第一編 第四章 ⑥
それから、ニャー先輩は順調に回復していった。
次の日には身体に力が入るようになり、食事もしっかりととれるようになった。
また、自力でお風呂に入れるまでは復調してくれた。
ただ、高熱は治まりはしたが、依然として微熱が続いている。
貴方はこの熱が何に起因しているのかと永久に聞いたところ、『疲労』の一言で片付けられ――はしなかった。
「いわゆる心因性発熱というやつだな。これは風邪などの感染症による発熱とは違うので、市販の解熱剤は効かないのが特徴だ。過労や介護など、慢性的なストレスが原因となり、微熱はしばしば頭痛、倦怠感などの身体症状を伴うようだ。また、ストレスの原因が解決したあともしばらく続くことがあると聞く」
とりあえず、ところどころ拾い上げて考えるに、全て当てはまるような気はした。
過度なバイトや不安定な住居での生活など、慢性的なストレスはあっただろう。
そして、それが少しは解決した今も、微熱が続いているというわけだ。
「だったら、このまま休んでれば大丈夫ってことだよな?」
「ストレスの原因がそれだけならな」
穿ったことを言うな、と貴方は欠伸をしながら思った。決して興味がないのではなく、
「眠そうだな、頼来」
ニャー先輩が倒れた日は結局一睡もせず活動し、明くる日である今日も新聞配達のため充分な睡眠はとれなかったのだ。
「微熱については様子見するか」
欠伸を挟む。
「……もう俺、寝るわ」
「うむ」
リビングのテーブルにつき、本を読みながら話していた永久が顔を上げた。
自室に向かおうと足を向けた貴方だったが、視線が気になり立ち止まる。
「……どうした?」
「その……いや、別に」
どこかいじらしくそっぽを向く永久。
その動きにつられて動く髪を見て気付く。
「ああ、それだけやって寝るよ」
「無理することないのだぞ?」
「いや、やる。俺がやんなかったら、本当にそのまま乾かさない気がするし」
気付いてしまったからにはやらないというのも気持ちが悪くて、いつも通り貴方は永久の髪のケアをおこなった。
そして、日はまたぎ、平日が訪れる。
変わらず微熱が続くのに学校に行こうとするニャー先輩をいさめて、学校には休みの電話をし――余所の学校だったからか、かなり貴方の素性を怪しまれたが――、これも変わらずバイトを肩代わりする貴方。
次の日もそれは続き、貴方は再度振り返る。
ニャー先輩はこんな生活をどれだけの間続けていたのだろうか、と。
身をもって知るのは、彼女の生活の大変さ。
よくよく考えてみれば、これに近い生活をニャー先輩はずっと続けていたわけで、それを思うとストレスで熱を出すのも当然のように思えた。
その兆しくらい、いくら鈍感な人間であっても、自覚くらいはできそうだ。
それでも彼女は、我慢してそれを続けた。
バイトをする理由なんて、究極的に言えばお金のためである。
そうでなければ、身体を壊すほどの仕事をしようとはしないはずだ。
性格的に休みづらかったというのもあるだろうけれど、だとしても学校に通いながらこんな生活、無理にしようとは思うまい。
少なくとも貴方は、二度としたいとは思わないだろうと、新聞配達をしながら思った。
こうして休む間もなくバイトする日々を過ごし、水曜日がやってきた。
水曜日はメルヴェイユも定休日だし、夕刊の新聞配達は勘弁してもらったので、束の間の休息を得られる。
早朝に新聞配達をし、帰ってから汗を流して朝食を久しぶりに用意した。
ニャー先輩はまだ寝ていると蒼猫が言うので、ひとまず永久と三人で朝食を取り、各々登校を始める。
最後に家を出るのは貴方だった。
自室を出て玄関まで足を運び、ふと思い出したかのように来た廊下を戻る。
(忘れ物ですの?)
