天翔ける飛竜機

天見ひつじ

一章 空賊狩りの竜騎士

休暇の終わり

ブランカ

1928年 6月12日 『アドリア海の真珠』ドゥブロブニクにて

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 クロアチアはアドリア海沿岸の都市、ドゥブロブニク。紺碧のアドリア海に突き出すようにして浮かぶ城壁に守られた旧市街は、オレンジ色の屋根と真っ白な壁の美しいコントラストで煌めいている。もっとも、著名な劇作家に『地上の楽園ここにあり』と称されたこの街も、人ならざる竜の眼には他の街とさして変わらないように映る。相棒であるリーチェがそう言うのなら、きっとこれが『美しい』というものなのだろう。白き飛竜ブランカの抱く感想はそれだけだ。


 この『美しい』街を、ブランカとリーチェはこれまでも幾度か休暇で訪れている。しかし飛竜を駆って空を舞うリーチェの姿は好奇の視線を集め過ぎるし、先の戦争の記憶から竜を厄災の象徴として恐れる一般人もまだまだ多い。市街地に直接降り立っては混乱が起きかねないため、ドゥブロブニク市当局との交渉の結果、街の背後に控えるスルジ山の頂にある石灰質の大岩が、この街におけるブランカの居場所となったのだった。街と海が一望できる高台を吹き抜けるアドリアの風が心地よい。


「ただいま、ブランカ」


 買い出しから戻ったリーチェの声に、ブランカは首をもたげる。タンクトップにチノを合わせ、フライトジャケットを腰で縛った姿は人間の常識に照らせば少々『はしたない』のかも知れないが、それは竜たるブランカが気にすることではない。目線が合うと、彼女は小さく手を動かした。そのままでいい、という意味のハンドサインだ。リーチェとは彼女が生まれたときからの付き合いであり、言葉は交わせずとも言語を解さない意思疎通の方法をいくつか持っている。ひんやりと心地よい岩上に伏せ、心安らかに柔らかな日差しへ身を委ねる。


「街でね、おもしろい話を聞いたんだ」


 そばに立てられたパラソルの下にある小さな折り畳み式テーブルで、彼女が抱えてきた紙袋を漁る気配が伝わってきた。ブランカの鋭敏な嗅覚は、好物であるりんごの香りをそこに感じ取る。リーチェはタンクトップでりんごの表面を軽くこすると、しゃくりと齧って甘みを確かめる。それから満足そうな笑みを浮かべ、りんごをこちらへ放って寄越した。ブランカはそれを口で受け止める。


「白い竜は幸運の証。スルジの山頂にその姿を見た者は幸福になれる。恋人同士であれば幸せな人生が歩めるだろう……だってさ。きみのことだよ、ブランカ」


 ブランカがりんごを咀嚼する傍らで、リーチェは二つ目を取り出している。それもまた一口だけ齧り、今度は手ずからブランカの口へと運ぶ。獲物を分かち合うのは、彼女と私が一つの群れ――彼女が言うところの『家族』である証。ブランカは、彼女が口にしないものを決して食べない。先の戦争のときに食事へ毒を盛られて以来、そう決めている。


「ふふ、興味ないかな。でも、これは人々の意識が変わってきた証。空賊から人命や財産を守る賞金稼ぎとして、ぼくたちが受け入れられている証なんだよ」


 リーチェはしなやかで柔らかな体躯をぎゅっと押し付けるように私の首を抱きしめた。彼女の腕が回り切るかどうかの太い首は、絞められたところで苦しくもなんともない。じゃれるように擦りつけられる頬から、鱗越しに心地よい感触とほのかな体温が伝わってくるのが愛おしい。硬質な竜鱗が彼女の肌に意図せぬ傷をつけぬよう、私は努めて穏やかで規則的な呼吸を心がけた。


 だが、そんなひとときは不意に終わりを迎える。


「あのう……」


 後ろからおずおずとかけられた声に、リーチェがブランカの身体からぱっと身を離して振り返る。そこにいたのは洗いざらしのシャツにオーバーオール、くしゃくしゃの赤毛にいかにも平凡な面構えの少年だった。緊張のためか頬を紅潮させ、肩からかけたカバンのベルトを固く握り締めている。


「えっと、あの、今いいですか……?」

「うん、いいよ」


 少年の緊張をほぐすように微笑むリーチェ。しかしブランカは彼女と過ごす時間を邪魔されたことに少々腹を立てていた。もったいをつけてゆっくりと振り返り、横目で軽く睨みつけてやると少年は小さく悲鳴を漏らす。その無様な様子に少しだけ気分を良くしたブランカが歯を剥いてみせると、少年はさらに怯えた様子で今にも逃げ出さんばかりにがたがたと身体を震わせて怯えだす。


「ブランカ?」


 そこまでやったところで、少年を脅かしているのをリーチェに気取られてしまった。素知らぬふりで通そうとするも、軽く睨まれる。笑顔だが、目が笑っていない。ブランカは彼女の視線をかわし、旧市街の方へ向き直って身を伏せ目蓋を閉じることにする。そんなふて腐れた様子に軽くため息をついたリーチェだが、しかしなにも言わずに少年に向き直る気配が伝わってくる。


