第3話

初冬のある日、よちよち歩きのテルルが半開きの書斎のドアから入ってきたとき、ゲルマ爺さんは老眼鏡を掛けて、自ら磨き上げた玉座に座っていた。ページの文字を追うことに夢中になっていた彼は、テルルが喃語で何事かつぶやきながら、本棚の最下部に鎮座する本に手を伸ばそうとして大きな頭ごと転ぶまで、孫が書斎に入ってきたことに気が付かなかった。


自分の頭の重みで転んだテルルが立てた騒音に、ゲルマ爺さんは初めて振り返った。ああ、これは泣きだすだろう、との祖父の予想に反して、テルルは泣き声ひとつ上げずに立ち上がり、再度本棚へ向かって歩き出した。


「テルルや。お前、本が好きかい」


ゲルマ爺さんはそっとテルルの後ろに立ち、彼が向かっていた本を棚から抜き出して、その背表紙に小さな手を触れさせてやった。

色があせ、何度も開かれたせいで手摺れのした革の表紙に触れて、テルルはにっこりと微笑んだ。その表情を見た瞬間、ゲルマ爺さんの中で人生二度目となる栄光の火花が散った。


「テルルや。お前、本が好きかい。本が読みたいかい」


ゲルマ爺さんの本狂いは、今まで家族の誰にも理解されることが無かった。一度だけ、イオディンが小学校に上がる前に書斎へ誘ってみたことがあるものの、弾丸のように早い足を持ったイオディンは、本棚に並ぶ本を物珍しそうに眺めただけで、その後は書斎自体に一瞥もくれなかった。


ゲルマ爺さんは、この小さな孫、ひ孫ほどの年齢の幼子から、自らと同じ書籍への思慕を感じ取った。次の日、ゲルマ爺さんは降る雪をものともせずに街へ出かけ、絵本を鞄いっぱいに買い込んできた。

その冬から次の春が来るまでの間、ゲルマ爺さんはテルルを毎日のように書斎へ招いては、まず字の読み方を教え、次に絵と字のつながりを教え、本に対する敬意の表し方を教えた。テルルを膝に乗せ、彼の目の高さに絵本を開き、一行ずつ文章を読んでやるゲルマ爺さんの、老眼鏡の奥の瞳が温かく濡れていた。


秋に生まれたテルルは、木々がその葉を赤や金に染める時期が巡るごとに、どんどん成長していった。言葉が出るまでが少々遅かったテルルは、最初の一言を話し始めた途端、その口からは堰を切ったようにおしゃべりが始まった。


「雪はなぜ白いの」

「暖炉の火はどうしてあたたかいの」

「苺は甘いのに、葉っぱが苦いのはなぜ?」

「カブトムシはどうして動き回るの」

「食べて良いきのこと悪いきのこがあるのは、なぜ?」


テルルの世界は、四季が巡るたびに広がっていった。テルルはゲルマ爺さんの朗読により開かれた絵本を、やがて自分でページをめくるようになり、暗記するまで読み込んだ。小さな孫が、絵本の字面をまるで音楽を聞くときのように耳をそばだてて読んでいる姿は、ゲルマ爺さんにとって地上の天使を見るのに等しかった。

残念ながら、幼かったテルルはこの時期のことをあまり覚えていない。テルルがその脳に思い出を刻みこむことができるようになるころには、ゲルマ爺さんは既に故人であった。結局、テルルはゲルマ爺さんの顔を暖炉に飾られた遺影と古ぼけた写真で見ることしかできなかったが、祖父の教えは無意識下に刷り込まれていた。

 3

北国の秋は、夏以上に早足で過ぎるものだ。切っ先の鋭い木枯らしが町並みを吹きぬけたら、すでに空には鉛色の雲が広がっている。

青黒い顔をした雲は、毎日のように冷たい雨を降らせ、少しずつ地表の温度を奪っていく。地面が十分に冷え切ると、雨は身軽な雪片に変わり、海風に舞って町をあっという間に覆い尽くしてしまう。そうして、重厚にして強大な冬将軍がこの北国にどかりと腰を下ろす季節がやってくるのだった。


冬の入り口、毎日のように時雨が降り続く秋の終わりに、ゲルマ爺さんは風邪を引いた。寄る年波にかつての漁で鍛えた免疫力は脆くも崩れ去り、ゲルマ爺さんは風邪をこじらせ、連日の高熱に見舞われた。

肺炎の熱に浮かされながらも、ゲルマ爺さんはベッド脇に本を持ち込むことだけは諦めなかった。高熱によって体力が急激に衰えていく中で、ゲルマ爺さんは見えにくくなった目で必死に文字を追っていた。

日中は常に家族が看護にあたっていたから、おそらくその時が訪れたのは未明のことだったのだろう。ゲルマ爺さんが臥して数日後の朝、妻がベッドに行くと、人のかたちによけられたシーツと掛け布団だけが抜け殻のように残されていた。


老夫人には予感があった。彼女は寝室を飛び出し、夫が築き上げた、ささやかな楽園の扉へと走った。

楽園の主は玉座に座り、机に突っ伏していた。伸ばされた両腕の先には開かれたままの本があり、ページに顔を載せないことで、最後の敬意を表しているかのように見えた。本たちに看取られて夫が旅立ったことが、妻にもわかった。


当時の平均寿命よりほんの少し長生きし、かといって長老と呼ばれるほどには出張らずに、ゲルマ爺さんはその生涯を終えた。彼は平凡に生きてきた人生の黄昏時において、思いがけず本という曙光に出会った。文字の海に遊び、学ぶ喜びに満たされながら、彼は人生最後のページを締めくくったのだった。


ゲルマ爺さんが六十代に差し掛かった時に、慣習として書かれていた遺書に従って、しめやかに葬儀が行われた。家長の座を息子に譲って久しかったし、相続で争うようなものは何もなかったのだが、ただ一つだけゲルマ爺さんの遺言には特筆すべき点があった。


遺書の内容はありきたりで、当初は妻への愛情と感謝、子供たちの健康を願う言葉が簡潔に書かれていただけだった。そこに、最近書かれたであろうインクの乾き具合で、「書斎の一切の使用権を、孫のテルルに譲る」との言葉が加えられていた。


ゲルマ爺さんの逝去により、自分がこれまで如何に夫に依存してきたか、その事実に打ちのめされている最中の老夫人に、本なる悪徳を孫にまで伝播させることを抑える力は到底残されていなかった。

こうして、テルルは若干五歳にして、一室の書斎の主となった。


(続く)

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