第二編 第三章 ⑥
「三万二千六百二十円です」
「……え? なんだって?」
「三万二千六百二十円です、お客様」
貴方は言われたとおりのお金を渡して、二つの巨大な紙袋を持ってレジを離れた。
まさか一度の本代でここまでかかるとは。
無表情でも嬉しそうに尻尾を振る永久を思うとこっちも嬉しくなるのだが、財布の中身的には素直に喜べなかった。
本屋をあとにして、駅ビル内を移動する。
途中の分かれ道で、貴方は永久に言った。
「このままメルヴェイユに行かないか? どうせ今日も夕飯、そこなんだし」
永久は珍しく忘れていたらしく、すぐさま足先を変えた。
建物を出ると、外は既に暗くなっており、街灯が周囲を照らしていた。人が混み合う時間なのか、スーツ姿の会社員が帰路に着き、遊び足りない学生たちがそこかしこでたむろしている。
人の多さに辟易してか、自然と貴方たちは裏道を選んで進んだ。建物と建物に挟まれた狭い道を貴方たちは歩く。店も何もないこの道には、当然人はいなかった。先程まで辺りに漂っていた圧迫感は薄れ、息苦しさから解放される。
しばらくの間、いくつかの脇道を横目に暗がりを真っ直ぐに進んだ。
外灯に照らされたT字路に差し掛かったところで、ふと永久が立ち止まる。
「どうしたよ」
貴方は足を止めた永久を不審そうに見た。
「変な声が聞こえなかったか?」
永久が耳をぴくっと動かす。
貴方は彼女にならって耳をすませた。
「……てと言って……」
聞こえた瞬間、曲がり角から小さな影が飛び出してきた。驚く間もなく、その小さな影は貴方たちの脇を通って走っていく。目で追いかければ、それは帽子を被った子供だった。犬のような尻尾を持っていたため、後ろ姿でその子が欠落者だと分かる。
貴方はぼうっと立ち尽くしてその子を目で追い続けた。
それが不味かった。
「頼来、そこにいると――」
貴方には、永久の言葉が最後まで聞こえなかった。
「な!?」
誰かの声が耳に入ってきた直後、背後から強い衝撃を受けた。突然のことで踏ん張ることもバランスを取ることもできず、貴方は前方に投げ出されるように倒れ込む。その拍子に持っていた二つの紙袋を手放してしまった。結果、計四つの物体が地面に叩き付けられる音が鳴り響く。
(頼来……大丈夫ですの?)
「……何が起きた」
(人が飛び出してきて、貴方にぶつかったんですわよ)
私は見ていたままを貴方に教える。
なるほど、と貴方は打ってしまった顎を押さえながら、おもむろに立ち上がった。後方を確認すれば、誰かが地面に倒れていた。見た目からして男性である。
こいつがぶつかってきたのか、と貴方は男性に近づいた。
「いきなり飛び出して――いや、大丈夫か?」
恨み言を吐こうとしたのだが、あまりの伸び具合に心配になって男性の様子を窺った。着ている服を見て一瞬警察官かと思い、すぐにそれを改める。おそらく、どこかの警備員だろう。
彼は未だに倒れたままだ。
気絶しているとは思えないけれど。
「つっ……」
見下ろしていると、ようやく男性は反応を返す。小さく呻いたあと、後頭部を押さえながら腰を上げ、貴方を睨みつけて大きく口を開いた。
「お、お前! 危ないだろう! 何をぼうっと突っ立っているんだ!?」
貴方のこめかみがぴくりと動く。
俺が悪いのかよ、と心の中で悪態ついて、
「そりゃ悪かったな。で、大丈夫か?」
感情を抑えて、男性に手を差し出した。
彼は貴方の態度を見てどう思ったのか、睨みつけながら手を借りずに立ち上がる。
倒れている時から分かっていたが、彼はガタイがよく、背が高い。しかし、貴方はまったく動じなかった。先日出会った、ニャー先輩の叔父さんの方がよっぽど威圧感が強かった。ただ、あの人は、性格的にはむしろ大人しすぎる感じだったけれど。
目の前の男性はその大きな身体を使って、威嚇するように貴方に詰め寄ると、
「悪かっただ? 謝り方ってものがあるだろう!!」
お前は謝ってもいないんだけどな。
「……はあ、すいません」
「…………ちっ」
男性は大きく舌打ちして、制服についた汚れをたたいて落とし始める。その間にも貴方の後方の暗がりに視線を切って、
「くそっ、どこに行ったか分からなくなったぞ!!」
貴方に悪態をつく。よほど必死なのだろうけれど、完全に自分の不注意が原因の癖に、その言い草はなんだろうか。
貴方は今にも走り出しそうな彼に、
「あんた、あの子を追いかけてるんだよな。なんだよ、あの子、万引きでもしたのか?」
「お前、見ていたのか?」
昨日の景政さんの話を思い出して鎌をかけたのだが、どうやら引っかかったらしく、男性は大きく目を見開いた。
