エピローグ

第一編 エピローグ ①


「はあ……」


 貴方は背もたれのクッションに深くもたれかかり、溜息をついた。

 軽く息をつくつもりだったのに、思った以上に肺の中には空気があり、出てくるものは熱くて重い。

 じんじんと痛み出す肋骨をそっと押さえて、隣を見た。


 隣の席にはニャー先輩がいた。

 すやすやと安らかな表情で眠る彼女。

 不安や心配などない、穏やかなお伽噺の住人のような、幸せそうな寝顔だ。


 貴方はそんな彼女を見ていたら、小憎たらしく思えてくる。


(……どうしましたの?)

「――こっぴどく怒られたから、なんとなく?」


 貴方は警備員たちにニャー先輩をかばったことで――嘘をついたことで酷く怒られていたらしい。

 そんなことがあったあとに、こんな幸せそうな顔を見れば、憎らしく思うのも分からないでもない。


「起こしてやるなよ、頼来」


 ニャー先輩とは反対側、貴方の左隣に座る永久がぼそっと言った。

 声に出ていたかと思ったけれど、そんなはずもないのでいつもの通り、様子を見て察したのだろう。

 貴方は誤魔化すように視線を窓の外に向けた。窓の外では遠方の景色がゆっくりと流れ、ちょうど川が見え始めた。


 貴方たち三人はタクシーで帰宅するところだった。本来なら電車を使えば済む話だが、貴方の恰好――病衣は悪目立ちするという理由から、電車を使わず贅沢にタクシーを使ったのだ(費用は永久が出してくれた)。


 静恵さんは予定通り、アメリカに発った。

 付き人として叔父さんが付き添い、彼女はこの国を出て行った。

 その直前、一悶着あった。

 ニャー先輩が「ニャーがついていってお世話したいです」みたいなことを言い出して、静恵さんは「学校はどうするのです?」となかなか手厳しいことを言い、「心配しなくても大丈夫ですよ。一人で向かうわけではありませんから」とニャー先輩を宥めた。

