第二編 第五章 ⑤

 車から降りた貴方たちは、小走りで外来棟に向かった。建物に近づくと、硝子戸の入り口の前に見知った人間が立っているのを発見する。


「やっと来たのか、頼来。それに、景政も」


 がっしりとした体躯を白衣で包んだ老人。

 顔には幾重にも皺があり、非常に厳つい。


「爺さん……」


 貴方は知っている。彼はこの病院の院長であり、霞さんの祖父である厳殻さんだった。


「ご無沙汰しています。本来なら、ゆっくりすべきでしょうが、すみません。先程、電話でお聞きしたとおり、ここに彼女たちはいるんですね?」


 景政さんは早口で慇懃に言う。どうやら、先程の電話の相手は厳殻さんだったらしい。


「こっちだ」


 それだけ告げて、厳殻さんは建物に入った。待合室を抜け、廊下を渡り、診療室が並ぶ区画に来るとその内の一室に招かれる。中にはデスクと簡易ベッドがあり、ベッドに背を丸めた初老の男性が腰掛けていた。


「社木教哲……」


 指摘されると彼は頷いた。貴方や私が景政さんだと思っていた人は社木教哲だった。


「どうやら捕まる覚悟はあるようだな。逃げられたはずなのに、何故……」

「景政さん、そんなのあとにしてくれ」


 貴方は景政さんの前に出ると、社木さんと厳殻さんの二人に視線を送り、


「永久と心裡はどこだ」


 いるものと思っていた二人は、この部屋にいなかった。

 その質問に厳殻さんが答える。


「嬢ちゃんは、霊安室だ」

「霊安室ってどこにある」

「聞いてどうする?」


 永久に会いに行く――そう答えようとしたが、貴方は口を開かなかった。

 今、永久は両親と対面しているのだろう。

 二人をいたんでいるところを邪魔するべきではない。


「心配すんな。霞も部屋の前で様子を見てくれてる」

「……分かったよ」


 とにかく、ここにいるというなら安心だった。時間が経てば会える。


「じゃあ、心裡はどこだ?」

「あいつは、知らねえな。顔出したと思ったら、どっかに消えちまったよ」

「なんですって?」


 景政さんが貴方に代わり、驚きの声をあげた。


「心裡、何故この期に及んで一人だけで……」

「それなら分かるぞ」


 厳殻さんは景政さんのぼやきを拾い、


「あいつは逃げたんだよ。おめえらだけじゃなく、俺たちからもな」

「俺たち? それに逃げたって……何言ってんだよ、爺さん」

「騙されていたのは、おめえらだけじゃねえってこった」


 厳殻さんは短く切り揃えられた白髪を掻くと、


「こうなったからには話すけどな。俺や霞は心裡と共犯だったんだよ」


 突然の告白に貴方たちは唖然とする。そこでさらに厳殻さんは追い打ちをかけてきた。


「俺たちは心裡に協力して、博たちが亡くなっていることを隠していたんだ」


 心裡さんだけでなく厳殻さんや霞さんまで、全てを知っていて隠していた?

 その理由を、おそらく貴方は知っている。

 何故、そんなことをしていたのか、貴方は痛いほどに、分かっていた。


「それは、永久がまた記憶を失わないようにするためか……?」

「――おめえも、知ってるようだな」


 厳殻さんはしかつめらしく腕を組んで言った。


「そうだ、そのために俺たちはあいつらが亡くなったことを隠していたんだ。嬢ちゃんにも、お前にも、警察にだって隠していた。約束を果たすためにな」

「約束だ?」

「隠してくれと頼まれたから、俺たちはそうしたんだよ」

「頼まれたって、心裡に?」


 心裡さんに協力して、と厳殻さんは先程言っていた。だから彼が発端だと貴方はそう思ったのに、厳殻さんは顎に生えた無精髭を触りながら、しゃがれた声で静かに答えた。


「全てを隠蔽しようとしたのは、

「……嬢ちゃんって……永久が?」


 考えもしなかった事実に、貴方はオウム返し以外の術を失ってしまった。


 永久が隠そうとしていた張本人だった?

 彼女自身が、そうして欲しいと願った?


「厳殻さん。四月二十九日に一体何があったんですか?」


 景政さんが前に出て、冷静に必要な情報を求めた。


「俺は当事者じゃねえ。半分以上は心裡やこいつから聞いた話だ」


 厳殻さんは、詳細を語り出した。


 四月二十九日、いつもと変わらない祝日に、異変が起こった。永久の母親である澄代さんの容態が急変した。博さんと永久は社木診療所に呼び出され、社木さんと望美さんは懸命に彼女を助けようと努めた。

 だが、それは無念に終わる。処置の甲斐かいなく、澄代さんは臨終したのだ。


「その後はまず、望美が家に帰された。澄代のことがあるから、診療所は完全に休診することにしてな。一時間後には嬢ちゃんも同じように家に帰された。澄代の死後処理をするから一旦、家に帰っているようにと言われてな。残ったのは二人だけだ」


