第一編 第四章 ⑤
夕方前のメルヴェイユは比較的客が少なかった。
今日は休日ということもあり、店内には一人の男性客しかいないという有様である。
たった一人のお客様はメニューと睨めっこしながら、店員を手招きした。
「ご注文はお決まりですか?」
どこか不機嫌さを押さえつけたような声音で言ったのは、何を隠そう白雪さんである。
ニャー先輩がいつも着ていたメイド服っぽい制服を着て、男性客の傍で待つ。
男性はようやくといった様子でメニューから顔を上げて、
「この日替わりパスタって今日は何?」
「そんなもの外の看板に――」
こめかみをぴくりと動かして口を開き、どうにか言葉を止める彼女。
「?」
「失礼。今日はカルボナーラですね」
「カルボナーラか。苦手なんだよなあ」
「――っ」
白雪さんの笑顔が引きつった。というよりも、既に笑顔が消えかかっている。
幸いにも男性はまたメニューに目を落としていたため気付きはしない。
またぞろ注文を選び始め、「そーいや、もう夕飯だもんなあ。やめといた方がいいかな」だの「コーヒーの種類多いけど……どれがいいんだろ」だのぶつぶつと独り言を続ける。
「…………ご注文がお決まりになる頃にまた伺います」
耐えに耐え、震える身体を無理矢理押さえ込むように言って、白雪さんは身を翻した。
「あ、ちょっと待って」
それを男性がすかさず止める。
白雪さんの表情が一瞬固まり、なんとか笑顔をたたえて振り返り、男性の元へ。
「ご注文は?」
「コーヒーってどれが美味しいの?」
「いつまでもぐだぐだ鬱陶しいわね!」
「は、はい!?」
ああ、と私が思う間もなく、白雪さんがキレた。
「注文一つ即断できないなんて貴方どれだけ臆病なのよ!? いい歳した男がむぐっ」
「失礼しました、お客様」
隠れて待機していた頼来が白雪さんの口を塞ぎ、暴れようとする彼女を軽く羽交い締めにしながら頭を下げる。
「少々お待ち頂けますか?」
「は……はあ」
目を白黒させて頷く男性客を残し、頼来は白雪さんをバックヤードに連行した。
ドアを閉めて白雪さんを解放すると、
「あんた、客に何言ってんだよ!!」
「だって! だって……!!」
怒りのあまり言葉が続かないらしい。
客の方を指さし、地団駄をふむ姿はまるで子供だ。
「何よ、頼来! 私は悪くないでしょ!? あの優柔不断な客が悪いんじゃない!!」
「気持ちは分かるけどさ」
「貴方に私の何が分かるって言うの!?」
「待て、俺はそんな痴話喧嘩みたいな会話をしたいんじゃない!」
「失敬、ちょっと言ってみたかっただけよ。――『気持ちは分かるけど』、何?」
「気持ちは分かるけど「私の何が」ちょっと黙っててくれ! とにかく! 優柔不断でどうしようもない奴かもしれないけど、客は客なんだよ! 我慢してくれ! 言うにしても、もう少しオブラートに包むべきだろ!!」
言い切って、頼来が息を整えたところで白雪さんは一言。
「凄いわ。まるで店長みたいな言い草じゃない」
「本当、店長のあんたが言われる言葉じゃないよな!?」
「分かったわよ、次はちゃんとするわ」
本当だろうか、と顔に表しつつも、頼来は白雪さんの動向を見守ることにしたらしい。
白雪さんは再度、先程の男性客のところへ向かう。
「ご注文はお決まりになりましたか?」
「あ、ごめんなさい、まだちょっと」
「――」
一瞬、緊張が走ったような気がするが、白雪さんは耐えた。
更に男性はメニューを見続け、白雪さんは側仕えよろしくその場に立ち続ける。
それから優に五分は経った頃に、ようやく男性が、
「じゃあ、アメリカンコーヒー一つで」
「――」
たった一つの注文にこれだけかかるなんてどういう了見!?――と言いたげなのが、申し訳ないが見て取れた。
しかし、白雪さんは笑顔をつくり、
「かしこまりました。アメリカン一つでございますね?」
「うん、ちょっと時間ないから急いでね」
白雪さんも白雪さんだが、客も客か。
煽ってどうする。
「……ふふ」
だが、白雪さんはなんとか堪えられたのか、笑顔を崩さずに言った。
「それでは少々お待ち――なさい!!」
「は、はい!?」
白雪さんが、またも呆ける男性客を背にこちらに戻ってきた。
そして、白雪さんは得意げな顔で、
「頼来、私やったわ」
「『やったわ』じゃなくて『やっちゃった』だろ!? 最後、オブラート溶けてたぞ!?」
「あんなに長い時間口に入れてたら溶けるに決まってるでしょ!?」
いきり立つ白雪さんをどうどうと宥め、頼来は溜息をついて、
「今のでよく分かった。やっぱり白雪さんは接客に向いてないわ」
「当然よ、今更何言ってるの? 貴方馬鹿?」
「なんで偉そうなんだよ!?」
「店長だからよ!!」
「店長なら接客ぐらい出来ろよ!!」
ああ、ったく――と頼来は首を振り、
「もういい。接客は俺が全部やるからあんたは」
「ゲームしてればいいのね?」
「仕事をしてくれ!!」
「だからこそゲームをするんでしょう!?」
「何言ってるか分かんねえぞ!?」
「クエスト中だって言ってるのよ!!」
「現実の仕事をしてくれ!!」
言って、頼来はアメリカンコーヒーをいれるとホールの方へ一人向かった。
それらのやり取りをバックヤードで見ていた貴女は、
「……大丈夫そうだな」
(今の光景を見て何言ってますの……?)
