第二編 第三章 ②
それから、永久はまさに本の虫と化した。
結局、次の日も学校に来なかった。
日がな一日、本を読み続ける始末だ。
これ自体は特に問題もなかったのだが、少しだけ別の問題は発生した。
彼女があからさまに入浴を拒むようになったのだ。
「ほらっ、いつまでも読んでないで、お風呂入りますよ!」
「むー……」
物凄く嫌そうな声をあげて、永久は蒼猫に連れられていく。
「本は置いていってください!」
と、持っていた本をひったくられて、永久は貴方を睨んだ。何故? 助けて欲しいのかもしれないけれど、助ける気は毛頭無かった。彼女は不承不承入浴する。そして、お風呂から上がると、彼女はさっそく読書を再開した。
蒼猫は諦めて、自室に引っ込み、洗濯物のアイロン掛けをしてくれている。ちなみにニャー先輩は朝刊の新聞配達のため、もう就寝していた。
貴方は食卓で本を読んでいる永久に近づいた。
「永久。髪、乾かすぞ?」
「なんのだ?」
「聞いてねえな……」
貴方は嘆きながらも、ドライヤーで永久の髪を乾かし始めた。
何をされているのかは理解しているらしく、永久はちゃんと耳をぺたりと閉じて、風や音が入らないようにしていた。それに感心すると共に、髪の質に驚嘆する。いつ見ても思うことだが、永久の髪は綺麗だった。湿った銀髪は風に揺れるたびにきらきら煌めき、乾いていくとさらさらと華麗に宙を舞った。
蒼猫が以前、『もったいない』と言っていたのを不意に思い出す。確かにこれだけ綺麗なのだから、ケアをしないともったいない、と貴方は思った。
大体乾かし終わって、あとは
「お前、本当に本が好きだよな。面白いか? それ」
「ああ、意外と面白いぞ」
珍しくきちんと返す。
「そもそも私はおそらく、本であればなんでもいいのだろうな。情報が変わらないという事実は、私にとっては全てに優先するからか」
返すのはいいが哲学的(?)すぎて分からない。
「何言ってるか、分からねえぞ、永久」
「それにしても、頼来。君は髪を梳くのが上手だな」
貴方の困惑など知りもせず、永久は話を急激に変化させた。
「母様にされていた時のことを思い出すぞ」
先程までの話など、どうでもよくなる程の言葉を永久は紡いだ。
母様。
失踪したという永久の母親。
彼女が自分の家族の話をするのはこれが初めて。
貴方はさり気なく話に乗った。
「お前の母さんは、よく髪を梳いてくれたのか?」
「小さい時は、いつもしてくれたな。髪をゆっくりと梳いて、頭を優しく撫でてくれた。そして褒めてくれたのだ。綺麗な銀色だって……」
永久は語尾を小さくして、そのまま押し黙る。昔を思い出しているのかもしれない。
貴方は何か言おうとしたが、口を開くだけで声は出せなかった。今、何か言えば、永久の思い出を壊してしまいそうな気がして。
数秒間の沈黙のあと、永久は淡々と言葉を続けた。
「母様とのことで思い出すのは、そればかりだ。見舞いに行くと、母様は優しく迎えてくれて、話を聞いてくれて、髪を梳いてくれた」
「……母さんはどこか身体が悪かったのか?」
「もともと病弱で、私が物心ついた頃から入退院を繰り返していたのだ。体質の所為もあって体調は次第に悪化して、いつしか病院を離れられなくなってしまった」
入院していたと聞いていたが、単なる病気ではなかったようだ。体質ということは、
「母様は私と同じ、欠落症を患っていた」
察して、永久は俯きがちに答えた。後ろから見ているので、貴方から表情は窺えない。
「母様の体質は様々な身体的機能欠如の併合だった。特に重かったのが血が固まらないという症状だ。この体質のせいで自然治癒力が極端に低かったのだよ」
自然治癒力の欠如。
血が固まらないという体質。
それは貴方も知っている一般的な症状。
「でも、確か、それって今は薬でなんとかなるんだよな?」
「一応はな。だが、あの薬は対症療法的なもので
貴方には話が少し飛んだように思えた。
永久の父親が何を気に病んでいたって?
「『自分は』って……もしかして、あの薬をつくったのは」
「霞や心裡から聞いてなかったのか? 私の父様だ」
聞いていない。だが、それは教えてくれなかったわけではなく、貴方が何も聞こうとしなかったからだろう。
『貴方が何も永久のことを知らないと言いたかったのよ』
白雪さんの言葉が思い出される。
貴方は今頃になって、本当に何も知らなかったことに気がついた。
永久の両親について何も知らない。
「じゃあ、お前の父さんは、そのためにあの薬を作ったのか?」
「表向きは会社の意向となっているが、実際は君の言う通りだ。父様は母様のために、会社を使ってあの薬を作り出したのだよ。私欲だ、と父様は言っていたな」
私欲と表現するが、貴方にはそれが悪いことだとは思えなかった。たとえ妻のために会社を私物化しようと、結果的に作られた薬は世界中の同じ体質の人間に重宝されるようになったのだ。これほど高尚な成果なら、どのような欲であれ非難できようはずもない。
「俺は、お前の父さんは立派だと思うよ」
貴方はゆっくりと手を動かして、髪を梳きながら言った。
「そう言ってもらえると嬉……」
永久はそこで言葉を止めて本を閉じると、
「何故、私は頼来にこんな話をしているのだ?」
気付いたようだ。
むしろ、気付いていなかったのか?
無防備すぎるだろう。
「別にいいだろ?」
「良くないな。軽々しく身の上話などするものではない」
ぶっきらぼうに言って、「髪はもういいぞ。充分だ」と本を抱えて立ち上がった。
「永久」
そのまま歩き出した彼女を、貴方は呼び止めた。彼女の頑固な性格からして、話を蒸し返しても意味がないのは分かっている。
だから、
「これだけは教えてくれ。お前は両親のこと、好きか?」
「無論だ。私は父様も母様も等しく愛しているぞ」
永久は即答する。恥ずかし気もなく、自分の気持ちを言い切った。
「ではな、頼来。おやすみ」
明日も頼むぞ――と、永久は梳いたばかりの髪を棚引かせながら部屋を出ていった。
(頼来、これで良かったんですの? 話を続けなくて)
「いいんじゃねえか? 一つ、いいことは分かったし」
(いいこと?)
「永久が両親を好きだってこと」
貴方にとって、今日の一番の収穫はそれだった。
家族との不和。
家族との離別。
それが貴方は一番嫌いだった。
怖かった。
そして、悲しいと思っている。
あんなにも悲しいことは、この世には他に存在しないと確信していた。
(貴方の言い分は分かりますわ。でも、今回に限ればいいことばかりではありませんわよ?)
「……そうだな」
永久が両親を好きであれば好きであるほど、二人を心配する気持ちは強くなるのだ。
特に入院していた母親が姿を消したとなれば、その不安は計りしれない。
「だけど、両親が嫌いっていうよりは、ずっと良いだろ」
貴方は小さく口にして、不意に沸き出しそうになる感情を抑え込んだ。
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