 それから、博さんは社木さんに命令を下した。稼働中の治験場を停止させるように厳命したのだ。澄代さんが亡くなった今、治験を続ける意味はないと言って。

 社木さんが現地に向かうと、博さんは一人、診療所に残った。そして、数時間後の午後七時に、彼は電話をかける。

 相手は心裡さんだった。


「博は心裡に話したんだとよ。澄代が亡くなったことと、治験場のことを簡潔にな。あいつは一方的に話したあと、最後に言ったんだ。娘を頼むってな」


 その言葉を最後に、博さんとは連絡がとれなくなった。


 ここからは心裡さんの行動だ。

 電話を受けた彼はすぐに社木診療所に向かった。そして、中に入って、澄代さんの入院室で発見したのだ。

 澄代さんの遺体と、首を吊った博さんの遺体と、その場に立ち尽くす永久を。


「嬢ちゃんは心裡が部屋に入ってきてしばらくしてから、気を確かにして事情を説明したらしい」


 状況としては心裡さんと似たようなものだった。いつまで経っても帰ってこない博さんを心配し、診療所に見に行ったところ、彼の自殺体を見つけてしまったのだ。


「そこまで話してから、嬢ちゃんは心裡に言ったらしい。頼みがあるってな。二人が亡くなったことを明日以降の自分に知られないようにしてくれ、って頼んだんだ」


 その頼みはつまり、その日の出来事を忘れると確信してのもの。


「嬢ちゃんは、両親が亡くなったことを知っちまえば、心理的衝撃によりその記憶を失うと考えた。だから、その事実から一旦、自分を遠ざけようとしたんだ。

「忘れることがなくなる……?」

「嬢ちゃんはある程度、自分の体質について理解してたんだよ。忘れたい、忘れなければならないっつー記憶を持っちまえば、自動的にその記憶を忘れちまう。だが、その記憶によって受ける衝撃を和らげれば忘れることはない、ってな」


 だから、永久は一旦、事実から自分を遠ざけた。いつしか、両親が亡くなっている可能性に辿り着き、両親がすでに亡くなっているのだと覚悟を決められるように。


「心構えができている状態なら、悲痛な事実を知っちまっても、受ける衝撃は緩和されんだ。加えて、心構えしている時間が長ければ長いほど、それはより強固になる」


 最悪の想定をすることで実際に直面した事態から受けるストレスを軽減させる。

 よくあるストレスの緩和方法だ。

 永久はそれを実践しようとしたのか。


 ――母親が亡くなったと知っても忘れてしまうのなら、いつ知ればいいというのか。


 永久が計略したものが、先程生じた疑問の答えだったのだろうか。


「嬢ちゃんが記憶を失わないで両親の死を知る術は他になかったんだよ」


 だから、心裡さんは協力したという。

 厳殻さんに二人の遺体を保存してもらい、また、澄代さんが亡くなっていることを知っている望美さんに口止めをした。


「んでよ、嬢ちゃんは本当に四月二十九日の記憶を失ったんだ。あとはとにかく嬢ちゃんが、あいつらが亡くなっているんだろうって考えられるようになるのを待つだけだった」

「だけど、その約束を心裡が反故ほごにしたんですね?」

「そういうこった。あの野郎、昨日の夜中に俺んとこ来て、ここに二人の遺骸が安置されているのが警察にばれそうなんだ、とか抜かして強引に移動させやがったのよ」

「では、彼は故意に二人が亡くなっていることを公表したと……」

「だから言っただろうが。俺たちも騙されたってな」


 厳殻さんは厳つい顔に皺を寄せて、組んでいた腕を解くと、訝しむように尋ねてきた。


「どうした、頼来。話が分からなかったのか?」


 貴方は反応できない。

 無理もなかった。

 今、貴方はどうすればいいのか、分からなくなっていたから。


「なあ、爺さん。本当に永久は、二人が亡くなっていると覚悟が決まれば、それを知っても記憶を失わないのか?」

「当然、確証は当然ねえよ。どれだけ覚悟しようと、忘れる可能性だってある」

「じゃあ、それ、可能性じゃないかもしれねえよ」

「……なんだと?」

「あいつ、昨日、言ってたんだよ……! 母さんが亡くなっているかもしれないとは思っていたって! 覚悟はしていたって!! でも、あいつ、昨日の記憶を――」


 貴方の言葉はそこで打ち切られる。部屋の扉が勢いよく開き、大きな音を立てた。


「頼来……! 来てくれたんだな」


 やってきたのは霞さんだった。彼女は肩を上下させながら、部屋の中に視線を巡らせ、


「大変だ、頼来。永久が……」


 言われて、貴方は気付いた。

 ここに来たのは霞さんだけだった。

 彼女は永久に付き添っていたのではなかったか。


「霞、永久はどうしたんだよ? 何かあったのか!?」

「永久が……いなくなった」


 霞さんは声を詰まらせながら答えると、貴方に一片の紙切れを手渡した。貴方は手の平に収まる小さな紙に目を落とす。紙片には恐らく永久からのメッセージが残されていた。


 それはひどく簡潔なもの。



 ――すまない

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