第一編 第四章 ⑦
ニャー先輩もよくなって、とりあえずの住居も提供できて、もう心配事はなくなった。
そう思っていたのだけれど、貴方は何かを忘れているような気がしていた。
何か大事なことを忘れている。
伝えたいことは伝えたはずなのに。
考えれば考えるほど、喉に刺さった骨が存在感を増していった。
何を忘れているのか。
このもやもやはどこから――いつから現れだしたのか。
今朝、ニャー先輩と話してから……話す直前からだった気がする。
彼女の部屋で何かを見て、ずっと心に引っかかり続けているような……
と、ここまで考えては思考はループする。
授業は頭に入らず――いつものことだ――上の空のまま、放課後になった。
貴方は机に突っ伏していた。腕と顔と机に囲まれた空間に溜息を零す。
(そんなに気になりますの?)
「いや、これは……なんかどっと疲れてさ……」
早朝に新聞配達をし、休まず学校に出て放課後は喫茶店を一人で回す。クローズ作業も全て行い、帰るのはかなり遅い。
そんな中、ようやくニャー先輩が回復してきたのだ。
安心で疲れを自覚し始めたのだろう。
(このまま寝る気じゃありませんわよね?)
「まさか。帰るよ……」
貴方は顔を上げて、席を立った。
教室を見渡すが、いくつかの女子のグループがお喋りに興じているくらいで、よく一緒に帰っているクラスメイトたちがいない。
気を利かせて置いていったのだろうが、なんて余計なお世話だろうか。
仕方なく、貴方は一人で帰宅する。
校舎から外に出て校門まで歩くすがら、貴方はまた思い出そうとしていた。
忘れているかもしれない、ニャー先輩に関連した何か。
その何かはもしかしたら本当に大事なことかもしれないし、些細な事柄なのかもしれない。
それすらも分からないのがさらに物憂いを加速させている。
なんだか、そんな風に頭を悩ます貴方を見ていたら、私まで何か忘れているような気がしてきた。
いや、確かに私は何かを忘れていたようだ。
この間の永久と白雪さんのやり取りを見ていた時、感じていたこと。
二人が話していた内容とは別に、もっと気にすべきことがあるのではないか、と。
あんな小難しい話ではなく、もっと簡潔で分かりやすい疑問があったはずなのだ。
その正体を私は、探り当てた気がした。
そう、それは――
「……天塚頼来さん、ですね?」
この男性のことだ。
貴方は校門を出たところで立ち止まっていた。
目の前にはいつかの――ニャー先輩を探していた男性が立ちはだかっている。
あの日と同じ出で立ちの彼を見て、貴方は「忘れてたな、この人のこと」と遠い過去を振り返るように思う。
「…………」
男性はごつい身体を微動だにさせず、じっと貴方を見下ろしていた。
何を睨んでいるのかと思ったが、単に先程の質問の答えを待っているだけだと気付く。
「そうだけど、どうして――いや、何か用か?」
貴方の本名を知っているということは、調べたのか誰かから聞いたのか。
どちらにせよ、それは重要ではない。
重要なのはこの人が再度接触してきた理由だ。
あの時はその場に居合わせただけという理由だったが、今回はわざわざこうやって訪ねてきた――名前だけじゃなくて通っている学校も知っている――理由。
「少々……これからお時間をいただけるでしょうか?」
男性は言葉を選ぶように考えてからそう答える。
貴方も考えてから、
「その前に、あんたは何者なんだよ」
この前は答えてくれなかった問を繰り返した。
「まさか、また答えられないとか言うんじゃないよな?」
「……」
男性は再度黙考を始める。
本気でこの期に及んで答えないつもりなのだろうか、とまさかを思った時、不意に貴方は複数の視線を強く感じた。
辺りを見渡すと、下校途中の生徒が何人か、不審げに自分たちを見ている。
「あー……とにかく、ここじゃなんだから向こうで聞かせてくれ」
「……では、こちらに」
男性はどこか目処があるのか、先に歩いて貴方を導いた。
校門から数十メートル離れた辺り、道路の路肩に駐められたワンボックスの大型の車に近づいていく。
貴方は拉致でもされるんじゃないかと冗談交じりに考え、冗談にならないなと警戒を強める。
貴方たちは車の影に隠れるようにして、会話を再開させた。
「さっきの質問の答えは?」
「……これを」
男性は考えた結果、スーツの内ポケットから小さなケースを取り出すと、一枚のカードらしきものを手渡してきた。
受け取ってみればそれは名刺であり、名前が書かれている。
鳴瀬
「って、鳴瀬?」
「はい……仁愛さんの、叔父に当たります」
この人はニャー先輩の叔父――彼女の親族だったのか。名刺だけでは本人かどうかは分からないけれど、貴方の警戒心が強まるのは変わりがなかった。
又聞きの話では、ニャー先輩を引き取ってくれた両親の親族は、欠落症の人間を疎む輩だったはずだ。
もし、この人もそうなのだとしたら、あの時のニャー先輩の反応も頷けるものになる。
本当に彼から逃げるために、彼女は突然去ったのだ。
だとしたら、この人はニャー先輩にとって良くない人なのだろう。
「……仁愛さんの話は聞きました。貴方が保護してくれたのですね?」
叔父さんは訥々と確認を求めてきた。
このタイミングで貴方に接触してきたのだから、知っているだろうとは思ってはいたが、どう答えるのが適当か。
貴方は叔父さんの睨み上げて、しらばっくれても意味がないと悟る。
この人は確信を持って接触してきているはずだ。
でなければ、本題に入る前に身元を明かすわけもない。
「だったら、どうなんだよ」
貴方は返答を待つ。
彼の目的がニャー先輩であることは明白だ。
彼女に会わせろ、だのそういった類の答えが返ってくる可能性は高い。
だが、叔父さんの返答は違った。
「……その件について、是非お話しさせていただきたいと母が申しています」
「母?」
えっと、この人がニャー先輩の叔父なら、この人の母親はニャー先輩にとっては、
「ニャー先輩の祖母さん?」
「……はい」
予想外の方向に話が進んできた。
ニャー先輩本人の口から唯一聞けた家族である、お祖母さん。
その人が貴方に会いたいと願っている。
「御足労、お願いできますか?」
目的の話まで進められて安心したのか、叔父さんは今度ははっきりと尋ねてきた。
貴方は数秒、考える振りをして答える。
答えなんて、最初から決まっていた。
「案内してくれ」
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