第4話
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外から吹き込む潮風に、窓明かりを宿したカーテンがひらひらと揺れる。書斎が新築だった当時、深緑色だったカーテンは、建築から十年を経てすっかり色が抜けてしまい、今では若草の色になっていた。
テルルはニスが剥げつつある机に本を載せ、体を前に傾けた中腰の姿勢でページの世界に頭を突っ込んでいた。
テルルの物語は、寝ぎわに母が聞かせてくれたヤガー婆さんの昔話に始まり、陽気でちょっと間抜けな熊の話、生まれつき体が半分しかない意地悪なひよこから、パンを踏んで沼に沈んでしまった娘、はるかな風の向こうにある幸せの島の話と、文字を覚えるごとに広がっていった。
いま、テルルが読んでいる本の中では、賢い少女と小鬼が名前の当てっこをしていた。強力な魔力を持つ小鬼の弱点はただ一つ、自分の名前を当てられること。永遠を飛ぶ銀色の鴫が少女を導き、ついに彼女は答えを見つけ出す。名無しだからこそ強かった小鬼は、自分の名前を知られた途端、無に帰してしまう―。
テルルは本の世界に没入しながらも、決して椅子に座らなかった。それは、テルルが定めた掟だった。
無に帰す、という言葉の意味が未だに理解できないのと同様に、テルルには祖父の死が理解できなかった―冬の朝の慌ただしい物音、しきりにしゃくりあげる母と、唇を噛みしめて嗚咽をこらえる父、ぽかんと口を空けたまま動かない祖母、黒尽くめの葬列客。喪服の上に毛皮の帽子とマフラーを巻かれたテルルは、ハンカチをびしょびしょにした母の濡れた手に引かれて、棺に花を供えた。棺の中の祖父の顔を覗いた覚えもあるが、それは顔色がいつもより青く、乾いているだけで、ただ眠っているようにしか見えなかった。「お亡くなりになったの、もう二度とお話しなさらないの」と母に言い聞かせられても、テルルにはその意味がわからなかった。
葬儀が終わり、冬の間ずっと喪に服していたメンデレーエフ家は、全体を黒い帳がすっぽりと覆ってしまったようだった。重く暗い、闇色のカーテン。書斎のドアを何度開けても、テルルは椅子に座る祖父の膝を見つけることはできなかった。やがて、テルルはこの問いに一つの結論を導き出した。祖父は黒い帳の向こうに行ってしまったのだ、と。
見えず触れず、厚みがないのに確かに存在する闇色のカーテンの向こうに祖父は居て、望めばカーテンをめくってこちらの世界に帰ってくることができる。しかし、自分たちにはそのカーテンをめくることができない。テルルが祖父の椅子に決して座らないのは、いつか祖父の気が向いて帳をめくりあげたときに、いつでも座ることができるようにとの、幼子なりの配慮であった。
長い冬が腰を上げ、歓喜の春にその座を譲る時期になって、メンデレーエフ家の人々は、一人を除いて喪服を脱いだ。時間の流れが、深い傷口に薄膜を張った。主婦に本来の呵々大笑がよみがえり、家長は漁師仲間とウォッカ片手に、善良かつ勤勉、そして本狂いだった父の思い出を穏やかに語れるようになった。時間の効用が唯一表れなかったのは老夫人のみだったが、これは配偶者を失った人間にとって当たり前の反応であったといえよう。実際、テルルが春になってもランプを点けて書斎に出入りしていたとき、
「ルビー、テルルに倹約を教えてやりなさい。もう明るい時期だというのにランプを使うだなんて、罰当たりなことをさせないように」
何か月ぶりかに姑の小言を聞いて、ルビーはほとんど喜んだくらいだった。
とはいえ、シックなベルベット地の喪服を着込み、家の奥にじっと引き籠っていた老夫人がようやくその心を動かし始めたのは、春も終りにさしかかったころだった。その日、老夫人の数少ない旧友が、メンデレーエフ家を弔問に訪れた。夫の死後、ほとんど食べず、動かず、自分の部屋に籠るばかりの彼女を見て、旧友は少しでも気晴らしになれば、と丘ひとつ隔てた自分の家へ老夫人を招いた。
二日後、旧友の息子が運転する車でメンデレーエフ家に帰還した老夫人は、その膝に竹を編んだ籠を載せていた。出迎えた家の人々は、しきりに籠が揺れ、その中で何者かが暴れている様を見た。編み目の隙間から漏れる騒音を聴いて、大人たちは一様に顔をひきつらせ、二人の子供は目を輝かせた。同様にぎくしゃくした笑顔のままだった旧友の息子を見送ると、老夫人はついぞ見せたことのない高揚した表情で、籠をメンデレーエフ家の食卓に載せた。
