第一編 第六章 ⑨
ここが待合室なのだろう。
想像していた以上に広い部屋で、いくつものテーブルが設置され、カラフルな椅子がそれぞれ備えられている。
貴女が一歩進んだところで永久が扉を閉めた。彼女はそのまま扉の脇に立ち、壁に背をつけた。尻尾が壁を撫で、木の葉が風に飛ばされるような音がする。
「仁愛」
名前を呼ばれて、貴女はようやく気を確かにした。
入り口から真っ直ぐに進んだ先、部屋の中央には静恵さんがいた。
お祖母ちゃんがすぐそこにいる。
お祖母ちゃんと顔を合わせられる。
声を聞いても、近づいても、体質は出てこない。
「お祖母ちゃん……」
久しぶりに――そう、二年ぶりだ――お祖母ちゃんの顔を正面から見られた。
だいぶ、お祖母ちゃんの顔には歳が現れていた。
腕も細くなっている。
運動できなくなったのだから、それは当然のことで――そうしたのは自分で、だから……。
貴女はわき上がる衝動を抑えた。
今にもお祖母ちゃんの胸に飛び込みたい、と身体が震えた。
だけど、貴女は我慢して、ここに来た目的を果たそうと覚悟を決めた。
ここに来たのはちゃんと面と向かって、言葉にするため。
「お祖母ちゃん……ごめんなさい」
ちゃんと謝るために来たのだ。
「何を謝ることがあるのですか……?」
「あります、いっぱい……いっぱい。今日だって、昨日だって、いっぱい迷惑かけました。それに……二年前だって」
自然と頭が下がり、貴女は床を見ることになった。
「お祖母ちゃんに怪我をさせました。ニャーが自分勝手な望みを叶えるために体質を得て――ニャーのわがままで、自分を護りたいっていうわがままで、お祖母ちゃんに怪我をさせたんです。体質は悪くありません。全部、ニャーがそれを望んだから、ニャーが悪いんです……」
そう、悪いのは全部自分だ。
なんの罪もない。
貴女の耳に、衣擦れの音が入ってきた。
静恵さんが答える。
「そんなことありませんよ、仁愛。貴女は悪くない。もし……たとえそうだとしても、仁愛、私は大丈夫ですから。いいんですよ、謝らなくても」
「……許して、くれるんですか?」
貴女の呟きに、静恵さんは答えた。
「ええ。当たり前じゃないですか」
その答えを聞いて、貴女は肩を振るわせた。
分かっていたから。
こう言ってくれることは、分かっていたから。
「……駄目です」
「え……?」
静恵さんの困惑と同時、貴女は顔を上げて、
「お祖母ちゃん、駄目ですよ……無理ですよ……。お祖母ちゃんは優しいから、許してくれると思っていました……。――でも! ニャーは自分を許せません……!!」
首を振りながら、嘆いた。
「歩けなくなることがどれだけ大変なことなのか、取りかえしのつかないことなのか、ニャーでも分かります! そのようにしてしまった自分を、ニャーは許せません!!」
無条件に受け入れてくれた。
味方だと言ってくれた。
手を、繋いでくれた。
そんなお祖母ちゃんにもし拒絶されたりしたら、堪えられそうにない。
そんなお祖母ちゃんにもし、許してもらえたら。
許されたならば――それでも自分は、一生、自分を許すことができないだろう。
罪を犯して、
それを甘受するには、この罪は重すぎた。
「……待って、仁愛」
静恵さんは車椅子を動かして、貴女との距離を半分縮めた。
「確かに仁愛は私を怪我させました。それは動かせない事実。ですが、私が歩けなくなったのは、そのせいではないんですよ。貴女のせいじゃ――」
「嘘です……お祖母ちゃんは優しいから、そう言ってくれるんです。ニャーのせいじゃないだなんて、どうやっても考えられません」
たとえ楽観的な人間であっても、それだけは到底頷けないだろう。
(ニャー先輩……)
私は自分がどれだけ愚鈍なのかに気付いた。心裡さんの言葉を理解して、貴女の体質の本質に気付き、止める手助けができたと満足して、あとは静恵さんと会うだけだと、そう思っていた。
なんて
心裡さんの言葉の意味を理解なんて、全くしていなかったではないか。
『二人が会えないことが問題――ふうん? そうなんだ』
彼の言葉の意味と態度の冷たさが、理解できた。
そう、本当の問題は別にあるのだ。
出会ったとしても、貴女が背負う罪は変わりない。
許されても、自責が消えるわけではない。
一生その罪に蝕まれ――貴女は
そんなこと、静恵さんは望んでいないはずなのに。
