第2話

ゲルマ爺さんの書斎は、メンデレーエフ家の一階部分、勝手口の隣を増設する形で建設された。爺さん自身は、冬は暖かく、夏は日没まで窓明かりがある二階の南側の部屋を改築しようと考えていたのだが、ここで妻の抵抗に遭った。


「本の置き場所なんて、地下室で良いでしょう。腐るものじゃなし」

「地下に置いたら本が湿気で傷んでしまうよ」

「傷むようならそれが本の運命だったんです」


ゲルマ爺さんは本質的に争いごとを好まない人間であったし、何よりも、背丈が自分の胸までしかない小さな妻を深く愛していた。可愛い妻が、自分のせいで怒ったり悲しんだりすることを、彼は出来る限り避けたかった。


「母さん、あれらの本の一冊一冊に、それぞれお金が掛かっているんだ。本が傷んでしまったら、そのお金が無駄になる……」


この一言で、ほとんど吝嗇に近い妻の倹約精神と、ゲルマ爺さんの本への思慕は何とか折り合いをつけることになった。ゲルマ爺さんのそのまた祖父の代から、子供が増えるたびに増設を繰り返してきたメンデレーエフ家は、また新たに部屋を増やすことが決定した。 

 

秋から竣工を始め、冬をまたいで初春に書斎となる部屋が完成した。ゲルマ爺さんは天井に届きそうな高さの本棚を部屋の壁という壁に配置し、分厚くて重い本から順に並べていった。万一のときに棚が倒れて本が傷まないよう、本棚は真鍮の釘で壁に打ち付けられた。天井から床まで大小様々の本がひしめく光景は、さながら本のための集会場のように見えた。ゲルマ爺さんは集会場の中央に、あちこちが煤けた古机を置き、同様に古びて座るたびに軋む椅子を一脚置いた。近所からほぼ無料で手に入れたこの机と椅子(薪にされる寸前だった)に、ゲルマ爺さんは丁寧にニスを塗ってやり、おかげでこれらのがらくたは随分とましな見た目になった。


半日掛けて本の搬入作業が完了し、部屋のドアを閉め、塗りたてのニスがぷんと香る椅子に腰かけたとき、ゲルマ爺さんの心はかつてない栄光に輝いた。俺は生まれて初めて、自分だけの聖域を手に入れたのだ……人間としてこれ以上の栄華があるだろうか。

その日から、ゲルマ爺さんの余生は、妻の許す限り書斎で行われることになった。暗く長い冬はランプの油が勿体ないと叱られ、短い夏は窓明かりで十分だと断られながらも、この書斎を地上の楽園として、ゲルマ爺さんの生涯最良の時間はゆったりと過ぎていった。

2

ゲルマ爺さんが書斎建築に取りかかったのとほぼ同時期に、メンデレーエフ家では世代交代が行われた。漁の腕を買われて漁労長の婿に入った長男の代わりに、メンデレーエフ家は次男のゲルマニウムが継いだ。外見こそ父親そのものであったゲルマニウムは、北国の男らしい気の弱さに加えて、母親からしつこい粘着気質をもらっていた。彼の目下の悩みは、禿げ方まで父に似てきたことだった。


仮にも家を受け継いだ男に、女房が居ないことなどあり得ない。いまや家長の母親、家における天上人となった老夫人の揺るぎない信念に従い、ゲルマニウムの家を継いで最初の仕事は嫁選びであった。このとき、ゲルマニウムは三十の齢に達しようとしており、町の平均結婚年齢よりも少々遅れていることもあって、老夫人の嫁選びへの情熱と焦燥は並大抵ではなかった。


そんな母親の情熱に気圧されたのか、もしくは反発していたのか。ゲルマニウムが選んだ妻は、老夫人とは正反対の気質の女性であった。ゲルマニウムより十歳若い村娘のルビジウムは、濃い金髪に明るい青緑の瞳の持ち主で、本来円いはずのその目は常に笑いを含んで細められていた。


ルビジウムは人懐こく、身体の周りに陽炎のように心のあたたかさが滲み出ている女だった。愛称はルビー。生来のものとしか言いようがない、根っからの明るさがあった。頬骨の高い輪郭はハート型で、大笑いすると血色のよい頬肉が持ち上がり、曲線のみで構成された表情を作り出した。


結婚して直ぐにルビーは懐妊し、翌年に子供を一人産んだ。イオディンと名付けられた息子は、母親から愛情のシャワーを浴びてすくすくと成長した。


北国の常で、出産を境に女はどんどん肥満していく。これは肉とウォッカ、砂糖のたっぷり入った菓子など過剰なカロリー摂取のたまもので、凍てつく冬から我が子を守り抜くためには仕方がない。はたしてルビーもその宿命からは逃れられず、息子を出産してから一年ごとに、彼女は一回りずつ横幅が広がっていった。だが、かえってそれは彼女の愛情の豊かさを象徴するように見えた。


