第一編 第四章 ⑪

 貴方は二人の声に挟まれて、すぐに強張りから解放された。

 片足を後ろに下げて身体の向きを変え、二人の様子を見る。

 二人は言葉を失ったまま、身体を硬直させていた。

 貴方は二人の様子に言葉を飲み込むしかなかった。


 どうすればいい?

 この場合、自分は何をすればいいのだろうか。


 考えたあげく、貴方は眉をひそめた。

 そもそも、今、この場で問題があるとすれば何か。

 知る限りでは、ただ一つ。

 自分と叔父さんが一緒にいたことをニャー先輩に知られただろうということ。

 叔父さんが名前を呼んだことを聞いていたとしたら、それは言い逃れできそうもない。


 まさか、こんな形で、一時間も経たずに静恵さんとの約束を反故にしてしまうとは思ってもみなかった。

 貴方は深く後悔する。

 ニャー先輩に伝え忘れていたことを思い出していれば、せめてここに来ているかもしれないと警戒は出来たはずなのに。


 それにしても、と貴方は思った。

 何故、この二人はここまで驚いているのだろう?

 そりゃこんなところで出会うなんて考えてもいなかっただろうけど、いくらなんでも驚きすぎに思える。

 いつまでも固まってないで何かリアクションしてくれ、と貴方は叔父さんを睨むが、彼はニャー先輩から目を離さず、貴方を見てもいなかった。

 しかし、そこで彼の顔色が変わる。

 と同時、静寂の中に耳障りな金属音が鳴り響いた。

 ニャー先輩の手から金属製のスタンドが滑り落ち、地面に叩き付けられた音だった。


 それを機に、場は動き始める。


「あ……えっと……先輩、なんで叔父さんと……」


 譫言うわごとのようにニャー先輩が呟く。

 質問ではなく、驚きから出た言葉。


「ニャー先輩。あー、あのさ……」


 言葉が続かなかった。

 何を言えばいいのか分からない。

 そう、何が問題なのか、自分は分かっていないから、言葉を見つけようがないのだ。

 叔父さんや静恵さんと会っていたことを伏せて欲しいと言われてはいたが、その理由を聞いていない。

 苦し紛れに貴方は叔父さんを見るが、彼は微動だにしていなかった。

 この場で何かできるとすれば、事情を知っているはずのこの人だけなのに。

 焦れったいという以上に、勘弁してくれと苛立ちが先に来る。


 当てに出来そうもないと貴方はニャー先輩に向き直った。

 すると彼女はびくりと身体を震わせる。


 彼女の顔面は蒼白だった。


「ニャー先輩、大丈夫か……?」


 無意識にそう尋ねてしまうくらいに、彼女の顔色は悪い。

 ニャー先輩の様子がおかしい。

 貴方が一歩近づくと、彼女ははっとして、一歩下がった。


「だ、駄目です、来ないでください……」

「……え」


 はっきりと拒絶され、貴方は戸惑う。

 この人に拒絶されるなんて、想像すら出来なかった事態に、貴方は困惑した。


「で、でも、ニャー先輩」


 貴方が動揺混じりにさらに一歩詰めると、


「……いや」


 彼女はまた一歩下がって、悲しそうに強く拒絶した。

 俯いて、身体を震わせると、手に持っていたタオルを落とし、


 身体を翻して、彼女は建物の中に逃げ込んだ。


「ニャー先輩!?」


 貴方は焦る。

 どう考えても様子がおかしかった。

 あの時と同じように――あの時、叔父さんから逃げたように、自分からも彼女は逃げてしまった。

 わけが分からない。

 どうしてこんなことになったのか分からなくて、貴方は足を止めてしまう。


(頼来、何をやってますの!)

「――っ」


 ぼうっとしていた意識が、少しははっきりとしたようだ。

 そうだ、ここで立ち竦んでいても意味がない。

 彼女を追いかけないと。


「あ、天塚さん……!」


 貴方が動き出したところで、やっと叔父さんが声を発した。

 貴方は首だけ振り向かせて、


「あんた、一体、なんのつもりだよ。ぼうっと突っ立て何もしないで」


 何もせずにいたこの人を、貴方は信用しきれなくなっていた。


「…………」


 そして、また、彼は言葉に詰まって腕時計を触る。

 その動作が癇に障って、貴方は彼を見限り、ニャー先輩を追って走り始めた。


「ま、待ってください、天塚さん!」


 彼の言葉を無視して、貴方は暗い建物の中を走った。

 電気のついていない廊下は薄暗く壁の色さえはっきりとしない。使われていなかったためか、少し歩くだけでも埃が舞い、空気が澱んでカビのような匂いが鼻腔を刺激した。

 ニャー先輩はどこに行っただろうか。

 やはり、外観通り、この建物はそこそこの広さがあった。薄暗い廊下にはいくつかの部屋に続くドアがある。しかし、ドアを開閉する音は聞いていないので、そこにはいないと思われた。