「ごめんね。えっと、ぼくに用かな?」

「白くて大きな飛竜と、イタリア系で栗色の髪に緑色の眼をした、すごく綺麗な女の人……お名前はベアトリーチェ・アレーニアさん、ですよね?」

「そうだけど?」


リーチェの言葉に、少年は顔を輝かせる。


「やっぱり! アドリア海のエース、天翔ける白の竜騎士! あの、会えて光栄です! よかったら握手してもらっていいですか?」

「うん、いいよ」


 リーチェはブランカの翼の付け根に背中を預けたまま、手を差し出す。少年はすぐそばに横たわるブランカの頭部にちらちらと視線をやりながらも、恐る恐る歩み寄ってリーチェの前に立ち、背伸びをして握手をした。両手で包み込むようにして、ぶんぶんと振る。憧れの人物を目の前にしてきらきらと目を輝かせ、鼻息を荒くする少年にリーチェは苦笑している。


「か、感激です! あの、僕、いつか飛行機乗りになろうと思ってて!」

「そっか、応援するよ。それで、用事があったんじゃないのかな?」

「あっ、ごめんなさい。あの、ベアトリーチェさん宛てにお手紙が……ひっ」


 ベアトリーチェ。その馴れ馴れしい呼び方に抗議の意を込めて唸るブランカを見て、少年は反射的に後ずさった。両脇は切り立った崖だ。足を踏み外せば転落死するだろう。それでも構わない。そのつもりで威嚇した。リーチェの名前は、そのように軽々しく呼ばれていいものではないのだ。


「ブランカ!」


 リーチェはまたも少年を庇い、ブランカを叱った。それがなぜなのか理解できず、不満が募る。悪いのは、ブランカの主であるリーチェに馴れ馴れしく近づく少年に他ならないのに。その理不尽さに憤り、衝動のままに首をもたげて少年を睨みつけた。彼は畏れに身体を固くしている。リーチェの平手で首筋をべちんと叩かれて制止されなければ、そのまま少年を噛み殺していたかも知れない。


「えっと……ブランカに悪気はないの。許してあげて」


 ブランカは低く唸りを上げる。取り成すようなリーチェの態度、そんな態度を取らせてしまった自分に嫌悪が募った。やはり、貧弱で愚かな人間は好きになれない。強く大きい存在に対するその卑屈な態度が、誇り高き飛竜であるブランカをいらつかせるのだ。やり場のない苛立ちに大きくため息をつくが、その生臭い匂いは少年に顔をしかめさせるには充分過ぎた。


「うう……えっと、これです。どうぞ」


 少年は肩にかけたカバンから紙片を取り出してリーチェに渡す。彼女は受け取ったそれにさっと目を走らせると、わずかに笑みを浮かべて顔を上げた。


「ありがと。君、名前は?」

「あ……はい、えっと、フェデリコです。みんなはリコって」

「リコ。いい名前ね。うん、きっといい飛行士になれる」


 リーチェは少年の頭をくしゃりと撫でると、その視線を空と海の狭間へ向けた。雲の向こう、水平線の先まで見通すような碧緑の瞳は、ブランカが愛してやまないものの一つだ。大きな深呼吸に控え目な胸が形を変え、初夏の爽やかな空気が胸いっぱいに取り込まれていくのが見て取れる。


「リコ、離れててね」

「は、はい!」


 ブランカは身体を起こし、両翼を思い切り広げて一度だけ羽ばたいた。放射状にざあっと草が薙ぎ、風を孕んだパラソルが飛んでいく。リーチェは岩の上に干してあった特注の鞍をブランカの首の付け根、肩のあたりに置いて手際よくベルトで固定する。フライトジャケットを着込んだ上に専用の飛行服を着込み、耳まで覆う毛皮の帽子をあごひもで留め、その上からマフラーを巻く。最後に丈夫でしなやかな革手袋をはめれば地上では走るのも難しいほどの重装備となる。


「リーチェさん、いってらっしゃい!」

「うん、またね」


 少年に向かってひらひらと手を振ると、リーチェは鐙に足をかけ、ひらりとブランカの首にまたがった。落下防止のハーネスが繋がれるかちゃりという音を確認してから身を起こす。眼下に広がる箱庭のような街並み、そして紺碧の海に遊ぶカモメの鳴き声が目と耳を楽しませる。海からの向い風はやや強く、空には千切れ雲が流れるだけ。空を征くには絶好の天気だ。


「行こう、ブランカ」


 彼女の許しを得て、地を蹴った。切り立った高台から、空へと身を投げる。重力が消える浮遊感に全身を包まれ、両肩から垂らされた鐙に体重がかかり、ずり落ちまいとする彼女に太ももで首を強く挟まれるのを感じた。両翼に力を籠めて羽ばたき、翼膜で空気を捉える。


 彼女と共に空を翔ける。


 リーチェと共にあることこそ、我が最大の歓び。飛竜の本能で空気の流れを捉え、リズムを付けて力強く羽ばたく。速度に乗ったところで翼を大きく広げ、ドゥブロブニクの上空を滑るように抜ける。眼下に流れるオレンジ色の屋根や灰色の石畳から、人々がこちらを見上げているのがわかった。手でひさしを作って眩しそうにする者、両親に連れられ大きく手を振る少年。そこに恐怖の色はなく、リーチェの言う通り自分たちは隣人として受け入れられつつあるのだと実感できた。


 どうだっていい、ただ彼女と共に飛べるのなら。


 そんな思いも束の間、城壁を超えて海上へと滑り出る。力を込めて羽ばたけば、上昇気流に乗るのはそう難しいことではない。鐙にかけられた足から、そして首に触れる手から伝えられる彼女の意に沿って、ブランカはアドリアの海を飛ぶ。彼女を護り、彼女の敵を屠るために。

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