第一編 第三章 ⑦

 暗い夜道、雨が降りしきる中を、貴方は傘をさして走る。焦る気持ちで胸はいっぱいなのに、頭の中は妙に冷静だった。

 最後に来た客は傘を持っていなかったように思える。それに濡れてもいなかった。たぶん、傘がないところに雨が降ってきたから、喫茶店で雨宿りをしようとしていたのだろう。

 そうなるとニャー先輩はどうなっただろうか。

 彼女は傘を持っていなかったから、雨に打たれているか、どこかで雨宿りしているかだ。

 後者ならいい。

 前者だとすると――あの日の光景が、ニャー先輩が雨の下で倒れていたあの光景が頭に――非常に心配だった。


 貴方は記憶を辿りながら道を選び、住宅街を進んで行った。いつも一緒に帰るので、途中までは彼女の帰宅ルートが分かる。それまでに追いつければいいのだけれど。

 しかし、貴方はいつもの分かれ道まで来ても、彼女を見つけられなかった。


(どうしますの? 頼来)

「……住所はだいたい分かってるから、大丈夫だろ」


 この辺はそう入り組んでいない。

 彼女が特殊な帰り道を組み立てていない限り、どこかで追いつけるはずだった。

 貴方は水たまりを跳ね上げて走る。焦燥感が募るにつれて、雨が鬱陶しくなってきた。すでに靴は水気で重く、ズボンは膝下から先まで濡れてうす黒く変色している。

 だが、構わずに貴方は走った。


 十字路が見えたところで、どっちだろうかと頭の中で自分の位置を確認した。空間把握能力は、人並みに――たぶん、少し人よりは高いのだろう。ニャー先輩の家の方角を目指して、道を選んだ。

 しばらく進んだところで、ついに貴方はニャー先輩を発見する。道を曲がったところで、視界の先に彼女の背中が見えた。

 すぐにまた彼女は道を曲がってしまったのではっきりとは見えなかったけれど、走ることもなく雨に濡れながら歩いていたように見えた。

 貴方はすぐに彼女を追いかけて、その曲がり角まで来て、立ち止まった。

 ニャー先輩はちゃんと道の先にいるのに、貴方は立ち止まってそれを見ていた。


 ずぶ濡れの彼女を、じっと見つめていた。


(頼来? どうしましたの? 早く傘に入れてあげませんと)

「ああ……分かってるけど」


 貴方の様子がおかしい。

 眉根を寄せて、ぽつりと零した。


「やっぱ変だ」

(何が、ですの?)

「家の方角、そっちじゃないんだよ」

(……え?)


 私は貴方の言葉を一人繰り返した。

 家の方角が、違う? 

 以前、ニャー先輩が言っていた家の場所を思い出すが、私には少し分からなかった。

 今、どちらを向いているのかさえ、道に疎い私には分からない。

 だけど、貴方は確信して頷いた。


 ニャー先輩がまた、道を曲がった。

 それを貴方は追いかける。

 今度は彼女から隠れるように、気付かれないように尾行するつもりのようだ。


(追いかけて、聞けばいいじゃありませんの)

「そうしたいよ、俺だって。でも、ニャー先輩は……誤魔化しそうだからさ」


 迷惑をかけたくないと言って、また彼女は何かを隠そうとしそうだったから。


 貴方は心中おだやかではなかった。

 彼女が雨に打たれているのに、それを自分はなんとかできるのに、何もできない。

 この選択が間違っていないことを祈って、貴方は彼女を尾行した。


 十分ほど続けているうちに、彼女が以前言っていた住所とは正反対の方向に進んでいることが分かった。

 方角的にはあえか荘と同じだ。

 しかし、位置はだいぶ離れている。

 このまま進めば、郊外の山の方に向かうことになるはずだった。


 進めば進むほど、民家が少なくなり、ついには畦道あぜみちに差し掛かってしまった。

 身を隠す場所はもうない。

 ここまで来たら、ばれても関係ないのかもしれないけれど、やはりこのまま気付かれないに越したことはなさそうだった。


 何故なら、貴方が知る限り、この先には人が住める場所は、ないはずだったから。


 彼女は気付かず、進んで行く。

 ぺちゃぺちゃと、重い足取りで軽い音を立てながら。

 彼女の様子を見ていたら、不意に、唐突に、白雪さんの言葉が思い出された。


『私も以前からあの子がどこか無理しているとは感じていたの。でも、そう感じたのは他のバイトがやめるよりも少し前のこと。ここを改装する直前よ』


 ニャー先輩の話ではゴールデンウィーク中に改装したらしいので、ゴールデンウィークに入る直前のことを指しているのだろう。

 その時、またはそれ以前に、ニャー先輩に何かがあったのだろうか。

 そこまで考えて、今度はこの間のプリントが思い出された。


『先月の末に、『睡蓮』の外階段が崩れて使えなくなった』


 先月の末とは、四月末――ゴールデンウィークの直前だ。


 ニャー先輩の変化の切っ掛けは、それが原因なのか?


 貴方は最後に、もう一つ思い出した。

 勝手に頭に浮かんできたのは、ニャー先輩を探していた男性の姿。

 彼は、ニャー先輩の住所を――住んでいるところを聞いてきた。


 それは、何故だ?