 矢先に貴方は階上からの足音らしきものを捉えた。

 すぐ横手にあった階段を貴方は駆け上ろうとして、思い直す。音が響くようなので、あまり自分も足音を立てるのは得策ではない。いつかと同じように、尾行するつもりで彼女を追った方がつかまえやすい気がした。

 貴方は極力足音を殺すように早歩きで進む。階段を手すりに手をつけながら上り、耳をすませてニャー先輩の居場所を探る。

 奥の方から物音が聞こえた……気がする。


(私が聞く限り、もう一階上から聞こえた気がしますわよ)


 貴方は私の言うことを信じて、更に階段を上った。

 建物は三階が最上階らしく、そこで階段は途切れている。下二つとは違い、廊下には窓が張られていた。窓の外はテラスになっているらしく、高い網状の塀で守られている。

 貴方は廊下を奥の方へと進んで行った。

 奥の方にいる確証はないけれど、何も考えずに逃げたのだとしたら、入り口から一番離れた場所に行った可能性は高い。

 窓から漏れる夕陽が薄汚れた廊下を照らし出す。廊下の中央、窓とは反対側の壁には掲示板らしきものが備え付けられており、緑色のそこには画鋲だけが刺し残されている。

 強く哀愁の念を感じつつ、貴方は廊下の奥まで進む。突き当たりには大きな観音開きの扉があった。

 ここにいると貴方は直感する。

 静かに扉を押し開いた。


 開いた先には広間があった。

 だだっ広い、何もない部屋。

 大きな窓から西日が差し込み、部屋の中央をスポットライトのように照らす。


 ニャー先輩はそこにいた。


 彼女は貴方に背を向けて、俯き気味の姿勢で固まっていた。

 いつも揺れていた尻尾は、悲しそうに垂れ下がっている。


「ニャー先輩……」


 貴方はニャー先輩に近づいて声をかけた。

 すると彼女はびくりと身体を震わせて、でも、こちらを見ようとはしなかった。

 その時、階下から扉を開ける音が聞こえてきた。おそらく、叔父さんが追ってきたのだろう。


「――」


 下方に気を取られている間に、ニャー先輩が何か言ったような気がした。言葉が続くのかと期待したのだが、彼女は何も言わずにただ黙っている。ただ黙って俯いて、未だにこちらを振り向こうとしていなかった。

 貴方は彼女にまた話しかけた。


「ニャー先輩、なんで逃げたんだ?」


 非難するような音をつくらないように心掛けて、貴方は尋ねる。


「俺から、逃げたんだよな? どうして?」

「……」


 彼女が微かに首を振ったように見えた。

 貴方から逃げたわけではないと言いたいのか、答えたくないと言いたいのか、分からない。

 貴方は質問を変えてみた。


「ニャー先輩、あの人、あんたの叔父さんなんだろ? 新聞配達してるニャー先輩と出会った時も、あの人から逃げたんだよな? なんでだ? やっぱり、それも家庭の事情ってやつで、ニャー先輩も話せ……」

「……」


 彼女の反応が鈍く、貴方は言葉を飲み込んでしまった。


「……悪い。やっぱり、踏み込みすぎだよな」


 頼まれたわけでもないのに、勝手に厚意を押しつける。

 それは独善的な行為そのものだ。

 白雪さんの言葉が頭に過ぎる。


 でも、そうだとは分かっていても。


「でも、そんなニャー先輩、放っておけねえよ」


 彼女の全てを拒絶するような姿が、過去の記憶と重なって見えた。


 

