35

 久しぶりの彩海学園は、新入部員の勧誘活動を終え、穏やかで平凡な時間へと戻っていた。

 一週間以上学校を休んでいたため、他の生徒からは羨ましがられ、先生たちからは体調管理をしっかりするようにと注意を受けた。

 授業が終わり、ゴールデンウィークに出ていた宿題を先生に渡すために職員室まで足を運ぶと、ばったり汐織と出くわした。同じように宿題を持ってきていたようだ。

「やっ、誠護君。もう体の調子は大丈夫?」

「こっちはもうすっかり。そっちは?」

「万事オッケー! 優樹菜ちゃんがわざわざお見舞いに来てくれたしね。お礼いっといて」

 他にも訪問者がいたことは優樹菜が言付かっていた以上知っているだろうが、汐織はその話題に触れることはなかった。

「じゃあ、部室に行こうか。しばらくぶりだから掃除しないとね」

「あっ、そういえば今月の図書新聞発行していない」

「ええ!? なんで!?」

「忘れてた」

 図書新聞は既に書き上げている。それは涼馬が相談事に来た段階で既に終わらせている。本来、図書新聞は月末に先生へと提出し、印刷を行って月初に張り出したり配布したりしている。だが今月は月末からゴールデンウィークに入り、ずっと星詠教絡みで動いていたのですっかり忘れていた。

