第一編 第六章 ⑧

 私は気付けば、貴女を見ていた。

 ついでに言えば、貴女の両手に抱かれた私も見える。


(…………)


 たっぷり十秒ほど思考を止めて、私は気付いた。自分が体質によって眠ってしまい、貴女を観測していることに。


「リズ先輩? 眠っちゃったんですか……?」


 貴女は貴女で気付いたようで、私の身体を軽く揺さぶってみる。全く力が入っていないことに不安を覚えて、「先輩? え……先輩……?」震える声を絞り出す。

 可哀相なくらいに内心動揺しているのが伝わってきて、


(……あんまり、揺さぶらないでくださいます?)

「リズ先輩! ……? どこですか?」


 貴女は尋ねてみて、腕の中で眠る私を見て、わけが分からなくなる。


「えっと、今のは幻聴ですか……?」

(違いますわよ……)

「ふえ!? じゃ、じゃあ、リズ先輩はどうやって……?」


 目をぐるぐるさせる貴女に、私は聞こえよがしに溜息をついた。

 私は懇切丁寧に説明する。

 昨夜、私の体質については教えたはずだが、感想通り本当に理解できていなかったと知る。

 どうにか、理解を追いつかせて、


「た、たぶん、分かったと思います。急なことで驚きました……」


 貴女の言葉をそっくりそのまま私も言いたかった。

 まさか、この状況で眠ってしまうとは思わなかった。

 おそらくだけれど、頼来の様子を見て――いや、そもそも、頼来が無事で、貴女の体質の問題も片付いて――気が抜けたのが一番の要因なのだろう。

 今までも気が抜けた時に眠ることがあったので納得はいくけれど、なんとなく情けなく思えた。

 ただ、任されたことはまっとうできるのが唯一の救いだ。


(とりあえず、ニャー先輩。今、どうなっているか、分かりませんわよね?)

「リズ先輩のことなら、分かりましたよ?」


 それは現状を把握していないに等しい答え。そこは問題でもなんでもないのだから。

 私は貴女が眠っていた間に何があったのかを伝えた。

 頼来が無事だったのことも、体質が現れたことも、体質には人格があったことも、どうして静恵さんに反応するようになったのかも、余すことなく全て。


「……ニャーの大切なものは、自分だったんですね」


 話を聞いて、貴女は呟いた。

 自分でも自分のことが分かっていなかったのだ。

 何故、こんな体質を得てしまったのかとずっと考えてきたけれど、言われてみると本当に単純な話だ。

 納得するしかない。

 だって、あの時のことはいまだによく覚えているから。

 どれだけ怖かったかを、よく、覚えている。


 お父さんたちの家族がみんな怖くて、でも、一人だけそうではなく優しくしてくれて――


「お祖母ちゃん」


 貴女はばっと顔を上げた。

 そう、呆けている場合ではない。

 お祖母ちゃんに会える。

 お祖母ちゃんに会わなければいけない。

 会って、言わなければいけないことがある。

 言ってもらわなければならないことがあった。


(静恵さんは待合室にいるって話でしたわね)

「そうですね!」


 貴女はその場で館内に視線を巡らして、案内板を見つけた。小走りで寄って、フロアの地図を上から下へ眺める。ちょうど真ん中らへんに『有料待合室受付』という文字を見つけた。ここがそうなのだろうか?

 現在位置と自分の向きを頭に浮かべ、廊下をぐるりと流し見、場所の見当をつけた。

 方向感覚のない私にしてみれば、その動きや捕捉の仕方は流麗で尊敬に値する。どうやら貴女は空間把握能力が高いらしい。

 貴女は頭の中で自分の現在位置をぼんやりと思い浮かべながら、濡れそぼって重くなった靴で足跡を残しながら走る。

 廊下を二度左に曲がれば、目的地だった。

 硝子の壁で仕切られた小さな部屋。

 扉の上部には『有料待合室 受付』と書かれている。

 貴女がそっと硝子戸を押して中に入ると、すぐ目の前のカウンターにいた受付のお姉さんがにこりと笑った。

 貴女はやや恐縮したように笑い返して、彼女に近づく。


「あ、あの……えっと……」


 咄嗟に言葉が出てこない。

 こういう場合、何から話せばいいのだろうか。

 一度空回った頭からは言語中枢が欠落し、的確な言葉が生み出されない。

 お姉さんは焦って顔を紅潮させる貴女を見て、再度笑いかけた。


「もしかして、鳴瀬仁愛様ですか?」

「ふえ? は、はい! そうです!」

「お話は伺っております。お祖母様たちがお待ちですよ」


 そう言われて、貴女はまた咄嗟に声が出せなかった。

 頷く頷く。

 お姉さんは流石はプロ(?)なのか、笑顔を絶やさず困惑の色を微塵も見せずに行動を続けた。


「では、ご案内致します」


 カウンターから出てきたお姉さんが一歩先に進んで硝子戸を開けた。

 どうやら、ここに待合室があるわけではないらしい。

 貴女は扉を開いて待ってくれているお姉さんに頭を下げて、足を一歩前に出した。


 二歩目は前に出されなかった。


 貴女の動きが止まる。

 目が留まる。

 視線の先にはガラス戸越しに二人の警備員――先程とは違う人だ――がいた。


 こちらに向かって、走ってくる。

 その内の一人と目が合った。

 瞬間、貴女はぎくりと肩を強張らせた。

 あの人たちの目的は、自分だと直感する。

 知らず識らず、貴女はゆっくりと後ずさった。


「どうしまし――」


 お姉さんが貴女に向けた言葉を止める。

 警備員二人がそれと同時に案内室の中に傾れ込んだ。

 お姉さんは何事かと目を白黒させて、押し黙った。

 警備員二人は入り口で立ち止まる。

 その内の一人、先程目があった方の男性が、


「ベンチを壊したのはお前だな」


 神妙な声音で言った。

 聞いたのではなく、自身に確認するような響きを持っていた。

 貴女はさらに後ずさって、カウンターを背に息をのんだ。


「ど、どうしましょう、リズ先輩……」

(と、とりあえず、否定したらどうですの?)


