25

 耳に水が滴る音が響く。

 重い瞼を無理矢理押し上げると、暗く寂れた景色が目に入る。蔦や草があちこちに生え、割れた窓ガラスや寂びた鉄骨が長い間人が出入りしてない場所だと教えてくれる。周囲には使われなくなった機械や工具などが山積みにされている。小さな体育館くらいの広さがあった。

 どうやら廃工場のような場所に自分はいるようだと、蒼空は悟る。

「目が覚めましたか?」

 すぐ近くから女性の声が降ってきた。

 声がした方を振り返ろうと体をよじらせるがうまく動かない。後ろ手に両手が縛られていた。

「あ、れ……? 私、どうして……」

 状況が理解できずに混乱する。なぜこんな状況になっているか思い出せない。無理矢理身をよじらせてどうにか体を起こすと、すぐ側に見知った顔があった。

「カレン……さん?」

 金色の髪に青い瞳を持つ異彩な雰囲気を放つ少女が、蒼空の近くに同じように手を縛られて座っていた。

 その表情は、申し訳なさそうに歪んでいた。

「はい。申し訳ありません。こんなことに巻き込んでしまって」

 巻き込まれた。その言葉に、蒼空は何があったかを思い出した。

 商店街まで遊びに出ていた蒼空は、雨が降り出し美波と別れたあと児童施設、アザレアに向かった。

 何かと物騒なことが続く中で、それが星詠教が中心であることはわかっていたのだ。だから本来であれば近づくべきではなかった。

 しかし、蒼空は誠護から危険はないと太鼓判を押されていた。蒼空が休みの間心配したり怯えたりしないようにと誠護なりの気遣いだったのだが、それに頼り切り、深く考えることなく施設を訪れたのだ。

 雨がいよいよ強くなってきたこともあり、雨宿りをさせてもらおうと敷地の中に足を踏み入れた。

 丁度そのとき洗濯物をせっせと取り込んでいるカレンを見つけ、自分も手伝うと申し出たのだ。

 カレンは突然現れた蒼空に驚きいたが、助かりますと受け入れて一緒に洗濯物を取り込んだ。洗濯物はほとんど乾いており、素早く取り込んだことで取り立てて被害もなかった。

 子どもたちは全員近くの公民館まで遊びに行っているようで、カレン以外は誰もいなかった。二人っきりになり、洗濯物を二人で片付けていきながら蒼空とカレンは様々なことを話した。

