第二編 第五章 ②

 貴方は自室で手早く着替えをすませてすぐに戻る。リビングにはニャー先輩と蒼猫が残っていた。


「兄さん。ねえ、何がどうなってるんです……?」


 蒼猫が不安げな表情で見上げてきた。それは当然の反応。貴方でさえ、何が起こっているのか把握し切れていないのだ。断片的な情報しか持っていない蒼猫は、不安で堪らないだろう。


「俺もまだ分からない。でも、多分、心裡は知ってるんだと思う」


 貴方は首を振って、できる限り優しく言った。


「今から聞いてくるから、待っていてくれるか?」

「ですが……」

「ちゃんとあとで説明するから。な?」

「本当に?」


 蒼猫は翠色の瞳を揺らして言う。


「ちゃんと帰ってくるんですよね? ちゃんと分かるように説明してくれるんですよね? 私、なんだか……」


 彼女の不安は漠然としたもので、それ故に一層強くなっているのかもしれない。貴方は押さえつけるように蒼猫の頭を撫でた。


「大丈夫だから、そんな顔すんなよ」

「……うん」


 心持ち、蒼猫は不安を解消させて頷いた。

 貴方が視線を切って、隣にいたニャー先輩を見ると、


「先輩……ニャーもここに残っていた方がいいですよね?」


 彼女は言って、蒼猫を見た。彼女は事情を知ることよりも、蒼猫のことを心配してくれているらしい。


「仁愛。君はバイトに行った方がいいぞ」

「! 永久先輩」


 ニャー先輩の後ろから永久が出てきた。

 既に着替えをすませている。


「ですが、ニャーは……」

「白雪に店を任せたら、客に迷惑がかかる。それは君も困るだろう? 私は、私の事情によって、誰かを困らせる気はない。蒼猫もすまないが、少しの間、待っていてくれ」


 永久本人にそう言われてしまえば、二人は何も言えないのだろう。

 頷く彼女達を置いて、貴方たち二人は連れ立って目的地に向かった。


 心裡さんが指定したのは、街外れの喫茶店だった。住所を聞くに、あえか荘からだいぶ近い場所にある。このまま進んでも、十分ほどで着くだろう。


 貴方は隣にいる永久の歩調にあわせて、ゆっくりと歩いた。二人はあえか荘を出てから、ずっと無言だった。否、ニュースを見てから、永久はあまり口を開こうとしなかった。口を開けば、余計なモノが溢れ出してしまうとでも思っているかのように、彼女は沈黙していた。


 無理もないとは思う。

 昨日とは、状況が違いすぎるのだ。

 昨日以上に永久が受けた衝撃は強いはず。

 母親だけでなく父親まで、亡くなっているなんて……。


 自動販売機に書かれた住所で現在地を確認して、そろそろ着くかと思ったところで、


「頼来! こっちこっち!」


 遠くから子供のように手を振って声をあげる心裡さんを見つけた。彼の近くには指定された喫茶店の看板が置かれている。

 貴方たちは無言で彼に近づいて、


「心裡。全部、話してくれるんだろうな?」

「分かってるよ」


 心裡さんが笑うのを見て、貴方は喫茶店に入ろうと足を動かしたが、手で制止された。


「ごめん、頼来。君は少し……うん、十五分でいいから、どこかで時間を潰してきてくれないかな? まずは永久と三人で話したいんだってさ」


 三人? と貴方は首を傾げた。

 自分が外れるのなら、頭数が足りない。

 そこでふと、窓ガラス越しに喫茶店の中を見ると、見覚えのある人物を発見した。


「景政さん?」


 座っているからか、猫背がはっきりと分かる。このシルエットは見間違えるはずがなかった。


「彼を知ってるんだね。そういえば、頼来に会いに行ったとか言ってたなあ」


 心裡さんは心の底から可笑しそうに言うと、笑顔を微笑みに変えて、


「警察の彼から、まずは永久だけに両親のことを話したいって言うんだよ」


 貴方は永久を一瞥する。

 彼女は店内の景政さんを見つめていた。


「……分かったよ。またあとでな、永久」


 彼女の頭に手を乗せて、別れの挨拶をする。永久は尻尾を一度振って反応すると、店の入り口に向かって歩き出した。

 貴方は反対方向へ歩き出す。


(……いいんですの?)