 私は答えながら別のことを考えていた。

 どうしてこんなに早く気付かれたのか。

 頼来は時間稼ぎもできないのか、と心の中で腐す。

 その間に貴女は迷っていた。

 気が進まない。

 頼来が犯人ということ自体に納得がいっていない。

 ただ、彼は自分のためにその役を買って出たのだ。

 なら、甘えてこそ彼への恩返しになるのかもしれない。


「ち、違います……。ニャーではなくて、あの人が……」

「――監視カメラにしっかりと映像が残っていたぞ」


 警備員の答えに、貴女は言葉を失った。

 監視カメラ?

 そんなものがどこに……。

 思い返そうにもデッキにいた時の記憶が曖昧で貴女には分からない。

 代わりに私ははっきりと思い出した。

 あった。

 断続的にフェンスの上部に設置されていた、気がする。

 そんな決定的な証拠があれば、この状況も理解できる。

 通りで彼らは近づいてこないわけだ。

 ベンチを放り投げられるような貴女の力を見たから、迂闊な行動ができないのか。


 警備員の一人が慎重な様子で一歩前に踏み出した。

 もう一人は入り口の前にはだかる。

 受付のお姉さんは何も言わずに外から固唾を呑んでいた。


 どうすればいい?

 貴女はまごついた。

 逃げなければ、と心臓が跳ねる。

 しかし、逃げようにもここは部屋の中、入り口はしっかりと固められ、逃げる先が存在しない。

 でも、このまま捕まっていいはずはなかった。

 捕まってしまえば、たぶん、祖母には会えない。

 それに――


 貴女は気付いた。

 どうして今、自分が身動き取れないのか。

 何よりも案じていたのはそれではない。

 捕まってしまったら、体質仁愛が現れるかもしれない。

 自分の安全のために――望みを叶えるために――この子は障害を取り除こうとしてしまうかもしれない。

 それだけは避けなければならない。

 傷つけたくないし、傷つけさせたくなかった。

 そう思ったら足が竦んでしまった。

 この子が出てくるかと危惧すればするほど、危機感が募り、それがまた理由となってこの子が出てきてしまうのではないかと思わせる。


「大人しくついてくるなら、乱暴な真似はしない」


 警備員が警棒を取り出して言った。

 耳朶じだを打つ声が恐怖を呼ぶ。

 視認した武器が怖気立たせる。

 今にもこの子が出てきて、自分は意識を失って、気付いた時には全てが終わっているのではないかと――貧血を起こしたように血の気が引いた。


(ニャー先輩……!)


 私は反射的に名前を呼んでしまった。

 竦んだ足が身体を支えきれなくなり、貴女はカウンターに背中を擦らせて、床に尻もちをついた。

 警備員がまた一歩、足音を立てて近づいてくる。

 怖い。

 距離が縮まって見下ろされる。

 貴女は俯いた。

 手を伸ばされたのが気配で分かる。

 触られるのが怖かった。


 貴女は頭を振った。

 こんな風に怖がっているから出てきてしまうのだ。でも、だとしても、一度芽生えた恐怖心はぬぐい去れない。

 また、取りかえしのつかない怪我を、誰かにさせてしまったら、自分は――


「お祖母ちゃん……!」


 貴女は声に出さず、彼女を呼んだ。

 だから、答えが返ってくるはずがない。


 そう思ったのに、貴女の耳には届いた。

 確かに聞こえた。


「待ってください」


 貴女は顔を上げる。

 そこには二人がいた。


 永久と叔父さんが入り口にいた。


「叔父さん……? 永久先輩……?」


 それはまたしても声にならなかったが、永久は分かっていると言いたげに、瞼を閉じて頷いてみせる。


「貴方は?」


 警備員がいくらか緊張したように声を固くさせて問い掛けた。


「私は……その子の叔父です」


 彼はそう答え、頭を深く下げた。


「この子がしたことは私が原因です。私からどうか謝らせてください」

「…………」


 身体の大きな叔父に、礼儀正しく謝られ、困惑したのだろうか。警備員の二人は顔を見合わせる。そのうち、腹が決まったようで一人が声をかけた。


「あの……大丈夫ですので、顔を上げてください」


 叔父さんはゆっくりと顔を上げ、警備員二人に顔を向け、


「事情は……私からお話しします。ですから、この子に少し時間をいただけないでしょうか? 今から、この子は人と会う予定なのです」


 叔父さんが補足する。

 永久はただ黙って見守っているだけだ。


「……あとで直接、話を聞かせていただけるのなら」


 しばらく考え込んだ警備員たちだったが、結果的には了承を示した。

 貴女は放心としたまま、成り行きに任せていた。まだ何がどうなったか、頭で理解できていない。

 叔父さんが目の前にいることも、目の前にいても体質が出てこないことも、現実として認識できないでいた。


「仁愛」


 声をかけられて貴女ははっとする。

 目の前にいつの間にか永久がいた。


「移動するぞ」


 永久は言うと、貴女が抱えていた私の身体をそっと取りあげて、代わりに抱きかかえた。様になって見えるのは誉めていいやら悪いやら。

 貴女はゆっくりと立ち上がって、先に行ってしまった永久のあとをついていく。

 案内室を出て廊下を曲がって先に進む。

 すぐに扉が見えて、永久はそこを開いた。


 貴女は永久に促されて、部屋の中に入った。

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