「あー、情けない。先生に謝りに行っとかないといけないな。俺たち最近あまりに自由にやり過ぎているから、そろそろ先生の胃に穴が空くかもしれない」

「……それは確かにまずいね。胃薬を持っていってあげようか」

 まずは胃に穴が空くような状態を作らないことが第一だ。

 本校舎を出ると、グラウンド脇を横切りながら図書部部室がある旧校舎に向かって歩いて行く。

 他の部活は、新入部員が入ったことで活発に動き始めた。

 運動部は基礎体力を作らせるためにグラウンドを走らせ、文化部は親睦を深めるためかレクリエーション的なことをやっているところが多い。

「そういえば、今年も新入部員ゼロだったねー」

 もうその話題を触れないつもりだと思っていたのだが、汐織は力のない笑みを浮かべながら視線を息も絶え絶えになって走る運動部員に向けた。

「ゼロだったんじゃなくて、ゼロにしたんでしょ、俺たち。結局断っちゃったからな」

「まあ、そうなんだけどさ」

 自嘲気味な笑みに変えながら、小さく息を吐く。

「でも、これでよかったかとも思うの。あのまま受け入れてしまったら、これからもずっと危ない目に遭わせちゃうかもしれないから」

「それは、まあね」

 幻視のことを勘ぐっていたとはいえ、試しなら問題ないだろうと受け入れた結果、たった一回の相談事であそこまで事態を招いてしまった。

 きっと、冷静に考え直せば危ない部活だということはわかってくれたはずだ。男ならまだしも、女の子なのだ。どんな危険があるかはわからない。

 これで、よかったんだ。

 言い訳がましい内心の言葉に、汐織同様自嘲気味な笑みを浮かべる。

 最後に、送っていくといって別れたときの彼女の表情が今でも忘れられない。

 今もあんな表情をしているだろうか。

 しているとするなら、いつもみたいにまたよく笑う女の子に戻ってくれること、勝手だとは思うが祈っている。

 誠護と汐織は、グラウンドを通り過ぎ、旧校舎までやってきた。

 あまり掃除が行き届いていない廊下と階段を進み、図書部の部室までやってくる。

 鍵を取り出し、鍵穴に差し込んで回す。

「あれ?」

「どうかした?」

「……鍵が開いてる。閉め忘れてたかな」

 そうだとしたら五日近くも開けっ放しにしていたことになるが。

「まあ、盗られて困るものも置いてないからいいんだけどね」

「……そういえばそうだけど」

 何やってるんだと頭を拳で叩きながら、ドアノブを回して部室に入る。

 と、同時に硬直した。

 一人の女の子がそこにいた。

 頭に三角巾を巻き、エプロンを体に纏ってせっせと箒を動かしている。

「あ、お二人とも、お久しぶりです」

 女の子は現れた誠護たちに驚くこともなく、まるで毎日会っていたかのように当たり前の挨拶をする。

「……何やってるの?」

 口から出たのは素っ頓狂な声。ただ単純に、疑問の声だ。

「え? お掃除です。数日人がいなくてほこりっぽかったんで、お掃除してます」

 見ての通りじゃないですかといわんばかりに首を傾げて女の子が言葉を返す。

「あ、それと、今月分の図書新聞、顧問の先生が提出しないといけないとかで、こないだ印刷されていたやつをお渡ししておきました。所定の場所の掲示も配布も既に済ませてあります」

「さ、さいですか……」

 あまりの仕事で手際に呆気に取られる。

 後ろから目を見開くながら進み出た汐織が、口元を引きつらせながら声を発する。

「どうして、ここにいるの? 蒼空ちゃん」

 呼びかけられた女の子、蒼空は、頭に巻いた三角巾を外しながら持っていた箒を机に立てかける。

 手を前で組み、照れたような笑みを浮かべる蒼空は、恥ずかしそうに口を開く。

「えっと、誠に勝手ながら、先週、顧問の先生に入部届を提出しちゃいました」

「「え……」」

 誠護と汐織のまぬけな声が重なる。

「どどどどどど、どうして?」

 動揺に動揺した。

 蒼空は申し訳なさそうに笑みを浮かべながら頭に手を当てる。

「いや-、どうしたら入部できるか美波に相談していたら、入部届は顧問に提出すれば受理されるって聞いたんで提出しちゃいました。あはははは」

「そ、そういうことじゃなくて、どうして入部したのかってことを聞いているの。止めるようにっていったよね?」

 少しきつめの言葉で言い放つ汐織。普段のほほんとしている汐織が発する鋭い空気は、側にいる誠護でさえ体を震わせた。

 だが蒼空は事も無げに、眉を曲げて笑った。

「えっと、実は、ちょっと困ったことがあって、それで仕方なく図書部に入るしかなかったんです」

「困ったこと?」

 汐織が聞き返すと、蒼空は真剣な表情になって頷く。

「実は、図書部の入部を止めようとすると、視界に光が映り込んで日常生活にも支障が出るようになったんです」

「光って、まさか幻視の?」

「はい。何度か止めようとしたんですけど、視界に真っ白な光が映り込んでどうにもこうにも困ってしまって」

 蒼空は汐織に視線を向ける。

「汐織先輩いってたじゃないですか。相談事がない私が、図書部にいる必要はないと」

「……いったね。確かに」

「私、本当に困っているんです。こんなに視界に光が出てきたのは初めてで、どうしようもなくて。かといって、汐織先輩に破壊してもらうわけにも。基本的に、私の幻視にはデメリットがないので。だから――」