 あの時もあの子は、ただ誰もを拒絶していた。

 助けて欲しいと願っているはずなのに、誰もを拒絶して、彼女は独りいなくなった。

 自分はそれを助けられなかった。


 ――どうして同じことを繰り返せるというのか。


「ニャー先輩……」


 彼女は彼女だ、過去に囚われてもそれを忘れてはいけない。

 貴方は彼女の名前を呼んで、現実に帰ってきた。


 しかし、


「…………ニャー先輩?」


 微塵みじんも反応がなかった。

 いくらなんでも、おかしすぎる。

 無視するにしても、ここまで無反応なのは、正直恐怖さえ感じてしまう。


 衣擦れの音と足音が近づいてきて、後ろが何か騒々しかった。

 だけど、貴方は構わずにニャー先輩に手を伸ばしていた。


「ニャー先輩、どうし……」

「――天塚さん! 早くそこから離れて!!」

「え?」


 それは初めて聞く、叔父さんの大声だった。

 初めて聞く、具体的な命令だった。


 だけど、そう、ニャー先輩は違う。

 ニャー先輩だけは最初から言っていたではないか。


 駄目です、と。


 来ないでください、と。


 彼女の言葉は単なる拒絶ではなく、来てはいけないという意味の――


「――」


 風の音を聞いた気がした。


 あの猫のような手が、手の平が一瞬見えて。

 彼女に振り払われたのだ。

 彼女へ伸ばしていた手が振り払われたのだと、最初は思った。


 しかし、違う。

 振り払われたのは、身体。

 薙ぐような動きで、自分は身体ごと振り払われたのだ。


 衝撃は感じなかった。

 優しく、そっと撫でられたかのような感覚が、脇腹を暖めていただけで、それ以外は何も感じない。

 だというのに、息は止まり、身体は――


 身体が中空に投げ出されていた。

 自分が宙を舞っていると気付いたのは、ニャー先輩が離れていく光景が目に入ったから。


 夕焼けを浴び、悠然と佇む彼女と目が合った。


 悟る。

 彼女の瞳の色が、違った。

 夕焼けに光る彼女の瞳は、紫色に輝いていた。

 自然に人間が持つ瞳の色ではない。

 嫌でも彼女が、欠落症であることを分からせる色。


 そして、これは、そう、欠落症の体質。


 彼女は以前、言っていた。


『ニャー、こう見えても力持ちらしいので』


 何故、伝聞なのか。

 それは自分では力が出せなくとも、体質は違うから。

 彼女の意思がそこになかったとしたら、それは伝聞にならざるを得ない。


 そして、『睡蓮』の階段。

 彼女が壊してしまったという階段。

 転んで踏み抜いたという話だったが、それで一応は納得していたけれど、彼女のような小柄な子が転んだくらいで壊れるなら、おそらく誰かが使っていただけで壊れたはず。


 だから、あれも、ニャー先輩の体質が原因で。


『もう……傷つけたく、ありません……』


 不意に、ずっと忘れていた言葉を思い出す。

 あの日、倒れる間際、彼女は譫言を呟いていた。


 だから、彼女はそんなこと言っていたのか。


 ずっと、迷惑をかけたくないと言っていたのも。


 誰にも頼らず、独りでいようとしたのも。


 今、自分を軽々と薙ぎ飛ばしたのも、全部――


(――頼来!!)

「……!!」


 反射的に後頭部に両手を回した直後、貴方は壁に背中から激突した。

 轟音と窓硝子が割れる甲高い音を聞き、両手の平と後頭部に強い衝撃を感じ――


 貴方の意識は途絶えた。

 何も感じられなくなった。

 貴方が微かに息をしていることだけ、私は感じ取れた。


 何が。

 本当に何が起きたのか。

 私は理解が遅れた。


(頼来? ……頼来?)


 貴方からの返事はない。

 それでようやく私は我に返った。

 私にとっては、一瞬の、本当に一瞬の出来事だった。

 ニャー先輩に振り払われて、貴方の身体が横様に飛んでいき、壁に激突した。

 窓硝子に足の先があたって窓は大きく砕け、破片が微かに床に散っている。


 空いた穴から風が入り込み、室内の埃を舞い上げ、舞い上げられた埃は夕陽を浴びて燦然さんぜんと輝いた。

 その真っ直中で、彼女は独り立っていた。

 紫の目で倒れ伏す貴方を見つめている。

 不意に彼女が視線を切ると、時が動き出した。


「なんて、ことを……」


 叔父さんが唇を噛みしめて嘆いた。


「彼は……彼は私たちとは関係ないというのに」


 彼の言葉は今のニャー先輩に届いたのか。

 彼女は何も言わずに叔父さんの方に歩み寄る。

 叔父さんはちらと倒れている貴方に目を向けて、


「……すみません」


 懐に手を伸ばしながら、その場を立ち去った。

 足音が離れて行くにつれ、音が響くように感じる。その中に、彼が誰かと会話しているような声が途切れ途切れで響いてきた。誰かに電話をかけているのかもしれない。

 ニャー先輩は、その間、何もしゃべらず立ち尽くしていた。

 広間の入り口をじっと黙って見つめていた。


(……ニャー先輩?)


 私は聞こえるはずもないのに、届くはずのない言葉を彼女に送る。

 無表情で彼女は立ち尽くしていた。

 不意に彼女は目を閉じると、糸が切れた操り人形のように、力なく崩れ落ちた。


 風の音だけが、取り残されたように室内に残響した。


 否、取り残されたのは、私だ。

 私は独り、取り残されて、今の光景を思い返す。


 彼女が目を閉じる直前に。

 感情の見えない、何も考えていないようなその表情に。

 どこか悲しみの陰りが映って見えた気がした。

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