許してくれるという彼女の優しさが、より一層貴女に罪を認識させる。
それはもしかしたら、会わないでいた時の方が軽かったくらいに。
許してくれるというから――
自分が自分を責めないといけない。
「だって、お祖母ちゃん、あの時までちゃんと歩けてたじゃないですか! 怪我をしてから、歩けなくなったじゃないですか……! ――ニャーのためにそう言ってくれるのは嬉しいです。本当に、嬉しいです。でも、ニャーは……」
「仁愛……」
静恵さんが辛そうに眉をひそめて、貴女を見上げた。
何も言えなくて、彼女もたぶん、言葉が出なくて。
貴女もそれ以上は言えなかった。
聞こえてくる彼女の声が、悲しそうだったから。
悲しんでくれることが嬉しい。
――本当にどこまでも、自分は自分のことしか考えていない。
重苦しい沈黙の空気が辺りに充満する。
私は堪えられそうになかった。
何も言ってあげられない不甲斐ない自分から、逃げたくなる。
彼なら、この場をどうしただろうかと、頼りたくなる。
本当に今、この場に彼が来てくれればと、観測を始めそうになった。
だが、それは彼女によって止められた。
「仁愛、それは違うぞ」
水を打ったような空間に、永久の声が響いた。
「彼女が言っていることは本当だ。仁愛のせいではないのだよ」
永久は扉の横で私の身体を抱えたまま、真っ直ぐに貴女を見ていた。
「……先輩まで、ニャーのためにそんな風に言ってくれるんですか?」
「それも違うな。私はただ、事実を言っているだけだ」
彼女の声は淡々としているのに澄んだ音をしていた。
その声は聞いている者に自然と聞く姿勢を取らせるような、そんな不思議な雰囲気を内包していた。
「君は静恵さんを怪我させた日のことをどこまで把握している?」
「えっと……覚えているのは宿題をやっていて、ノリを探してタンスを漁っていたところで――その、先程聞いた話では、ニャーはタンスでお祖母ちゃんの戸籍……謄本? を見つけて、お祖母ちゃんにお話を聞いたんですよね? それでニャーの体質が出て……お祖母ちゃんを怪我させました」
「ふむ。だとして、だ。他に何かないか?」
「……?」
考えてみるが、何も思い浮かぶことはなかった。
永久は首を振った。
「私はそこで思考を止めるなと言いたいのだよ。――おかしいと思わないか?」
「おかしいって……?」
「静恵さんの戸籍謄本が何故、家にあったと思う?」
「…………え?」
静恵さんの戸籍謄本が家にあった理由。
貴女は考えてもみなかった。
それは私もだった。
そう言えば、何故、そんなものが家にあったのだろうか。
「理由なくあんなものが家にあるわけがない。静恵さんが取得するわけがないのだよ。君だって一度も自ら取得したことなどないだろう? 当然、使用する機会がないからな」
永久は同意を求めつつ、事実を述べる。
「戸籍謄本を使用する場面は限られてくる。いくつかあげると、国家資格・各種免許の登録・取得、婚姻時だ。しかし、それらの場合でも、使用できるだけであって、謄本を用意することはまずないのだよ。何故なら、戸籍抄本――謄本から必要な事項を抜き出したものを使うのが通例だからだ。謄本より抄本の方が取得する際にかかる金額が小さい。まず間違いなく、抄本を取得して使うものなのだよ」
「……?」
貴女は頭から湯気が出そうなくらい混乱する。
細かくは把握できなかったが、辛うじて戸籍謄本を用意する場面がかなり限られていると言いたいのだと理解した。
「ええっと、じゃあ、戸籍謄本を取得するような状況はあるんですか?」
「一つだけあるぞ」
永久の断言。
答えが紡がれる前に、私は思い出した。
この話は以前、永久がしていたはずだ。
頼来の戸籍謄本を見て、話していたのは――
「パスポートを取得する時に、戸籍謄本を使用することがある」
「パス、ポート……?」
「そうだ、仁愛。パスポートを取得する、その時、家族の分も一緒に取得する場合に限り、戸籍謄本を取得することがあるのだよ。戸籍謄本には家族の戸籍全てが載っているため、抄本をそれぞれ家族分取得するよりも安価で面倒が少ないのが理由だ」
「……お祖母ちゃんはパスポートを? ニャーの分も?」
「そうだな。恐らく、仁愛の分も一緒につくろうとしていたはずだ」
だから、戸籍謄本が家にあった。
パスポートをつくろうとしていたから?
