第一編 第四章 ④
「永久。こっち来て下さい」
帰宅を果たした貴女を出迎えたのはそんな言葉だった。部屋が並ぶ廊下の先、一番奥の部屋から蒼猫が顔を出して招いている。
貴女は蒼猫や自分の部屋の前を通り、ニャー先輩にあてがわれた部屋に向かった。
中に入って、貴女は玄関先で立ち止まる。
ワンルームとなった部屋の中には蒼猫とニャー先輩がいた。
蒼猫には特筆することはないのだが、ニャー先輩は布団の上で身体を起こし、何故か下着一枚の半裸であった。
彼女は顔を赤くして――熱か恥ずかしさのためか――瞳を潤まし、両手で胸を隠している。
「……何をしているのだ?」
「何って、見て分かりませんか?」
「ふむ……?」
蒼猫の視線を追って貴女は気付く。
床に大きな金だらいが置かれ、よく見るとそこから薄く湯気が昇っていた。
「汗をふいていたのだな」
「今から拭くところです。なので、それを永久に頼もうと思いまして」
「何故、私が……」
物凄く面倒そうな声音で貴女は受け答える。それを見てニャー先輩は慌てて、
「ニャ、ニャーは自分でやれま――」
「背中はちゃんと拭けませんよね? それに力が入らないって言ってましたし、難しいんじゃないですか? 中途半端にやってもスッキリしませんよ」
やろうとしていることは優しいのに、蒼猫の物言いはにべもない。『らしさ』を語るのは知った風で嫌だが、貴女は蒼猫らしいと感じてしまった。
「いいですよね? 永久。私はニャー先輩のおかゆつくってきますから、その間に」
「そういうことなら仕方ないな」
ここで断ったら自分が料理をする羽目になりそうで、貴女は即答した。調理法を知っていても実際やったことはない。何より、面倒だった。
蒼猫はよろしいとでも言いたげに頷くと、貴女に手ぬぐいを渡して部屋を後にした。
貴女は蒼猫に代わってニャー先輩の側に膝をつき、
「本当に嫌なら、私はやらないが。どうする?」
「えっと……お願いします、先輩」
しずしずと言われ、貴女は密かに肩を落とした。どうやら自分でやってくれた方が嬉しいと考えていたらしい。
これくらい素直にやってやれと私は思う。
貴女はタオルを湯につけながら、ニャー先輩の背中を見た。
肌はしっとりとしていて汗をかいているのは間違いないのだが、汚れと思えるものはない。
少々疑問が産まれた。
「君、ほとんど野宿に近い生活をしていて、風呂はどうしていたのだ?」
「一応、毎日、銭湯に行ってましたね……」
ああ、また銭湯か――と貴女は先週までのことを思い出す。
ちょうど先週、工事を終えてあえか荘のお風呂は使えるようになったのだが、それまではずっと銭湯を使っていたのだ。
奇遇としか言いようがないが、彼女もまた銭湯通いをしていたとは。
「お互い、災難だったな」
あの頃の苦労が頭を過ぎり、貴女の尻尾は自然と垂れた。よほど面倒だったらしい。
貴女はタオルを絞り始め、ふと考える。
適当に拭けばいいのだが、そういえばこういう時の作法があったのを思い出した。
確か、心臓から遠い部分から心臓に向かって拭くのがいいとか。血行がよくなる、らしいという眉唾な話だが、やって損はないだろう。ちなみにこれは通常の入浴時、身体を洗うときでも有効なものである。
(また、変に知識はありますのね、貴女)
「どうでもいい知識ばかりだがな」
と思いながらも実践する。
ニャー先輩の猫のような手の付け根部分から、タオルで揉みほぐすように心臓に向かって拭いていった。
しばらく続けたあと、貴女は「仁愛」と話を振り直す。
「今日、『睡蓮』の大家と会ってな。勝手ながら、君のことを話しておいたぞ」
「あ……す、すみませんでした」
ニャー先輩は恐縮そうに頭を下げた。
大家に対して無意味に気を遣って出て行ったことへの謝罪だろうか。
いずれにせよ、貴女にニャー先輩を叱る気は毛頭なかった。
「それは直接、大家に言うのだな」
「……はい」
