第二編 第三章 ③


『プロトロゲン』


 これは欠落症特有の血液凝固作用の欠陥を補うための薬である。病状だけなら、血友病と同じく血が固まらないというものである。ならば何故、欠落症特有なのかといえば、血友病とはメカニズムが全く異なるからだ。またメカニズムが違うので、必要となる治療法が異なるわけだ(血友病であれば、血液凝固因子製剤を注射薬で補う「補充療法」が基本の治療法である)。

 このメカニズムの違いを詳説するためには、まず血液凝固のメカニズムから説明しなければなるまい。血管が損傷し血液が血管の外に流れると,外に存在する組織因子と血液中の第VII因子とが接触し,凝固反応を……。



 貴方はたまらず、読んでいたサイエンス誌を閉じた。これ以上読んでも得られるものはない――理解できないという意味――だろう。


 貴方は目を擦る。読み慣れていないものを読んだためか目が霞んで仕方がない。それに頭も痛くなってきた。


(情けないですわね、貴方)

「難しいことを難しく書いてあるから分かりにくいんだよ」


 誰に対する恨み言か。貴方は凝った肩を和らげようと両手を合わせて伸ばす。隣の席に座っていた人が少しぎょっとしてしまって、貴方は軽く頭を下げた。

 平日だというのに図書館は程よく人で溢れていた。辺りを見渡してみると、座る席がないのか、本を持ってうろついているご老輩の方と目が合った。それを契機に貴方は立ち上がり、その人に席を譲って、集めた本や雑誌を元の棚に戻しに向かった。


 貴方は学校の帰りがけにここに寄り、少し彼女の父親について調べていた。

 名前は紅坂ひろし

 彼は小さな製薬会社の役員を務めているという。彼はずっと新薬開発に勤しみ、今から十年ほど前に『プロトロゲン』の開発に成功。この薬は欠落症特有の血液凝固作用の欠陥を補うための薬であり、世界中の同症状で苦しむ人々を助ける唯一の存在となった。


 そんな人物が行方不明になった。これはもしかしたら、重大な事件ではないのか。そう誰だって思う気がするのに、不思議な事にニュースは流れていなかった。

 貴方は過去の新聞を漁ってみたが、該当するような記事は載っていなかった。テレビでも見た覚えはない。だが、気紛れに週刊誌を除いたところ、そこでようやく記事を発見した。一ページしかない記事であり、ほとんど役に立つ情報もないそんな記事だ。

 テレビに関してはそもそも貴方はあまり見ないので分からないが、新聞などで記事になっていないのは不可解に思えた。また、週刊誌も完全に音沙汰がないのも変に思える。


 音沙汰でいえば、心裡さんからの連絡もなかった。いや、彼に関しては別にどうでもいい。重要なのは心裡さんが以前話していた刑事、景政さんのことだ。結局、まだ景政さんは姿を現すこともなく、連絡を寄越すこともない。

 これらは全て、捜査に進展がないことを表しているのだろうか。追加の情報がなければ、当然、記事にもならず、景政さんが永久に連絡を入れることもないはずだ。


『君が心配する必要はないよ』


 心裡さんの言葉が思い出される。その言葉は言外に他にやるべきことがあると言っているのだろう。


 図書館をあとにして、貴方は道なりに進んで駅前までやって来た。ふとコンビニを目にして中に入り、ATMでお金をおろして何も買わずに外に出る。

 その直後、


「「あ」」


 貴方は声を洩らして心持ちのけぞった。目の前に見知ったシルエットの少女がいた。


「頼来、奇遇だな」


 霞さんは朗らかに笑う。


「だな。……つーか、霞」

「……? なんだよ」


 霞さんが軽く眉間に皺を寄せる。

 貴方は彼女を上から下まで眺めて、


「お前、その恰好」

「ん? …………!」


 持っていた大きな買い物袋をどけて、自分の身体を確認すると彼女は貴方が言わんとしていることに気づいたようだ。

 別に身だしなみが整っていないのではなく、その服装が貴方は気になったのだ。

 彼女はいわゆるナース服を着ていた。薄桃色の布地は染みもよれもなく、清潔感に溢れている。肩からかけているチェック柄のストールが服装の緊張感を緩和していた。


「い、いいだろ! こんなの普段着みたいなもんで……」


 霞さんは勢いよく顔を上げて、目を合わすと買い物袋で身体を隠そうとする。

 だが、当然、無駄である。

 貴方は口を開かず、わざとらしく彼女を眺め続けた。


「なんで黙ってるんだよ!」

「普段着なら隠す必要ないよな?」

「うるさいな!」


 顔を真っ赤にして反抗する霞さん。恥ずかしいなら、そんな恰好で外に出てこなければいいのに。おそらく、知り合いに会わないだろうと高をくくっていたのだろうが、こんな狭い街の商店街でそれは希望的観測に過ぎないはずだ。


