妖精の環

丸井山田

第1話

妖精の環


 長らく蝋を塗り忘れられたドアは、大人の力でも開けるのに一苦労する。開きの悪い扉を、子供ひとりぶんの体重を掛けて思い切り押し開けると、見渡す限り本の世界が広がっていた。

 薄暗い部屋の中で、ほこりが堆積した床はいつもうっすらと白く、一歩踏み出すごとに新たな足あとが生まれては、少しずつ領土を広げていく。見上げれば、足元から天井までぎっしりと分厚い書籍が鎮座しており、部屋の中に本があるというよりも、本で部屋が出来ているかのような印象を受ける。実際、テルルは長い間ずっと信じ込んでいた。百科事典で土台を組み、石の代わりに本を積んで壁を築き、すき間を薄い絵本で埋めたらこの部屋が出来たのだ、と。

 本を読んで良いのは、ランプが要らない昼間だけ。祖母の教えに従って、テルルは明かり取りの小窓を開いた。西向きに備えられた窓の外では、日よけの布越しでも刺さるほどにまばゆい、北国の短い夏があふれかえっている。つんと抜ける潮風に混じって、遠くから船が鳴らす汽笛の音がぼおんとこだました。

 

 緑色の海と、ぎざぎざの断崖に沿って、へばりつくように在る小さな漁師町。町並みは松林に囲まれ、堅固な石造りの家々は絶え間なく吹き付ける湿気のために、どれも壁にコケを生やしていた。均一なオレンジ色の三角屋根が並ぶ中で、丘の上にあるメンデレーエフ家は、ただ一つの部分において他の家と異なっていた。かの家は書斎を持っていた―それは、刻苦勤労を何よりもの信条とするこの北国の片田舎において、信じられない逸脱行為であった。


 メンデレーエフ家に書斎をもたらした当人は、ある時点まで一介の漁夫に過ぎなかった。その名をゲルマニウム・メンデレーエフという。十五歳から海に出て、五十歳で引退するまでは、名実ともに「ただの」漁師であった。北国の人間にしては小柄であったが、よく日焼けした肌と頑健な肉体を持ち、大時化の日も凪の日もじっと耐える、凡庸な漁師。栗色の髪は日に当たりすぎてほとんどベージュに近くなり、目の色は淡い褐色。また、生まれつきの丸顔のせいで、どれだけ表面にしわが刻まれようとも、年よりもずっと若く見えた。そんなゲルマニウム氏は、自らの短躯を気にしてか「子供用の椅子でも脚が浮くような」、とても小さな妻をめとった。茶色の髪に濃い緑色の目をした妻は、早い時は一年、間を空けても三年おきに七人の子を産んだ。男の子が三人に、女の子が四人。しかし、長子が生まれて二十年後には、子供の数は四人に減っていた。国全体が貧しい時代であり、とりわけ赤ん坊が生き延びる率がとても低かったから、七人産んで四人残った、というのはある意味相当な快挙であった。だが、腹を痛めて産んだ子を何度も亡くした母の痛みは大きく、北国人らしく自らの苦しみを表に出さない代わりに、根雪のように想いを凍らせて、心の奥深くにしまいこんでいた。


北の海は激しくも豊かであったから、網からあふれるほどに魚が獲れるような豊漁の年はかなりの収入を得ることができた。だからといってゲルマニウム氏は他の漁師連中のように、賭けごとにも女遊びにも耽ることは無く、稼ぎは全て妻に渡していた。その金は倹約を旨とし、貯金を至上の美徳とする妻の意志に従って、食べざかりの子供たちを含む家族の生活費として消費された以外は、ほとんどが貯金として「遣われ」た。ゲルマニウム氏はあくまで凡庸な漁師であり、使い古した長靴と漁網を毎年繕って使い続けることに何の疑問も抱かなかった。