ニャー先輩の尻尾が先程の貴女の尻尾と同じように垂れる。反省しているのであれば、何も問題はない。
貴女は金だらいでタオルを絞り直すと、
「そこで君について話を聞いて、直接君に聞きたいことが出来たのだが」
「? なんでしょう、先輩」
「うむ。先に言っておくが、少し踏み込んだ話だ。嫌ならすぐに言って欲しい」
「ふえ? わ、分かりました」
緊張気味に強張った声で言うと、
「あ、いえ、ちょっと待ってください!」
ニャー先輩が突然、慌てた様子でわたわたと胸を両手で隠した。
「どうした? やはり嫌だったか?」
「いえ、その、前は自分でできますので……」
「そっちか」
別に女同士なのだから気にすることでもない、と思ったが直後、貴女は考え直した。
自分でやってくれるのならそれにこしたことはないのである。
貴女は素直に、彼女にタオルを手渡して、彼女が身体を拭き始めたところで、
「君が『睡蓮』に入居したのは、両親が駆け落ちしたからと聞いたのだが」
ニャー先輩の様子を窺いながら――大丈夫、彼女は身体を拭く手を止めていない――貴女は話す。
「十年前という話だったが、そこが少し引っかかってな」
「? どの辺りでしょうか?」
「十年前、君はおそらく七歳だ。駆け落ちして家から出てきた、というには少し歳を食い過ぎているのだよ」
「んん……すみません。よく、分からないです……」
「君の実家が欠落症の人間をよく思っていないことが原因だったのだろう? なら当然、君が産まれた直後に勘当するか、もしくは産まれる前にエコー検査などで欠落症かどうかを調べて――堕ろさせたはず」
それくらい厳格でなければ、おそらく両親は駆け落ちなんて手段を選ばなかっただろう。
「となると、その七年が腑に落ちない。その間、実家で不当な扱いに堪えていたのか? 駆け落ちするくらいの実行力があるのにそれはないだろう。だとすると、考えられるのは……」
「か、考えられるのは?」
自分のことだというのになんだかわくわくしていそうな声である。
その感性は貴女には理解しがたかった。
もちろん、気にしていないのなら結構だ。
「考えられるのは――君はもしかして養子ではないか?」
「……」
ニャー先輩は答えなかった。
図星だからか、もしくは卑下されたように感じたからか。
貴女は不味い話をしたと思い、謝りかけたその時、
「――先輩、凄いです! 大正解です!!」
身体を翻して、ニャー先輩が手を合わせて目を輝かせた。
非常に嬉しそうに、ぶんぶんと尻尾を振っている。
本当にこの子の感性は分からない。
「先輩はまるで探偵さんみたいですね!」
「……それはあまり嬉しくない称号だな」
「ふえ? どうしてですか? 探偵さんは格好いいですよ?」
「実際の探偵は君が思うほど華々しくないぞ。物語の中の探偵は……いや、よそう」
探偵と呼ばれる者は総じて人々の秘密を曝こうとする。事件があったとして、犯人だけでなく周りの人間の秘密さえ調査という名目で曝くものだ。
手放しで誉められるのは関係のない人間だけだろう。曝かれた側にとっては、探偵などゲス以外の何者でもない。
そう、自分が今やっていることは、その下卑た行為そのものなのだ。
しかし、彼女にとっては違うようで、いまだに尻尾を振っている。
調子が狂うな、と貴女は息をついた。
「とにかく、君は本当に養子だったのだな?」
「はい、そうです。ニャーは小さいころから施設にいまして、お母さんたちと会ったのはニャーが小学校にあがる前だったと思います」
ニャー先輩はつまることなく、どこか明るい調子で言う。
「お母さんたちの実家は遠いんですけど、こっちに仕事の出張で来たらしく、その時にニャーと会ったんです。それで、えっと、見初めたんだって言ってました」
嬉しそうにニャー先輩は語る。
おそらくその時の彼女も、こんな感じに笑っていたのではないかと、見てもいない彼女たちの出会いの場面が想像できた。
「それで何度か会って、引き取ってもらえるという話になって、ニャーはお母さんたちについていきました」