 ニャー先輩も自分の願いが現実的じゃないと分かっていたのか、すぐに引き下がった。

 出発の時間ぎりぎりまでニャー先輩と静恵さんは会話を続け、搭乗券を持たない人間が入れるぎりぎりのところまでついていき、この辺りで貴方と叔父さんと合流した。

 ニャー先輩の貴方への謝りっぷりは凄いものだったが、貴方は笑顔で許した。

 その理由は当然、ニャー先輩と静恵さんが一緒にいられるという事実を目にできたからだろう。


 静恵さんは貴方や永久に礼を言い、正式なお礼は後日改めて、と変わらず慇懃にかしこまった。

 永久はというと、いつもの澄ました顔で「私はそれらしい話をしただけですよ」と首を振った。

 静恵さんは真剣な眼差しを向けて、再度頭を下げた。


 そして、別れの時は来る。


 ニャー先輩が別れ際、静恵さんに寄っていった。だが、自分でも何がしたかったのか、何を言いたかったのか分からなかったようで、あたふたし始める。

 それをいなすのは流石に慣れたものか、静恵さんは向こうに着いたら電話をすると約束してくれた。


 もう、いつでも話すことができるのだから。

 焦る必要はない、と。


 ニャー先輩は嬉しそうに頷いて、笑顔で静恵さんを見送った。

 だが、


「あ、あの……!」


 ニャー先輩が静恵さんを引き留めた。

 車椅子を押していた叔父さんは立ち止まり、静恵さんに断って車椅子の向きを変える。

 二人はニャー先輩を見て、小さく驚いた。

 その理由はすぐに分かった。


「あの……えっと……」

「はい。なんですか?」


 静恵さんが優しい声音で問う。

 彼女はじっとニャー先輩の言葉を待った。

 そして、ニャー先輩の口から、弱々しくもはっきりとした言葉が出てきた。


「お祖母ちゃん……ごめんなさい」


 言葉にしたのは謝罪。

 言葉にしたのはニャー先輩ではなく、体質である仁愛だった。


「……いいんですよ」


 静恵さんはやはり優しい声音で言う。


「仁愛ちゃんを守ってくれて、ありがとうね」


 子供に対するように、やはり優しい言葉で、仁愛を受け入れてくれた。


「――――うん!」


 仁愛の笑顔が、輝いた。


「……ん」


 どこか熱っぽい音を聞いて、貴方は回想から現実に戻ってくる。

 ニャー先輩が寝言でも言ったのかと思ったが、どうやら違ったらしい。

 今のは永久が欠伸をして漏らした声だったようだ。


「……そういや、こっちに来る時もそうだったけど、お前、眠そうだな?」


 永久の目尻に光る涙の粒を見ながら、貴方は言った。


「もしかして、寝てないのか?」

「……今日は早朝に出ることが分かっていたからな。念のためだ」


 本当に眠らずに行動していたらしい。

 昨夜は病院から帰宅するのもかなり遅くなってしまったから、仕方ないのかもしれない。いつかの貴方のようだ。

 そこまでして、永久はニャー先輩のために行動してくれたのか。

 ふと、貴方は言いそびれていたことを思い出して、口にした。


「ありがとな、永久」

「……なんだ、いきなり」


 永久は貴方を見上げた。

 貴方は永久を見下ろし、


「リズから聞いたんだよ。永久が助け船出してくれたから、ニャー先輩もすぐに納得できたんだろ?」

「そのことか」


 永久が戸籍謄本が家にあった理由や、時系列の整理からより妥当な――偶然性のない、真実について導いてくれたから、あの場は綺麗に収まったのだ。


「俺、ずっとそこが気になってたからさ。たとえ、会えたとしても、ニャー先輩なら絶対静恵さんに謝るんだろうって。許して欲しくないんだろうな、って思ってたから」

「君は……」


 永久が貴方を見上げたまま言葉を失った。

 不意に視線を逸らすと、


「気付いていたのだな、頼来」

「気付くも何も、ニャー先輩見てたら分かったよ」


 それにおそらく、静恵さんもそうだったのだと思う。

 そう思っているからこそ、治療をするためにアメリカに行ったのだと思うのだ。

 ニャー先輩をおいて、問題を放置してまで治療に海外に行く、というのが貴方は少し疑問だった。

 当然、足が動かなくなることがどれだけ不自由なことなのか知らないし、その上で歩けるようになるかもしれないというのがどれだけの希望なのか知らない。

 だけど、あの人ならそんなことよりもニャー先輩のことを優先してくれるんじゃないかと、そう思っていたから。

 ニャー先輩が犯してしまった罪――それは彼女がそう認識していただけだが――を少しでも和らげるために、治療をしようとしていたのだと思う。

 これはただの願望なのかもしれないけれど。


「その手助けをした礼か。なら、それはいらないぞ?」

「ん? なんで?」


 貴方が不思議そうにすると、永久も不思議そうにした。


「君は忘れたのか?」

「んん? 俺、礼言ったっけ?」

「前払い、したではないか」


 前払い?