 そのゲルマニウム氏が、突如豹変した。きっかけは、漁師勤続三十周年の記念に、漁業組合から結構な金額の金券を贈られたことだった。それまで、寒さに耐えるためのウォッカ以外に楽しみが無かったゲルマニウム氏は、この金券を持て余した。妻に相談すると、必要なものは全て地元の町で買えるのだから、そんなものは市街地へ持って行って換金すればいい、と言われた。その言葉の意味するところがやはり貯金であることをゲルマニウム氏は感じ取ったが、いつも通り何も言わなかった。そして、小さな漁師町から汽車に乗り、仲間の漁師たちがこぞって繁華街へ出かけるのを尻目に、彼は郡の中心にある商店街へと向かった。


 二日後、金券をいくばくかの現金に換えて持って帰るはずだったゲルマニウム氏の小さな革鞄は、三冊の分厚い書物ではちきれそうになっていた。勝手口からそっと家に入ってきた父親の異変を、まず、お土産の塩からいキャラメル目当てに玄関に飛びついた次男(名前が父と同じゲルマニウムで、ジュニアと呼ばれていた)がいち早く察知した。


「おかえりなさい、父さん。どうしてそんなに鞄が大きいの?」

「街で、素晴らしい出会いがあったんだ……。ああ待ちなさい、ジュニア。これをやろう。くれぐれも、鞄のことは母さんには内緒だぞ」

しかし、ゲルマニウム氏が渡したキャラメル一個(本の重みでひしゃげていた)の賄賂は、およそ半時間も持たなかった。

 「あなた、帰ってきたならなぜ表の玄関から入ってらっしゃらないの」

「たまたま、今日は勝手口から入るほうが楽だったんだよ」

「あら、どうして?街へ持っていったのは二日分の着替えと金券だけでしょう。金券がお金に変わったなら、軽いものばかりのはずだわ」

「ちょっと、荷物が……いや、その」

「荷物?荷物ですって?何の荷物ですか」


 ゲルマニウム氏は嘘のつけない人間であった。自然を相手にする人間は、不思議とごまかしたりはぐらかしたりすることが不得手になる。しかし、今回の相手は言葉の通じる人間であり、ある意味大荒れの海よりも畏れている人物であった。


 「まあ、あなた。鞄が膨らみすぎて留め金が外れかけているじゃありませんか」

「あ、そうだったかな」

「いったい何が入っているんですか。街で何か買ってきたんですか。まさか、そんな、無駄遣いを?」

「いや、無駄遣いなどではないぞ……こらジュニア、鞄に触るんじゃない。いかん、引っ張ってはいかん」


 ジュニアはそう強く鞄を引っ張ったわけではなかった。というよりも、ジュニアが触れた瞬間にゲルマニウム氏の古鞄は中身の重さで自壊した。鞄の底が抜け、ばらばら、と革表紙に銀字が捺された本が数冊、床に散らばった。夫人が目を丸くし、息を呑んで両手で口を覆った真下で、あわててゲルマニウム氏は本を拾い集めた。


 「本!街で何を買ってきたかと思えば、本!」

「母さんや、聞いておくれ。これはついこの間、印刷されて世に出たばかりの新しい本で……」

「あれほど、お金に換えてくれと言ったのに……本! あろうことか、本を買ってくるだなんて!」

「母さん、街の本屋と帰りの汽車の中で読んだが、この本はとても面白いものだよ」

「信じられない!本を買ってくるだなんて!信じられない!」


 人間として生まれたからには、朝から晩まで働くことが義務。ごくわずかな休憩時間さえ悪徳とみなされたこの国において、およそ学問などというものは無価値に等しかった。文字の読み書きと、獲れた魚を市場に売るときの計算さえできれば、万事問題なし。それ以上の学問を仕入れることは、貴族か金持ちの人間にしか許されず、間違っても漁民が本を読んで学問に触れることなど、労働の妨げになるとしか思われなかった。


