第二編 第五章 *

 街角の寂れた個人経営の喫茶店『瑞花ずいか』。店内は薄暗く、静寂に満ちていた。音といえば、店主が新聞を折り曲げて立てる雑音くらいだ。他には何も、聞こえない。


 その静謐せいひつな空間に男はいた。何もせず、ただ腕を組んで目をつむっていた。だが、次の瞬間、男の目はゆっくりと開かれる。


 扉が音を立てて開き、一人の男性が店内に入ってきた。男性は少年と呼ぶにはとうが立っており、青年と呼ぶには若干幼さが残った奇妙な顔立ちをしている。

 彼は店に入るなり男の方を見てにっこり笑い、足取り軽やかに近づいてきた。


「やあ、久しぶりだね、社木」

「御門心裡……」


 二人が発する声音は対照的だった。あとから来た心裡は嬉しそうに、前からいた社木は口惜しそうに互いの名前を呼んだ。

 心裡はそれを楽しむように微笑みながら、社木の対面に座り、


「この店、いいでしょ? 僕のお気に入りなんだ。ほとんど客もいないから、一人で集中したい時とか最高だし、誰かと落ち着いて話を……」


 まるで子供が玩具を自慢するように目を輝かせて話し出したところでそれは打ち切られる。知らぬ間に主人が二人の側に立っており、彼らの前に珈琲を置いた。愛想のない顔のまま、主人は何も言葉を発さず、もと居た位置へと戻っていった。


も行き届いているしね」


 横文字を柔らかく言って、心裡は珈琲をすすり一息つくと、


「冗談抜きでいい店なんだよ? 秘匿すべき会話をするのに向いてる。主人はどんな秘密事を聞いても、洩らさないことを信条にしてるんだってさ」


 心裡はジャケットの内ポケットから煙草の箱を取り出して、


「だから、そろそろ話したら?」

「……私から話すことは何もない。私はお前から話を聞くために来たんだ」

「そうだっけ?」


 戯けたように肩を竦めるのを見て、社木がこめかみに血管をうっすら浮かべると、


「冗談だよ。君から聞きたいこともちゃんとあるから、半ば冗談じゃないんだけどね」


 心裡は煙草を一本咥えて火をつけた。


「じゃあ、まずは僕から話すよ。君は何が聞きたくて連絡してきたのかな?」

「……博様の身に何があったのか。全て話してもらおう」

「まるで僕が全部知っているみたいな言い草だね」

「お前が各報道機関に掛け合っていたことは調べがついている」

「へえ。誰が調べたのか知らないけど、よく調べられたね」


 心裡は余裕を持って受け答える。知られていようが関係ないとでも言いたげに。


「確かに僕は、今回の件について全てを知っているよ。現在、全てを知っている人間は僕しか残っていないとも言える。もう博はいないし、永久は忘れてしまっているからね」


 紫煙を自分たちの間に立ちのぼらせて、心裡は社木の反応を窺うと、


「それも知っていて当然か。彼女の行動を調べれば分かるもんね。ということはやっぱり、君は澄代が亡くなったことだけは知っていたんだ」

「……そうだ」

「じゃあ、澄代が亡くなったあと、君は」

「待て。私に質問するのはお前が全てを話してからだ」


 社木が目の前のテーブルに手をついて、心裡の口上をさえぎった。


「……博の身に何があったか、だっけ? 君が聞きたいのは」


 心裡は声の調子を変えたかと思うと、懐から一つの冊子を取り出して、


「彼は自殺したんだよ。これは彼の日記――遺書でもある」


 心裡は博が自殺した前後の出来事も、その事実を隠していた理由も、全てを語った。


「そんなことが……」


 社木は冊子をテーブルに置いて、掠れた声を絞り出した。

 全て心裡が主導して隠蔽していたのか。

 そして、隠蔽した理由もおおむね理解はできる。


 だが、


「ならば、何故、事実を世間に公表した!! 一体、お前は何故、そんなことを!!」

「もう必要がないからだよ」


 荒立つ社木とは正反対に、心裡は落ち着いた様子で答えた。


「なんだと……?」


 言った瞬間、店内に電子音が鳴り響いた。場の雰囲気に馴染まない、明るい調子の着信メロディ。

 心裡は満足そうに微笑み、携帯を取り出すと通話を始めた。


「ああ、頼来か。どうかしたの?」


 直後、くぐもった怒鳴り声が社木の耳に入った。


「冗談だってば。分かってるよ、留守電は聞いたからね。永久の母親のこと、リズの観測で知ったんだよね? ――そう、ニュースも見たんだ。だったら、話は早いや。今から言う場所に永久と二人で来てくれるかな? そこからならすぐだよ」


 この喫茶店の名前と場所を告げて、通話を終えた。携帯をしまって顔を上げると、何かを思い出したらしく顔を下げる。先程とは違う二つ折りの携帯を取り出して、開くと操作を始めた。すぐに「げっ、景政……非番の癖に」と呻く。


「景政のことは知ってるよね?」

「……県警の刑事だな」

「その景政が僕を探しているみたいでね、多分ここにも来ると思う。君を見つけたら、話どころじゃなくなっちゃうだろうね。――だからさ、今のうちに逃げてくれないかな?」


 社木は心裡の言葉に、眉をひそめた。


「お前は、私が何故身を隠していたのかを知っているんだろう?」

「当然ね。警察に追われているんでしょ? その理由だって知ってるよ」

「分かっていて、私を逃がす気なのか?」


 ならば、心裡はなんのために、


「お前は報道機関に報道をひかえるように仕向けていたはずだ。だからこそ私は、自ら動かなければならなくなった。そうやって私を動かして、見つけやすくしようと……」

「違う違う、逆だよ。。あからさまに僕が情報を隠せば、君は必ず、まずは僕に接触するはずだ。そうすればこうやって止められる」

「……捕まらないようにした理由は?」

「そんなの決まってるよ。警察に捕まっちゃったら、澄代が既に亡くなっていると君は話すでしょ? そしたら永久にも知られちゃうじゃないか」

「ふざけるな! お前は結局、自分勝手に――」

「社木。悪いけど、それはあとにしよう。いつ景政が来るか分からないんだから。僕から聞きたいことはまだあるんでしょ? 捕まったら、肝心な話を聞けなくなるかもしれないよ?」


 社木の怒りなどどこ吹く風。心裡は戯けたように、だが事実を突きつける。

 足元を見るような発言に怒りを覚えるが、社木は懸命に感情を抑え、


「ならば、これだけは聞かせろ。お前は一体、何を望んでこのようなことをしたんだ?」


 もはや社木には彼が分からなかった。世間を騙し、仲間をあざむき、さらには警察から自分を逃がそうとさえする。社木の眼には、彼がただの愉快犯にしか映っていなかった。


 心裡は短くなった煙草を灰皿に押しつけて火を消すと、社木の質問に答えた。


「僕は、皆の幸せを望んでいるだけだよ」


 その言葉が真実であるか判断つかないのは、彼が笑っているからだろうか。

 社木には、彼の真意は掴めなかった。

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