「……ですけど、それがどうかしたんですか?」
パスポートをつくろうとしていたことが、何に関係しているのだろうか。
「まだ分からないのか? パスポートをつくろうとしていたということは、当然だが海外に行こうとしていたのだ。これは否定しないな?」
「は、はい」
「では、何故、海外に行こうとしていたのか。それが一番に重要なのだよ」
と、永久は言い切ると、貴女から視線を外し、奥にいる静恵さんに向けて、
「貴女が海外に行こうとしていたのは、足の治療のためだったのではないですか?」
その言葉を聞いて、貴女は益々混乱する。
二年前に、足の治療?
「どういうことですか?」
「今回の臨床研究の責任者と静恵さんは懇意にしていると君も聞いたな。それも、三年前からの付き合いとか。――もしかして、静恵さん、貴女はその時から兆候があったのではありませんか? 足が動かなくなる兆候が」
「え……?」
静恵さんの方を振り向くと、彼女は貴女と目を合わせた。
そして、静恵さんは間を持って、しかしはっきりと頷いてみせた。
「分かったか? 仁愛。こう考えると偶然が必然になるのだ。静恵さんたちは三年前に知り合い、そのあと、偶然にも静恵さんの足が動かなくなった。――そんな偶然がありえるのだろうか」
臨床研究の責任者が、患者でもない静恵さんと出会い、そのあと偶然にも彼女の足が動かなくなる。
そのおかげで、彼女は臨床研究を受けられるようになった。
確かに、それはできすぎている。
偶然というにはあまりにご都合的だ。
「順序が逆なのだよ。足が動かなくなる兆候があった――それは例えば、脊髄腫瘍や脊髄空洞症が原因として挙げられる。慢性的に症状が進み、いつしか対麻痺……下半身不随になる症例はあるのだよ」
「……だから、お祖母ちゃんは、その責任者の方と知り合ったんですか?」
兆候が出たから、医者にかかる。
偶然性などまったく存在しない、もっとも説得力のある話の流れ。
それが三年も前に、本当にあった話だと?
「そして、二年前、仁愛に怪我をさせられた日を契機に、ついに足が動かなくなった。そこには因果関係はない。元から、静恵さんの足は動かなくなると予期されていたものだからだ。その後、以前から話していた通り、臨床研究に参加する運びになった」
違いますか? 静恵さん――と永久は本人に問うた。
貴女は再度、静恵さんを見る。
静恵さんは再度、貴女を見て、
「紅坂さんの仰る通りです」
はたして、頷いた。
「最初は気のせいだと思っていました。ただ、足が痺れるような違和感があるだけで。けれど、検査をして、念のためと主治医の先生に紹介されたのです。それが今回の臨床研究の責任者の方です。日本にちょうど来ていたので、そこで直接会って知り合いました」
静恵さんはゆっくりとした口調で、言葉を紡いだ。
「そして、二年と少し前、足の痺れが強くなりました。あの頃、私が歩きにくそうにしていたのを覚えてないですか?」
貴女は、覚えていた。
少しだけ歩きにくそうにしていたのは、はっきりと覚えている。
「その頃、責任者の方は既にアメリカに戻っていまして、電話で相談をしました。詳しく調べた方がいいと仰るので、私の方から出向く予定を立てたのです」
「だから、パスポートを……?」
「ええ。貴女にも一緒に来てもらうつもりで、ちゃんと話そうとして……ただ、足が動かなくなるかもしれないなんて、そんな話をあの頃の――ようやく、あの子たちの逝去から立ち直ったばかりの貴女に話すのは、ためらわれたから……」
だから、戸籍謄本を用意したまではいいけれど、時間を置いてしまった。
それを貴女が見つけてしまったのか……。
だとしたら、本当に。