「全然、元気そうではないか」
貴女は紅茶を一口飲みながら、心の中で答える。
つい先刻、蒼猫に命令――もとい頼まれて夕飯の材料の買い出しに出かけ、そのついでにこうして頼来の様子を見に来たのだった。
理由は至極簡単で、ニャー先輩や蒼猫が、寝ずに一人でバイトに出ている頼来を心配していたからである。
「少なくとも、彼女たちの心配には及ぶまい」
(まるで他人事みたいに言いますけど、貴女も心配だったんじゃありません?)
「――ないな。それはない」
そう言い切る貴女。
尻尾が何度か振られたが、本音かどうかは分からない。
貴女はもう一度、紅茶のカップを傾けると、中身がほとんど入っていないことに気付く。静かにカップをソーサーに置いた直後、横からティーポットを持った手が伸びてきて、そのままカップに紅茶を入れられた。
「注文していないぞ?」
「安心なさい。お金取るつもりなんてないから」
白雪さんはティーポットをテーブルに置き、もう片方の手で持ってきていた自分用と思われるコーヒーを貴女の目の前の席に置く。そして、当然のような動作でそこに座った。
貴女たちは無言のまま、一口飲み物を口にすると、
「初めましてね。この店の店長をしている遊佐白雪よ」
「……かねがね、話には聞いているぞ」
「あら、どんな讃えられ方をしているのか気になるわね」
そんな感じに尊大な人だとは私から伝えてある。
「私も貴女のことは聞いているわよ、永久」
「ほう?」
そう切り返されるとは思っていなかった。
成る程、少し内容が気になるものだ。
「非常に小さくて可愛い子だって絶賛してたわよ」
「そこまで私は小さくない……ぞ」
貴女は語尾を濁す。
自信がなかったのかと思えば少し違うらしい。貴女は心の中で、「頼来が話したのか?」と私に聞いてきた。
(あらあら、可愛いと言われたことが気になりますのね?)
「もし、そんな軟派なことを言うようなら、彼の評価を改めないといけないな」
どうやら、貴女的にはマイナス評価らしい。
ここで嘘をついても仕様がないので、頼来が話していたわけではないと正直に伝える。
すると貴女は、だとしたらニャー先輩が話したのだろうと見当をつけた。
確かに彼女ならそんな感じに貴女を絶賛しそうである。
「一度、是非話してみたかったのよね」
「うむ? 何故だ?」
「貴女なら、この服似合うと思うのよ。どうかしら? ここで働いてみない?」
勧誘したかっただけか。
なかなかに裏表のない言動をする。
「遠慮しておく」
「でも、貴女、頼来が心配で来たんじゃないの?」
だったら仕事を手伝え、と言いたいようだ。
頼来に使った手法とほぼ同じ。
だが、貴女には通じなかった。
というよりも、通じる人間などお人好し以外いまい。
「残念だが、ここに来た目的は違うぞ」
「さっき仁愛のことを話していたけど、それが目的かしら」
貴女は頷いて、紅茶で喉を潤した。
白雪さんも同じタイミングでコーヒーに口をつける。
「だとしたら、目的は果たしたように思えるのだけど。どこか不満気な顔ね、貴女」
「そんな顔、していた覚えはないぞ」
貴女が返すとおり、私も普段と変わらないように見えた。
相変わらず、愛想のない澄ました顔だ。
しかし、白雪さんは、
「なら、こう言い換えるわ。仁愛についての話で何か腑に落ちない点でもあるの?」
確信的な口調で話を進めてきた。
腑に落ちない点――それは、確かにあった。
「君にはあるのか? 白雪」
「たとえば、仁愛が『睡蓮』を早々に出ていった理由とか。転んで階段を壊したとかいう話だったけど、それに自責を感じて出ていくというのは変よね」
「どう変だというのだ?」
貴女は耳をぴくりと動かして尋ねた。
その疑問は貴女も感じていたものだったらしい。
「梯子を使って二階に上がる必要があって大変とか、いたたまれなくて出て行ったというのなら分かるけど、あの子の性格的になさそうよね。むしろ、我慢して居続ける子よ」
「だが、実際には彼女は早々に出ていった。決して想像力が欠如しているわけでもない。住居を放棄すればその先の暮らしが不安定になることくらい想像できたはずだ」
「それでも『睡蓮』から出ていった、その理由は何かしら」
「君はどう考える?」
白雪さんはテーブルの下で足を組み、
「あの子の性格的に、出ていった理由は大方、『人に迷惑をかけたくない』とかね」
それは貴女も想像できたことだった。
だが、