幸か不幸か、メンデレーエフ夫人は生粋の北国人だったので、興奮はすぐに収まった。彼女の態度は凪いだ海のように穏やかになり、小旅行から帰宅した夫を、静かに家庭に迎え入れた。彼女は一時でも声を荒げ、取り乱した自分を恥じていたが、水面下の感情はしっかりと行動に表れた。夫が街から帰宅した夜の夕食は、明らかにシチューの肉が少なかった。ジュニアを筆頭に、男女二人ずつのメンデレーエフ家の子供たちはこのわかりやすい怒りの表現を黙って受け入れる他なかった。いつも以上に静かな食卓で、ゲルマニウム氏は内面の困惑を表に出さぬよう、必死の努力を強いられた。


 漁師としても夫としても、また父親としても、この田舎町における男の平均であったようなゲルマニウム氏が、街の書店でどんな出逢いをしたのか。ゲルマニウム氏はとかく口下手な男であり、自身の内面を表現する語彙をあまり持っていなかったため、その経験が具体的に語られることはなかった。しかし、その日、街の本屋での出逢いが、ゲルマニウム氏の心の琴線に触れ、高く澄んだ音を鳴らしたことは確かだった。ゲルマニウム氏は、四十五歳にして初めて買った三冊の本を、応接間の棚に大切にしまった。毎日の仕事終わりに応接間へ赴き、重たい本をそっと開いては、紙面に埋め尽くされた文字を読み耽った。それからというもの、ゲルマニウム氏は給金を貯めては街へ出かけ、きらめく店屋には目もくれず、街でただ一軒の書店へ通っては本を買い集めた。


彼が買う本の種類は雑多だった。人々の耳目を集める新書、数式と観察眼で自然の神秘に挑む科学書、名著と言われる小説に、ぼろぼろの古書まで、とにかく本であれば何でも構わないようだった。

  

そのうちに応接間の棚が本であふれる日がやってきた。一個の棚が埋まるたびに、ゲルマニウム氏は自ら近くの木を切り出して棚を作り、新たな本を収めた。何度か、慣れない金槌で親指をしたたかに打ちつけてしまい、しばらく左手が包帯で何倍にも膨れ上がっていたことがあったが、そこに妻の献身の痕跡は見られなかった。


そして、決定的な日がやってきた。ゲルマニウム氏が五十歳を迎えて漁業組合を引退するにあたり、まとまった額の退職金が支払われたのだ。その頃には子供たちも成長しており、息子は二人とも漁師となって海で働き、娘たちはすでに嫁いでいたため、メンデレーエフ夫人の大義名分は打ち崩された。ゲルマニウム氏は慎重に妻の機嫌を伺いながら、いまや応接間にあふれた本を一部屋に収めるべく、書斎の建設に取り掛かった。半年を掛けて書斎が出来上がった時、すでに凡庸な漁師は居なかった。長きにわたって、その存在すら認められていなかったゲルマニウム氏の竪琴は、いま、輝く和音を高らかに掻き鳴らしていた。


この小さな漁師町に漂う空気の中で、ゲルマニウム氏の本狂いはおおむね温かい目で迎えられた。その理由のうち一つは、すでにゲルマニウム氏が当時の平均寿命から考えて老人の年齢に差し掛かっていたこと、もう一つは、彼が本から得た、知識と言う名の悪魔の武器を振りかざすことなく、今まで通りの凡庸な市民のままであったことに安心したからであった。常に横並びで居ることに人生を懸けている人々にとって、本から運ばれる学問など、脅威以外の何物でもない。その中で、ゲルマニウム氏は珍しい存在でこそあれ、変わっているのは本を買って読むというただ一点のみであり、全体ではきちんと背景に溶け込んでいた。


同じ名を持つゲルマニウム・ジュニアが成人した後、父親であるゲルマニウム氏は「ゲルマ爺さん」と呼ばれるようになった。町の人々は、ゲルマ爺さんの本狂いを「老人の道楽」とみなし、彼が家を改築して書斎を作ったときも、「長生きした特権だね」と笑い合った。


(続く)

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