第二編 第五章 ③
「心裡!!」
景政さんは喫茶店に入るなり、声を荒げた。しかし、応える人間はいない。店内には店員以外、誰もいなかった。使用していたはずの席には何も残っていない。
本当に、景政さんの言う通り、彼らは逃げてしまったのか?
貴方はカウンターの向こうにいる店員の男性に近づいて、
「あんた、さっきまでいた客がどこに行ったか知らないか?」
男性は新聞に目を落としながら、無言で首を振った。知らないと言いたいのか、教える気はないと言いたいのか、少し、分からない。いや、どう考えても前者だろうけど。考え直して、貴方は自分が今、疑心暗鬼に陥っていることを自覚した。
「どんなことでもいいんだ。何か知ってるなら教えてくれ」
「行こうか、頼来くん」
「は?」
寝言で返事をされたような強烈な違和感を覚える。応じたのはカウンターの男性ではなかった。当然、景政さんが言ったのである。
「失礼致しました」
彼女は男性に向かって頭を下げると、貴方の腕を引っ張り始めた。見た目からは想像もできない
「景政さん、二人がどこに行ったか分かるのか?」
「今から確認するんだよ」
「ああ?」
今度は意味の分からないことを言われて、貴方は戸惑う。それに思った。どうも、さっきからこの人との会話はテンポが合わない。置いてけぼりにされてばかりいる。
呆れてものも言えない貴方を尻目に、景政さんはどこかに電話をかけていた。口もとを押さえているので、何を話しているのか分からない。しかし、それもほんの束の間、彼女は口もとから手を離し、電話をスーツのポケットに入れると、
「二人は撫原医院にいるみたいだ」
「どうしてそんな場所に?」
「そこに、紅坂夫妻のご遺体が安置されているからだよ」
言うなり景政さんは、「早く追いかけよう」とまたも貴方を引っ張り出す。乗り付けた車まで引きずられている間に、ようやく貴方は理解した。
この人は、強引なのだ。
それに、やはりこの人は女性なのか、と。
身体を押しつけられて、ようやく悟った。
貴方は――私もだが――ずっと、橘景政という人物が男性だと思っていた。何故そんな誤解をしたかと言えば、まず、『刑事=男』という先入観があったこと。それから、心裡さんの説明が悪い。『頼来みたいな奴』と比較対象が男である貴方だったから、なおのこと景政さんは男性だと思い込んでしまったのだ。
それに、景政さんを
そう悪態つきたくなるが、よく考えてみれば悪いのは貴方だった。あの男性に景政さんを騙らせたのは貴方である。貴方が景政さんかどうかを確認したから、彼は話に乗ったのだろう。また、心裡さんは一度も景政さんを男性などとは言っていないので、こちらも貴方に非があった。
(……だからといって、目の前の景政さんが女性かどうかを疑うのはおかしいですわよ)
「だって、この人、男口調が強くて……」
口調は完全に男性だ。だが、どう見ても女性で、しかもなかなか綺麗な顔をしている。
(永久だって似たようなものですわよね? あと霞さんも。可愛いのにみんな男みたいな口調ですわよ?)
「永久のは語尾が丁寧なだけだし――いや、混乱してたんだよ。もう大丈夫だ」
心の中でそう言った瞬間、貴方は車内に放り投げられた。
「飛ばすから、シートベルトはしてくれよ」
言った時には既に車は走り出して速度を上げていた。もはや、かける言葉がない。だけど、貴方はめげずにシートベルトを締めながら、
「なあ、景政さん。病院に向かう間にいろいろ教えてくれないか?」
「何を聞きたいのかな?」
「心裡が俺たちを騙していた、って話から聞かせてくれ」
貴方が一番に聞きたかった質問をすると、景政さんは一息ついてから答えてくれた。
「心裡はね、多分全部知っていたんだ。紅坂夫妻がすでに亡くなっていることをね。知った上でそれを隠して、君に永久くんを預けていたんだよ」
澄代さんが亡くなっていることを隠していたのは知っていたが、博さんについても彼は隠していたというのか。
騙しているのに変わりはないが、と納得しかけたところで、
「ん? 博が亡くなったのっていつだ?」
「正確な日付は分からないよ。でも、澄代と同じ時期に亡くなったことが予想される」
「予想って、どこから」
「今日の未明に山中の小屋で見つかった遺骸だけど、二人とも防腐処理など――いわゆるエンバーミングが施されていたんだ。防腐剤の劣化具合等を調べて、二人が同時に処置されたことが分かった。また、四月の下旬から五月の上旬には亡くなっていたこともね。二人の遺骸に死後処置を施した上で、ずっと誰かさんがどこかに隠していたんだろうな」
「……まさか、その誰かさんってのが、心裡なのか?」
景政さんは首肯する。
少しずつ、事態の全貌が見えてきた。