「だからな、仁愛。君のせいではないのだよ。静恵さんの足が動かなくなってしまったのは、君のせいではない。彼女は君をかばって嘘をついているのではないのだ」
本当に、自分は――
「で、ですが……ニャーが怪我させたことで……」
「言っただろう? 因果関係はないと。脊髄損傷させるほどの怪我を負わされていたとしたら、彼女がすぐに病室を出られるような状態になるわけがない。だから」
「仁愛。貴女が悪いというのなら、悪いのはそこだけなのです」
永久の言葉を接ぐ形で、静恵さんが貴女に語りかける。
「怪我をさせてしまったことだけ。私を歩けなくした、なんてことはないのですよ? 貴女はそんなことしてないの」
貴女はすぐ近くまで寄ってきていた静恵さんを見下ろした。
無意識の内に肩から力が抜けて、息が漏れる。
次の瞬間、視界の中の祖母がじわりと歪んだ。
「あれ……?」
突然過ぎて、貴女は戸惑いを隠せなかった。
何故だ?
何故、今になって。
今、この瞬間になって、自分は涙を流しているのだろうか。
貴女は咄嗟に両目をずんぐりとした手で拭った。
しかし、涙は止まる気配を見せない。
視界が歪んで、何も見えなくなる。
肺が震えて、息が上手くできなくなる。
ああ、そうか――と貴女は悟った。
二人の話を聞いて、内容を理解して、まだ信じたわけではなかったはずなのに、心の奥底ではすでに納得してしまっていたのだ。
自分はこれほどまでに、罪を感じていたのか。
お祖母ちゃんを歩けなくしたことを。
罰せられたいと願っていたことを。
どれほどそれが重責となって、両肩にかかっていたのか、今、ようやく分かった。
自分のことも他人のことも、まったく分かっていなかった。
不甲斐ない。
また、こうやって罪から逃れて心を軽くしている自分が嫌になる。
何も変わっていないではないか。
自分のために、自分を助けるために体質を得た、あの頃と何も変わっていない。
貴女は嫌々するように首を振って、涙を止めようと何度も手で拭った。
でも、涙は止まってくれない。
梅雨の雨のように、ずっとずっと降り続ける雫たち。
不意に、貴女は腕を下に引っ張られた。
祖母が手の平を両手で包むように握る。
「いいの。もういいのですよ。自分を責めなくても、いいの」
「――……」
嗚咽が、口から漏れだした。
「ごめんなさい。二年間も、辛かったでしょう? ずっと、気に病んでいたのでしょう? 私が最初から、海外に行くことを話していれば良かったのに……。私が貴女のことを本当に分かっていてあげていれば、体質の子のことも分かってあげられましたのにね」
なんでそんなに優しいのだろうか。
なんでこんな自分を受け入れてくれるのだろうか。
それに甘えてしまって、いいのかな?
「仁愛。それに体質の子も。あの子たちのことを――二人の子供になってくれて、それを大切に想ってくれて、ありがとうね」
「お祖母、ちゃん……!!」
貴女は耐えきれず、泣き崩れた。
その場に膝をついて、静恵さんの膝に泣きついた。
それを静恵さんはあやすように、優しく頭を撫でる。
ただ黙って、撫で続けた。
優しげな手付きは、変わっていない。
初めて会って、二人の子供になってくれてありがとうと言ってくれた時と。
何も変わっていなかった。
お祖母ちゃんの体温を感じる。
お祖母ちゃんの優しさを実感した。
額を強くお祖母ちゃんの膝に押しつけて、大きく息を吸い込んだ。
久方ぶりに嗅いだお祖母ちゃんの匂いは、何も変わっていない。
それは日向のような匂いだった。
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