大型でもない船は大きく揺れて乗客の悲鳴が上がる。竜に恐れをなしたのか、近寄ってくる勇気のある者は一人もいなかった。


「えっと……」


 こういう場面はどうにも苦手だ。どう声をかけたものかと考えていると、ひそひそと囁き交わす人々をかきわけ、パイプをくわえた壮年の男が人懐こい笑顔を浮かべて進み出てくる。どうやらこの客船の船長らしい。彼はブランカにも臆することなく、かぶっていたパナマ帽を取るとデッキに降り立ったリーチェに片手を差し出す。


「オンボロ客船ガビアーノ号へようこそ、アレーニア中尉。イタリア海軍の英雄の来訪、心から歓迎しますよ。私は船長のエリオ・ベルディーニ。元海軍でしてな、乗艦を貴方と相棒に救ってもらったこともあります。さて、本日は空賊を追っておいでですな?」

「ええ、話が早くて助かります。奴らはどちらへ?」

「あれは、我がガビアーノ号がアンコーナを出て一時間ほど経ったころでしたな。やつらは船の進路上、北西の空から現れ、金貨と人質を奪うとまた北西へと逃げ去っていきました。薄汚れた白いクジラのような飛行艇が一機、名前をバレナビアンカ団とか名乗っておりましたか」

「バレナビアンカ団? 聞かない名前ですね」

「わざわざ名乗ったところを見ると、名前を売りたい駆け出しの空賊ですかな。ふむ、奪われた金貨はともかく、人質はか弱いレディ。我ら不甲斐ない海の男どもに代わって、麗しき竜騎士殿にお願い申し上げる。どうか彼女を救い出してやって下さらんでしょうか」

「ええ、任せて下さい」

 大人しく話を聞いていたブランカの頭を軽く撫でて、再び騎乗する。

「行こう、ブランカ」

「吉報を待っておりますよ!」


 船を大きく揺らしてブランカが飛び立つと、船長との会話からリーチェたちが空賊狩りの賞金稼ぎであると察した船員や船客も歓声を上げつつ手を振ってくれた。リーチェは軽く手を振ってそれに応えつつ、ブランカの鼻先を東へと向けた。船長が慌てた様子でそっちじゃない、と叫ぶのを尻目に、ブランカを一気に加速させる。


「大丈夫。このまま真っ直ぐ飛んで」


 船長との会話を聞いていたのだろう。少し訝しげに飛ぶブランカを安心させるため、顎の骨を鱗に押し付けるようにして声を出し、同時に鐙で軽く拍車をかける。伝声管が無くとも、こうしてやれば骨伝導で確実に意志を伝えられる。誰が教えてくれるわけでもない竜との飛行術はリーチェとブランカが一緒になって編み出したものだ。リーチェの言葉に納得した様子のブランカがさらに加速。振り落とされないよう、ぴったりと身体をつけて手綱を握りしめる。


「襲われた船が港についてからじゃ、どうしても後手に回っちゃうからね。やっぱり持つべきものは軍で偉くなった戦友だよ。フェラーリンには、今度会ったらキスの一つもプレゼントしなきゃね?」


 キス、の言葉に反応したらしいブランカが不満げな声を上げるので冗談だよ、と返す。ドゥブロブニクで受け取った手紙の主、イタリア王立空軍のフェラーリン少佐は軍時代の戦友であり、リーチェが軍を離れてからもなにかと気にかけていてくれるのだ。今回も、ガビアーノ号が空賊に無線のアンテナを切られる前にSOSを送ってきたという情報を『そちらに空賊が逃げたから網を張ってみろ』というメッセージと共に送ってきてくれたのだ。その後に続けられた余計な一言はともかく、軍の情報が即座に降りてくるのはありがたい。


「さて、問題はどこに逃げたか、だけど」


 アンコーナはイタリア中部にある、古代ギリシアの人々が開いた歴史ある港町だ。そこから出航した船を襲ってから北西に向かったとなると、先の戦争でイタリアがユーゴスラヴィアから奪い取ったザダルか、あるいはノヴァリャ方面へ向かったのだろうか。リーチェは頭の中に地図を思い描き、空賊の用いた可能性があるルートを一つ一つ検討していく。ザダル方面ではないだろう、というのが最終的な結論だ。まともな空賊ならイタリア空軍と正面からやり合うのは避けるはずなので、基地のあるザダル近辺をアジトにはしないからだ。


 空賊たちの飛行機乗りとしての能力は、決して低くない。戦争を生き延び、大恐慌で職を失うまでは飛行機乗りとしてアクロバットなり郵便飛行なりで生計を立てていたのだから、むしろ燃料不足でまともに訓練もできなかった正規空軍より上手い操縦士が多いくらいだ。にもかかわらず空賊が正規軍とやり合うのを回避する理由は、単純に金の問題だ。パイロットとしての腕前以前に、国家から機体と燃料弾薬を支給される正規の空軍と、軍から払い下げられた虎の子の機体を自分で整備して自前の燃料弾薬で飛ばす空賊では条件が違い過ぎる。客船を襲ったはいいものの、得られた現金と身代金で機体を維持するのにいっぱいいっぱい、なんて悲しい話もよく聞く。


 世間で聞かれる自由で気ままな空賊のイメージが現実のそれと異なるのは、戦時中に『空の騎士』ともてはやされた飛行機乗りのほとんどが戦後ぱっとしない人生を歩んでいるのと一緒だ。飛行機乗りとて人の子であり、家族もいれば恋人もいる。誰もが命を懸けた冒険飛行や曲芸飛行に挑めるほど身軽な人生を送っているわけではない。先の戦争ではあまりに人が死に過ぎ、皆が人の死に飽いてしまっていた。生きるためには、稼がねばならない。


「それでも空を飛びたいんだから、飛行機乗りってバカだよね」


 自嘲混じりの軽口で気を取り直して、空賊の逃走ルートへと思考を引き戻す。空賊のアジトがどの島かまではわからずとも、エリアが絞り込めれば待ち伏せもできる。問題は、大小合わせて七百を超えるクロアチアの島々からどうやって絞り込むかだ。入り組んだ地形は飛行艇を隠すのにもってこいであり、分け前を期待した島の住民と協力すれば軍の眼をごまかすのもそう難しくはない。


「アンコーナ、ペスカーラ、ピエステ、バーリ……」


 発想を変えて、ここ一ヶ月で襲われた客船や輸送船がどこから出航していたかを思い返していく。挙げた地名はいずれもイタリア南部の港であり、これに燃料を節約したがる空賊の習性と、飛行艇の行動半径を考え合わせて候補を絞り込んでいく。これらの条件に合致するのは、ダルマチア諸島南東部、ドゥブロブニクからほど近いコルチュラ島やフヴァル島などの島々だ。おそらくイタリア空軍に目を付けられないよう、襲った客船から充分離れたところで方向転換してアジトへ戻っているのだ。


「奴らは足が遅い。追っ手を撒くため迂回する分を差し引けば、まだ追いつける……!」


 針路さえ決まれば、リーチェのやることは一つ。進路を東南東へ向けた後は、マフラーを口元まで引き上げて頭を伏せ、ブランカの飛行を邪魔しないようにぎゅっと抱き着くのだ。鱗を通して筋肉の躍動と心臓の鼓動が感じられ、リーチェは全幅の信頼感と共に全身の体重をブランカに預ける。ますます激しくなる風切り音が、更なる増速とブランカの歓喜を教えてくれた。

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