望美さんは澄代さんが亡くなったことを隠していた。失踪した博さんや社木さんも自分と同じようにその事実を隠すために失踪したと考えていた。
だが、それは違ったのだ。
実際は博さんもすでに亡くなっていて、彼の死も澄代さんの死と同様に隠されていたのだ。
隠していたのは心裡さん。
彼は全てを知った上で、貴方たちを騙していたのか。
「心裡は警察を騙してたんだよな。なら、あんたは何も知らなかったのか?」
「その通りだよ」
さらに生じた貴方の疑問に、景政さんは答える。だが、それは少しおかしい。
「だったらなんで、景政さんはあんなに早く永久を施設に送ったりしたんだよ」
景政さんがそうした理由は、永久の両親の失踪について事情を知っていたからだと考えられたのだが。
これは昨日、永久が話していたことだ。
「それにあんたは永久に隠し事をしてたみたいじゃねえか。あれはなんだったんだ?」
これも昨日、永久が話していたことだ。
「……君は鋭いんだね」
景政さんは貴方が慧眼を持っていると勘違いしたらしい。
「誤魔化しても無駄かな。――いや、永久くんには話すつもりだからね。いずれ彼女から君に話が行くはずだ」
景政さんは少しだけ躊躇を示し、
「話すのはいいよ。でも、これだけは約束してくれ。絶対にここから先の話は他言しないと。守れるかな?」
貴方が首を縦に動かして応じると、景政さんは口を開いた。
「君は先月の初頭まで行方不明者が発生していたのを知っているかな?」
「……ホームレスの人たちが、集団でいなくなる事件が起きてたんだよな」
貴方は記憶を探って訥々と答えた。遙か昔のことのように思えるが、これを知ったのは永久と出会った日、心裡さんの部屋にあったレポートからだ。
「ホームレスの人以外にも、とある病気の人が失踪していたんだけどね。まあ、それについてはあとで話すとしてだ」
景政さんは勇み足で言うと、話を戻した。
「彼らがどこに行っていたのか、それが問題なんだよ」
週刊誌では、最近になっていなくなった人たちが元の場所に帰ってきたと書かれていた。また、どこに行っていたのかは誰も語っていないとも。
「行方不明になった彼らは、いわゆる治験場に送られていたんだ」
「治験場? ……臨床試験みたいな?」
貴方は記憶を探って尋ねてみた。臨床試験については、先日、ニャー先輩のお祖母ちゃんである静恵さんが受ける話になっていたので、多少は知っていた。それと似たようなもので、治験という言葉があった気がしたが……。
「治療の効果や医薬品としての承認を得るために薬物の効果を検定するのが治験。その臨床試験のための施設を便宜上、治験場と私たちは呼んでる。――要はね、その治験場では連れてきたホームレスの人たちを使って、新薬の効果を確かめようとしていたんだよ」
「それじゃあまるで……」
まるで人体実験のよう。
そんなことが現実にありえるのか?
「誤解しないように。別に悲惨なことはなかったんだ。その治験場ではきちんとインフォームド・コンセントを――被験者になるかどうか意志を確かめてから連れて行っていたみたいだからね。臨床試験中も生活は保障されるし、薬害は出なかったみたいだ」
景政さんは貴方の胸中を察してか、そう前置きして、
「治験自体は別に珍しくはない。でも、それを行うのは非常に困難なんだよ。特に人体への治験はね。だからその治験場は薬の開発を急ぐために、違法に治験を行っていたんだ」
「話は分かったけど、その治験場が……どうし……」
貴方は語尾を濁らせる。
直感的に、景政さんの話の先が分かってしまったのだ。
「私たち警察は治験場の存在を知り、場所を特定して摘発する機会を待っていたんだ。その機会は四月二十九日に訪れた。治験場はその日、放棄されることになったらしくてね、警備員などが解散したんだよ。それを機に、私たちはそこを摘発した。……けれどね」
彼女はバックミラーで貴方の様子を窺ってから、続ける。
「一人だけ取り逃がしてしまったんだ。それが、社木教哲だった」
「社木? 社木ってあの社木か?」
「澄代の主治医だった人物だ。彼は治験場を放棄するよう指揮を取っていたらしい」
失踪した社木は博たちと共に行動していたのではなかったのか、と貴方は疑問に思ったが、すぐに考え直した。
注目すべきはそこではない。
彼が治験場にいたということは――
「私たちはその情報を元に、治験場を設立した人間を突き止めた。それが」
景政さんは言葉を止め、ハンドルを切って車を右折させると、静かに事実を告げた。
「紅坂博。永久くんの父親だったんだよ」
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