 疑問に思った時、視界の先にいたはずの彼女がいなくなっていることに気付いた。

 貴方は立ち止まって、


「リズ、ニャー先輩は?」

(あっち、あの背の一番高い建物の方ですわ)


 視界の先にはいくつかの建物がならぶ区画があった。

 そのうちの一つ、高い塀で囲まれた敷地の中に建つ古い建築物。

 貴方は記憶を探ったが、ここの建物についての情報は何も持っていなかった。

 ただ、少なくとも、ここら一帯の建物は全て今は使われていないように見えた。

 電気が灯っているところは一つもなく、建物は巨大な墓石のように静かに佇んでいる。

 貴方は一歩一歩、確かめるように進んで行った。


 この時点で貴方は覚悟していた。

 彼女が何を隠そうとしていたのか。

 彼女が何故、あの時倒れていたのか。

 どうしてあんなにも、疲れていたのか。

 全部、分かった気になっていた。


 でも、現実は、思った以上に悪いものだった。


「――先輩?」


 敷地に入った貴方に気付いて、彼女は振り向きざまに言った。

 月明かりもなく、高い塀が街灯の微かな光をさえぎっていて、彼女の表情は見えない。


 だが、そんなことはどうでもよくて。

 貴方は彼女ではなく、彼女の後方に目を囚われていた。


 硝子戸で出来た建物の入り口は開かれており、中が少しだけ窺われた。

 遠くにある街灯の微かな光が映し出すそこには、見たことのある物があった。


 おそらく、寝袋と大きなドラムバッグ。


「先輩、なんで……」


 彼女の問いかけには答えず、貴方は足を踏み出した。


「これ、どういうことだよ」


 彼女の目の前で、立ち止まった。


「ニャー先輩……いつからだ」


 貴方の問い掛けに、ニャー先輩はうつむきながら、答える。


「先月末、からです……」

「前住んでた場所が、取り壊されることになったから?」

「……原因は、そうです」

「じゃあ、それからずっと?」

「……はい」


 やはり、そうだった。

 彼女は住む場所をなくして、それからずっと、こんな場所で生活をしていたのか。

 貴方は前髪を掻き上げる。

 こんな生活をしていたら、疲労が溜まるのも無理はない。

 倒れていたのだって、きっと原因は同じ。

 今、まさに、彼女の調子が悪くなったのも――


「なあ、ニャー先輩。あんた言ってたよな。自分は大丈夫だって。なんの心配もないって」


 言っていて、胸が苦しくなった。


「これのどこが心配いらないんだよ、大丈夫なんだよ!?」


 無意識に声が大きくなった。

 たぶん、貴方は怒っていたから。

 ニャー先輩に対して。


 そして自分に対して。


 こんなことなら、もっと前から強引にでもあえか荘に連れて行けば、よかった。

 そんな愚かなことはできないのに、それが正しかったと思えてしまう。


「俺に任せてバイトは休めば、って白雪さんは言ってたんだよな? 俺は住む場所ならちゃんと用意できるって言ったよな?」

「……ごめんなさい」

「別にさ、俺や白雪さんの提案をのまなかったはいいんだよ。あんなの俺たちの勝手だ。断るのだってあんたの勝手だ。――でもな、それでこうやって体調を悪くしてたら、意味ねえだろ」


 彼女は俯きながら、また謝った。

 濡れた髪から雫が一滴、ぽつりと落ちていく。


「……ニャー先輩は人に頼りたくないのか? それとも、俺はそんなに頼りないか?」


 貴方の呟くような問い掛けに、


「――違います!」


 ニャー先輩は顔をあげて、必死に反論した。


「悪いのは全部、ニャーなんです! 先輩は何も悪くありません!!」


 彼女は胸を押さえて、なおも執拗しつように言葉を連ねた。


「最初から、全部、そうなんです……ニャーが悪いんです」

「……最初から?」


 ニャー先輩の言葉を拾うが、彼女は聞こえていないのか、


「先輩のご厚意を受けられないのも、ニャーが悪いから……駄目なんです……」


 顔を俯かせ、胸を押さえたまま、呻くように言った。


 様子が、おかしかった。


「ニャー先輩?」


 名前を呼んだ、その時だ。

 彼女の身体が揺れた。

 右に、左に、揺れたかと思うと、彼女は膝から崩れ落ちるようにして――


「――ッ!!」


 貴方は咄嗟に傘を投げ出して、彼女の身体に両手を伸ばした。

 背中に利き腕を回り込ませた直後、彼女の全体重が貴方の腕にかかる。

 そこで、貴方は気付いた。

 ニャー先輩の体温が、異常に高い。

 濡れた服越しだというのに、触った瞬間分かるぐらいに。


「ごめん、なさい……ニャーは……」


 彼女は貴方の胸の中でそう呟いた。


「ニャー先輩? ニャー先輩!?」


 貴方の問い掛けに、やはり、彼女は答えなかった。


 降りしきる雨の音の中、微かに彼女の呟きが聞こえた気がした。



 もう……傷つけたく、ありません……。

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