「そこまでは私も分かる。だが、その先が分からないのだ。『睡蓮』に居続ければ、他の店子または大家に迷惑がかかるというのか?」
「もしくは、それ以外の誰かの可能性もあるわね。直接、あの子には?」
「聞いたが、あからさまにはぐらかされたぞ」
一応、ニャー先輩からは、大家からアパートを取り壊す旨を聞いたから早めに出た、というような話を聞いたが、結局は早々に出た理由にはなっていない。
「なら、言いたくない事情があるのでしょうね」
「そう考えるしかないだろうな」
その事情の一端でも白雪さんが知っていればと貴女は思ったのだが、仕方あるまい。
「白雪、他に腑に落ちないことはあるか?」
「もう一つだけ、気にかかっていることはあるわ。貴女もそうなんじゃない?」
「……ああ、一つあるな。仁愛があの日――」
「頼来と再会した日に倒れていた理由、ね」
音を立ててカップを持ち上げ、白雪さんはコーヒーを一口。
貴女も同じく、紅茶を飲み、
「その時点で仁愛は野宿生活をしていたから、疲労も溜まっていたとは思う。だが、道ばたで行き倒れるほどだったようには到底思えない。今回のように起き上がれないほどの熱を出すこともなく、起きたあとは平然とした様子だったと聞く」
「そのあとは、問題なくバイトに出られていたことからも分かるわね」
「だとしたら、あの日、気を失っていたのはなんだったのか」
「あの子は転んで頭を打ったとか言ってたわね」
「それは頼来が挙げた例に仁愛が乗っかっただけだろうな。人間、そう簡単に気を失ったりはしない。もし本当にそうだとしても、それらしい外傷は見受けられたはずだ」
「ええ、私もそう思ってあの子から話を聞いた時、確認したわよ」
当然、コブの一つもなかったけどね――と白雪さんは身体を揺らし、足を組み直す。
「結局これも、推測すら難しい話なのよね」
「仁愛本人が話す以外、私たちが知る術はない、か……」
答えは得られなかった。
だが、貴女はそこに期待を抱いていたわけではないので、気落ちすることもない。
それどころか、先程より、すっきりしたようである。
ゆっくりと尻尾が動いている様子から、それは伝わってきた。
どうやら、自分と同じ疑問を持ってくれる人を見つけ、嬉しかったらしい。
それを頼来に期待していたのだが、彼は何も疑問を持たずに話を聞いただけだったから、『不満気な顔』だったのかもしれない。
ふと貴女が白雪さんを見ると、彼女は何やら楽しそうに微笑んでいた。
自分の様子を見透かされたようで、貴女は視線を逸らし紅茶をもう一口飲む。
「今の話は仁愛の体調が良くなってからもう一度確認してみるつもりだ」
「それがいいでしょうね」
話に区切りがついたところで、貴女は席を立った。
「あら、もう帰るの?」
「夕飯の買い出しを頼まれているのでな。いい加減帰らないとどやされる」
「今のところ、あの子の様子はどうなの?」
「昨夜より多少はマシになったぞ。まだまだ熱もあるし動けそうもないが」
「そう。なら一言だけ伝えてくれるかしら。店のことは気にしなくていいから、ゆっくり休みなさいと」
「……随分と優しいのだな」
「当然でしょう? 従業員を労るのは店長の役目よ」
胸の下で腕を組んで白雪さんは言い切った。
と、同時にホールの方で頼来が「いらっしゃいませ」と客を招いた声が微かに聞こえてくる。
「とても労っているようには思えないのだが?」
「そう? 私は彼の精神衛生について考慮しているだけなのに」
「――成る程。よく見ているのだな、君は」
「貴女も、なかなかによく見えているみたいね、永久」
貴女たちはなんだかピンと来ない会話をする。
(……よく分かりませんわ。永久、なんの話をしてますの?)
「要するに、考え事をする暇もない方が頼来のためだと言っているのだよ。君を私につかせるくらいには仁愛のことを心配しているようだからな」
(ああ、そういう……)
言われてしまえば、確かに頷ける処置だ。
それにしても、と私は思う。
この二人、思った以上に馬が合うというか、波長が合っているみたいである。
その証拠か、白雪さんは部屋を出ていく貴女にこう言った。
「また、いつでも遊びに来なさい、永久。お茶くらいなら出すわよ」
「気が向いたらな。ただし、バイトはしないぞ?」
「あら、残念ね」
楽しげな白雪さんに見送られて、貴女はその場をあとにした。
少しだけ楽しそうに尻尾を揺らしながら。
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