「母さんはな、今では毬のようだが、新婚のころは小鳥のように華奢だったのだぞ」


 事あるごとに、夫のゲルマニウムはイオディンに言い聞かせた。


「結婚してから嫁さんが太りだすのは、夫が妻を大切にしている証拠だ」


ちなみに、北国の女でありながら、例外的に姑は肥満に見舞われることがなかった。もしかしたら、本体があまりに小さすぎて表面積の伸びしろが無かったのかもしれない。


豊かな金髪をいつも緩くまとめていたルビーは、家事と子育てに追われながら、同居する義両親との付き合いもこなさなければならなかった。書斎に籠って本にさえ囲まれていれば何も言わない舅と違って、暗く思いつめる性質の姑は、付き合い方に労力を必要とした。ルビーはよく働く嫁であり、とりわけ料理の才能に恵まれていた。どのタイミングで火を止め、どれくらい塩をつまめばよいか、生得の勘が発達していた。だが、その代わり掃除と裁縫は苦手だった。


「うちの母さんは四角い部屋を丸く掃くから困ったもんだ」

夫はよく、妻の掃除の作法を笑い話の種にした。

「お父さんたら、わたしが箒を使うそばから埃を拾ってまわるんだもの」


ルビーは取りたてて大雑把な性格ではなかったものの、物事の隅々にまで神経を集中することは不得意だった。裁縫の腕はせいぜい服のボタン付けが出来る程度だったので、息子と夫が着る服は、すべて姑が取り仕切っていた。そのため、彼らの服は何度も継ぎがあてられ、すり切れて雑巾になる寸前まで常服として着用を義務付けられていた。


萎みつつある小さな体に頑固さをみっちりと詰め込んだ姑は、本という理解できない世界に遊ぶ夫の代わりに、嫁へその不満のたけをぶつけていた。


「ルビーや、部屋の四隅に埃が巣を作ってるよ。お前の家には掃除の習慣がないのかい」

「すみません、お義母さま」

「ルビーや、これは何だい」

「新しい鍋つかみです」

「どこで買ってきたんだい」

「わたしが作りました」

「やれやれ、これほど雑な縫い方は見たことがないよ。かがり縫いをした端から糸がほつれてるじゃないか。お前はいくら教えても裁縫が上達しない。手が四角いんだねえ」

「すみません、お義母さま」


ルビーは根が明るい女であったが、頭の悪い女ではなかった。決して鈍感ではない神経で、出来る限り笑顔を保ち、姑の攻撃を受け流すことに徹した。嫌味ばかり言う姑の本質が極度の心配性であり、常に世界への不安と不信に怯えていることが、おそらくルビーにはわかっていたのだと思う。姑の愉快とはいえない小言をかわし続けることが出来たのは、こういった知恵があったからなのだろう。


ゲルマニウムとルビーの間には、長らく二人目の子供が出来なかった。肉体からこんこんとあふれ出る愛情を持て余し、何人でも子どもを産んで育てたいと思っていたルビーには、これは悲しむべきことだった。近所では、夫婦が二人目に恵まれない原因は夫にあるのだろう、と囁かれていた。誰がどう見ても、ルビーは健康そのものであったから。ようやくメンデレーエフ夫妻が待望の二人目に出会ったのは、長男のイオディンが生まれて十年が経過してからのことだった。


父親から丸顔と栗色の髪、母親からピンクの頬を受け継いだ赤ん坊は、テルリウムと名付けられた。通称はテルル。彼は、生まれながらに不思議な色の瞳を持っていた。テルルは緑、ヘーゼル、褐色、茶色、金色に、とりわけ夕陽が当たった時は燃えるようなオレンジと、見る方向と光の加減で色味が変わる、構造色の瞳の持ち主だった。父親の褐色の瞳と、母親の青緑色の瞳の遺伝子がいかなる作用をもたらしたのか、イオディンとテルルの兄弟は、二人ともこの構造色の瞳を持っていた。ただし、テルルと比べて兄のほうはほとんど色の違いがわからなかった。その理由は、イオディンの目がアーモンド形で目尻がつり上がっていたのに対して、テルルは円らで大きな目をしていたからだろう。


円い目は垂れ気味で、目だけでなく眉も生まれつき下がっており、そのくせ小さい口はその端がやや上がっていたので、テルルは常に何かに困っては苦笑いをしているような顔をしていた。だが、父親譲りの丸顔には頑丈な顎が備わっており、一度食いしばったら梃子でも動かないであろう意志の強さが垣間見えた。


何といっても、待ちに待った二人目の子供だから、メンデレーエフ家は家族中でテルルのことを可愛がった。とはいえ、父であるゲルマニウムは既に四十、母のルビーも三十歳に差し掛かったころに生まれた子供だけあって、テルルは両親にとって子供というよりも孫のような存在として愛玩された。親たちの愛情が、えてして無責任な甘やかしにならなかったのは、つくづくメンデレーエフ家の人々の良識がなせる技だったのだろう。


テルルは静と動がはっきりと分かれた子供だった。子供らしく背中のゼンマイが切れるまで動き続けることもあれば、冬の日など、厚い二重窓の外を何時間も見つめていることもあった。また、末子として特に努力する必要なく家族の愛を受けることが出来たせいか、家の外に出て近所の子供たちと遊ぶようになっても、他者との競争心というものをまるで持たなかった。テルルは同年齢の子供たちと日がな一日外を駆け回る一方で、じっと同じ姿勢を取り続ける集中力を兼ね備えていた。


そんなテルルが、祖父の静かな聖域に興味を示したのは当然の成り行きと言えるのかもしれない。妻には許しがたい不埒な遊び、息子には老人の酔狂と受け取られたゲルマ爺さんの書斎は、テルルにとって未知の世界への扉、大冒険の舞台であった。




(続く)

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