彼女は嬉々とした表情でそこまで話し、「……ですが」とがらっと表情を暗くして、
「お母さんたちはお祖父ちゃんたちに叱られました。勝手なことをしてって、すぐに返してこいって、そう怒ってました。……でも、お祖母ちゃんだけは違ったんです」
言うと、祖母の姿を思い出したのか、嬉しそうに顔を綻ばせて尻尾を振り出した。
話の内容的に不謹慎かもしれないが、見ていて飽きない。
「お祖母ちゃんだけは味方をしてくれたんです。ニャーの姿を見ても怖そうな顔をせず、優しく両手を握ってくれました。『二人の子供になってくれてありがとう』って、ニャーに言ってくれたんです」
「ご両親は子供が産めなかったのか?」
「そう、聞きました」
答えてもらってから、今のは過ぎた質問だったと貴女は反省した。
「すまない、続きを聞かせてくれ。それからご両親と三人で家を出たのだな?」
「はい。どうやっても受けいれてもらえず、仕方なくってお母さんたちは言ってました。それでニャーの故郷であるここに帰ってきて、『睡蓮』で暮らし始めたんです」
ニャー先輩は在りし日を思い出すように大きく息をついて、
「それからお母さんたち、大変だったと思います。当然、前の仕事は辞めてしまったでしょうし、本当に何も持たずに出てきたみたいですから……ニャーを引き取って、大変な思いをしたと思います。ニャーがいなければ、なんて考えたことも、あります……」
「仁愛、それは」
「ですが」
と彼女は貴女の声に被せて、続けた。
「それでもニャーは嬉しかったんです。二人が引き取ってくれて、家族になってくれて……大変な思いをさせたのは分かっているんですけど、やっぱり嬉しかったから、嬉しそうに笑ってくれていたから……ニャーは自分もお母さんたちも否定できません」
「……それならば、二人も浮かばれるだろう」
「はい! ありがとうご――くしゅん」
ニャー先輩が盛大にくしゃみをした。
にへへと誤魔化すように笑う彼女を見ていて、貴女は自分の失策に気付く。
蒸しタオルで身体を拭けば、気化する水分と共に身体の熱は発散するのだ。
身体を冷やすのは当然の結末である。
そんな理屈をこねる貴女には悪いが、事実を言おう。
(単純に、こんな長時間、下着一枚でいるからですわよ)
「……まったくだな」
そう自省した時、貴女はぴくりと耳を動かした。何が聞こえたのかと私が思えば、扉が開いて蒼猫が部屋に入ってきた。
おかゆを運んできた、のではなかった。
「二人とも……しゃべるのはいいんですけど、やることやってからにしてください」
彼女は体質により、話を全て聞いていたのだろう。で、くしゃみで飛んできたわけだ。
「蒼猫先輩、すみません……ニャーがしゃべってたら止まらなくて……」
「……仕方ないですね。タオル、貸して下さい」
蒼猫は口調とは裏腹に、満足げに尻尾をゆらゆらと曲げた。
ニャー先輩からタオルを受け取ると、
「あとは私がやりますので、永久はおかゆをよそって持ってきてくれますか? もうできてますので」
反論など聞きそうもなかった。
貴女は「分かった」と了承するが、ニャー先輩は焦り、
「蒼猫先輩ッ……その、前は自分で……」
「はいはい、じっとして下さい――やっぱりニャー先輩も大きいですね……ずるい……」
「あう……」
にべもない蒼猫に身体をまさぐられるニャー先輩。
しかし、ニャー先輩は困った顔をしながらも、嬉しそうに尻尾を振っていた。
そういえば、と貴女は先程、蒼猫が怒ってやって来たときもニャー先輩が尻尾を振っていたのに気付いた。
たぶん彼女は、人が――
人と接するのが好きなのだろう。
だからあんな風に、笑顔を他人に見せられるのだ。
やはり自分とはだいぶ違う。
貴女はそう自認して、くすぐったそうに笑う彼女を尻目に部屋を後にした。
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