 元々話してみたいと思っていたのだ。

 カレンも蒼空と同じ高校一年生で、見た目や雰囲気はとても大人びていたが、友達になりたいとずっと考えていた。

 カレン自身が、悪い人間ではないと理解していたから。

「そうだ……。それで私……」

 思い出したところで頭に鋭い痛みが走り顔をしかめた。

 カレンと話を終えたあと、雨が少し小降りになり、もうすぐ子どもたちが帰ってくるということで蒼空は帰ることにした。

 施設を出てすぐのことだ。人通りのない道にさしかかったところで、車が急停車した。元々近くに民家などが少ない道で、雨が降っていたこともあり近くは人気はなかった。

 何事かと視線を向けると同時に、扉が勢いよく開き、車の中に押し込まれ――

「それで、何かで口を塞がれて、気が遠く……」

 それから今までの記憶がない。何かの薬品をかがされたようだ。

 理解すると同時に吐き気や倦怠感が荒波のように押し寄せてくる。視界にちかちかと光が差し、思考が思うように働かない。

「ああ、ようやく起きたか」

 少し離れたところで、今度は男の声がした。

 蒼空が視線を向けると、パイプ椅子に腰を下ろした男がにたにたと嫌な笑みを浮かべながら蒼空たちを見ている。

「薬を盛りすぎたから、もう目を覚まさないかと思ったよ」

 星詠教を取り仕切っていた男、桐澤本人がそこにいた。

 現状わからないことばかりだ。だが一つだけ、確実にわかったことがある。

 自分は、誘拐されたのだと。

「まだしばらくは眠っていたほど気分が悪いですよ。もう一度寝ていてもいいですか?」

 蒼空は頭を押さえて顔をしかめながらも強がりで笑みを浮かべる。

 桐澤はやや驚きいた様に眉をつり上げたが、すぐにニタリとした濁った笑みを返した。

「はははっ、今は寝てもっちゃ困るな。お前には聞かなきゃいけないことがあるんだ。おい」

 桐澤が呼ぶと、廃工場にたった一つあった扉が開き、外から四人の男が入ってきた。

 一人の男は頭に麻袋をかぶせられており、両手足が縛られている。

 咄嗟に誠護かと思い蒼空は顔を青くしたが、誠護よりも身長がやや低く細身であったため、別人だということを理解した。

 男たちが入ってきた扉はすぐに閉められ、備え付けられていた鍵を閉められる。足まで縛られているため歩くこともできない男は、周囲の男たちに引きずられながら蒼空たちのところに向かってくる。

 そして、男は投げ捨てられるようにして突き飛ばされる。

 地面を転がった拍子に、頭に掛けられていた麻袋が外れて顔が露わになった。

「城戸先輩……?」

 蒼空は投げ出された男の表情を見て呟いた。

 はっきりと涼馬だとわからなかったのは、元々は色白であった顔は何度も殴られたように青く腫れ上がっていたからだ。唇は切れて血が滴っており、擦り傷や土などの汚れで誰だかわからない状態になっていた。。