籠が開くや否や飛び出してきた猫は、全身の毛を逆立てて、まずは家長のゲルマニウムに襲いかかった。頬に尖った爪を立てられ、悲鳴を上げてのけぞった家長を一撃で倒すと、次に猫はルビーに飛びかかった。間一髪でイオディンに叩き落とされたため、辛うじて母に累は及ばなかった。また、テルルは小さすぎて獲物にならなかったのだろう。一瞬にしてメンデレーエフ家を恐慌状態に陥れた獣は、満面の笑みを浮かべた老夫人の腕に抱かれ、早くもその爪で彼女の服の袖を引き裂いていた。
「お母さん、これはいったいどうしたことです!」
「見ればわかるでしょう。うちに新しい家族が出来たのよ」
「そんな、こんな凶暴な猫を飼うつもりですか!」
「失礼なことを言うんじゃないよ、ジュニア(老夫人はいつまでもこの呼び名にこだわった)。これほど気高く美しい猫は居ないわ」
「猫を飼うなら、せめて子猫にすればいいのに……こいつはどう見てもだいぶ成長しているじゃありませんか。これから躾けるのはきっと難しいですよ」
「お黙り、ジュニア。この子は今日からうちの子です。ルビー、この子にミルクをやって頂戴。ああ、冷たいのは駄目よ。お前はがさつだから困るわ」
家長であるゲルマニウムが妻に顔の傷を手当てされるより前に、この猫の居住権は獲得された。家に来た当日に大暴れし、ルビーが用意したミルクの皿をひっくり返して回った猫が、何とかメンデレーエフ家に根付いたのは、ひとえに老夫人の執着心の成果であった。
青灰色の毛並みに水色の眼をしたこの猫は、老夫人からシアンと名付けられた。老夫人の言葉通り、確かに美しく気高い猫であった。旧友の家で生まれたこの雌猫は、子猫のうちに一度は貰われていったのだが、そのころから気性が激しかったらしく、先代の猫と喧嘩が絶えなかったため、やむなく生家に返されてしまった。
老夫人に見染められてメンデレーエフ家に来たとき、彼女はすでに生後半年以上が過ぎており、子猫のあどけなさが失われつつある代わりに、プライドの高さが固定されていた。
シアンは人間に媚びを売って甘える、ということが出来ない猫だった。人の好き嫌いが激しく、少しでも機嫌が傾くと容赦ない攻撃を加えた。老夫人をやすやすと手中におさめ、メンデレーエフ家を我が物顔でのし歩いた。シアンにとって家長たるゲルマニウムは召使、ルビーは女中であり、彼らを顎でこき使った。唯一、イオディンのことだけは気に入っており、彼の背後に忍び寄っては肩に乗ったり、脚にまとわりついて外出の邪魔をしたりした。
「シアンは雌だから、若いツバメが欲しいのよ」
そう言って、ルビーはよく笑った。
決して人に馴れないこの獣の、一体どこが老夫人の心に響いたのか。同病相哀れむ、この言葉がしっくりくるかもしれない。シアンを見る老夫人の目は、数多居る自らの孫たちへの視線よりもよほど温かいものだった。衣装棚に入り込んだシアンが、お気に入りの服を鉤裂きだらけにしようと、差し出した手に何度噛みつかれようと、この猫に対する老夫人の愛情は深まるばかりだった。
ふと、足元にふわりと何かが触れるのを感じて、テルルは本の世界から現実へ引き戻された。見れば、メンデレーエフ家の女主人が音も無くテルルの右足と机の間をすり抜けていくところだった。いつの間にか、窓から差し込む日差しが西へと傾き始めていた。
「シアン、シアン、どこに居るの?」
祖母の声が近づいてきて、書斎のドアが開けられた。
「ああシアン、そこに居たのかい。駄目だよ、こんな埃っぽい所に居ては、せっかくの毛皮が埃だらけになってしまうよ。まったく家の嫁ときたら、いつまでたっても掃除が至らないんだからねえ」
しわが寄って小さくなった目をさらに細めて、老夫人は愛猫を抱き上げた。間髪入れず、シアンの爪がしみだらけの腕に突き立てられたが、抗議行動はまるで届く気配がなかった。
「おや、テルル。もう午後になって久しいですよ。子供は外で遊ぶのが仕事でしょう。それとも、その年でもう青白い本の虫になるつもりかえ」
「はい、お祖母さま」
いつもと同じように、テルルは泣く泣く楽園を追放された。後ろ髪引かれつつ閉めたドアの向こうで、老夫人の独りごとが展開されていた。
「おおシアン、良い子だからもう出ようね。ここはうちの人が作った、不埒な遊び場だからね。ああ、あの人もね、良い人だったけど本狂いだけはいくら言っても止めてくれなかったねえ。悪習身に付き易し、だよ。死ぬときまで本を離さないなんてさ、本当にね、あれだけは困った人だったよ」
(続く)
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