「見てたわけじゃねえけど、あの子を商店街で見かけたんだよ、さっき」
貴方はまたしても適当なことを言って話を展開させた。
「本当にあの子、万引きなんかしたのか?」
「……ふんっ。現行を見たわけではない。だがな、あのガキは充分怪しかったんだ。何しろ、一人でウチの店を歩き回っていて、話しかけたら何も言わずに逃げ出したからな」
そりゃあんたの顔が怖かったからだろ、とは言わず、
「あんた、そんなあやふやな理由であの子を追いかけてたのかよ」
「まだ疑う理由はある。他の店にもあのガキは一人でやってきて、店内を歩き回っていたらしい。その内の一つはガキには無縁の宝石店だ。いくらなんでも怪しいだろう?」
宝石店と子供。言う通り、そこには直接的な繋がりはないだろう。
「それに、だ」
貴方の考えがまとまる前に、男性は矢継ぎ早に言葉を連ねる。
「あのガキは私たちと違って、欠落者だったからな」
「……それが疑う理由?」
貴方の問い掛けに、彼は得意げに頷いた。
「数日前に欠落症のガキがウチの店で万引きを働いたんだ。その時はしょっぴいたんだが、ガキは私の同僚を背後から刺して逃げ出したんだよ! 変容した爪で刺したんだ! 今のガキも爪を持っていやがった! 背格好も聞いていた話と相違ない!」
男性は感情的になったからか、聞いてもいないことをペラペラと喋ってくれた。
それであの子を追っているのか。背格好や爪といった特徴が同じで、怪しい行動をしていたから。話としては分かるが、いささか論理的ではないように思える。
欠落者特有の身体。殺傷能力を持つ爪を持ってしまった人間が一人とは限らない。
それに、宝石店――
貴方が黙って考え事をしていると、男性は不敵に笑って、
「分かっただろう? だから私はあの化物を捕まえようとしていたんだ」
聞き捨てならない言葉を吐いた。
貴方は現実に引き戻される。
「……化物?」
「そうだ、アレは化物だ。爪などという凶器を体から生やしているんだぞ。知ってるか?ああいう異常な欠落者の爪は、折ってもすぐに再生してしまうんだ。そういう体質らしい。どれだけ危険な存在か、お前も分かるだろう? 人間じゃないんだよ、奴らはな」
何言ってんだ、こいつは。
「何、ふざけたこと言ってんだ、お前」
「…………なに?」
堪えきれずに出た貴方の本音に、男性は目を丸くした。
「化物? 爪を持ってて、再生したくらいで化物かよ。お前には爪がないのかよ?」
「……まさかお前、それは私に言ってるのか?」
「やっぱお前馬鹿だろ? お前以外にこの場に誰がいるってんだ」
「お前っ! 舐めるのも大概にしろ!!」
男性は貴方の胸ぐらを掴んだ。
だが、貴方は勢いをとめない。
「舐めてんのはてめえの方だろ、さっきから見掛けばっかで判断しやがって! 店を見て回ってたからなんだ? 爪を持ってたからどうした? 欠落者だからなんだってんだ!!」
男性を睨み上げて、怒鳴りつける。
そして、貴方は何も考えずに、右手を男性の胸ぐらへ伸ばそうと動かした。
だが、
「落ち着け、頼来」
永久が静かな声で言い、貴方の右腕を掴んで止めた。
「別に君が貶められたわけではないのだ。君が怒ってどうする」
言われて貴方は、少しだけ冷静になった。怒った理由とか、そんなことはどうでもよくて、ただ、今の今まで完全に忘れてしまっていた永久が急に出てきたから驚いたのだ。
それに、このギブスつきの右手では何もできそうもない。
「……分かってるよ」
貴方は永久に掴まれた腕の力を抜いて、彼女に任せた。それと同時に、男性は貴方から手を離す。彼も冷静になったのかと思ったのだが、様子がおかしかった。一歩下がって距離を取り、貴方たちを――
違う。
永久を睨んで、
「そこの欠落者。いきなり出てきて、お前は一体なんだ?」
「私は――」「――こいつは俺の身内だよ」「……頼来?」
貴方は永久を身体の後ろに隠して言った。
男性はそれを見て、何故か嗤った。
「なるほど。欠落者じゃない癖に欠落者を庇うのは、そういうことか」
「なんだ。何が言いたいんだ、お前。何笑って――」
「頼来」
永久が貴方の前に出て、再度制止する。
彼女は貴方に背を向けて、
「彼が貴方の邪魔をしてしまったようで、すまなかった」
冷たい声で、だがしっかりと謝った。
「永久、お前」
「いいから」
彼女は貴方に向けて言うと、今度は男性に向かって、
「これ以上、貴方の仕事を妨害するつもりはない」
「……だが、お前らのせいでもうガキがどこに向かったのかも分からないんだぞ?」