 蒼空の声に投げ出された男は反応し、蒼空の方を見上げる。

「矢祭、さん……」

「城戸先輩! どうしたんですか大丈夫ですか!?」

 蒼空は長い間眠らされていたことで力の入らない足に鞭を打って立ち上がり、涼馬の側に駆け寄った。

 涼馬を助け起こそうにも後ろ手に縛られているためどうすることもできず、蒼空は涼馬の顔をのぞき込んだ。

「一体何があったんですか?」

「……ごめん、僕のせいで」

 涼馬は申し訳なさそうに顔を歪め、視線を逸らして唇を噛む。

「涼馬!」

 少し遅れて足をもつれさせながらカレンもやってくる。

「カレン、ごめん。本当に、ごめん」

 涼馬は頭を地面に押しつけ、苦悶の声を漏らしながら謝罪する。

 あまりに突然な状況に混乱した蒼空は、離れた場所で悠々と笑みを浮かべる桐澤に目を向けた。

「あなたたちは何がしたいんですか? 彼らは、あなたの仲間でしょう?」

 状況に飲まれずに言葉を発した蒼空に桐澤はにたにたとした嫌な笑いに戻る。

「仲間? 勘違いしてもらっては困る。その二人はただの道具だ。仲間などではない」

 話し方や声音まで、以前に聞いたときとはまるで別人。

 こちらが本性ということなのだろう。

「道具は使えなくなったら捨てるか直すか、新しく作るしかない。俺たちは技術者だからな。なあ」

 桐澤の声に応え、涼馬を運んできた男たちは下卑た笑いを浮かべながら桐澤の後ろに行く。

 蒼空は渇いた口を唾液で潤す。喉が張り付いてうまく言葉を発することができない。

 桐澤の目が鋭く尖り、涼馬に向けられた。

「大体、先に俺たちを売ったのはそいつだ。まったく、舐められたもんだ」

 その一言で蒼空は悟った。

 桐澤たちに、涼馬が蒼空たちにカレンに教祖を辞めさせるように働きかけていたのがばれてしまっているのだ。

 そうであるなら、蒼空が攫われた理由も自ずと理解される。

 桐澤は深々とため息を吐きながら再び蒼空に視線を戻す。

「もう一人の男は簡単には捕まえることができない。お前はあっさり捕まってくれて助かったよ。おかげでお前を使ってあのクソガキを呼び出すことができるからな」

 目に狂ったように炎を灯しながらつばを吐き出した。

「あの野郎を捕まえたら、関わったことを後悔するほどの苦痛と痛みを与えて殺してやる」

 殺す。その単語に体が震えた。悪ふざけや冗談などではない。その言葉の殺意がはっきりと読み取れた。

 桐澤は、本当に誠護を殺すつもりなのだと。

「何度も邪魔をしてくれて……。ふざけやがって。なあ嬢ちゃん、君の先輩は今何をしているんだ? 早く殺してやりたいんだけどな」

 涼馬の腕につけられた腕時計が視界に入る。

 時刻は丁度五時を示していた。割れた窓から見える外は少し赤く空が染まっているので、今は夕刻であることが見て取れた。

「今はゴールデンウィークですから、家にでもいるんじゃないですか」

 適当に答えながら蒼空は考える。

 誠護に危険未来視によって見てもらった結果、昨日夕方の段階から四八時間は当面の危険はないとのことだったが、誘拐というのはあまりに予想外な危険だったのだと思う。現在捕まっているのは誠護の考える危険とは別だったからだ。

