第一編 第四章 ⑩

 貴方は店を出ると再度、叔父さんの車に乗り込んだ。

 送ってもらう必要ないと思ったのだが、静恵さんに言われて仕方なく受け入れたのだ。

 叔父さんが運転席に座って、車はゆっくりと発進した。


 静恵さんはその場に残り、人と会う予定だという。

 部屋を出る間際、ふと思い出したかのように彼女は貴方に「仁愛は、私たちについて何か話していましたか?」と尋ねてきた。


「静恵さんについては、ニャー先輩本人から少しだけ聞いてます」


 貴方は答える。

 あの時のニャー先輩の笑顔を思い出しながら。


「優しくて大好きなお祖母ちゃんって言ってましたよ」


 それを聞いた瞬間の静恵さんの顔は、とても複雑だった。

 少々驚いたように瞳を大きくして、すぐに瞳にうるみが見えた、気がした。

 嬉し涙ならいいのだけど、どこかそれ以外の感情を――悲しそうな感情を口もとに見た、気がする。


 やはり、何かしら、二人にはどころない事情があるのやもしれない。

 貴方は静恵さんを信じると決めたからか、やはり詮索はせずにその場を去ったのだった。


「……リズ、何か言いたそうだな?」


 不意に貴方は察したようなことを言う。

 伊達だてに長年付き合ってきてはいない。


(頼来はいいかもしれませんけど、私は気になりますわよ、その『事情』がなんなのか)


 貴方は直感で信じているようだが、――もちろん、私も静恵さんのことは信じられる人だと思っているけれど、それとこれとは話が別なのだ。

 何故だろうか、胸騒ぎがする。

 それはここであった会話だけでなく、これまでにあった誰かの会話を観てきて生じた――私の直感である。

 誰の会話か。

 おそらくそれは、永久と白雪さんの会話だ。

 貴方に話そうとしたが、二人が何を話していたのか、すぐには思い出せなかった。


「大丈夫だって、リズ。少なくとも『ニャー先輩のため』っていうのは絶対だと思うぞ」

(……貴方、随分と静恵さんのこと気に入ったみたいですわね)


 貴方は最初とは打って変わって、本気で彼女のことを信頼していた。


(やっぱり、さっき貴方が言ってたことが理由ですの?)

「……どうだろな。それだけじゃない気はする」

(? 他にありますの?)

「んー、なんていうか、俺、『お祖母ちゃん』って人を知らないからさ」


 ああ、そうか――と私はすごく納得してしまった。

 貴方は自分の祖母と会ったことはなかった。母方の祖父母は小さい時には亡くなり、父方の祖母は生まれた時にはもう病気で亡くなっていたからだ。

 写真では見たり、話に聞いたりしただけで、本当のところどんな人だったのかを貴方は知らない。

 だから、祖母という人が一般的にどのような存在なのか、貴方は皆目見当もつかなかった。


 でも、こんな人が自分の祖母だったら、嬉しく思ったのではないか、と貴方は思う。

 なんとなく、貴方の気持ちは理解できた。


「……天塚さん、少々よろしいでしょうか?」


 運転をしながら、横目で叔父さんが尋ねてきた。

 貴方は私との会話をやめて頷き返す。


「これから先の、仁愛さんの住居についてですが」

「あ、言ってなかったな。ひとまずはこのままウチ――あえか荘に居させる予定だよ。出て行くんだったら、ちゃんと次の住居を見つけてからって約束はしてる」

「……ありがとうございます」


 叔父さんは小さく息をつく。


「そうだ、そこらへんも全然聞いてなかったんだけどさ」


 貴方は今日、全然こちらから話を聞いてないと思い、


「ニャー先輩が『睡蓮』に住んでいたことは知ってたんだよな?」

「はい」

「なら、『睡蓮』を出ていったってのは知ってたのか?」

「……二週間ほど前になりますが、大家の方から連絡があり、そこで知りました」


 二週間前。

 実際、ニャー先輩が『睡蓮』を出たのは一ヶ月以上も前の話。


「いくらなんでも、伝わるのが遅すぎないか?」

「……申し訳ございません」


 謝られた。どちらかと言えば、伝えるはずの大家の連絡が遅いのが原因な気はする。

 事情があって連絡を取り合っていないという話だし、仕方がなかったのかもしれない。


「じゃあ、ニャー先輩がバイトしてるのは知ってるよな? 聞いた感じ、理由が生活費を稼ぐためみたいだったけど――あんたら、援助してあげられないのか?」


 自然と貴方の口調が詰問の形になった。

 会えなかったり、話せなかったり、と何かしらの理由があるのは分かるけれど、彼女の生活を保障する方法などいくらでもありそうなものだ。

 それさえ、できないというのなら――


 それは誰かに止められているからなのか?


「……」


 叔父さんがしばし考える。

 貴方が黙って行く末を見守ると、


「言い逃れに聞こえるかもしれませんが……彼女、個人が決めたことかと思います」

「……どういう意味?」

「私たちは確かに、彼女へ仕送りはおこなっています。ただ、彼女はそれを使用しないように努めているのだと思われます」


 叔父さんは慎重に言葉を選んで、だが、確信を持った響きをのせて言った。

 貴方は腕を組んで、肩から伸びているシートベルトを引っ張りながら考えた。

 ニャー先輩は自分の意志で、援助は受けとらないようにしているというのか。

 彼女の性格的になんとなく理解できる気もするが――人に迷惑をかけたくない――、既に仕送られているものにさえ手をつけないのは、何かしらの理由がないと納得はいきにくい。


「なんでニャー先輩はそんなことをしてるんだ?」


 叔父さんは前を見たまま口をつぐんだ。

 その様子から、答えを知らないのではなく、答えられないのだと悟る。

 これもまた、『家庭の事情』なのだろうか?