「それなら問題ない。あの子はここから真っ直ぐ行って、一つ目の角を左に曲がったぞ」
「住宅街のほうか。……しかし、本当なのか?」
「今言った角の所、電信柱の下に帽子が落ちているのが見えないか?」
永久に言われて、貴方と男性はそちらに目をやる。暗くて見えにくいが、確かに電信柱の根元近くに帽子が落ちているのが見えた。
「随分と慌てていたようだからな。落としたのに拾わず行ってしまったぞ」
「そうか。馬鹿なガキだな」
男性は納得し満足したようで、すぐに向かおうとする。だが、彼は貴方を一瞥して、
「私は理由もなく欠落者を貶めたわけではない。刺された私の同僚は今も病院のベッドの上だ。下手をすれば死んでいた。――奴らはどんな身体を持っているか、どんな体質があるのか分からないんだ。現実的に、奴らは危険なんだよ」
貴方は何も言わなかった。
彼の言うことも事実の側面であると理解していたからだ。
男性は黙ってしまった貴方をしばらく見続けてから、付言もなくその場を離れた。小走りで帽子の元まで近づき、それを拾い上げて曲がり角へ姿を消した。
それを見届けてから、永久は貴方をじとりした目で睨み、
「君は何を考えているのだ? この馬鹿者」
「……ごめん。頭に血が上ってた」
貴方は素直に謝った。謝ったはいいが、やりきれない思いで胸の中は満ちている。
「まだ、何かあるようだな」
永久が上目で見上げてくる。
貴方は気になっていることを一つずつ頭に浮かべて、
「お前、あの馬鹿になんで簡単に謝ったんだよ。言われたこととか、気になんねえのか?」
「ならないな。仮に怒りを覚えたとしても、感情を表に出していい場面ではないはずだ」
感情で動いても何も解決出来ないぞ――と、永久は無表情で言う。さっき本屋では怒ってたくせに、と思いつつも状況がまるで違うのは分かっていた。貴方は彼女の言うことが正しいと分かっている。それは分かるが、しかし、やはり納得はできなかった。
「行き先を教える必要はなかったんじゃないか?」
貴方の苦しまぎれの反論に、永久は涼しげな態度で返す。
「君はあの子が濡れ衣を着せられていると思っているのだな。私もそうだとは思う」
「だったら」
「だが、教えたところで問題はないだろう? とうに逃げてしまっているはずだ」
「そりゃそうかもしれねえけど」
「心配するな、頼来。君は充分あの子のために働いたよ。これ以上、関わる必要はない」
永久はそう断言して切り捨てた。本当にこのままでいいのか、と当然の疑問が貴方の頭に渦巻く。確かに永久の言う通り、これだけ足止めできたのだから、あの子は逃げおおせるだろう。でも、それは確実ではない。
……いや、確実性がどうとかの問題ではなく、ただ、最後まで見届けないと気がすまないだけ。
単なる、わがままだ。
「さあ、行くぞ。もうすぐ夕飯だ。遅れたら、蒼猫や白雪にどやされるぞ」
彼女は貴方の袖を掴むと、身体を翻して前進を促した。袖を引いて催促する彼女を見下ろして、貴方は力を抜く。
おもむろに貴方が足を一歩踏み出したところで、私は尋ねた。
(頼来、そんなにあの子のことが気になりますの?)
「当たり前だろ。どこに行ったか分かんねえけど、探しに行くべきじゃないのか?」
(貴方、あの子を信じていますのね? 見ず知らずの子なのに)
「あの子が爪で人を刺した奴かもって話か? そんなわけねえだろ」
(根拠はありますの?)
「あるね」
私には分からない。だけど、貴方が確信を込めて言い切ったのは分かる。
そこまで言うのなら、と私は思った。
もしかしたら、まだいるかもしれないし、と続けて思って、
(仕方ありませんわね、頼来は)
「なんだよ、リズ」
戸惑う貴方に、私は伝えた。
(永久は嘘をついていますわ)
貴方は立ち止まって、永久を引き留めた。
(貴方が彼と騒ぎを起こしている間、永久はただ待っていたわけではありませんのよ。彼女は走り去った人影を追いかけて、遠巻きに喧騒を見ていたその子と話していましたわ。それでその子が被っていた帽子を故意に道角に置いて、逆の方向へ逃がしたんですわよ)
「? どうした?」
永久は貴方の様子を訝しみ、不思議そうに見上げて言った。
「……む。そうか、リズか」
彼女が私の仕業だと気づくと同時、貴方は手を解いて走り出した。
真っ直ぐ進んで帽子が落ちていた角の道とは反対の方向へ進む。
そして、電信柱の影にいる、一人の欠落症の少年を見つけた。
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