第二編 第六章 ②


「『もう蒼猫にも会えない。すまない』って言って、永久は電話を切ったんです」


 蒼猫は言われた時のことを思い出したのか、声を濡らして言った。

 貴方は俯く蒼猫の側に寄って、彼女を見下ろして思う。


「あいつ、何考えてんだよ」


 分かることは一つ。

 永久は貴方たち――否、私たちと二度と会う気がないのだ。

 だから彼女は、一人、何も言わずに姿を消したというのだろうか。


「兄さん……永久はもう帰ってこないの?」


 蒼猫が不意に、顔を俯かせたまま貴方にしがみついて、


「……なんで? ねえ、なんで!? なんでまたいなくなるの!? 何かいけなかったの? 私の何がいけなかったの? なんで……なんでよ……」


 要領の得ない言葉の数々は、彼女の感情をそのまま表しているのだろう。

 蒼猫は恐怖と焦燥が入り混じった感情に身体を震わせると、顔を上げて言った。


「私……?」


 そんなの、やだ――蒼猫は貴方から手を離して、涙を零しながら嗚咽を漏らした。


 完全に今、蒼猫はトラウマを抉られて、混乱状態に陥っていた。過去、家族に置き去りにされて孤独に陥った彼女。一度経験してしまった身を切られるような悲劇が頭に蘇り、また家族に捨てられることを恐れた。また家族がいなくなるのを蒼猫は恐れている。


 それを貴方は知っていたはずだった。だからこの子は、幼いながらも敬語を身につけ誰からも――大人から――疎まれないようにしてきた。だからこの子は、誰かに必要とされることを喜び、そのために貴方のバイトの肩代わりだってしてきた。


 貴方は彼女の泣き顔を見て、自分を殴りつけたい思いに駆られる。状況に翻弄されて、この子のことを忘れていた愚かさを悔やんだ。真っ先に帰っていれば、蒼猫にこんな顔をさせずにすんだかもしれないのに。自分が電話を受け取っていれば少しは……。


 悔悟が渦巻く頭の中で、貴方は今すべきことを見つけようと懸命に藻掻もがいた。

 今は後悔する時ではない。

 この子の不安を払拭しなくてはならない。


「蒼猫、落ち着いて聞いてくれ」


 貴方は腰を落とし、蒼猫と視線の高さを同じにして言う。


「永久はお前を捨てたんじゃない。お前が嫌になったとかじゃないんだよ。あいつがもう会えないって言ったのは、俺やリズに対してもだろ? お前が理由じゃないんだ」

「……じゃあ、それは、私たち全員が嫌になったからじゃないの?」

「少なくとも、お前は違うよ。蒼猫が嫌になって会えないっていうなら、お前に連絡しないだろ? 永久はお前のことを考えていたからちゃんと連絡して、それで謝ったんだろ」


 蒼猫を置いていった家族とは違う。

 無言のまま消えた人間たちとは違うのだ。

 自分の事情によって蒼猫を悲しませることに対して、彼女は謝ったのだ。


「だからさ、蒼猫。そんな悲しまなくていいんだよ」


 むせび泣く彼女の頭に手をやって、蒼髪を梳くように貴方は撫でた。彼女の癖毛や柔らかな耳が、こそばゆかった。


「な?」


 貴方が同意を求めると、蒼猫は涙に濡れた翠眼を貴方に向けて、小さく頷いた。

 もう一度、今度は強めに頭を撫でてから、貴方は手を離す。蒼猫はそれを目で追うと、貴方に上目で尋ねた。


「でも、兄さん。永久はもう、帰ってこないの――帰ってこないんですよね……?」


 一番の不安は多少払拭できたが、しかし、不安の種は除ききれていないのだ。

 できる限りの優しさを声に込めて、彼女を安心させようと貴方は言う。


「大丈夫だって。俺が永久を連れ戻すから。約束する」

「……本当に?」

「俺がお前との約束、破ったことあるか?」


 そう貴方が優しげに言うと、蒼猫は泣き顔を困り顔に変化させて、


「数え切れないくらいあるんですけど……」


 彼女は的確に事実を指摘する。


「全然、説得力ないですよ? 兄さん」


 全くその通り。情けないが蒼猫の言い分にはやはり反論のしようがなかった。

 貴方は小さく笑った。

 いつもの彼女に戻ったように思えたから。


 少しは安心させてあげられただろうか。


「……うん。では、とにかく永久を捜さないといけませんね」


 涙をふいて、ずっと元気のなさそうだった耳を立てて、蒼猫は言った。


「それで、兄さん。永久がどこに行ったか見当はついているんですか?」


 分かっていないと答えようとして、貴方は気付いた。

 またまた、何故、今まで気付かなかったのか。


「蒼猫、ちょっと協力してくれるか」

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