「物ではないな」
忘れていたことに違いはないらしい。
貴方はニャー先輩の部屋へ向かった。
彼女がまだ寝ているのか気になったようだ。
昨日、一昨日と学校やバイトのため、顔を合わせてもいなかったので、一目くらいは見ておきたかったのだろう。
部屋の前に着くと軽くノックして、そっと扉を開ける。
電気を消した一間の部屋にニャー先輩はいた。ちゃんと布団の上で眠っているが、掛け布団が外に投げ出されている。
眠っているなら起こすつもりはなかったし、そもそも寝ている女の子の部屋に無断で入るのも嫌なのだけど――このまま身体を無闇に冷やすのは良くないかと思い、貴方は忍び足で彼女に近づいていく。
貴方が掛け布団を拾ったその時、ニャー先輩が不意にむにゃむにゃと口を動かして、可愛らしくだらしない笑顔を浮かべて寝言を吐いた。
「もう、食べられにゃい……」
寒気がするほど、ベタな寝言である。
貴方は呆れながらも掛け布団をかけてあげた。
すると彼女は小さく呻いて、
「……あ、先輩です」
「悪い、起こしちゃったな」
その言葉に引っ張られるように彼女は身体を起こして、首を振った。
「いえ……いえいえ、ありがとうございます……」
「? 俺、何かいいことしたか?」
「実はニャー、今、すごい夢を見まして」
「すごいって、どんな?」
「そ、それがですね……何故かニャー、大量のカエルさんに襲われてたんですよ」
「へえ、そりゃすごい夢だな」
「で、ですよね」
「ああ――夢と寝言が噛み合ってねえぞ!?」
「ふえ!? ど、どうしたんですか、急に!?」
驚かしてしまったようだ。いや、驚かされたのはこっちだ、間違いなく。
貴方は頭痛を感じて頭に手をやり、
「念のため聞いておくけど……ニャー先輩、蛙を食べたのか?」
「…………ッ!?」
なんて恐ろしいことを――といった風に、顔面蒼白にしてぶんぶんと首を振った。
どうやら違ったらしい。
だが、そうするとあの寝言はなんだったのか。
普通に考えれば寝言と夢はリンクしているもので、自発的に口があんなことを言ったとは思えない。
そんな風に貴方は悩み出したが、
(頼来……多分、深く考えても意味ないですわよ? ニャー先輩の言動がおかしいのは今に始まったことでもないでしょうに)
「……だな」
考えるだけ時間の無駄か、と彼女の奇想天外さをスルーすることに決めた。
「俺、もう学校に行くけど。ニャー先輩、熱はどうだ?」
「…………! 先輩、熱ない気がします! ニャーも学校行けそうです!」
「本当に?」
半信半疑でニャー先輩に近づいて、貴方は腰を落とした。そして、流れるような動作で彼女の前髪を右手でどけて、自分のおでこを彼女のおでこに付けた。
その間、ニャー先輩は微動だにしなかった。というか、突然の躊躇ない行為に驚いて固まっているように私からは見える。
貴方はしばらく
「まだ微妙に熱あるぞ」
「そ、そうですかね……」
「今日も休んだ方がいいんじゃないか?」
「は、はい……」
ぎこちなくニャー先輩が顔を赤くして答える。
私からはベタな展開に見えるが、いたって貴方が真面目に気付いていないようなので、これもやはりスルーしておいた。
「でも、だいぶ体調は良くなったみたいだな。顔色、良くなってるぞ」
「えっと、それはちょっと違……」
「ん?」
「い、いえ! 先輩のおかげで良くなったと思います! ありがとうございました!!」
誤魔化そうとしているのか、ニャー先輩は一息に言い切った。
「礼なら永久や蒼猫に言ってくれ。結局、俺はなんもしてないし」
「そんな――あれ? そういえば、お二人は?」
今頃気付いたのか、ニャー先輩はきょろきょろと周囲を見た。
「蒼猫は出るの早いから。永久は図書室行くとかで早めに出たよ」
「そうでしたか……早くお二人にもお礼を言いたかったんですけど」
「そんなの帰ってからでもいいし、いつでもできるだろ」
「いつでも……そうですね」
ニャー先輩は確かめるように繰り返して、俯いた。
なんとなく、彼女の考えていることが分かってしまい、
「帰るといえば、ニャー先輩」
「で、ですから、カエルさんはニャー、苦手で……」
「違えよ」
引っ張るな引っ張るな。
「今日はバイトもないし早く帰れるから、夕飯つくるつもりなんだけど。何か食べたいものあるか? もうみんなと同じもの食べられるよな」
「あ……えっと、その……」
「もしかして、食欲はない?」
「いえ! ではなくて……いいんですか? ニャーも一緒で」
彼女は怖ず怖ずと上目で確認してきた。
貴方は言葉にできない感情を抱き、彼女の頭に手を乗せて、髪をくしゃくしゃにしてやった。
柔らかな耳が裏返る。
「せ、先輩! 何を!?」
「三人分も四人分も変わらねえし、そもそも栄養をつけろって言われてるんだぞ? ちゃんとしたもの食べなきゃダメだろ」
「うう……なんだか、蒼猫先輩みたいです」
むしろ蒼猫が貴方に似てしまったように思えるが、さておき。
「それとさ、ちゃんと話してなかったけど。ニャー先輩、元気になったからって勝手に出て行こうとするなよ?」
「な、何故、分かったんですか!? 先輩はまさか」
「エスパーじゃねえぞ。分からいでか」
実際、半分は冗談のつもりだったのだけど、やはり彼女はそんなことを考えていたのか。
「まだ迷惑かけたくないとか思ってるんだな」
「それは……ですが」
「ニャー先輩」
貴方は彼女の言葉をさえぎった。
「俺は迷惑だなんて一度も言ってないよな? 謙虚なのも謙遜するのもいいけど、勝手に俺の気持ちを決めるのはやめてくれ」
「先輩……」
「もちろん、出て行くのは構わないよ。だけど、それは次の住む場所が決まってからにしてくれ。じゃないと、それこそ迷惑だから」
「何故、ですか?」
「心配だからだよ」
単純明快な、簡明直截な返答。
ニャー先輩は目を見開き、不意に俯いて、言った。
「……ありがとう、ございます」
「ん」
そんな話をしている間に、いつの間にか登校しないと不味い時間である。
「何食べたいか、早く決めてくれ」
「えっと……ではハンバーグを」
なんとも子供っぽいものを。
だけど、ニャー先輩には似合っていて、なんだか和む。
「了解。じゃ、行ってくるよ」
「……はい! 行ってらっしゃいです、先輩!」
彼女はいつもの笑顔で、力強く返事をした。
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