「あー……やっぱ着替えてくればよかった……」

「もしかして家の手伝い中?」

「色々と足りないものが出てきたから、買い出しに来たんだよ……急いでたんだ!」


 予想通り、実家である病院の手伝いの最中らしい。


「ふーん。買い物は終わったのか?」

「終わった……けど?」


 そのまま『さよなら』するのもなんなので、貴方は病院の方に歩き始めた。急いでいるというのなら、立ち話も難しいと思って。

 立ち止まったままの霞さんに貴方は、


「何してるんだよ? 急いでるんだろ?」

「……」

「荷物、持ってやろうか?」

「――い、いい! 自分で持てる」


 霞さんはハッとすると、視線を逸らし気味に貴方についてきた。


 貴方たちは歩きながら会話する。話題はやはり永久のことに行き着く。貴方から近況を聞いて特に変わりないことを知ると、霞さんは眉根を下げて安堵した。

 どうやら霞さんは今も一人で帰宅して、昼食もダイエットのために一人で食べ、永久とはあまり時間を一緒にしていないようだ。ここ数日、永久は学校をサボっているので、会うことすらない日々が続いている。


「近いうちに、あえか荘に遊びに来たらどうだ?」


 貴方はふっと思いついて、そんなことを言う。話だけではなく、実際に永久の様子を見た方が安心できるはずだ。

 何げない提案のつもりだったのだが、


「そうだな……でも、最近、病院が忙しくて……」


 先程までの表情は消え、悲しげに頭を垂れる。


「……悪い」

「分かったから、急に落ち込まないでくれ」


 貴方は苦笑を浮かべる。


「にしても、平日も家の手伝いか」


 彼女はこうやって部活にも入らず、看護師の仕事――のお手伝いをしているのだった。

 否定するつもりは全くないし、むしろ支持さえするけれど、今の状況では話が違う。

 ほんの少しだけ、薄情に思えてしまった。


 患者よりも、身近にいる永久のことを考えて欲しい、と。

 永久を優先して欲しい、と。

 そう願ってしまったのだ。


 だが、自分の考えが傲慢な子供染みたものだと気付き、貴方は反省して、


「いつも大変だろ?」

「そんなことない。好きでやってるんだから」


 霞さんは凄くキレイな言葉を並べると、すぐに首を振って、


「嘘。大変だなっていつも思ってる」


 と正直に答え直した。

 更に紡ぐ。


「でも、辛いと思ったことはほとんどない。本当に辛いのはあたしじゃないからな……」


 思い出し泣きだろうか、少し目に涙を溜めている。

 貴方は息をついて、霞さんの頭を撫でた。


「……なんだよ? 急に」

「いや……なんとなく?」

「ふ、ふうん」


 霞さんは頬を桜色に染めて俯いた。それを目に留めて、貴方は軽く後悔する。無意識だったとはいえ、少し迂闊なことをしてしまった。こうも純粋に受け取られると、対応に困るのだ。

 というか、いつもの勢いはどうした?

 反発してくれた方がよっぽどやりやすい。


 その後、二人の間には沈黙が流れた。心地良いような逃げ出したくなるような、不思議な感覚だった。

 しばらくして霞さんが「あ、あのさ……やっぱ、あたし急ぐから」と頭を下げた。小走りにその場を離れ、すぐに曲がり角に消える彼女。やはり時間がなかったのか、もしくはいたたまれなくなったのかは判断つきかねた。


「彼女、撫原霞さんですよね? やはり今、撫原医院は忙しいようですね」

「やはりって、何かあったのか?」

「先日、近くの診療所が閉鎖してしまい、そこに通っていた患者が撫原医院に流れているんですよ。さらに、診療所に勤めていた看護師を全員受け入れたりと非常に大変な御様子でした」

「へえ……相変わらず無茶するな、あの爺さん」

「爺さんとは、院長のことでしょうか?」

「それ以外に誰がいるんだよ」


 呆れたように言って顔を歪める。

 そんなアホ面の貴方に私は尋ねた。


(あの、頼来。貴方、今話している方をご存知なのかしら?)

「知らねえけど?」


 貴方は分かっていて話していたらしい。いつの間にか、隣に見知らぬ男性が立っていた。


(よく、自然に会話できますわね……)

「お前のおかげで、いきなり話しかけられても反射で答えちまうんだよ」


 と腐して、貴方は男性に向き直った。

 白いコートを着た、貴方と同じくらいの背の男性。極端に肩が丸く見えるのは猫背だからかもしれない。全体的に細く、強風が吹けば折れてしまいそうな身体をしていた。


「それで? あんた、誰」

「これは失礼をしました。貴方は天塚頼来さんですよね? 私は警察の者で、少しお話を――永久さんのことで参りました」


 途中、警察がなんの用だと身構えそうになったが、永久の名前が出てきて貴方は悟る。


「ああ、もしかして、あんたが景政さん?」

「……聞いていらしたのですね」


 男性は恭しく腰を曲げて、


「初めまして。私、橘景政と申します」


 心裡さんが以前話していた刑事を名乗り、頬骨が顕著な顔に笑みを浮かべた。

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