 蒼空は微笑んで、頭を下げた。

「私を、図書部にいさせてください。お願い、します」

 笑いながら言葉を紡ぐ蒼空。

 しかし、それが無理に取り繕った笑みであることは一目でわかった。

 両手は体の横できつく握りしめられており、心を表しているように震えていた。

 誠護は視界の隅で、汐織が目を細めて顔をしかめていた。目が痛そうにしばたたかせ、目元を指で拭った。

 その仕草は、汐織が幻視絡みの悩みを察知した際に見られるものだ。つまり、蒼空の悩みが誠護たちが相談事を受け入れるまでの一定の基準を超えてしまったということ。

 さらに、蒼空のいう通り、デメリットがない蒼空の幻視を消すことは憚られる。それでも解決するだろうがそんな無茶な方法を採ることはできない。

 日常生活に支障を来すほどの光が視界に映ったと、蒼空はいっていた。それは、十中八九嘘だ。

 蒼空の幻視は先天的なものでデメリットが存在しないという。これまで幻視なんてものを持っていることを知らなかったのが良い例だ。

 にも関わらず、視野を埋め尽くすほど光が出ることなどあるわけがない。

 でも、それでも、蒼空の悩みは汐織の幻視に引っかかるほどに達している。

「はぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ……」

 汐織が鋭い空気を収めて、長々と息を吐き出した。

「それなら、もう、本当に仕方ないね」

 その言葉に、蒼空が顔を上げる。

「私が断った理由は、蒼空ちゃんが幻視で悩みを抱えてなかったからだし、図書部に入部しないことが悩みになるとまでいわれたら、断ることもできないね」

 げんなりとして肩を落としながら、汐織は誠護に視線を向けてきた。

「誠護君は?」

「俺は正直、蒼空の幻視で、日常生活に支障が出るほど視覚情報に異常が出るとは思えない」

 図星だったからか否定したかったからかはわからないが、蒼空は体をびくつかせる。

 蒼空が何か次の言葉を発する前に、誠護は片目を閉じてため息を吐く。

「でもま、俺たちが見ている景色は、どれほど取り繕っても、つまるところ本人にしかわからない。不可視領域は、自分だけのもう一つのヴィジョンだ。だからたとえ、俺たちが蒼空の視界がそんなことになっているわけがないといくら口でもいっても、それを否定することはできない」

 誠護のヴィジョンも汐織のヴィジョンも、それぞれが見る自分だけのヴィジョンだ。蒼空にとっても、蒼空だけのヴィジョンだ。

 誠護は乾いた笑いを浮かべながら、頭を掻いた。

「だから、蒼空が図書部に入らないと日常生活に支障が出るとまでいうんなら、それは仕方ない」

 蒼空は、きょとんとし首を傾げる。

「だから、俺もいいよ。蒼空が図書部に入部することを、もう拒否はしないよ」

 正確には、拒否ができない状態に蒼空に誘導された。

 誠護たちとともに活動を続ける中で、図書部がどういうものかを知り、幻視がどういう力であるかを学んだ。

 その上で、誠護たちが図書部への入部を断ることができない方向に理由を組み上げた。

 誠護たちが蒼空が受け入れることを拒否していたのは、蒼空が入部することはむしろ危険で、入部をすることの必要性がないこと。蒼空が幻視を持っている上で悩みを抱えていないこと。この二つが蒼空の入部を拒絶した理由だ。

 だが、蒼空は後悔回避の幻視により、このままで確実に後悔してしまうということ。また不可視領域の光が視野を覆っているため、日常生活にまで支障が出るといわれてしまった。

 この段階で、蒼空自身でしか見ることができない不可視領域を理由に持ち出され、誠護たちは誠護たちの主観でもって、蒼空を拒否する理由を潰されてしまった。

 こうなってしまえばもう、誠護たちに拒否権など、あるはずもない。

 誠護の言葉に、汐織はあちゃーといわんばかりに額を叩く。誠護が最後の頼み綱で、誠護がなんとかいってくれるならと思っていたに違いない。

 しかし誠護から断る理由はもうない。

 ましてや――


「わかりました。蒼空ちゃん。私たち図書部は、あなたの入部を認めます」


「――あ、ありがとうございます!」


 涙がこぼれ落ちんばかり瞳に輝く笑み浮かべる後輩の、入部を断ることなどできない。

「いやーやられちゃったなー。もう蒼空ちゃんの幻視がそういうなら仕方ないよー、参っちゃうなー」

「汐織先輩すごい棒読み。あと顔がにやけてる。嬉しさ隠せてない」

「な、なにおう! そういう誠護君だって!」

 掴みかかってくる汐織を押さえながら、誠護は苦笑いを浮かべて蒼空を見る。

「色々と、悪かったね。蒼空は図書部にいない方がいいって、勝手に決めつけてた」

「いえ、お二人が私のことを考えてくれているということはわかっているんです。でも、それでも、私は、図書部に、いたいんです」

 その言葉は、誠護と汐織の心に暖かく染み渡っていった。

「ありがとう。俺も、蒼空の入部を歓迎するよ」

「はい! ありがとうございます!」

「よぉーし! そうと決まれば歓迎会だ! 三人で街に乗り出すぞ!」

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