 しかし、その四八時間を過ぎてしまった。ここからの未来は、もうどうなるかわからない。

 蒼空と桐澤がにらみ合っていると、涼馬が呻き声を上げながら体を起こした。

「……矢祭さんたちは関係ない。彼女たちをこれ以上どうにかするっていうんなら、もう僕は協力しない」

「……は? お前にそんなことをいる立場だと思ってんのか?」 

 桐澤が椅子を蹴り飛ばしながら立ち上がった。

「確かにこれからの活動にお前は必要だ。だが愛しのその女は、別にどうしたって俺たちは構わないんだぜ?」

 涼馬は歯をきつく噛みしめながら視線を逸らす。

 そんな涼馬を庇うように、カレンが涼馬の前に膝を突く。

「私はどうにかしたければ好きにすればいいです。ですが、涼馬と蒼空さんには手を出さないでください。もしこれ以上何かするなら、私はあなたたちを許しません」

 カレンの言葉に、桐澤たちはぽかんと口を開けた。

 だが、途端に腹を抱えて笑い始めた。

「あははは! お前に何ができる。お飾りの教祖で汚れた人生を送ってきたお前がどうにかできると思っているのか? ああ?」

 桐澤は口元をつり上げてカレンをあざ笑う。


「何の力も持っていないお前に、一体俺たちをどうすることができるっていうんだ?」


 一瞬、何の話をしているのかと思った。すぐに幻視のことをいっているのだとわかった。しかし、カレンにその力がないと、桐澤はいったのだ。

「……どういうことですか? カレンさんは、幻視を持っているじゃないですか」

 幻視という単語を聞いた瞬間、弾かれたように桐澤が蒼空に視線を向けた。

「……驚いたな。まさか幻視のことを知っているとは。どこでその単語を知ったんだ?」

「……」

 蒼空は何もいわずに桐澤を見返す。突っ込んで聞かれる前に、重ねて問う。

「私たちは確かに幻覚を見せられました。それは、カレンさんの力じゃないですか」

 あの星空の下で行われた合宿で、蒼空は初めて幻視の力を目の当たりにした。あり得ない光景を目にし、それが幻視というものであることを教えられたのだ。

 桐澤は鼻を鳴らしてカレンに睨み付ける。

「いいや、違う。幻視はその女の力じゃない。その女は何の力もない。ただの役立たずだ」

 蒼空は驚いてカレンに見る。

 カレンは反論しようとはせず、澄んだ青い瞳を真っ直ぐと向けていた。

「その私に頼ってこれまで隠れ怯えていたのはどこの誰ですか? 本当に何もできないあなた方が、よくそんなことをいますね」

 桐澤たちの表情が一様に怒気を纏う。

「このクソ女黙って聞いていれば――」

 桐澤の後ろにいた男が方を怒らせながら近づいてくる。

 だが、桐澤が手で制して男を止める。

「よせ、近づきすぎると力を使われる。いておけ」

 桐澤の言葉に我に返り、蒼空たちに近づこうとしていた男は足を止める。そして不本意なようではあったが、すごすごと引き下がった。

 その光景に蒼空は眉をひそめた。

 今、カレンには何の力もないと桐澤がいったばかりだ。であるにも関わらず、桐澤たちは力、幻視を使われることを危惧して退いた。

 つまり、考えられることは、たった一つ。

 蒼空は、ゆっくりと視線を向ける。

 カレンではなく、もう一人の人物に。

「……まさか、城戸先輩……だったんですか?」

「……」

 涼馬は暗い顔で俯いたまま何もいわない。答えには十分すぎるほどのものだった。

「き、城戸先輩が、幻視所持者……だったんですか」

「……」

 さらなる沈黙は、完全な肯定だった。

 口を開かない涼馬の代わりに、カレンが申し訳なさそうにいう。

「そうです。私には人に幻覚を見せるような力はありません。全て、涼馬の力なんです」

 カレンはいう。

 超常的な力を扱う以上、その力を持つ者には相応の危険が伴う。ましてや、涼馬の幻視は他人に直接影響を及ぼす力だ。矢面に立たせていては、いずれ所持者が目をつけられる可能性がある。

 桐澤たちは涼馬がどうなろうと毛ほども気にしない連中だが、幻視はそうではない。

 涼馬が他者から狙われても大丈夫なように、保険を掛けた。それが涼馬の幼なじみであるカレンというスケープゴートだ。カレンを矢面に立てている以上、涼馬も下手に手を抜くわけにはいかない。

 中半端なことを行ってカレンに危害が及ぶようなことがあれば。涼馬はその恐怖から、少しでも危険と判断した人間には意志不明に陥るほどの幻視を使用してきたという。

「ひどい……」

 あんまりな話に、蒼空は桐澤をキッと睨み付けた。

 桐澤は首をすくめておどけて見せながら笑う。

「おおー怖、だけどこれでも女の方だって無碍に扱ってたわけじゃない。下手に連れ去られでもしたら面倒だからな」

 桐澤の言葉は偽りではないが真実ではない。

 カレンは人質だ。星詠教という枷に縛り付けることにより、涼馬も逃げられない状況を作り出す。そして、カレンにはアザレアという家、児童施設を盾に取り、星詠教に参加させる。さらに涼馬を直接関わらせないため、カレン自身も進んで星詠教の教祖を演じていたのだ。

 だから、涼馬は図書部に話を持ちかけた。

 少しでも状況を変えたくて、幼なじみを助けたくて、幻視をどうにかしたくて。カレンを何らかの形でも教祖を辞めさせたかったのだ。たとえそれで、自分が他者から狙われる立場にあったとしてもだ。