「分かった。いいよ、それは」


 それこそ、彼女自身の問題かもしれない。

 直接、尋ねるべきものだ。

 もういくつか思うところはあったけれど、それも全部、ニャー先輩に尋ねるべきものだと貴方は気付き、話題を変えた。


「そうだ。これも聞きたかったんだけど、俺がニャー先輩を保護したって話は誰から聞いたんだ――つーか、俺のことはどこから知ったんだよ」

「それは……彼女の学校から連絡がありまして」

「ああ……納得した」


 貴方は興醒めしたように呟く。

 ニャー先輩が休むことを貴方は彼女の学校に連絡していた。

 その時、物凄く怪しまれたのだが、それが理由で保護者である静恵さんに連絡がいったのだろう。


「……ただ、そこで詳しい話を聞けなかったのですが」

「ん?」

「仁愛さんはどこで生活をしていたのでしょうか?」


 学校には詳しい話を伝えていないから、当然彼らは知らないのだ。


「ずっとそこにいたのかは聞いてないけど、街外れの廃墟? で生活してたっぽいぞ。――そうそう、ちょうどこの先を進んで行けば着くな」


 貴方はフロントガラス越しに道を見て、答える。このまま、真っ直ぐ行けば、あの日ニャー先輩がいた建物が見えてくるはずだった。

 不意に貴方は、また何かを思い出しそうになった。

 今朝から続いている違和感が、また胸の中に生まれる。

 まだ、自分は何かを忘れている?

 忘れていたのはこの人のことではなかったのだろうか。


 貴方がその正体を探る間もなく、あの建物が見えてきた。

 夕陽に照らされた建物は、酷く黒ずんでいた。

 一体、いつから放棄されたものなのか分からないが、こうやって明るい時に見ると間違いなく廃墟だと認識できる。

 思っていた以上に建物は大きく、広い敷地内には二棟の建物があるのが分かった。


「……ここ、でしょうか? 仁愛さんがいた場所は」


 叔父さんが車の速度を落として、ついには建物の傍で停車して聞いてきた。

 まだ何も言っていないし、じろじろと見たわけでもないのに、何故分かったのか。


「知ってる場所?」


 貴方が尋ねると、彼はシートベルトを外して、


「もしかしたら、ですが……。確認してきてもよろしいでしょうか?」


 貴方は頷いて同じようにシートベルトを外した。

 二人してそれぞれ車を降り、敷地を囲む塀に沿って歩く。

 すぐに門となる場所まで着き、叔父さんが立ち止まった。

 彼は塀につけられている表札を見ている。

 貴方もならって見てみるとそこには『双葉学園』と書かれていた。


「こんなところに学校?」

「いえ。学校ではなく、児童養護施設です」


 そういえば、児童養護施設の名前にはそういうのが多かったなと貴方は思い出す。

 どうしてそうなのかは知らないが、児童たちが職員の人を先生と呼んでいるところなど、テレビか何かで見た記憶があった。

 ――そんなことはどうでも良くて、


「まさか、ここって」

「はい。仁愛さんがいた施設だと思われます」


 そうか、と貴方は息をついた。

 ニャー先輩は養子縁組して引き取られる前は施設で暮らしていたと言っていた。

 彼女は理由なくここを使っていたわけではなかったのだ。

 昔、ここにいたから、彼女は困った挙げ句にこの建物を使わせてもらったのか。


 既に廃園しているだろうここを、ニャー先輩はどんな気持ちで使っていたのだろう。

 貴方は彼女の気持ちを追うかのように、ふらりと敷地内に入っていった。

 雑草が生い茂る庭から土の臭いが漂い、門から続く石造りの道は建物と同じように黒ずんでおり、荒廃した様子が顕著だった。

 建物を見上げると、いくつもある窓硝子の内、いくつかは割れ、もはや人が住む場所ではないことが伝わってきた。


 視線を降ろして、貴方は建物の入り口を見た。

 硝子戸になったそこは、あの日と同じように開け放たれている。


「……あれ?」


 貴方は首を傾げた。


 ……どうして、開いている?


 あの時、自分が取った行動を思い出す。

 ニャー先輩が倒れたあと、とにかく彼女をあえか荘まで運ぼうとした。

 ちょうどその時、建物の中にニャー先輩の荷物が見えたから、それだけは一緒に持っていくべきかと思い、取り出したのだ。

 そして、自分は建物を出る時、雨風が入ってはいけないと思って、硝子戸を閉めた。


 なら、今、ここが開いているのは――


「――先輩?」


 するはずのない声が微かに聞こえた。

 いるはずのない彼女がそこにいた。


 ニャー先輩が入り口に立ち、驚きに足を止めている。

 彼女の手には数枚の大きなタオルと、それを乾かすのに使うだろう金属製のスタンドがあった。


 あ、と貴方は心にわだかまっていたモノが落ちていく気がした。

 だから今朝、ニャー先輩の部屋を――彼女の荷物を見て、思い出しそうになったのか。

 ずっと忘れていたことはまさにこれだ。


『全部運んできたつもりだけど、他に荷物があるかあとで確認してくれ』


 ニャー先輩に言い忘れていたこと。

 あの日、一時的に彼女が起きた時に伝えようとしたこと。

 言いかけた時には彼女は寝てしまっていたから、伝えられなかった。

 たぶん、ニャー先輩は熱もなくなったから、足りない荷物を取りに来たのだろう。


 ……あ、れ? ちょっと待て。


 貴方は突如として押し寄せた危機感に、身体を硬直させる。


 これって、もしかして――


「天塚さん、何か……」

「先輩! どうしてここ、に……」


 ――不味い事態なんじゃなかろうか。

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