第一編 第四章 ③

(ということで、しばらくはいいですわね? 永久)

「……ということ、とはどういうことだ」


 貴女は突然の問い掛けに立ち止まって、心の中で問い返した。

 貴女は一人、住宅街にいた。

 時間は今、昼前くらいか。空は鈍色に光り、今にも雨が降りそうな様相を呈している。もこもことした雲はちらりと見ただけでも動いているのが分かり、風が強いことが想像された。

 地表でも同じらしく、一陣の風が巻き上がり、貴女の髪とスカートをはためかせる。

 鬱陶しそうにそれらを押さえて、貴女は続けた。


「そうか、頼来に言われたのだな? 何かあったら、知らせるようにと」


 説明を省いても伝わるのが貴女のいいところである。

 それにしても、こうやって突然話しかけられても動じることなく対応するとは随分と慣れた様子だった。

 私は続けて、貴女に話しかけた。


(それで貴女、どこに行くつもりですの?)

「つけば分かるぞ」


 貴女は深く答えず、答えを頭に浮かべもせず、そのまま裏道に入った。細い路地には人がいない。安堵して、気持ち足取りを軽くして貴女は進む。

 十分も歩けば、小さなプレハブ住宅のような古びた建物の前に辿り着いた。


(ここは?)

「『睡蓮』。仁愛が以前、住んでいたところだ」


 貴女は敷地に入って建物に近づいた。

 本当に古いのか、壁はすっかり色あせている。強風に窓がびりびりと嫌な音を立て、建物全体が揺れたように錯覚させた。


「これだな」


 建物の側面を見上げて、貴女は呟いた。

 そこには階段が――なかった。

 二階には柵もない踊り場だけが外につきだしており、あるべきはずの階段が見当たらない。木製の手すりが数メートルほど伸びており、風によってガタガタと音を立てていた。


(これを見に来ましたの?)

「いや、そうではなく」

「お嬢ちゃん、そこにいると危ないよ」


 その時、不意に声をかけられた。

 視線を落とした先、建物の裏側から竹箒を持ったお爺さんが近づいてくる。


「破片が落ちてくるかもしれないからねえ」


 彼は腰を曲げて歩み寄ってくると、貴女を間近で見て細い目をさらに細め、


「お嬢ちゃん、確か……」

「近所の者です。以前に一度、お会いしましたよ」


 貴女がそう答えると、お爺さんは大きく頷いて、


「おお、おお、紅坂さんの」


 くしゃっと表情を崩し、孫を見るような目で貴女に笑いかけた。


(誰ですの? この人)

「話の流れで分からないか? ここの大家だ」


 貴女が軽く溜息をついていたところで、お爺さんは竹箒を建物に立てかけ、


「今日はどうしたのかな?」

「ええ、鳴瀬仁愛のことで少しお話が」

「鳴瀬って、ニャーちゃん?」


 目を丸めて彼は頷いた。


「君はニャーちゃんの知り合いだったのかい?」

「色々ありまして。訳あって今、同じアパートで暮らしています」

「そうかいそうかい、一緒に」


 ほっと溜息をもらし、安心した様子を見せる。


「ニャーちゃんは、元気にしている?」

「それが今、体調を崩して寝込んでいるのですよ」

「え、大丈夫なのかい?」

「ご心配なく」


 貴女ははっきりと断言して、


「今日、来たのはそれが理由です。病床の彼女に代わって、貴方に次の住居が決まったことを知らせに来ました」

「そうかい。ありがとうね」


 お爺さんは温かみのある声音で言った。


「ニャーちゃん、まだいてもいいって言うのに、急に出て行ってしまってね。どうしているのか心配だったんだよ」

「……彼女から出て行ったのですか?」

「責任を感じたんだろうね。修理費もいらないって言うのに振り込んでくるし……」


 心苦しそうに言うお爺さん。

 修理費といえば思い当たるのは一つ、


「まさかこの階段は仁愛が?」

「聞いてなかったのかい?」


 お爺さんは階段だった場所を見上げると、


「いやね、転んだ拍子に何段も踏み板をぶち抜いちゃったらしくてねえ。でもその後、調べたら土台からもう腐ってたみたいだから、いずれこうなってたはずなんだよ」


 だから、ニャーちゃんは悪くない――と彼は繰り返し、


「むしろね、私は感謝してるのにね。いい機会をくれたんだから」


 建物の壁を触りながら、ぽつりと零すような声で言った。


「機会、ですか?」

「実はね、ここを取り壊して新しく家を建てる予定なんだよ。娘夫婦との二世帯住宅」

「家族と一緒に住めるのですね。それは、よかった」


 貴女の言葉に彼はどこか照れくさそうにして、


「いやねえ、娘が一緒に住んでくれるって言ってくれて、嬉しくてね」


 そう、笑って言ったところで、不意に影を落とした。どうしたのかと貴女が見つめていると、お爺さんは気付き、


「自分ばっかりで申し訳なく思えてね。ニャーちゃんも家族と住めればいいのにねえ……」

「仁愛の家族を知っているのですか?」

「詳しくは知らないけどね、色々難しい家庭みたいでねえ。旧家っていうのかな? 血筋とかに厳格なところでね……ほら、ニャーちゃんは君と同じ、欠落症の子だろう? そういうのを嫌がる頭が固い家もあるものでね」

「それで家族と一緒に住めない……」

「おそらくね。ここに入居したのは随分前でね、ちょうど十年くらい前だったかな。その時はご両親と一緒だったんだよ。駆け落ちして家を出てきたんだ、って話でね。とるものもとらず、とにかく出てきたんだって……」


 貴女は納得して頷いた。

 私には理不尽にしか思えない事情だが、貴女は少し違った。

 旧家に限らず、そうやって欠落症の人間を厭う輩が存在するのは知っていたから。


 欠落症の人間が不当に扱われるのが当然となるその矛盾を、今の世の中は内包している。

 特にご老輩――欠落症が発生し始めた時期を知っている人間――の多くが、勝手なイメージや価値観を持って欠落症の人間を差別しているのが現状だった。

 その点、このお爺さんは違うようだ。

 もしかしたら娘か孫が欠落症なのかもしれない。


「その後も色々あって、ニャーちゃんは今、一人になっちゃってね。あの歳で一人で頑張ってきたのに、こんなことになって……大変だよねえ……」


 お爺さんは目をつぶって、誰に語るわけでもなく小声で言うと、


「――ああ、ごめんね。ちょっと話がそれちゃったかな。いや、この歳になるとついつい会話を長引かせてしまってね。普段、喋ってないからかなあ」

「お気になさらずに。とても有意義な話でしたよ」


 貴女は言葉にしながら、もう充分か、と思考して、一歩足を後ろに下げた。


「では、私はこれで失礼します」

「ああ、おかまいもせず」


 お爺さんは立てかけていた竹箒を手にして、


「ニャーちゃんによろしく言っといてくれるかな。また顔出して欲しいって」

「必ず伝えます」


 その答えに満足そうに頷いて、お爺さんは建物の裏側へと歩いていった。

 一人になった貴女に私は問い掛ける。


(ここに来たのは大家さんに会うためでしたの?)

「彼女自身ではなく、第三者に話を聞こうとしたのだが……充分な収穫はあったな」


 貴女がそう心の中で呟いた時、強く風が巻き上がった。

 つられて階段の踊り場を見上げると、風に吹かれて危なげに木製の床板が揺れていた。


 どこか悲鳴にも聞こえる、寂しげな音をたてて。

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