「最低……」

「別にいいだろ? 科学では絶対証明できない力を俺たちが有効利用しているだけだ。実験動物として扱われないだけまだましだろ」

「そんなのはあなたの勝手な考えです。星詠教っていう宗教を使って何をしたいのかは知りませんが、やっていることはただの犯罪です。ふざけないでください」

 蒼空は怒気を孕んだ声を発し、ようやく普通に動かせるようになってきた体にむち打って立ち上がる。

「こんなことをして許されるはずがない。時期に警察も動く。早いうちに全て止めた方があなた方の――」

 直後、蒼空の言葉を遮るように炸裂音が響き渡った。

 カレンと涼馬が声を失う。

 蒼空も同様に驚愕する。

 炸裂音を発したその物体は、桐澤の手の中に握られた金属の塊だ。

 黒い金属によって作られた先端にある筒からは、白い煙が立ち上っていた。

「それ以上口を開くな」

 桐澤は上空に向けて放ったそれを、真っ直ぐ蒼空へと向けた。

「――殺すぞ?」

 状況を体が思い出したように、手足が震え始める。

 拳銃。

 桐澤の手に握られていたのは、日本人が普通に日常生活を送っている上で、大多数の人間が一度として見ることのない、本物の拳銃。

 それが、桐澤の手に握られていた。

「……そんなもの、どこで」

 ようやくそんな言葉を出すことができたのは、蒼空の後ろにいるカレンだ。

 桐澤は銃口をこちらに向けたまま、口元をつり上げる。

「最近じゃこんなものも、簡単に手に入るんだよ」

 そんな訳はない。この日本で、民間人がそう簡単に銃器を入手することなどできるわけがない。

 桐澤が放った銃弾は、天井の鉄板を貫き火花を散らして外へと消えた。空砲などでは決してない。

「そんなものまで持ち出して……」

 蒼空は震える声を必死に押さえて言葉を出す。

「一体どうするつもりですか? それで、私を殺しますか?」

「そんなことをするわけがないだろう? お前を殺せば、さすがに俺たちもまずいだろうからな」

 そういい、桐澤は蒼空の後ろに視線を向けた。


「死んでもらうのは、カレン。お前だ」


「なっ――」

 涼馬は顔を歪め、体を強ばらせる。

 蒼空も同様に驚愕したが、桐澤に視線を向けられたカレンは、どういうことかわかっているように厳しい顔を桐澤に向けた。

 同時に、蒼空の視界に光が差した。

「なるほど、涼馬の幻視のためですか」

 納得したようにため息を落としながら、カレンは冷静に呟く。

「どういう、ことですか?」

 蒼空はカレンに尋ねる。

「涼馬の幻視は、以前私が使える幻視ということで説明したものと同じものです。過去に自分が体験したことを、相手の目に像として結ぶ。その際に、涼馬が感じたことを追体験させることができます。つまり――」

 その先を、カレンは告げることはなかった。

 しかし、それだけで十分理解できた。

 この場で、涼馬の目の前で幼なじみであるカレンを殺せば、涼馬は絶望を味わうことになる。悲しみ、苦しみ、痛み、恐怖。それらの負の感情は、おそらくは涼馬がこれまで経験したことことがないほど痛烈なものになるだろう。

 涼馬にとっては最悪の出来事。

 だが彼ら、桐澤たちにとってはそうではない。

 涼馬が強い負の経験をすればするほど、その力を利用しようとする桐澤たちにとってのメリットは増えていく。現段階でさえ、相手の意識を著しき消耗させるほどの効力を持ち、さらには精神まで異常を来し、相手をマインドコントロールするほどの効力を発揮している。

 ここからさらに、涼馬がこれまで経験したことがないような現実を目の当たりにすれば、どうなるのかは想像もできない。

「もしカレンを傷つければ、僕はもうお前たちに力は貸さない!」

 涼馬が体をよじらせながら叫ぶ。

 桐澤は寒気を覚えるほどの冷たい笑みを浮かべる。

「違うよ涼馬。傷つけるんじゃない。殺すんだよ。勘違いしちゃいけない」

「ふざけるなッ! もうお前には力は貸さない! 二度と力を使ってやるもんか!」

「ははは。ダメだよ。お前に決定権はない。もしこれから一度でも私たちのいうことを聞かなければ、施設のガキ共を、一人ずつ殺していく」

「な……」

 言葉を失う涼馬に、桐澤は面白うそうに笑って続ける。

「元々あの施設は我々の出資で成り立っている。あの施設長も施設を維持するために相当汚いことをやってきている。子どもを殺すと脅せば、お前にも力を使うように頼んでくれるだろうよ」

