第五章

第二編 第五章 ①


「心の傷――比喩的な表現を避けるなら、精神的外傷とでも言えばいいだろうか」


 精神的外傷。要はトラウマだ。悲惨な出来事や、大規模な自然災害に出遭った時に受ける心的外傷。悲痛な出来事を体験した時、人は心に傷を負ってしまう。


「酷く心を蝕む記憶ができた時、私の体質はそれを心の傷と認識するようだ。そして、身体の傷と同じように、心の傷も再生することで修復する。記憶を再構築して――忘れることで心の傷を修復するのだ。また、睡眠時に修復が行われるためか、記憶の節目が起床時になるようだ」


 記憶の忘却というのは人間が絶対的に持つ自己防衛機能の一つだ。覚えていると生活に失調を来たすような記憶は、脳が無意識に判断して消去ないし封印してしまう。しかし、多くの場合は記憶を失わず、トラウマとなって以降の生活を蝕むものだった。


 だが、永久の場合は、完璧にそれを成す。

 彼女の体質は、身体的なものだけでなく精神的なものにまで及ぶのだ。


「……すまないな、隠していて。父様や厳殻から、他言はしない方がいいと子供の頃からずっと言われていたのだ」


 確かにこれは身体の再生とは違い、デメリットばかりが目立つ体質だった。そして、身体の再生とは違い、隠せるものでもある。わざわざ教えるものでは決してないはず。


「隠してたとか、そんな風には思わないから。気にするなよ、永久」


 貴方は首を振って口にすると、


「体質のせいで、昨日の記憶を失ったっていうのかよ……」


 今度は口には出さず、心の中で現実を嘆いた。


 彼女が心に傷を負った原因。

 それは、考えるまでもない。

 昨日、母親が亡くなっているという事実を知ってしまったからか。


 そんなことがあっていいのだろうか。

 いいわけがないのに、そうとしか思えなかった。

 何故なら、永久は昨日の時点で、こうなることを予期していたから。


 明日まで待って欲しい。

 そうした方が理解が速い。

 永久が昨日、言っていたことだ。

 要するに昨日の彼女は、次の日になれば記憶を失うと考えていたのだろう。

 実際、今の永久の様子を見れば、口で説明されるよりもずっと理解は速い。


「頼来、君は私が記憶を失った原因を知っているのだな」


 淡々とした起伏に欠ける声が、思考の隙間に滑り込んだ。永久が心配するような瞳で、貴方を見つめていた。


「もう一度、聞こう。昨日、何があったのだ? 教えてくれ、頼来」


 貴方は言葉を忘れてしまったように、ただ沈黙した。話せるわけがなかった。事実を告げてしまえば、また永久は記憶を失うかもしれないのだ。


 貴方はここで、ようやく事態の一番の問題点に思い至った。


 もし、母親が亡くなったことを知ったから、記憶を失ったのだとしたら。


 永久は母親の死を、いつ知ればいいというのだろうか。


「――ああ、そうか」


 貴方は不意に心の中で呟いた。口は回らずとも、頭は今、高速回転をして止まらない。

 永久の母親が亡くなっていたことを心裡さんたちは隠していた。それは、永久のため。彼女が記憶を失ってしまわないように、彼らはそうしていたはず。


 だとしたら、それは単なる憶測なのだろうか?


「なあ、永久」


 貴方は長い沈黙を破り、彼女の質問に質問を返した。


「お前、もしかして、?」


 はたして、永久は答える。


「……そうだ。私はその日の記憶も失っている」


 彼女は銀髪を滝のように流して、顔を伏せた。


 やはり、と貴方はこめかみに手をやった。永久は四月二十九日の出来事を全く知らなかった。私はそれを聞いて、ある感覚を覚えていたが、貴方も同じだったようだ。


 まるで、その日が抜け落ちているかのような違和感――


 それは、つまり現実だったのだ。

 永久は現実として、四月二十九日の記憶を失ったのだ。


 母親が亡くなったことを知ってしまい、記憶を失ってしまった。だから、心裡さんたちは、永久に隠していたのか。永久が実際に記憶を失ってしまったことを知っていたから、隠していた?


「……君が何故、私がその日の記憶を失っていると気付いたのか、見当はつく」


 前を向き、貴方を仰ぎ見て、永久は言葉を紡いだ。


「その日に何かが起こったのだ。それを昨日、私は知ってしまったのだろう?」

「それは……」

「言えないだろうな。そうだ、君も景政や心裡と同じなのだ。やはり、それは私のためで……」


 永久は首を振り、銀髪を揺らして、


「なら、私は知るべきではないのかも知れない」


 物分かりよく、自分の発言を撤回した。感情を抑えるように。知りたいと思う気持ちを、知ってはならないという現実で覆い隠して。


 俯く永久に何かを伝えたくて、彼女に手を伸ばした時、隣の部屋から何かを落とした音が聞こえてきた。

 貴方が扉の方に目をやると、永久は音もなく立ち上がり、小走りで扉に近づく。

 そのまま扉を開いて隣のリビングへ。

 貴方は一歩遅れてあとを追いかけた。


 リビングにはニャー先輩と蒼猫がいた。二人ともソファーに膝立ちし、永久と対峙している。


「ご、ごめんなさい、先輩! うるさくしてしまって……」

「すみません、永久。兄さんとの話、聞こえちゃいました……」


 蒼猫が耳を折りたたんで後ろ手に謝るが、


「それはいい。それよりも蒼猫。君は今、何を隠した?」


 鋭く指摘されて蒼猫は固まる。その隙に永久は歩み寄ると彼女が隠しているものを奪った。後ろ手に隠していたものは、テレビのリモコンだった。


「先輩!」

「あっ、待って――」


 蒼猫の制止も聞かず、永久はリモコンを操り、テレビの電源を点けた。


 数瞬のラグをつくり、テレビは映像を映し出した。

 流れているのは、朝のニュース番組。

 テロップの後ろ側で、アナウンサーの女性が淡々と事実を語る。


 貴方も、蒼猫も、ニャー先輩も、永久も、私も黙って眺めてしまう。


 眺めるしかなかった。


「これか? 頼来。君が言えなかった事実は……」


 永久は、テレビから視線を外さず、表情を見せずに貴方に問うた。


 貴方は、首を振って答えた。


「なんだよ、これは……」


 その疑問に答える人間はいない。

 アナウンサーの女性がこちらを見ながら、再度、事実を確認した。


「本日未明に山中で発見された男女二人の遺体の身元が判明しました」


 女性の名前は、紅坂澄代。

 男性の名前は、紅坂博。


 無機質な声が、永久の両親の訃報ふほうを貴方たちに知らせていた。

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