 前払い……。


「あ」


 貴方は思い出した。

 それはニャー先輩をあえか荘に運んだ日のこと。

 永久に対して、ニャー先輩のことを頼んだこと。

 彼女の頭を撫でて、前払いだと適当なことを言った。


「もしかして、俺と約束したから、ニャー先輩についていろいろとしてくれたのか?」


 永久は答えなかった。

 視線を逸らしたまま、頷きもしない。

 だが、答えをもらうまでもなかった。


 思いもしなかった理由に、貴方は少しだけ、ほんの少しだけ泣きそうになる。


「そっか……」


 貴方は無意識の行動に出た。

 気付いたら左手で永久の頭を撫でていた。


「……ふんっ」


 永久が鼻を鳴らして、撫でられるがままになる。

 しばらくして、彼女はぼそっと言った。


「君……左手だと下手だな」

「え?」


 思いもしなかったことを言われて、貴方は自分の左手を見つめた。

 そもそも、頭を撫でるのに上手い下手があるなんて考えてもみなかった。


「えっと、じゃあ、これなら?」


 試してみる。


「ぎこちないぞ」


 駄目出しを受ける。


「なら……」


 右手で撫でるときのことを考えながらやってみた。

 髪の流れに逆らわないように、そっと撫でる。


 すると、永久の尻尾が動き始めた。

 どうやら、これが正解らしい。


「――――っ」


 貴方は吹き出しそうになるのを堪えた。

 分かり易すぎるだろう、永久――と貴方は忍び笑う。

 それからしばらく、永久は満足げに尻尾を揺らし続けた。


 が、不意に、


「……頼来。いつまで撫でているのだ?」


 流石に気になったのか、微かに頬を染めて尋ねてきた。


「いや、ほら……あれだ、あれ」

「あれ?」

「今のうちに礼を溜めておこうと思って」

「――なんだそれは」


 永久が呆れるように言った。

 しかし、その声音は、少しだけ楽しそうだった。

 彼女もニャー先輩の一件が一段落ついて、気が緩んだに違いない。


「もう安心だよな」


 貴方は先程の光景を思い出して、ほっと呟いた。

 仁愛が引っ込んでニャー先輩はそのまま眠ったままだが、この幸せそうな寝顔を見れば問題ないことは分かる。

 幸せそう、ではなくて、たぶん今、ニャー先輩は幸せだ。

 大好きなお祖母ちゃんとまた話すことができるのだから。


「随分と呑気なことを言っているな、頼来」


 永久が貴方を見上げて、釘を刺すようなことを言う。


「呑気って、お前な……別にもう終わったんだからいいだろ?」

「ふんっ。何が終わっただ。君は本当に忘れっぽい奴だな」

「忘れる?」


 貴方は首を傾げて永久の顔を覗き込む。

 すると永久は真っ正面から貴方を見つめ、


「帰ったら、霞と蒼猫に何を言われるのだろうな」

「――――あ」


 貴方は絶句して、永久を撫でていた手を止める。

 完全に忘れていた。

 全然、終わっていないどころか、これからが大変ではないか、と。


(どういうことですの?)


 私は尋ねるが、薄々は気付いていた。


「いや……ほら、見て分かるだろ? その……黙って出てきたから」


 ああ、やはり――と私は病衣に身を包む貴方を見て溜息をつく。

 軽く話を聞けば、貴方は昨日の夜には目を覚ましていたらしい。

 その時、居合わせたのは永久一人だった。

 蒼猫は心労で眠ってしまっており、霞さんは夜勤の手伝いでいない隙間のような時間だ。

 そこで永久から話を聞いて、貴方は一計を講じた。目を覚ましていないふりをしたのだ。理由は簡単で、病院からこっそり逃げ出すためだった。

 撫原医院は町内唯一の総合病院ということで夜中の急患は非常に多い。

 その対処のために職員も非常に多かった。

 出入りの激しい急患出入り口を気付かれずに通ることは難しかっただろう。

 だから、明け方を待って、一番人が少なくなった時間を狙って、貴方はこっそりと病院を抜け出したのだという。

 外で待っていた永久と合流して、空港まで今と同じようにタクシーで来たのだ。


「君の衣服を仕舞っていた辺り、霞は君が抜け出すことを予期していたのだろう」

「ああ、やっぱり……?」


 貴方は霞さんの姿を思い浮かべた。

 鋭い眼光でこちらを睨んでくる。

 間違いなくお冠だ。


「今頃、彼女は感心しているところかもしれないな。まさか、その姿のまま行動するとは夢にも思うまい」

「誉めるなよ」

「馬鹿者。軽口を叩く前に、霞たちにどうやって謝るのか考えるのだな」


 全くその通りだった。

 貴方は深く溜息をついた。

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