 黒光りする拳銃にはまだ五発の銃弾が装填させているはず。それだけの数があれば、人一人を殺すには十分だ。

「では、さっそく。私も人を撃ち殺すのは初めてだが、一発では難しいだろうな。さぞ苦しんで、面白い光景を――」

 桐澤の言葉が、途中で切れる。

「……させませんよ」

 銃口とカレンとの間に、蒼空が割り込んだからだ。

 もう誠護が危険視によって確認した安全な時間帯は過ぎている。銃に撃たれる可能背も十分にあることを理解していた。

 それでも咄嗟に動いていた。

 視界に浮かんでいた光が弾けて消える。

「施設の人なら殺してもどうにか隠せるのかもしれませんが、私は無理でしょう?」

 その行動は桐澤も予想外だったのか目を見開き、口を開けて呆けた。

「大方、私をここに攫ったのは私たちがあなたたちのことをどこまで外部に、たとえば警察とかに伝えているかということを聞き出したいから、ですよね?」

 桐澤は憎悪の溢れた視線を向けてくる。

 これまで感じたことのないほどどす黒い感情に、蒼空は背筋に嫌な汗が流れていくのを感じたが、それでも負けじと続ける。

「殺すなら私を攫った段階でやっています。さっきももう一人を殺すなんていっていましたが、あなた方がそんなことをして無事に済むとは思えません。カレンさんや子どもたちなら施設を利用してどうにかごまかすつもりなんでしょうが、そういったことと無縁の私が突然失踪、もしくは銃で殺された遺体となって見つかれば、警察も躍起になって犯人を捜してくれるでしょうね」

 だからと、蒼空は唾液で喉を潤して続ける。

「あなたは城戸先輩の力がどの程度まで強くなったのかということを試すため。それから私がどこまで情報を知っているのかを知るため。最終的には意識不明にまで追いやり、口封じをするつもりでいる。違いますか?」

「……ッ」

 先ほどまで饒舌だった桐澤が言葉を詰まらせる。

「このクソガキ黙って聞いていれば――!」

「よせっ!」

 こちらに近づいてこようとした男を、桐澤が怒鳴り声を上げて静止する。

 蒼空は内心ホッと息を吐いた。思っていた通りだ。

 これまで、ただ誠護や汐織の後ろをついて回ってきたわけではない。持ち前の知りたがりや好奇心から、それなりに役立つ情報を得ているつもりだ。その情報から判断し、今この行動を取っている。

 おそらく、桐澤さんたちはこちらに近づくことができない。

「蒼空さん、止めてください」

 カレンが後ろから蒼空の背中に肩を当てた。

「危険です。無関係なあなたがここまで関わることはありません。私が大人しく殺されておけば、とりあえずあなたや涼馬は助かります。だからそんな真似は……」

「いや、止めないよ。カレンさんには申し訳ないけど、それを聞くことはできない」

 そういいながらも、誠護や汐織にいわせれば、今のこの状況は退かないといけない状態かもしれない。

 誠護と一緒に星詠教の合宿に参加する前に、誠護からいわれた。

 もし相談事を解決するために動く中で、自分の身に被害が及びそうになったときは自分の身の安全を優先させること。

 今は自ら進んで危険に飛び込んでいる。

 しかし、蒼空はこれが現状最善だと思ったのだ。

 どうあっても、既に自分にまったく被害が及ばないようにすること不可能だ。その中で、できうる限り時間を稼ぎながらも、自分たち三人の安全を確保すること。それが最も優先すべきことだ。

「大丈夫だよカレンさん。私は彩海学園図書部。城戸先輩から、カレンさんが教祖を辞めさせるように、助けて欲しいと相談を受けている。だから、カレンさんを助ける。それは、変わらない」

