第一編 第四章 ②
貴方は氷が溶けて温くなった水を替えるため、タオルと桶を持って部屋を出た。
ニャー先輩に宛がった部屋から、自分の部屋に移動する。
他の部屋は全て和式の1Rなのに、ここだけは洋式の1LDKだ。入ってすぐに洗面所があり、さらに進めば解放された台所とリビングが広がっている。リフォームしてからまだ数年しか経っていないので、まだまだ真新しさを感じさせる部屋である。
桶の水を零さないようにゆっくりリビングに移動すると、食卓に蒼猫と永久が座っているのが見えた。
「お前ら、起きてたのか?」
台所に入ってシンクに桶の水を捨てながら尋ねると、
「本を読んでいたら、いつの間にかこの時間だっただけだぞ」
ここで読んでいたらしく、永久の隣の席に本が積み上げられていた。
彼女の部屋は当然別途あるのだが、彼女はこのリビングで過ごすことが多いため、本に集中するあまり、自室に戻るのを忘れたのだろう。
ちなみに蒼猫も自室は別にあるが、このリビングで過ごすことが多い。
「蒼猫も徹夜か?」
「違いますよ。私はさっき起こされたんです、ニャー先輩の声で……」
蒼猫は欠落者特有の体質により、聴力が異常に発達している。
ある程度であれば、選択して聞きたい音を聞けるし、聞きたくない音は遮断できるらしい。しかし、それは意識的にすれば、という限定的なものだ。たとえば、寝ている時などは、ちょっとした聞き慣れない音がどこかで生まれれば、当然それを拾ってしまい、こうやって起こされてしまう。
いいところもあれば、悪いところもある。
悪いところしかない体質を持つ人が多い中、メリットがある体質を持っただけ、蒼猫は幸せかもしれない。
だけど、それでも大変だよな、と貴方は彼女の眠そうな顔を見て思った。
まだ寝たりないのか、蒼猫は大きな欠伸をすると、赤い目を擦って、
「ニャー先輩、起きたんですよね?」
「少しだけな。今はまた寝てるよ」
「兄さんは寝なくていいんですか? 今日は朝から……数時間後にはバイトですよね?」
「……ああ、忘れてた」
メルヴェイユのバイトは当然覚えている。
というより、毎日出るのが決まっているのだから、覚えるのはどちらかといえば定休日の方だ。
忘れていたのは、他のバイトのことである。
貴方は濡れた手をシャツで拭いて、黒電話の前まで移動した。備え付けてある電話帳を繰って、目的の電話番号を探し出した。
受話器を取って操作盤を回していると、蒼猫が、
「こんな時間にどこに電話するんです?」
「バイト先だよ。ニャー先輩が休むこと言わないとな」
「……喫茶店?」
もちろん、違う。
こんな時間に電話しても誰も出ない。
だが、この時間にこそ働いているここなら出てくれるだろう。
貴方が操作盤を動かしきったところで、蒼猫が永久に、
「兄さん、どこにかけてるんですかね?」
「新聞の営業所だな」
「……ああ。ということは、ニャー先輩って新聞配達もしてるんですね」
「あ、えっと、お久しぶりです、天塚です」
電話が繋がって、貴方はしばらく会話を続けた。その間に今度は永久が蒼猫に、
「私も聞きたいのだが、頼来の口振りからして、彼は新聞配達の経験があるのか?」
「はい。中学生の頃、やってましたよ」
「……このあとの展開が読めるな」
どういうことです? と蒼猫が尋ねると同時、貴方は受話器を降ろした。
「あー、やっぱこうなるよな……」
頭を掻きながら、溜息をついた。
歩きながら、蒼猫たちに向かって、
「ちょっと、出てくるよ」
「え?」
蒼猫が席を立って、こちらに寄って来た。
「こんな時間にどこに?」
「新聞配達。ニャー先輩の代わりにな」
言われて、蒼猫は先程の永久の発言の意味が分かったのか、彼女の方を見る。
すると永久は本をテーブルの上に置いて、
「君がそこまでする義理はあるのか?」
「義理っつーか……頼まれたんだから仕方ないだろ」
これが全く知らないところであれば断っていたかもしれないが、昔世話になったところなのだから多少は義理が立つ。
懇願されてしまったからなおさらだ。
「兄さん、寝てないのに大丈夫ですか?」
「帰ってきてから寝るよ」
「メルヴェイユもあるのに?」
その指摘に貴方は口をつぐんだ。
朝からメルヴェイユのバイトがあるのだ。
寝られても一、二時間といったところか。
今日一日ならそれでなんとかなる、はずだ。
「それよりさ、蒼猫。俺のバイト中、ニャー先輩をお願いできるか?」
蒼猫は貴方をじっと見つめて、言葉を飲むと溜息をついた。
「仕方ありませんね」
よくできた子である。
貴方はしみじみ頷いて、彼女の頭を撫でた。
「じゃ、頼むよ。ありがとな」
蒼猫は寝起きの赤い目を細め、気恥ずかしそうにそっぽを向いた。
そこでふと、視界のすみにいた永久の様子が気になった。
なんだか、物欲しそうな表情をして――いつものすました顔だけど――こちらを無言で見つめている。
貴方が手招きすると、永久はとことこと足音を立てて寄ってきた。
貴方は蒼猫と入れ替わりに永久の頭を撫でる。
「……何故だ?」
物欲しそうにしていたのはそういうことではなかったのか。そのくせ、撫でられて尻尾を振っているのだけど。
貴方は適当な理由を考えて、
「あー、あれだ、前払い?」
「どういう――つまり、私にも仁愛の世話をしろと言いたいのか」
「さすが。よく分かってるな」
「……ふん、まあいいだろう。早く行け、頼来」
永久に促されて、貴方は部屋をあとにした。
廊下を渡って玄関から外に出ると、まだ日は出ておらず完全に夜だった。
腕時計で時間を確認して、急がないと配達が遅れるなと貴方は早歩きで歩き出した。
敷地を出たところで、貴方は心の中で言う。
「リズ。バイト中のことだけど、蒼猫たちのこと見ていてくれるか?」
(それは構いませんけど)
「何かあったら、知らせてくれ」
(……分かりましたわ)
確かにそれができるのは私しかいない。
メッセンジャーとしてはこれ以上ないくらいに有能だろう。
小間使いっぽいところが気に食わないけれど。
ただ、これくらいは力になってあげたいのも事実。
私には結局、できることが限られているのだから。
(――行ってらっしゃいな、頼来)
「おう」
貴方は私の声に押し出されるように、闇夜の道を駆け出した。
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