第三章

第二編 第三章 ①

 誰かが泣いていた。

 断続的に響いてくる嗚咽。

 薄暗い部屋の隅に、獣のような耳をした少女が蹲って悲しみの声を洩らしていた。

 貴方は彼女に近づけず、少し離れたところから見ているだけだった。


 これは、記憶から作り出された夢だ。

 色を感じられない世界の中で、過去にあった出来事が再生される。

 聞きたくない怨嗟の言葉が、彼女の小さな口から紡ぎ出されるのだ。


 ――欠落症じゃないお兄ちゃんに、私の気持ちなんか分かるはずない!!


 彼女は俯いたまま、そう叫んだ。


 その時の貴方は思った。

 分かるわけないじゃないか、と。

 今ならば貴方は分かる。

 理解してやりたかったし、理解しているつもりだった、と。


 しかしそれは所詮、都合のいい幻想に過ぎなかった。彼女ような耳や尻尾を持たない貴方には、一生かかっても十全に理解することなど叶わないのだろう。異形の容姿や異様な体質を持った彼ら本人にしか、彼らの気持ちは理解できないのだ。

 それが分かっていても、貴方は後悔する。

 この時、もう少しだけでも努力していたら、現在は違った形で存在したのかもしれない。もしかしたら、それだけで家族は死なずにすんだかもしれないのに。


 何故この時、自分は諦観して逃げ出してしまったのだろうか。


「――兄さん」


 呼びかけられて、はっと貴方は目を覚ました。蒼猫がかがみ込むようにして貴方の顔を見下ろしていた。猫のような耳がぴくりと動く。


 貴方は敷いていた布団の上で、ゆっくりと身体を起こした。数秒、無心でぼうっと手元を見つめる。手の平は、自分のものとは思えないほどに白かった。


 というか、ギブスである。


「…………」

「ぼうっとしてないで早く起きてください。遅れますよ」

「蒼猫」


 貴方は顔を上げて、彼女を見上げた。自然と今見ていた夢の光景が脳裏を掠める。


「なんです?」

「そういや、いつからだっけ? お前が『兄さん』って呼ぶようになったの」


 蒼猫はきょとんとした顔を見せる。その表情を見て、貴方は完全に目が覚めた。なんだ、今の質問は。あんな夢を見たからといって、なんでこんな質問をしてしまったのか。

 この子にはあまり昔のことを思い出して欲しくなかった。


「悪い。ちょっと寝ぼけ……」

「覚えてないですね。……あ、もしかして『お兄ちゃん』の方がよかったとか? もう子供じゃないんだから嫌ですよ、そんなの」


 もう敬語だってちゃんと使えます――言って彼女は窓に近づきカーテンを開いた。

 日の光が部屋中を照らす。


 貴方は目を細めて窓の外を見た。

 四角く切り取られた外の世界。

 うすい青空が高く晴れ渡り、羽毛を吹き散らしたように綿雲が点々と浮かんでいる。

 外の世界は輝いて見え、元気づけてくれているように貴方は感じた。


「おはよ、兄さん」

(おはようございますわ、頼来)

「……おはよう」


 貴方は頭を振って、過去の映像を振り払った。


 蒼猫に起こされてから顔を洗い、永久と蒼猫とニャー先輩の四人で朝食を取り、めいめいに登校前の忙しい時間を過ごした。

 ニャー先輩が一番に出て――彼女は学校が少し遠い――、蒼猫が次に学校へ向かい、貴方は遅れて登校の準備を済ませた。

 リビングに出ると永久が部屋の隅に置かれた棚の前から尋ねてきた。


「頼来。ずっと気になっていたのだが、この棚はなんだ?」

「取っ手を引いてみれば分かるだろ?」


 背の高い棚には、三つの引き出しが横に並んでいる。分かりやすく言い表せば、タンスを横に倒したような棚である。

 彼女は貴方に言われた通り、取っ手を掴んで引こうとした。だけど、中に入っているものが重いためか、いくらやってもびくともしない。

 苦闘したあと諦めて、永久は無言でこちらを睨んできた。開けろ、と目で訴えている。お嬢様の命令通り、貴方は引き出しを外に出す。引き出しの中は段々に区切られており、そこにはびっしりと大小様々な本が並んでいた。これは蒼猫と共用の本棚である。


 永久は棚の中身をじっと見つめ、澄ました顔にどこか喜色を浮かばせて、


「道理で重いわけだ。しかし、何故、本を隠すような真似をするのだ」

「別に隠してねえよ。省スペースだから使ってるだけだろ」

「ふむ」


 彼女は貴方の口上をさらりと受け流し、中の本を取り出してぱらぱらとページをめくる。


「これは小説のようだが……ま、まさか君のものか?」

「え、なんでどもった? もしかして俺のこと馬鹿だと思ってる?」

「意外か?」

「心外だよ!!」


 どうやら永久の中では、貴方=馬鹿という式が成り立っているらしい。実際、貴方はあまり頭がいい方ではないので、にじみ出る何かが彼女にそれを教えてしまったのかもしれない。


「……お前、今、失礼なこと考えてただろ」

(な、なんですの、変な言いがかりをつけて)


 妙に鋭く貴方が心の中で突っ込んでいると、永久は「推理小説か。まあいい、暇つぶしにはなるだろう」と呟いて、早速読み始めてしまった。


「読むのはいいけど、今読むなよ。学校、遅刻するぞ?」

「そうなのか?」

「そりゃそうだろ……って」


 もしや、話を聞いていないのではないか?

 そう思い、貴方は確かめてみる。


「抱えてでも学校連れてくけど、それでいいのか?」

「私に聞かれてもな」


 ……他に誰に聞けばいいのだろうか。


 その後、数分は粘ったが彼女は本を手放さなかった。まさか本当に抱えて行くわけにもいかず、「先に行くけど、ちゃんとお前も来いよ」と言い置き、貴方は彼女に背を向けた。永久は分かっているとでも言うかのように、無言のまま尻尾を振って貴方を見送る。本当に来るんだろうか、と一抹の不安を抱きつつも、貴方は登校した。


 そして一抹の不安はすぐに具現化した。

 一限の授業が終わったあと、霞さんが現れて永久が学校に来ていない理由を問い質してきたのだ。

 本当に学校に来なかったらしい。


 今朝の出来事を伝えると、彼女は嘆息をもらす。


「最近はなりをひそめていたのに……本当に困った奴だな、もう」


 どうやら、こんなことは何度もあったようだ。連日で学校をサボった時期すらあるらしい。でも、それは昔の話で、高校に上がってからは一度もなかったという。

 だったら何故、再発したのか。

 原因があるとすれば、彼女を取り巻く環境の変化だろう。

 しかし、それにしても突然だった。

 この一ヶ月、彼女は学校をサボることもなく――


 でも、よく考えれば、ずっと本を読んでいた気がする。学校を忘れるくらいに夢中になっているだけの話か。


「今は好きにさせてあげるか。その方が気が紛れるだろ」


 霞さんは物分かりよく、そう言った。

 確かに、学校を休むくらいで永久の心が休まるのであれば安いものだ。

 それに自分のことだけ考えろと彼女に言った手前、注意する気にもなれない。


「しばらく放っておくよ」


 貴方は永久の様子を思い浮かべて、霞さんに同意した。

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