「警察の景政さんが言うんだから、本人以外には話せない内容なのかもしれねえだろ。違うにしても、俺たちはあとで聞けばいいんだよ。永久が話を聞けるなら、それでいいんだ」


 貴方は無作為に向かう先を決めて歩いた。十五分というのは短いようで案外長い。だが、だからといって時間をつぶせそうな場所はこの辺りにはなかった。完全な住宅街である。住宅街の一角にあるあの喫茶店が特異なのだろう。流行るとは到底思えない立地だ。


 そんなくだらないことを考えながら、貴方は歩き続けた。だいぶ喫茶店から離れたところで、時間を確認するために自分の左手首を見て、


「そういや、着けてきてなかったな」


 急いで出たために、腕時計をするのを忘れていた。そもそも、喫茶店を離れた時に時間を見忘れているのだ。時計があったところで、何分経ったかなど分かりはしない。


(貴方もあまり冷静ではないようですわね……)


 それは当たり前だろう。呑気に時間を潰していられる状況にはないはずだ。この状況で平然としていたら、それこそおかしいではないか。


「戻るか」


 貴方がそう心の中で呟くと、曲がり角から一台の車が現われた。車は狭い道だというのに構わず速度を出している。

 貴方はブロック塀に身体を寄せて過ぎ去るのを待った。しかし、車は貴方を追い越そうとしたところで急ブレーキをかけた。


 前のめりになって車は止まると、運転席側の扉の窓が開き、紫がかった黒髪の若い女性が顔を出した。灰色のスーツには折り目がついており、まめな印象を抱かせる。

 貴方には見覚えがない女性だった。


「君は天塚頼来くんだね?」


 彼女が目を合わせて確認してきた。知らない人に名前を呼ばれて、貴方は不信感に目を細める。しかし、彼女はお構いなしだ。


「もしかして、心裡と会っていたのかな」

「心裡? あんた、あいつの知り合いか?」

「悪いけど、時間が無さそうなんだ。まずは質問に答えてくれ。頼む」


 女性は一直線に貴方の目を見続けて、


「永久くんと一緒ではないようだけど、彼女はどうしたんだい?」


 見知らぬ人間が、自分だけでなく永久も知っている。いつだったか、同じような感覚を――既視感が貴方の身体を通り過ぎた。


「まさか、彼女は心裡と一緒にいるのかな」

「……そうだけど」

「では何故、君だけがここに?」

「景政……いや、警察の人が心裡と永久と三人で話したいって言うから仕方なくな」


 で、あんた誰――と貴方は言うが、彼女は聞いていなかった。


「分かった。とりあえず頼来くん、車に乗ってくれるかな」

「はい?」


 聞いていないどころの話ではない。

 彼女の中で勝手に話が進んでいるようだ。


「急いで! 時間がないんだ!」

「……!」


 彼女の剣幕に押されて、貴方は後ろの扉を開き、車に乗り込んでしまった。扉を閉める前から、車は急発進する。貴方は慌てて運転席へ顔を出し、


「あんた、一体、何を急いでるんだよ!」

「このままじゃ三人が逃げるかもしれないんだ」

「逃げる? あいつらが? なんで……」

「君も私も、心裡に騙されていたんだよ」

「は?」

「さらに、君はその景政っていう人にも騙されていたようだね」

「ちょ、ちょっと待てっ! あんたさっきから何言ってんだ? 騙されてるって……」


 貴方は眼前に掲げられた黒い手帳を見て、言葉を止めた。その手帳は、現実世界では見たことのない、仮想世界でなら何度か見たことのある物。手帳が開かれると彼女の写真があり、その下に名前が書かれていた。


 橘景政、と。


「初めまして、頼来くん。私が県警刑事課の橘景政だ」


 本当の景政さんは警察手帳をしまいながら、うやうやしく自分の名前を告げるのだった。

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