 蒼空がいい終わると同時に、再び拳銃が火を噴き、後方にある壁に銃弾が直撃して火花を散らした。

「悪いが私たちもこれ以上時間を掛けているわけにはいかない。これが最後通告だ。そこを退かなければ、お前の足に銃弾を撃ち込む」

 桐澤の持つ銃がゆっくりと下がり、蒼空の足を向く。

「銃というのは中々扱いが難しいが、四発もあれば一発は当たるだろう」

「……下手に打てば、城戸先輩に当たる可能性もありますよ」

「安心しろ。これでもずっと練習はしているんだ。私は勤勉なのでね」

 元大学教授というだけあって、その言葉には強い説得力があった。

 戸惑いもなく引き金を引いていることから考えても、それなりの回数銃を使っていると考えられる。

 そう見ると構えも様になっているように見える。

 後ろ手に縛られている手を握りしめると、手のひらにじっとりとした汗がにじんでいた。

 当たり所が悪ければ十分に死に至る。それでも――

 視界に、ちかちかと光が差す。

「嫌です。私は、絶対に退きません」

 それが、今自分にとって正しいものだと感じた。だから、ここから退くべきではない。

 桐澤の指が、再び引き金に掛かる。

 そして、胡乱な目を蒼空に向けた。

「もう、いいよ。体に銃弾を受けた後でもそんな強がりをいえるか、興味が湧いた」

 卑しく桐澤の口が歪む。

「蒼空さん、もう止めてください!」

「君は関係ないから退くんだ!」

 カレンと涼馬が口々にいってくるが、それでも蒼空は退かない。

 この目に映る光が指し示す限り、蒼空は絶対に動かない。

 銃の引き金に力がこもる。

「あとで、銃に撃たれた感想でも教えてくれ」


 廃工場に、轟音が響き渡った。


 蒼空は咄嗟に目を閉じていた。体を強ばらせ、やってくる痛みに恐怖し、歯を食いしばって耐える。

 だが、いつまで経っても痛みはやってこなかった。

 恐る恐る、目を開ける。自分の体を見下ろし、どこにも傷がないことを確認する。

 もしかしたら外れたのかもしれない。そんな考えが頭を過ぎった。

 後ろの二人を確認するが、涼馬やカレンにも銃弾は当たっていない様子で、蒼空同様何が起こったのかはわからないようできょろきょろとしていた。

 蒼空は桐澤を見やる。

 桐澤の手に握られた銃は、変わらずその口を蒼空に向けていた。

 だが、桐澤の視線はこちらを向いてはいなかった。

 その視線は蒼空たちから外れ、蒼空たちから見て左手、扉の方を睨み付けている。

 再び轟音が鳴り響く。扉が音を立てて揺れ、留め具を固定していたネジが何本か吹き飛び床に転がる。

 桐澤たちの反応を見る限り、それは彼らにとって予定されていたものではないようだ。

 それはつまり――。

 次の衝撃で、扉は部屋の内側に吹き飛んだ。

 元々ずいぶん朽ちて壊れやすくはなっていたんだろう。鍵や留め具を全て強引に破壊され、支えをなくして吹き飛んだ扉は地面を滑って静止する。

「はぁー……やっと見つけた」

 扉の向こうから気だるげな声とともに、ゆっくりと誰かが部屋の中へ入ってくる。

 黒いTシャツの上から赤いシャツを羽織り、動きやすそうなカーゴパンツという私服姿の男性。

「お、お前は……」

 桐澤が驚きのあまり目を見開き、紡ぐ言葉も震えていた。

 現れた人物は桐澤たちの方を一瞥したあと、蒼空たちの方に目を向ける。

「遅くなって悪かったな、三人とも。ここを探すの時間が掛かったんだ」

 あまりにも場違いに笑みを浮かべ、肌を刺すような空気すら寄せ付けない足取りで、蒼空たちの方まで歩いてくる。

 桐澤たちは完全に呆けており、蒼空たちのところまでやってくるその人物を止めなかった。

 蒼空は、その人物を見た途端、張り詰めた糸が切れたように、その場にぺたんと膝を突いてしまう。

 そんな様子を見て、蒼空の傍らまでやってきた人物は、蒼空の頭にそっと手を乗せて微笑んだ。

「本当に悪かった。こんなことに巻き込んでしまって。でも、もう大丈夫だから。安心して。蒼空」

 蒼空は、震えて涙声になった声で、その人物の名前を呼ぶ。

「せ、誠護さん……」

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